富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「キリストが栄光を受ける時」ヨハネによる福音書7章32-39節

2024-05-11 11:29:46 | キリスト教

 ↑「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」ヨハネ7:37-38 

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

復活節第7主日 2024年5月12日(日)午後3時~3時50分

                          礼 拝 順 序                

前 奏                辺見トモ子姉

司 会                邉見 順子姉

讃美歌(21)  528(あなたの道を)

交読詩篇      8(主よ、わたしたちの主よ)

主の祈り     93-5、A

使徒信条     93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)ヨハネによる福音書7章32-39節(新p.179)

説 教  「キリストが栄光を受ける時」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21)   337(たたえよ、この日)

献 金

感謝祈祷

頌 栄(21)    27(父・子・聖霊の)

                                       次週礼拝 5月19日(日)午後3時~3時50分

                                       聖 書  使徒言行録2章1~11節

                                      説教題   「聖霊の賜物」

                                      讃美歌(21) 346 27 交読詩篇 104:24~30 

      本日の聖書 ヨハネによる福音書7章32-39節

    7:32ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。 33そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。 34あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」 35すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。 36『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」 

   37祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 39イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている‛霊’について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。

   本日の説教

 「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。」(7:32)

 主イエスは当時のユダヤ人の宗教的指導者だったファリサイ派の権威に従わず、安息日にも癒しを行っていましたし、神をご自分の父と呼んで、つまり自分は神の子であると言っていました。ファリサイ派にとって、人間が自分を神の子だと言うのは神を冒涜することに他なりません。ですから彼らは、イエスは神に背く教えを語って人々を惑わしているから生かしておけない、と思ったのです。

  だが群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるし(奇跡)をなさるだろうか」と言っていました(7:31)。

 ファリサイ派の人々は、群衆がキリストをたたえるのを聞きました。そこで祭司長たちとファリサイ派の官憲は、すてておけなくなり、イエスを捕らえるために下役たち(神殿警備員)を遣わしました。

 「そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」(7:33)

 すると、イエスは迫り来る自分の最後について語ります。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった天の父なる方のもとへ帰る。

 「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(7:34)

  イエスは父なる神に遣わされて、天からこの世に来られた。そして、地上での使命を果たして、父なる神の許へと帰っていかれる。主イエスの十字架の死は、ファリサイ派や祭司長たちの思いによって起るのではなくて、父なる神のご計画によって実現する。その時が来るまでは、ファリサイ派や祭司長たちがどんなに腹を立ててイエスを捕えようとしても、そのことは実現しない。「あなたがたは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所、天の父なる方のもとへ来ることが出来ない。」

 「すると、ユダヤ人たちが互いに言った。『わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。』」(7:35)

 イエスが言われたのはもちろん、イエスを遣わした父なる神のもと、天へ帰るということを言っているのですが、このことを知らない人々は、イエスの言葉に戸惑うばかりです。そこで彼らは次のように推測しました。イエスはエルサレム=ユダヤから出て、ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行ってギリシア人に教えるのではなかろうかと。この場合ギリシア人は直接にはユダヤ人以外の異邦人を指しています。

 「『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」(7:36)

    36節は、イエスの言われた34節の言葉をユダヤ人たちが、どういう意味なのか理解できないと言っています。弟子たちは始めはイエスがどこから来て、どこへ行かれるのか知らなかったが(14:5)、後に知るようになります(14:4、16:5)。彼らが知るのはみ霊を与えられた後、つまり、イエスの時が来た後で知るようになります(7:3739)。これに反してユダヤ人たちはイエスがどこから来たかを知っていると主張するが(6:42,7:27-29)、本当は知らないのです(7:35)。

 「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(7:37)

 「祭り」は仮庵(かりいお)の祭りのことで、規定はレビ記23章34-43節に記されています。祭りは7月の15日から始まり、終わりの日は、七日目のことと見なされます。七日間、仮庵(仮の小屋)に住み、農作物を主に捧げて祝う収穫感謝の祭りで、「刈り入れの祭り」とも呼ばれていました。主がイスラエルの人々をエジプトから導き出したとき、彼らを天幕(仮庵)に住まわせたことを代々の人々に知らせるためです。ユダヤ人にとって仮庵の祭りは、三大祭り(過越しの祭り、七週の祭りがある)の一つの最大の祭りです。

 イエスは立ち上がって大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」「渇いている人」という言い方は、荒れ野で神の与えた生きた水が渇きをいやしたという事(出エジプト記17:6)と関連して言われています。

 「だれでも」という言葉が重要です。主イエスは誰にでも、タダで、生きた水を飲ませて下さるのです。この水を飲むのに、特別な資格など必要ありません。品行方正な、きちんとした生活をしている清く正しい人でなければこの水を飲ませてもらえない、などということはないのです。渇いている人ならだれでも、主イエスのもとに来て、生きた水を飲むことができます。この水を求めて主イエスのところに来るなら、主イエスが恵みによって生きた水を与えて下さるのです。

「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)

 これは、4章14節でイエスがサマリアの女に対して、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われた言葉と同じように理解することが可能です。また、6章35節でイエスが「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。イエス御自身が命のパンであると同時に命の水であり、命の水を与える方です。このイエスを信じる者は、その人の内から命の水が流れ出るようになるというのです。この場合<聖書に書いてあるとおり>というのは、ゼカリヤ書14章8節の「その日、エルサレムから命の水が湧き出で・・流れ続ける」の神殿の回復に際し、命の水が流れ出ることと関係しています。

 「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている‛霊’について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。」(7:39)

 これは、福音書記者ヨハネの付け加えた説明です。38節で主が「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という約束は、「主イエスを信じる人々が受けようとしている聖霊について」のことを言われたのである、と説明しています。

 その聖霊はいつ与えられるのでしょうか。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである」ということです。主イエスが栄光を受ける時とは、いつなのでしょう。17章1節にその時が来たことが語られています。「イエスは天を仰いで言われた。『父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすようになるために、子に栄光を与えてください』」。18章からイエスの受難が語られます。イエスが栄光を受ける時は十字架につけられて殺され、復活する時です。20章22節では、復活のされたイエスが弟子たちを派遣するにあたって、息を吹きかけ<聖霊を受けなさい>と言われています。

 十字架の死と復活によって栄光を受けられた主イエスが、聖霊を私たちに注ぎ、与えてくださるのです。私たちは聖霊によって主イエスのもとへ導かれ、信仰を与えられ、教会に連なる者とされています。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(7:37)と主イエスは大声で私たちに呼びかけています。

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