富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神の民の誕生」ローマの信徒への手紙10章5~17節

2024-05-28 22:43:55 | キリスト教

 ↑ 「主の名を呼び求める者はだれでも救われるのです。」ローマの信徒への手紙10章13節

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380                        FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会 週 報

聖霊降臨節3主日 2024年6月2日(日)午後3時~3時50分

       礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  219(夕日落ちて)

交読詩篇     29:1-11(神の子らよ、主に帰せよ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ローマの信徒への手紙10章5~17節(新p.288)

説 教      「神の民の誕生」  辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)  517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)   27(父・子・聖霊の)

    

 オン・ラインで礼拝に参加希望の方は、090-3365-3019(牧師携帯)へ申し込み下さい。歓迎いたします。

            次週礼拝 6月9日(日)午後3時~3時50分

            聖 書  ヨハネの第一の手紙2章22-29節

            説教題   「信仰の道」

            讃美歌(21)227 458 27 交読詩篇 16:7~11

 本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節

 1兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

 5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

 本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、「この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた(ローマの信徒たち)もいるのです」(1章6節)と言って挨拶を述べています。

 10章1節ではパウロは、<兄弟たち>と、同胞であるローマの信徒たちに呼びかけています。ローマの信徒たちの多数はユダヤ人です(2:17)。パウロは彼ら(他のユダヤ人たち)が救われることを心から願い、彼らのために神に祈っていると伝えます。

 パウロは、ユダヤ人たちが<熱心に神に仕えている>ことを認めています。しかし、その熱心さは<正しい認識に基づくものではない>と言っています。この<神への熱心さ>は、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ3:6)。

 なぜなら、彼らは<神の義を知らず>、神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、というのです。<自分の義を求めようとして>、<自分の義>を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったからです。<自分の義>とは、人間が自分のした働きと功績によって、神に要求するメリット(わけまえ、報酬、手柄)としての義を獲得しようとすることであり、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。

 しかし人は律法を行う力がないこと、従って律法によっては義とされることは不可能なことを、パウロは7章で、自分の経験を通して述べています。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼり(の罪)を知らなかったでしょうと述べ、善をなそうという意志はあっても、それを実行できない罪があることを語っています。

 主イエスは、律法を守っていると自負しているユダヤ人に、山上の説教で「殺すな」という命令については、<腹を立てるな>、<ばか者>と言う者は火の地獄に投げ込まれると教え、「姦淫するな」という命令については、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである、もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさいと教え、律法の戒めを完全に実行することの不可能なことを教えています。

 キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」、<律法の目標>となられました(10:4)。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。キリストは律法に終止符を打たれたのです。

 「モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(10章5節)

 パウロは、レビ記18章5節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。人間は律法を完全に行うことはできません。

 <しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。では、何と言われているのだろうか。『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。』これはわたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。>(6~8節)

 6節から8節にかけては、申命記30章11~14節の引用です。ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」(申命記30:13)と結論していることをパウロは全く無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰による義(信仰義認)>の聖書証明としています。パウロにとって、この旧約聖書の神の言葉は、キリストによって文字通り完全に実現したと認識したのです。

 6節の心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられました。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではありません。自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記30:12の引用文でパウロは正したのです。

 7節の、また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。これはキリストを死人の中から引き上げることになります」という勧めも、申命記30:13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。

 8節の「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これも申命記30:14の引用の言葉です。この<御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

 キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。

 パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。

 「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(9節)

 <口でイエスは主であると公に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。<心で・・・信じるなら>とあります。<心で>とは私の全人格、私の存在全体をもってと言う意味です。

 「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10節)

 信仰とは、イエス・キリストにおいて示されている神の義を正しく洞察し、これを全存在をもって受け入れることです。私たちは心からアーメンと言い表わして救われるのです。その時、キリストは、しっかり私たちの心の内に入り、住みたもうのです。

 「聖書にも、『信じる者は、だれも失望することがない』と書いてあります。」(11節) 

 11節では、イザヤ書の28:16にある「信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望することがない、と言っています。

 「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」(12節)

 そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<主>として用いることによって、神の民が拡大されました。

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」(13節)

 13節では、さらに、ヨエル書3:5を引用し、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」としています。 

 「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(14節)

 14節以下では、伝道者について語っています。

 「遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(15節)

 伝道とは人間が自らの小さな知恵や力でする業ではなく、神から遣わされ者の業です。だから説教を通して、イエス・キリストが臨在してくださるのです。イザヤ52:7の「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを告げ、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」のメシア証言は、教会の宣教、パウロをも含む使徒たちの宣教を指している、とします。

 「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、『だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか』と言っています。」(16節)

 16節で、イスラエルがメシアを拒否しとことを、<すべての人が福音に従ったのではありません>と語ります。すべての者へと開かれている福音が、「すべての者が信じたわけではない」ということは、福音の側にではなく、受け取る側に問題があることになります。イザヤは、「だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」(イザヤ53:1)と言っています。「わたしたちから聞いたこと」とは教会の使信を意味しています。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

 これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか、それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰は聞くことであることを対立させ、信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まることを強調しています。

 福音を聞いて、<主イエス>を信じ、告白する者は、ユダヤ人も異邦人も区別なく、すべてがなんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神の御前に立つことのできる資格の義(正しさ)を認め、その人を全く罪のない者とみなしてくださり、神の救いにあずからせてくださるのです。

 旧約聖書の律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかしパウロは旧約聖書の言葉を引用し、旧約聖書はキリストを証しする書であることを説いたのです。主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、<この異邦人の中に、イエス・キリストのものとなるように召されたあなたがた(ローマの信徒たち)もいるのです」(1章6節)と言って挨拶を述べています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする