富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主の慈しみによる魂の救い」 詩編6編1-11節

2021-10-07 23:31:41 | キリスト教

              ↑ 「主はわたしの嘆願(嘆き)を聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」(詩篇6:10)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    週    報

聖霊降臨節第21主日  2021年10月10日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

聖 句「御父が、その霊により力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 (エフェソ3・16-17)

                           礼 拝 順 序

                                                             司会 田中 恵子姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 474(わが身の望みは)

交読詩編    4(主よ、怒ってわたしを責めないでください)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)詩編6編1-11節(旧p.838) 

説  教  「主の慈しみによる魂の救い」 辺見宗邦牧師

祈 祷                                                                     

讃美歌(21) 441(信仰をもて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇 オンラインで礼拝に参加できます。教会に申し込みください。設定担当は、斎藤美保姉。

           次週礼拝 10月17日(日)午後5時~5時50分 

           聖 書 詩篇42編1-12節

           説教題 「わたしの魂は神を慕い求める」

           讃美歌(21)433 78 132 27 交読詩編 42    

 本日の聖書 詩編6編1-11節

 6:1【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
2主よ、怒ってわたしを責めないでください。               憤って懲らしめないでください。
3主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。                     主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
4わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。
5主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。            あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。
6死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、
陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。
7わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。
8苦悩にわたしの目は衰えて行き、
わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました。
9悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き
10主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
11敵は皆、恥に落とされて恐れおののきたちまち退いて、恥に落とされる。

   本日の説教

    【指揮者によって。伴奏付き。第八調。賛歌。ダビデの詩。】(6:1)   表題は聖歌隊の指揮者に、弦楽器付きを指示しています。<第八調>は、Hebrew English Interlineare,urlによると八弦のハープ(竪琴)とあります。指揮者に八弦の竪琴(たてごと)で伴奏するように指示していると思われます。

この詩は神の怒りに対して激しく、苦悶しつつ、恵みを願い求める祈りの歌です。ここで用いられていることばの多くは、癒しを求める病人の祈りとしてこの詩が書かれていることを示しています。病、そして癒しに関する言葉の多くは、旧約聖書では罪人としての状態を比喩的に描き出すものとして用いられました。それゆえ、この詩は信仰者の集まりの罪の赦しを求める祈りとして用いられるようになっていったものと思われます。それがイスラエルの祭儀のときに用いられたものと思われます。

 この詩編は、32、38、51、102、130、143篇とともに、七つの悔い改めの詩篇に数えられ、その最初にあたります。詩篇6編には罪の懺悔らしい言葉は見当たりません。罪や罪深さについての言葉はなく、罪の赦しを求める明確な祈りの言葉もありません。作者とその境遇について詳しく知ることはできません。詩の背後に罪の認識があるようには思われますが、病の苦しみと死の恐怖からの魂の救いを求めることで終始し、最後に願いが聞き届けられたことを確信しています。

「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください。主よ、憐れんでください。わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。」(6:2-4)

始めの2-4節では、嘆きと願いが交互にあらわれます。詩人は、<わたしを責めないでください。・・・懲らしめないでください。・・・癒してください。わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。>と懇願します。<わたしの骨と魂>とは、わたしの全身全霊が恐れと苦悩の包まれていることを表しています。それは、あたかも神と人との間にあるべき好ましい在り方は、人が健康であり、生き生きとしていることであると確信しているかのように懇願しています。

すべての病が罪の結果による神の怒りによるものではありません。罪の全くない主イエスも苦難を受けています。この世は、天国でも楽園でもないからです。罪を犯した覚えのない義人ヨブは重い皮膚病による苦難をうけ苦悩したが、すべてのことは神の経綸(神が世界と歴史を支配し導いておられるということ)にあることを神に知らされています(ヨブ記38:2)。

だが、重病を患うことで、わたしたちは、自身の限界と欠けていることに気づかされるものです。それは反省と悔い改めをうながし、ついに祈りを通して神に依り頼むものとされます。聖書の神は、恵みだけでなく、怒りをもっても働きかけられる方なのです。この詩人は、自分が神の怒りに価することを認めています。彼はひたすら神の恵みと憐れみにすがる他はありません。<主よ、いつまでですか>と問いかけています。神のみ旨を尊重しつつも、彼の苦痛がいかに耐えがたいものであるかを、この言葉はあらわしています。

「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」(6:5-6)

続く5-6節では、救いを求める祈りが新たな形で始まります。「主よ、立ち帰って、わたしの魂を救ってください」と祈ります。「あなたの慈しみにふさわしく、救ってください」とあるように、神の慈しみが彼の身に事実となってあらわされ、それによって彼の魂が罪から救われ、助け出されることを願っているのです。ヘブライ語の「慈しみ(ヘセッド)、新改訳聖書では「恵み」と訳しています」は、契約に基づく神の変わらない愛、真実な愛を意味しています。それは神にのみ属する、神の本質です。新約では、ギリシヤ語の「愛(アガぺー)」と訳され、罪人を赦し、愛される神の無償の愛を示します。

詩人の苦悩と不安とは、病苦だけではありませんでした。病苦によってひきおこされる死の不安でもありました。死はあらゆる人間にとって、常に不安であり、悲哀です。とくに、旧約聖書時代のイスラエル人にとっては、死は絶望的な悲しみでした。なぜなら、死によって神と人との関係がまったく遮断されてしまうからです。陰府(よみ)は永遠の暗黒と沈黙とであり、天上の光さえもそこには達しないと、当時のイスラエル人は考えていたからです。陰府とは死せる者の住みかであり、地下の暗黒です。旧約聖書の中には、死後、神の宮で過ごす生命について、ところどころに記されているが、それはかすかな望みのようなものでした。詩人は死ねば神との生きたつながりを失うのではなかという不安を抱いているのです。神を想い、神を讃える幸福が、永久に奪い去られてしまうのではないだろうかと不安を抱いたのです。この詩人は、復活の希望も永遠の生命の信仰もまだ与えられていませんでした。パウロは「今や、わたしたちの救い主キ リスト・イエスの出現によって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださいました」(テモテ二、1:10)と言っています。

「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです。苦悩にわたしの目は衰えて行き、わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました。」(6:7-8節)

7-8節では、ふたたび詩人は嘆きの淵に沈んでいきます。いくぶん誇張した言葉を用いて、<夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです>と歌います。<わたしを苦しめる者>とは、神を信じない者たちが詩人を嘲笑していると考えられます(10節)。彼らによって負わされた苦悩によって、詩人は<老いてしまいました>と語ります。

「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主(ヤーウェ)はわたしの泣く声を聞き、主(ヤーウェ)はわたしの嘆きを聞き、主(ヤーウェ)はわたしの祈りを受け入れてくださる。敵は皆、恥に落とされて恐れおののきたちまち退いて、恥に落とされる。」(6:9-11)

最後の9-11節では、願いが聞き届けられたという確信によって、祈り手は新たな力と希望を得ます。何度も主(ヤーウェ)の名が繰り返えされています。詩人は救いの確信を得るのです。今や不安と絶望に取って代わるのは、生に対する新たな勇気と毅然たる態度です。この覚悟によって彼の心は奮い立ち、今まで彼を脅かしていた敵の圧迫からたちまち自由にされます。敵とは、詩人が重病により苦しんでいた時に、彼をあざけり、彼を苦しめた人たちです。義人ヨブの友人たちも、彼の敵となってヨブを責め、苦しめました。

だが、詩人の願いと祈りを受け入れたこの出来事が彼の敵にとっては恐怖となり、彼らは恥じ入って彼の前から退却します。

神の怒りによって病を負ったある特定の個人が語った詩が、聖書正典に含められ、悔い改めの祈りとされるようになって、すべての人の罪の赦しを願う普遍的な祈りとなりました。

死は、すべての人間の存在に問いを投げかけます。死は、生にけりをつけ、また過ちや失敗からの回復の可能性を断ちます。死は、神から永遠に引き離されるか、神に究極的に受け入れられるかの二者択一を迫ります。詩編6編は、どのような絶望の中にあろうとも、なおそこから救い出してくださる道のあることを教え、励まし、神の救いの恵みの内に安らかにおらせてくれる御言葉です。わたしたちキリスト者は、キリストによる復活と永遠の生命の信仰を与えられている恵みに感謝せざるを得ません。この恵みを人々にも伝えて、共に分かちあいたいものです。

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