富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「わたしの魂は神を慕い求める」 詩篇42編1-12節

2021-10-15 16:07:52 | キリスト教

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週  報

聖霊降臨節第22主日  2021年10月17日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                              司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 433(あるがままわれを)

交読詩編   42(涸れた谷に鹿が水を求めるように)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編42編1-12節(旧p.876) 

説  教  「わたしの魂は神を慕い求める」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

聖意餐式   78(わが主よ、ここに集い)

讃美歌(21) 132(涸れた谷間に野の鹿が)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

                              次週礼拝 10月24日(日)午後5時~5時50分 

                                 聖 書 詩編46編1-12節

                                説教題 「神は、苦難のとき必ず助けてくださる」

                               讃美歌(21) 354 457  27 交読詩編 46    

本日の聖書 詩編42編1-12節

1【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】
2涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。
3神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。
4昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う
「お前の神はどこにいる」と。
5わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、 祭りに集う人の群れと共に進み,神の家に入り、ひれ伏したことを。
6なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。         わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。
7わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。     ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
8あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、    砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
9昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。  わたしの命の神への祈りが。
10わたしの岩、わたしの神に言おう。                 「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、  嘆きつつ歩くのか。」
11わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う。   「お前の神はどこにいる」と。                                             12なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。  わたしはなお、告白しよう。「御顔こそ、わたしの救い」と。       わたしの神よ。

      本日の説教

【指揮者によって。マスキール。コラの子の詩。】(42:1)

表題の「マスキール」は十三の詩編についています。「瞑想(Contemplation)」という歌の類型を示していると思われます。    「コラの子」は神殿合唱隊の名です。彼らはモーセとアロンのいとこコラ(出エジプト記6:18-21)から出た子孫で、ダビデ王によって歌い手の務めに任じられました(歴代上15:16)。

 詩編42編は、次の43編と、合わさって一つの「救いを求める祈り」となっています。両詩編が、三つの部分に分かれ、

どちらも同じ言葉「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」を繰り返しています。最初の二つの部分(42:-6と7-12)は詩人の置かれている困難を描写し、第三の部分(43:1-5)は、救いを求める懇願となっています。43:1-5に至ってはじめて神に直接祈りの言葉をあげています。とくに3-4節では神の「光とまこと」を遣わしてくださいと祈ります。神から送られてくる「光とまこと」と導きを謙虚に受け入れる信仰に立っています。

 詩人の祈りの場が、7節の「ヨルダンの地」「ヘルモン」、そして「ミザルの山」から、ヨルダン川をさかのぼって、はるかイスラエルの最北端に位置するヘルモン山であるかのように思われます。そこから、詩人は遠く故国を離れた異国の地に追放の身の人とする説があります。しかし、詩人はヨルダン川の源流についての、何らかの知識をもっており、その場所を、詩的技巧としての誇張法で用いたのです。42章8節の「深淵」、「激流」、そして「波」も、しばしば聖書の詩文に用いられているように、明らかに、抵抗しがたい困難を表すための隠喩です。

「お前の神はどこにいるのか」という問いは、詩編79:10,115:2や、ヨエル書2:17、ミカ書7:10の礼拝に関する箇所に現われる定式的な用例です。詩編43:1によると、この敵は「神なき民(あなたの慈しみを知らぬ民)」です。

この詩人は、捕囚後の困難な時代、信仰者が他の人々のなすがままに、その中で生きなければならなかった時に、ある集団の中で、その集団に対して語った一人の代表的な人物によって歌われたものであることを示唆しています。

捕囚後の困難な時代とは、バビロンの捕囚から解放されたユダヤ人が、三回にわたって帰国するのですが、その一回目の第一陣と第二陣、合わせて4万2千人余りが、紀元前538年と521年に帰国しました。彼らはさっそく神殿再建工事に着手したのですが、捕囚期にこの地に住みついていた雑種民が神殿用地の既得権を主張し、妨害したため、神殿再建は、基礎工事だけで頓挫し、以後18年間、工事はやむなく中止されました。詩人はこの時代の人物と推測されます。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」(2-3節)

 2-3節は、詩人の置かれている困難を告げ、神を慕う心の悲哀を述べます。「神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。」詩人は、枯れた谷に鹿が水を求めてあえぐように、彼の魂は神を求める、とその胸中を吐露します。夏のパレスチナの厳しい暑さは、ただ乾燥と渇きに支配されます。体は水なしには生きられません。水分の欠乏は、呼吸することを除けば、真っ先に死にものぐるいになって求めるべきものです。同じように、魂は、神なしには生き続けられないのです。それは、ただ単に、信仰深い者にのみ限られることではなく、すべての人間の魂に当てはまる真理なのです。だが、ほとんどの人は、この渇きが、彼らの生を妨げ、また生を左右していることを理解していません。けれども神は、人の魂を、神に向けてお造りになったゆえに、魂は、神を求めて渇くのです。神はまさしく「生命の神」です。そして神の「み顔」の前に出て神と親しく交わることが唯一のあこがれです。詩人が切望しているのは、神の臨在(現臨)です。この詩では、シオンの丘の神殿での礼拝での神の現臨です。そこで魂は、「神のみ顔を仰ぐ」のです。主なる神(ヤーウェ)は天地に偏在する方であり、どこでも、個人にも現臨される神です。だが、主イエスも、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:18〜20)と言われているように、教会は、常に主イエスが現臨するところです。

「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う「お前の神はどこにいる」と。わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす。喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを。」(4-5節)

4-5節は、祈り手と神を結ぶきずなは、「お前の神はどこにいるか」という、敵が嘲笑って発する問によって、引き裂かれようとします。「どこにいるか」は、神の存在を問う言葉ではなく、神は現実に生きて働いていないではないか、という嘲笑いです。十字架につけられたイエスも、そこを通りかかったい人々や、祭司長たちや律法学者や長老たちも、一緒に十字架につけられた強盗たちも、「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言ったのだから」(マタイ27:39-44)と侮辱した場面を思わせられます。

これが彼の耐え難い苦悩となり、嘆きの理由となっています。この人はそのために「昼も夜も」、涙を流すのです。詩人は、思い起します。自分が、神殿の中の祭壇の前で、祭りに集まった人の群れに加わり、賛美の告白と歌の中に入れられていく自分の姿を思い浮かべます。幸福な過去の神殿での思い出で耐えます。

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と。」(6節)

6節は、彼の魂が神との交わりを取り戻そうとします。「うなだれる」とは、首を低くたれ、首の後ろを曲げ、嘆き悲しむさまを表します。「呻(う)めく」は、苦しさのあまり、低い声をもらすことです。詩人は自分の魂に向かって、「なぜうなだれるのか」「なぜ呻くのか」と問いかけ、「神を待ち望め」とはげまし、「神の現臨こそが、わたしの救い」と告白しよう、と決意します。苦悩の彼方に通じる道が開ける手がかりを見つけます。闇から光への道は「神を待ち望め」にあります。助けは現われないのではありません。神は宮の中にいまし、その現臨と助けとをもって近くにおられます。

 主イエスは、十字架に向かうみ苦しみに遭われた時、ご自身のうなだれ、もだえる魂について語られる際、これらの詩の言葉を繰り返されました。主イエスはゲッセマネで、「悲しみもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい』」と。(マタイ26:37-38)

「わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から、あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて、深淵は深淵に呼ばわり、砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。」(7-8節)

7-8節は、詩人が信じて待ち望む方向へと歩み出したのに、その思いは苦痛に沈んでしまいます。それを6節の「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」を繰り返して述べます。ヨルダン川の源流がヘルモン連山の南斜面で、ごうごうと音をたて急流となって谷に落ちます。ミザルの山とは、ここからヨルダンの水源の山と思われます。その激流はたけり狂ったように彼をおそい、あたかも彼の生命を奪い去ろうとするかのように彼の魂に襲います。

「昼、主は命じて慈しみをわたしに送り、夜、主の歌がわたしと共にある。わたしの命の神への祈りが。わたしの岩、わたしの神に言おう。『なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ、嘆きつつ歩くのか。』」(9-10節)

昼は主が慈しみをわたしに送り、夜は、主の歌がわたしと共にある。また、わたしの命の神への祈りがある。「わたしの岩」である神との祈りの交わりによって、詩人は現在の悲惨に耐えるのです。

「わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き、絶え間なく嘲って言う。「お前の神はどこにいる」と。」(11節)

わたしを苦しめる者は、絶え間なく「お前の神はどこにいる」と嘲って問うのを、詩人はいやでも耳にします。詩人が真の神、生命と力として拝するヤーウェ(主なる神)に対するこの冒涜は、彼にとって、まさに堪え難い苦しみであり、それは実に骨が打ちくだかれるほどの激しさです。

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』』と。わたしの神よ。」(12節)

神の確かさを得ようとするこの絶望的な格闘の背後で、例の折り返しの言葉、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ。なぜ呻くのか。神を待ち望め」が反復されます。詩人が切望しているのは、神殿での礼拝であり、神の「御顔」、神の臨在です。詩人は、苦闘しつつ、神の恵みを「神を待ち望む」のです。

私達のうち誰一人として、この詩編の祈りの主題である魂のかわきを避けて通ることはあり得ません。神の臨在へとわたしたちを導くのは、この魂の渇きです。常に「お前の神はどこにいるのか」との問いを提起する世に生きるキリスト者にとって、この詩は、かけがいのない御言葉です。これらの詩は、私達の魂の本性的に持っている不安を、神への渇きとして明らかにします。

詩人の心を満たすことのできるのは、世の富でもなく、権力でもなく、名誉でもありませんでした。これらのものは皆過ぎ行くものです。詩人はただ主を求め、主のみこころが行われること、主の栄光があらわれることです。

「ああ、人はただ影のように移ろうもの。ああ人は空しくあくせくし、だれの手に渡るととも知らずに積み上げる。主よ、それなら何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。」(詩編39:7-8)

詩人はただ、活ける神との交わりだけが彼を満たし、神から棄てられないようにということだけが、彼の心からの願いでした。詩人はシオンの神殿から退けられた時、神からも同時に捨てられたのかと思い惑いました。しかし今、なお一層強く主を求めてやまない自分の心を見出しのです。人は苦難を受けるということは、決して神から棄てられたことを示すものではなく、神がますます近くその人を招いてくださるしるしなのです。         「人の心は神に向かて造られています。ゆえに人の心は神のうちに憩うまでは 安らぎを得ることはできません。」(アウグスチヌスの「告白」1章より)

詩編42編は、賛美と聖礼典と説教による礼拝へと私達を向かわせます。その礼拝において、またその礼拝を通して、、われらの主は、会衆のために臨在されることを望まれるのです。

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