富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「神に従う人は信仰によって生きる」 (ハバクク書)

2014-10-12 15:02:42 | 礼拝説教

〒981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本キリスト教 富谷教会 週報

聖霊降臨節第十九主日  2014年10月12日(日)  5時~5時50分 

       礼   拝    

前 奏           奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)    6(つくり主を賛美します)

交読詩編   13(いつまで、主よ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ハバクク書2章1~4節

説 教  「神に従う人は信仰によって生きる   辺見宗邦牧師

賛美歌(21)441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷          

頌 栄(21)    24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏

                         次週礼拝 10月19日(日)夕礼拝 午後5時~5時50分

                           説教題  「主の怒りの日の後の贖い」 

                           聖 書   ゼファニヤ書3章9~13節

                           本日の聖書 ハバクク書2章1~4節

「1わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。2主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。3定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。4見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」

     本日の説教

預言者ハバククが、幻で示された託宣(ハバクク書1章1節)

  <ハバクク>は新バビロン(カルデヤ人による)の支配が始まった紀元前7世紀の終わり頃、預言者エレミヤと同時代の預言者と考えられています。<ハバクク>は祭司の家柄で、紀元前605年から600年頃まで、神殿で奉仕した預言者と考えられています。この時代は神から啓示を受けたことを<幻で示された>と表現しています。

  ハバクク書は神への訴えと嘆きで始まります。

  「主よ、わたしが助けを求めて叫んでいるのにいつまで、あなたは聞いてくださらないのか。わたしが、あなたに「不法」と訴えているのに、あなたは助けてくださらない。どうして、あなたはわたしに災いを見させ、労苦に目を留めさせられるのか。暴虐と不法がわたしの前にあり、争いが起こり、いさかいが持ち上がっている。律法は無力となり、正義はいつまでも示されない。神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう。1:2~4)

  アッシリアの滅亡の後、カルデヤ人の新バビロンが勢力を伸ばし、エルサレムを攻撃(B.C.598年)しました。<災い>は南ユダ王国に敵対したカルデヤ人によるものと思われます。預言者ハバククは民の代表として、敵の不法を神に訴えています。ハバククの場合は、個人の叫びではなく、民族の名においてなされた問いであり、訴えです。宗教改革を行ったヨシュア王の死後、ユダの社会の秩序は法的に守られず、言い争いも起こり、悪人であっても力のある者が公然とまかり通り、正義が曲げられて横行しました。少数の正しい者は悪人どもに踏みにじられていました。預言者は神の統治と神の裁きの不在を神に訴えています。

 預言者の訴えに対して、神はすでにユダ王国の悪に対する裁き人を用意していると答えられます。なんとそれはカルデヤ人だと言うのです。

 「諸国を見渡し、目を留め、大いに驚くがよい。お前たちの時代に一つのことが行われる。それを告げられても、お前たちは信じまい。見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。 彼らは恐ろしく、すさまじい。彼らから、裁きと支配が出る。彼らの馬は豹よりも速く、夕暮れの狼よりも素早く、その騎兵は跳びはねる。騎兵は遠くから来て獲物に襲いかかる鷲のように飛ぶ。彼らは来て、皆、暴虐を行う。……しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ。」(1:5~11)

 カルデヤ人が神の懲らしめの道具として、ユダに侵入し、暴虐を行うことが告げられます。<カルデヤ人>とはバビロン南部の民で、紀元前7~8世紀に強大な勢力を持ち、新バビロン帝国を建設しました。冷酷で、剽悍(「ひょうかん」、荒々しく強いの意)な民です。しかし、カルデヤ人は、神の懲らしめの鞭として、神の代理人として立てられながら、傲慢になり、自己の力を神とするような大きな罪に陥ってしまうので、最後は滅ぼされる運命にあると述べられます。

   神の答えを受けて、ハバククの第二の嘆きの訴えが始まります。

 「主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方ではありませんか。我々は死ぬことはありません。主よ、あなたは我々を裁くために、彼らを備えられた。岩なる神よ、あなたは我々を懲らしめるため彼らを立てられた。……あなたは人間を海の魚のように、治める者もない、這うもののようにされました。彼らはすべての人を鉤にかけて釣り上げ網に入れて引き寄せ、投網を打って集める。こうして、彼らは喜び躍っています。それゆえ、彼らはその網にいけにえをささげ、投網に向かって香をたいています。これを使って、彼らは豊かな分け前を得、食物に潤うからです。だからといって、彼らは絶えず容赦なく、諸国民を殺すために、剣を抜いてもよいのでしょうか。(1:12~17)

  14~17節は無残に獲られる魚をユダの民にたとえてカルデヤ人の強奪を非難し、神に訴えています。<投網に向かって香をたいて>は、カルデヤ人が勝利をもたらす武器をあがめていたことへの非難です。<剣を抜いてもいのでしょうか>は、「網を使って」を読み替えて、容赦なく諸国民を殺すカルデヤ人を訴えています。もしもカルデヤ人が神の代理人であるならば、暴虐を極め略奪をほしいままにして自ら罪に陥り、正しい者たちを滅ぼしつくそうとしているのに、神はそれでもなお、いつまでも彼らを神の代理人として立てておかれるのだろうか。神は永遠から永遠まで正義な方でいますのに、この状態をいったいどのように御覧になっているのか。預言者は国民を代表して、<わが神、わが聖なる方>と神に迫っています。

 第二の訴えは、神の世界支配のために立てられた者が何ゆえその与えられた力を自分のためにほしいままにしているのか、神が正しい方なら何ゆえにそれを黙って見ておられるのかという疑いでした。

 「わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。」(2:1)

  2章1節は、預言者ハバククが神がなんと答えられるかを耳を傾むけて待っている状態を表現しています。

   2章2~20節は、預言者の第二の嘆きに対する主の答えが語れます。

  「主はわたしに答えて、言われた。『幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(2:2~4)

   <走りながらでも読めるように>とはメッセージを伝えるために伝令が走りながら読めるようにの意味です。<板の上にはっきりと記せ>は紙に書くのではなく、粘土板や石のような書き板に鋭い釘のようなペンで書き記せ、の意味です。<もうひとつの幻>は何を示すか明らかでありません。<待っておれ>は、主とその御業である裁き、解放を「待つこと」を求めています。

  「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」(2:14)

  この2章14節が、ハバククの嘆きに対して語られた神からの答えであり、これが幻の中心部分です。<高慢な者>とは、諸国を侵略し、多くの民を踏みにじり、虜として自国に連行していく暴虐で高慢なカルデヤ人であり、その王です。<神に従う者>とはハバククと彼の民、ユダの民を指しています。

  <神に従う人は信仰によって生きる>。<信仰>は堅固、確実などを意味する「アーメン」と同じ語源です。抑圧の下にあっても、義人は神への不動の信頼、忠実さによって裁きの日に生存するというのが、ハバククの言った意味です。不義なる者の滅びとの対比において語られています。

  しかし、使徒パウロがこれを引用したとき、信仰義認の重要な聖句(ロ-マ1:17、ガラテヤ3:11、ヘブライ10:38)となっています。このことについては、最後にもう一度取り上げます。

 神からの答えは、今どのように不正な者が勢力を得ていても、必ず彼らは衰える。そして義人はその抱いている信仰によって生きるのである。しかしその神の意志も、すぐさま来ないかも知れない。だが、神の究極の意志は、定められた時に向かって滞ることなく的確にすすんでいる、と伝えてます。

 カルデヤ人に対して<災い>の預言、非難,威嚇(いかく)のことばが五回語られます。彼らに避けられない神の裁きとして滅亡が宣告されます。

  最後の章の1~19節は、主御自身が世界の強暴者と戦い勝利したもうという壮大な幻であり、信仰を歌です。神殿での典礼用賛歌として用いられたようです。<預言者ハバククの祈り>とありますが、礼拝に用いられた賛美の歌です。最後の18~19節は、神に叫ばざるを得ないほどの、この世の矛盾と自らの苦難に心を痛める者が、その苦しみの中から、信仰によって生きることにより、神によって喜び、神によって楽しみむことが述べられています。

  ハバクク書のメッセージの頂点である2章4節の「神に従う人は信仰によって生きる」は、「主に忠実な者は、主の真実に応えることで生かされる」とも訳すことができることばです。<神に従う人>すなわち「主に忠実な者」は、ただ神の真実に依り頼み、神のまことに応えて、神にのみ助けを求めて嘆き訴えているゆえに、必ず到来する神の審判のとき、滅ぼされることなく生かされる。これが預言者ハバククに与えられた神からの啓示でした。

  ハバクク書の預言は、国内でも国外でも危機的歴史状況のさなかに礼拝式文として用いられました。B.C.609年、ヨシヤ王がメギドでエジプト王ネコ2世に敗れ、戦死してから、南王国ユダの国内においては宗教改革の意義が失われ、律法はゆるみ、公義は行われなくなっていました。同時に数百年間その勢力を振るってきたアッシリア大帝国が滅亡し、新バビロニア帝国のネブカデネザル2世が、B.C.605年にカルケシでエジプト王ネコ2世を破って以来、当時の世界の覇権を奪い、パレスチナ、シリア地方の諸民族を征服、蹂躙していきました。B.C.597年のエルサレム第一回陥落と、捕囚に先立つ10年間の世界史的大変換の中で、このハバクク書は成立しました。国内外の大激動の中にあって預言者はハバククは、ユダの救済をただ神にのみ求めて預言書を構成しました。

  このハバクク書2章4節は、「正しい者は信仰によって生きる」(新共同訳聖書ローマ1:17)という信仰義認の証言となり、「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ロ-マ3:28)とのパウロ的福音信仰の聖書証言となったのです。<正しい者>とは人間の目から見て正しい人のことではありません。キリストの義の衣を着せられた、神が御覧になって「正しい者」、「正しくされた者」のことです。主イエス・キリストの十字架と復活に与る信仰によって、キリスト者は「正しい者」とされ、新しい生が始まるのです。

  預言者ハバククは、民族の危機的状況の中で、世界の人を救うことになる至宝の御言葉「神に従う人は信仰によって生きる正しい者は信仰によって生きる)」を主から与えられたのです。

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