富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

 「もし、キリストが復活しなかったのなら。」コリントの信徒への手紙一、15章1~20節

2014-04-28 13:58:53 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富 谷 教 会 

       週     報   復活節節第二主日  2014年4月27日(日)  午後5時~5時50分 

礼    拝 

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 204(よろこびの日よ)

交読詩編   16(神よ、守ってください) 

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書  コリントの信徒への手紙一、15章1~20節

説 教 もし、キリストが復活しなかったのなら辺見宗邦牧師

賛美歌(21)517(神の民よ)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

  本日の聖書 コリントの信徒への手紙一、15章1~20節

  1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまでしょう。3最も大切なこことしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時現れました。そのうち何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

14 キリストが復活しなかったのなら。わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。……

20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。

         本日の説教

 イエスは十字架への道を進む途中、弟子たちに、御自分の受難と復活について、三度も予告していました。「今、わたしたちはエルサレムへ上っていく。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(マルコ10:33,34)

   十字架への道を進むことは、できればこの苦しみの時をさけたいとの思いがありました。イエスはゲッセマネの園で、「この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りました。「この杯」とは、人々の罪の贖いとして、十字架に掛けられることです。イエスは、父なる神が、自分が死んだのちに、よみがえらせてくださることを信じていましたが、十字架上で死ぬ瞬間は、人々の罪を一身に負い、神の裁きとしての死をうけなければなりません。

 イエスが十字架につけられたのは、午前9時頃でした。昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続きました。イエスの十字架上の最後の言葉は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、絶望の叫びでした。

  もし、イエスが死んで終わりであるなら、天は閉じられたままであり、神とイエスとの間の交わりは絶たれたままです。もし、父なる神がイエスを死人の中から復活させてくださらないなら、イエスは悲劇を演じた人で終わってしまします。

  もし、神がイエスの叫びに答え、最後まで神の御心に従順であった御子を復活させてくださらないなら、この世には神はいないことになります。神に対する信仰も無駄であるし、教会の存在が無意味になります。

  キリストは死んで三日目に復活されました。一番最初に、天使からイエスが復活したことを聞かされたのは、イエスに救われ、イエスを慕って、イエスと弟子たちの身のまわりを世話するために、ガリラヤがついてきた婦人たちでした。この婦人たちの中のマグダラ出身のマリアと数名の婦人たちは、イエスの十字架の死と、アリマタヤ出身の議員のヨセフがイエスの亡骸を墓に納めるのを見届けました。

 翌日は安息日だったので、その次の日の朝早く、この婦人たちは、イエスが葬られた墓に行きました。そこで、天使からイエスが復活したことを告げられ、このことを弟子たちに伝えるように言われ、弟子たちの所へ行く途中で、復活されたイエスが彼女たちに現れました。婦人たちは弟子たちにイエスが復活したことを伝えましたが、弟子たちは信じようとはしませんでした。しかし、復活された主が弟子たちのところにも現れたので、弟子たちんも信じました。

 キリストの復活について証言している今日の聖書の個所は、キリストによって使徒とされたパウロです。キリスト教徒を撲滅しようとしていた迫害者のパウロは、イエスの死(紀元30年頃)の後、紀元34~36頃、キリスト教徒を捕縛するために、シリヤのダマスコへ行きました。その郊外で、パウロは復活されたキリストに出会い、回心し、キリスト教徒になりました。キリストは復活してから40日間は大勢の弟子たちの現れましたが、その後天に昇られました。パウロの現れたイエスは天上におられる、復活された主イエスです。

 キリストが死人の中から復活したのは、神と私たちの間を遮り、隔てている私たちの罪を取り去り、神の裁きとしての死から救い、私たちと神との霊的交流を回復させてくださるためでし

 イエスが十字架上で死んだとき、イエスは人類の罪を背負い、その罪のさばきとしての死を神より受けたました。そのとき、イエスは絶望の叫びをあげました。このイエスの死と、イエスが復活し、昇天したあとの、ステパノの死と比較してみましょう。

 最初のエルサレム教会の役員に選ばれたステパノが石打ちの刑で殉教したときは、「ステパノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」とあります。主イエスが死から復活し、昇天されたからこそ、ステパノの場合は、天か開いており、聖霊を受けて、神との親しい交わりを与えられているのであり、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」と言って、眠りにつきました。

  このような死をステパノが遂げることができたのは、イエスが人類の罪のあがないを果たし、父なる神によって、死より復活させられ、昇天されたからこそであり、ここに主イエスが復活されていることが証明させています。

  しかし、主イエスの十字架と復活をしんじる信仰は、神から霊の目を開いていただかなければ、信じることのできない真理です。聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とはいえないのです。(コリント一、12:3)

  パウロが、最も大事なこととして語った福音は、キリストの十字架の死と復活についてであり、その復活の証人の名を挙げています。これを書いた動機が15章12節に書かれています。 「『キリストは死者の中から復活した。』と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。」と言っているように、「死者の復活」を認めない人たちがいたからです。

  死者の復活 というのは、主イエス・キリストの復活のことではありません。イエスの復活は疑う余地のない事実となっていました。問題は、主イエスの復活ではなくて、私たち自身の復活です。イエスは死者の中から復活したが、すでに眠った者たちや、自分たちが死んだ場合には、イエスとは違って、「死者からの復活」などはないと言っている人たちがいました。

  生きている間に、イエスの十字架と復活の恵みにあずかり、聖霊の恵みをいただき、永遠の命を継ぐ者とされていることを信じる者とされたことで十分ではないか。自分たちが、死んだあとの復活などは、必ずしも必要なことではないとする人たちです。

  パウロは、キリストの復活と私たちの復活とは切り離すことができないものであり、キリストが死人の中から復活したのは、わたしたちのも同じように「死人からの復活」のあずからせるためなのだ、と言っているのです。

 キリストの復活は、眠りについた人たちの初穂であり、私たち自身の復活の先駆けなのだ、と言っているのです。もし、わたしたちの「死人の復活」を否定するなら、「キリストの死人からの復活」をも否定することにつながるのだ、と教えているのです。キリストの復活において示された、約束されている私たちの復活に、神様が私たちに与えようとしておられる救いの完成があるのだ、ということです。

 キリストの復活だけを信じて、自分たちの死者からの復活を信じない、ということは、あってはならないことだ、とパウロは語っているのです。キリストの復活なしには、またキリストがわたしたちのために備えてくれた、わたしたちの復活がないならば、私たちの宣教も、信仰も、全ては無駄なことになると語っているのです。

 主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかって生き、死んだ者が、この世の終わりに、キリストがもう一度来られる再臨の時に復活し、永遠の命を生きる新しい体を与えられるという信仰の大切さを教えているのです。

 全ての人間をいつかは必ず捕える死の力が、最後には滅ぼされて、神様の恵みの力が勝利し、神の救いににあずかったものが、神の子とされ、神の世継ぎとされ、永遠に神と共に生きる者とされるのです。この信仰なくしては、イエス様と共に、迫害に耐えることも、殉教の死を遂げることも出来ないのです。主イエスも死人の中からよみがえらせてくださる父ある神を信じ、信頼していたからこそ、十字架への道を歩むことができたのだと思います。

 

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