富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」 使徒言行録14章8~20節

2013-07-14 22:46:37 | 礼拝説教

日本キリスト教 富 谷 教 会聖霊降臨節第九主日   2013年7月14日(日)

     聖 書  使徒言行録14章8~20節

説 教 「偶像を離れて、生ける神に立ち帰る」   辺見宗邦牧師

本日の聖書 使徒言行録14章820

  8リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。9この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわし信仰があるのを認め、10「自分の足でまっすぐに立ちなさい」と大声で言った。すると、その人は踊り上がって歩きだした。11群衆はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言った。12そして、バルナバを「ゼウス」と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを「ヘルメス」と呼んだ。13町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門のところまで雄牛数頭と花環を運んで来て、群衆と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。14使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群衆の中に飛び込んで行き、叫んで15言った。「皆さん、なぜ、こんことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。16神は過ぎ去った時代には、すべての国の人の思い思いの道を行くままにしておかれました。17しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」18こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。19ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外へ引きずり出した。20しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。そして翌日、バルナバと一緒にデルベへ向かった。

本日の説教

 パウロとバルナバは、小アジア(現在のトルコ)のガラテヤ州ピシディア地方のアンティオキアで伝道しましたが、迫害され、町から追い出されました。その後、南東へ百三十㎞ほど行ったイコニオンへ移って伝道しました。(イコニオンは、現在はコンヤと呼ばれています。)イコニオンでも伝道に反対され、石で打たれようとしたパウロとバルナバは、今度は四十㎞南西へ下った、リカオニア地方の町リストラへ行きました。後に三回目の伝道旅行の時にパウロに同行することになるテモテがこの町の出身であったと言われる町です(使徒16:1)。【リストラという言葉は、会社の再構築のための人員削減、解雇などの意味で用いられる リストラ(英語の Restructuring (リストラクチャリング)の略語で、本来の意味は「再構築」という意味)を思い浮かべますが、このリストラの町の名とは関係ありません。】

 8~10節に、「リストラに、足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は躍り上がって歩きだした。」とあります。

パウロたちは、このリストラではユダヤ人の会堂ではなく、町の広場のような所で人々に話していました。パウロが話すのを聞いた人の中に、この足の不自由な人がいました。「パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め」ました。彼は、パウロが語る主イエスによる救いの福音に熱心に聞き入っていたのです。
 パウロは、この男の人に向かって大声で「自分の足でまっすぐに立ちなさい。」と告げました。すると、この男の人は躍り上がって歩きだしたのです。主イエスによる神様の救いの恵みを受け入れることが信仰です。するとその信仰が、私たちを、それまで出来なかった何かができる者へと造り変えていくのです。自分でも思いがけないような力が与えられていくのです。

このいやしの奇跡を見た町の人々は、リカオニアの地方語で、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と言い出し、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んだのです。

この地方には古い言い伝えがありました。ローマの詩人オヴィディウス(BC43-AD17)は、その著書「変身譜(メタモルフォセス)」で、その伝説を伝えています。リストラに近い南フリギアのある町を、ゼウスとヘルメスが、フィレモンとパウキスという名の人間の姿をとって訪れたとき、町の者はすべて冷たくあしらい、農夫のフィレモンとパウキスという老夫婦だけが、彼らを神々とは知らないで、手厚くもてなしました。ゼウス神とヘルメス神は町の人々の冷遇を怒り、この夫婦を除いて、全て洪水で滅ぼしてしまったという伝説です。そういう伝説もあって、リストラの群衆はパウロとバルナバをヘルメスとゼウスが現れたと考え、大騒ぎしたのです。ゼウスはギリシャ神話に登場する神々の主神です。その子であるヘルメスは、彼の使者で、雄弁の神であると言われています。ですから人々は雄弁に語るパウロをヘルメス、バルナバをゼウスの化身と考えたのです。そして、この出来事を聞いた、町の門前にあったゼウス神殿の祭司たちが、群衆と一緒になって彼らのいる家の門まで雄牛数頭と、犠牲の雄牛に飾る花輪を運んできて、彼らにいけにえを捧げようとしました。リカオニアの方言で彼らは叫んでいたので、二人は彼らの叫びが分からなかったおですが、この時になって、人々が何をしようとしているかに気づき、パウロとバルナバは、必死になって自分たちが神として拝まれることを止めたのです。

パウロとバルナバの二人は服を裂いて群衆の中に飛び込んで行きました。服を裂くというのは、ユダヤの習慣で、激しい抗議や怒りを表す態度です。群衆の中に飛び込んだのは、自分たちは神にまつられるような者ではなく、普通の人間であることを明らかにする行動でした。彼らは、自分たちが神様として祭り上げられることを必死になって阻止しようとしたのです。そして叫びました、「皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたたちが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」「このような偶像」という言葉は、「このような虚しいもの」という意味です。

次にパウロは、「この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。」と語りました。生ける神は天地の創造者であり、「生ける神」であって、人間によって造られた神ではなく、人間を含め、天地万物を造られた創造者なる神であると語ったのです。パウロは、むなしい偶像礼拝を捨てて、この生ける神に立ち返るように勧めています。パウロがこのリストラの町に来たのは、このようなむなしい偶像を捨てて、全世界の造り主である神に立ち返るようにと、福音を宣べ伝えに来たのだと語ったのです。

 パウロは更にこう告げました。「神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。」これまでは、すべての国の人々が、生けるまことの神のことを知らずに歩むままにしておかれました。ここでパウロは、天地を造られた神様は、雨を降らせ、実りを与え、食物を与えてくださるという恵みを示してくださっていたのに、その神様の恵みを、あなたがたは偶像による恵みにしてしまっていたのです。時が来るまで、神様はそれを見過ごされてきたが、もうその時は過ぎました。だから、偶像を離れ、天地を造られた唯一の神に立ち帰りなさい。この神は、偶像ではなく、生ける神であり、そのことを、この生まれつき歩くことの出来なかった男が躍り上がって歩き出すことによって、あなたがたは今、はっきり知らされたではないか。わたしたちはただの人間にすぎない。人間を神にしてはいけない。生けるまことの神は、天地を造られたただ一人の神なのです、と語ったのです。

「こう言って、二人は、群衆が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることが」できました。

このような出来事の後、このリストラにも、アンティオキアとイコニオンからパウロとバルナバを排斥するユダヤ人たちがやって来ました。そして、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、殺そうとしたのです。パウロは倒れ、気を失ったので、人々は死んだものと思って、町の外に引きずり出し、捨てました。しかしパウロは、弟子たち(新しい信者たち)が彼をとり囲んでいると、彼は意識を取り戻し、起き上がり、再びリストラの町の中に入っていきました。「弟子たち」と言う語は、リストラに教会が設立されえたことを示唆しています。二人は翌日デルベに向かいました。リストラからデルベまでは、直線距離にして100㎞あります。

パウロは晩年、この経験を、「あなた(テモテ)は・・アンテオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです(テモテ二、3:11)」と述懐しています。

 今や、新しい時代が始まったのです。それは、生けるまことの神様が、新しい仕方でご自身を私たちに示し、証しして下さる時代です。主イエス・キリストは、人間となって下さった神です。人間の姿に身をやつして来たのではなく、まさに私たちと同じ人間になってこの世に生まれて下さったのです。それは、私たちの罪を全て背負って、私たちの代わりに十字架にかかって死んで下さるためです。この主イエスの死と復活によって、私たちに、神様の恵みが豊かに注がれています。それを得るためには、ただひたすら神の恵みを信じて、求めることによって与えられる恵みです。

イエス・キリストを信じ、その下で生きるとき、私たちは、たたりや災いを恐れる信仰ではなくて、恵みへの感謝と喜びを本質とする信仰に生きることができるのです。偶像を捨てるとは、宗教上の偶像だけにとどまりません。生ける神に依り頼まなくてもよいとする、人間の力や、国の力、金銭や経済力などへの過信も含みます。この、生けるまことの神に立ち帰るならば、私たちも、あの足の不自由だった人のように、苦しみや悲しみにうずくまっているところから立ち上がり、新しい人生を歩み出すことができるのです。

コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「罪の赦しの福音」 使徒言... | トップ | 「エルサレムの使徒会議」 ... »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
めぐみです! (めぐみ)
2013-07-18 05:45:17
このあいだコメントしためぐみです!覚えてますか?覚えていてくれた嬉しいですw\(^▽^)/せっかくなのでメールできませんか?私ブログとかやってないのでお話がしたいです、アドは sumire4785あっとyahoo.co.jpです、待ってますね!(。・・。)ポッ
返信する

コメントを投稿

礼拝説教」カテゴリの最新記事