富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「道であり、真理であり、命であるイエスの与える真理の霊」ヨハネによる福音書14章1~17節

2016-05-22 23:19:19 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

                週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第2主日   2016年5月22日)   午後5時~550

     礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  51(愛するイエスよ)

交読詩篇   86(主よ、わたしに耳を傾け)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書14章1節~17節(新p.196)

説  教    「道であり、真理であり、命であるイエスの与える真理の霊」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                  次週礼拝 5月29日(日) 午後5時~5時50分

                  聖書 ローマの信徒への手紙10章5~17節

                  説教    「神の民の誕生」

                  賛美歌(21) 459 517 24 交読詩編 29篇

    本日の聖書 ヨハネによる福音書14章8節~17節

 1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである

   本日の説教

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14節)

  ヨハネによる福音書13章では、最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちの一人が裏切り者となることを予告し、<わたしが行く所にあなたがたは来ることができない>という弟子たちとの別れの言葉が語られ、そしてペトロの離反の予告が語られたので、弟子たちの心には大きな不安と動揺がありました。この不安を感じている弟子たちに、イエスは、<心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい>と言われました。神に対する信仰と、イエスに対する信仰とを、同列に置く宣言がなされています。神に信ずるということは、このような不安を覚えるときに、絶対の信頼をささげて神にすべをゆだねることが、神を信ずるということの具体的な内容なのです。神から派遣され天に帰っていくイエスは、弟子たちのために、天に住居と場所を用意し、彼らをも父と子の交わり入れようと、天に帰る目的を語ります。そしてその用意が済み次第、<戻って>来ると約束しました。イエスが約束している再来は、聖霊の来ることによるイエスの顕現です。ヨハネによる福音書では、聖霊の時は十字架と復活の時に始まっているので、イエスは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言っています。

 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と、トマスが言います。それに対してイエスは言われます。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(67節)

 ここに「道」「真理」「命」という三つの言葉が併記されています。「道」とは、目的地に行く通路という意味と、生き方の目標をさす場合があります。イエスは、真理であり、命なので、イエス自身は、通路であると同時に、また目標でもあります。

  詩編86篇11節に、「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまこと(真理)の中を歩みます」という言葉があり、道と真理が並行的に用いられています。主イエスは、この求めに答えるために、この世に来られたのです。

  イエスは人々を神に至らしめる道であると同時に、恵みと真理に満ちている(114)方です。学問としての真理ではなく、神の真理、すなわち救いの真理であり、命にかかわる真理です。神と共にあったイエスのうちに命(14)がありました。イエスは復活の命(1125)であり、永遠の神の命です。キリストはこの道、真理、命そのものであり、このキリストによって、人は初めて神のみもとへ行くことができ、このキリストによらなければ神の救いと命とに預かることが出来ないのです。イエスは神から派遣された神の独り子であり、神を啓示する者、神御自身なのです。

 「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」、と今度はフィリポが尋ねます。イエスはフィリポの問に対して答えます。

 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(9~11節)

 イエスはフィリポの問に対して、再び、自分と父との一体性を強調します。イエスの語る言葉は父と同じことを語るのであり、イエスの行った業も同様であると話します。<業>とは、福音書の前半に記されているイエスのしるし・であり、奇跡です。しるしを行うイエスの中に父なる神が共にいるいることを信じなさい、と父とイエスは一体であると語ります。

 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(12節)

 <イエスを信じる者は、…もっと大きな業を行うようになる>とは、イエスが神のもとに帰った後に、弟子たちの与えられる聖霊の働きを指しています。弟子たちは全く新しい存在に生まれ変わり、イエスの御業を継承することになるのです。それは、めざましい奇跡が次々と行われるというよりも、聖霊によって促されるあらゆる意味での宣教の業を示しています。

 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(1314節)

 ここで、イエスの名によって願うことは何でもかなえられることが約束されます。<何でもかなえてあげる>ことが出来るのは、神にのみ可能なことです。イエスの名によって祈りがかなえられるということは、そこに神の栄光が現れるということにほかなりません。

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(13節)

 <わたしの掟を守る>とは、1334節で、イエスが話された「新しい掟」です。それは「互いに愛し合いなさない。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という掟でした。イエスを愛することは、即ちその戒め(互いに愛し合う)を守ることであると言っています。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14節)

イエスは父なる神に願って別の<弁護者>を派遣してもらうことを約束します。<弁護者>とは、自分一人では立ち向かえることの出来ず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担う助け主、聖霊のことです、イエスは、イエスの人格と働きを継続する<別の>弁護を遣わすと約束しているのです。

 「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

 この方、<弁護者>は、「真理の霊」であり、<真理の霊>は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>(1613)働きをします。イエスは道・真理・命そのものであると、6節ですでに言われました。聖霊は、そのイエスの霊であり、イエスの代わりの者です。「わたしもあなたがたの内にいる」とあるのは、聖霊がイエスの代わりにあなたがたの内に居るという意味です。だから、聖霊は信者の内に居て、イエスのように道=生き方を示します。真理の道を示します。その生き方は永遠の命に至る道であります。聖霊はわたしたちの心に働きかけて、悪さ・弱さを抱えているわたしたちも、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようにしてくださるのです。

 しかし世は、霊を受け入れることができません。私たちは人々が聖霊を疑う時代に生きています。イエスも聖霊も受け入れようとしない世の人々は、「真理の霊」とは絶縁状態にあります。イエスは、時が満ち、「肉となって」(ヨハネ1114)、わたしたちが知ることができるようになるために、わたしたちのただ中に来られた真理です。真理は何らかの対象として捉えるものではありません。真理とは出会うものです。真理とは所有ではなく、一人の人格との出会いです。 しかし、イエスが真理「そのもの」であり、父である神の独り子であることをだれがわたしたちに悟らせてくれるのでしょうか。パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえない」(一コリント123)ことを教えてくれます。復活したキリストのたまものである聖霊こそが、真理そのものであるかたをわたしたちに悟らせてくださいます。イエスを信じ受け入れた人々との間には、この霊が親しく降り、内に住み、信じる者のうちに働いてくださるのです。日々、聖霊を豊かにを受けられるように、祈り求めましょう。

 

 

 

 

 

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