富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「あなたがたは聖霊の宿る神殿です」 コリントの信徒への手紙一,3章10~17節

2022-01-27 22:55:13 | キリスト教

        ↑ 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。」(1コリント3:16)

〒981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403

日本福音教団 富 谷 教 会    

週    報

降誕節第6主日 2022年1月30日(日)  午後5時~5時50分

年間標語「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を

成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆく。」(エフェソ4・16)

                            礼 拝 順 序

                                                                     司会 辺見順子姉                 前 奏              

讃美歌(21)   4(世にあるかぎりの)

交読詩編   51:12-21(神よ、わたしの内に清い心を創造し)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)コリントの信徒への手紙一,3章10~17節(新p302)

説  教     「あなたがたは聖霊の宿る神殿です」

辺見宗邦牧師

祈 祷                                                            

讃美歌(21) 451(くすしき恵み)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)  27(父・子・聖霊の)

祝 祷             

後 奏

〇オンラインで礼拝に参加できます。設定担当は、斎藤美保姉です。

申し込み先:Eメール munekuni-hemmi@vesta.ocn.ne.jp

               次週礼拝 2月6日(日)  午後5時~5時50分

               聖書 歴代誌下6章12-23,28-31節

               説教題 「ソロモン王の祈り」

               讃美歌(21) 13 355 27 交読詩編 109:21-31  

本日の聖書

3:10わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。11イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。12この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、13おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものである かを吟味するからです。14だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、15燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。16あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。17神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。

本日の説教

 当時コリントの教会には、さまざまな道徳上の問題や分派争いがありました。コリントからエフェソにいるパウロのもとにやってきた人々からコリントの教会の事情を聞き、さらに具体的な問題に関する質問もあったので、パウロがさっそく書いたのがこの手紙です。他の手紙と同じように、挨拶(1:1-3)と感謝(1:4-9)につづいて、具体的な勧告に入ります。1章10節から4章21節までは、コリントの教会における党派争いに関する箇所です。

コリントの人々は「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」(アポロは使18:24によると、アレキサンドリア生まれのユダヤ人雄弁家)つく、という党派意識を持っていました。パウロはこのようなコリントの信徒を、<ただの人にすぎない>と批判し、キリストの霊による「キリストの思い」を抱かせ、彼らの霊的な誇りを戒めました。

3章9節では、「私たちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と、パウロは語ります。<畑>、<建物>という語は、ここでは教会という共同体の形成を意味します。農業の比喩では、植える者(パウロ)も水を注ぐ者(アポロ)も<神のために力を合わせて働く者であ>ることを強調します。<建物>の比喩では、パウロは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えたと述べます。パウロが土台を据えたのは、「神からいただいた恵みによって」でした。これによってパウロは彼の使徒職は神からの委託によることを意味しています。その土台の上に家を建てるとき、「おのおのどのよう建てるかを注意すべきです」と勧告します。教会で教えたり、指導する人すべてに向けた警告です。

次にパウロは土台を据えるというイメージで何を暗示しているかを語ります。唯一の土台はイエス・キリストという土台です。十字架につけられたキリストが教会の土台です(1: 23、2:2)。建物(教会)の上部構造は土台と一致していなくてはなりません。そうでなければ、ゆがんで不安定になります。教会の建築の固定した基礎は、十字架につけられたキリストの教えです。

 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされる、というのです。「かの日」とは神が全ての人間の業を試し、裁き、終末的正義をうち立てる、主の日を指しています。ここでパウロは火による最後の審判のイメージを個人の運命ではなく、おのおのの教会の指導者たちによって建てられた教会の堅実さを試す最後の神吟味について語ります。

 六つの異なる建物の材料、「金、銀、宝石、木、草、わら」の比喩は、恐らく価値の下がるものへと配置されています。最後の三つは燃えやすく、最初の三つは燃えにくいという事実以上に、特別な意味はありません。パウロの主張は、ある指導者は耐火性のある材料で建て(キリストが十字架につけられたという福音)、他の者は燃えやすいもの(人間の知恵という一時的な熱中)で建てており、来るべき神の視察の炎で焼き尽くされてしまうというのです。

 建築家のだれかが土台の上に建てた仕事が残れば賃金をもらうでしょう。しかし不十分な仕事をした建築家たちには罰金が科せられるでしょう。無能な下請け建築家たちは、仕事は燃え尽きても、かろうじて救われるだろう、というのです。

 パウロの三番目の比喩的表現は、教会という共同体は普通の建物ではなく、神の神殿であり、神の霊がとどまる所であると語ります。原文では、「あなたがたは(複数)、あなた方自身(複数)が神の神殿(単数)であり、神の霊(単数)があなたがた(複数)の内に住んでいることを知らないのですか」と問いかけています。ここでは神の霊がキリスト者個人ではな、集められた共同体、信仰者の集まりに住んでいるというのです。それは教会堂という建物のことではありません。パウロが神の霊が神殿に住んでいるという時の神殿は、異教世界の神々や神殿ではなく、エルサレムにある神殿にいますイスラエルの神の霊です。なぜ教会が神殿に取って代ったのかというと、パウロは神の霊が神に選ばれた人々の集う共同体(教会)に生きており、今や共同体が讃美と礼拝が正しく神に捧げられる場所であると信じたからです。神の霊はもはや聖なる建物に制限されないのです。パウロが共同体を神殿であると言うのは、信仰者の行いによるのではなく、聖霊が共同体に生きているからです。犠牲を捧げることによるのでなく、共同体が神のいます所だからです。

 もし教会が神のいます所であうなら、教会を堕落させたり、傷つける者は、神を怒らせ、自分たちの頭の上に神の裁きを引き起こします。神の神殿である教会を自らの傲慢や虚栄心を満足させる場に変える者は、厳かに警告されています。パウロはもう一度、ここでのたとえを強調して、「あなたがたは(複数)その神の神殿なのです」と言って終わります。

 パウロの読者たちへの呼びかけは、土台として据えた主イエス・キリストは、十字架につけられたキリストです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストこそ、教会の、そしてそこに連なる私たちの人生の確固たる土台であり、私たちはその上に、神の建物、神殿として建て上げられていくのです。
 私たちは神殿というと、例えば日本の神社などのように、本殿に何らかのご神体が祭られていて、神様がそこにおられると考えられている建物のことを想像します。しかしイスラエルの神殿はそういうものではありません。ソロモン王が紀元前10世紀に建てた最初の神殿の中心部分、至聖所と呼ばれる所には、契約の箱が安置され、その中には十戒の石の板が納められていました。しかしその箱や十戒の板は「ご神体」ではありません。それらを神として拝んだわけではないのです。そこは、主なる神様がご臨在下さり、そこで民と出会って下さる場所です。

契約の箱と十戒の書かれた石の板は、バビロニアによるユダ王国の滅亡とエルサレムの破壊、ソロモンの建てたこの神殿の焼失の時に失われてしまいました。バビロン捕囚からの解放後の紀元前515年にゼルバベルの指揮でほぼ同じ場所に再建された第二神殿(エズラ記6章13節以下)には、契約の箱に代るものは何も置かれませんでした。契約の箱が失われて以来、エルサレム神殿の中心は何もない空間なのです。契約の箱や十戒の石の板を「ご神体」として拝んでいるのではないのです。神様がイスラエルの神となり、イスラエルはこの神様の民となる、そういう特別の関係を、神様がイスラエルとの間に結んで下さった、この契約の恵みに基づいて、イスラエルの民は主なる神様を礼拝し、犠牲をささげ、祈ることができたのです。そのことが行われる場が神殿です。第二神殿は、紀元前20年にヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張され、ヘロデ神殿と呼ばれました。しかし、紀元70年、ユダヤ戦争が終わると神殿はエルサレムの市街ともどもローマ帝国によって破壊され、エルサレムと神殿はユダヤ教の信仰生活の中心ではなくなりました。

神の霊がキリスト者個人ではなく、集められた共同体に住んでいることが記されています。パウロは教会のイメージとして「神殿」を使う時は、全体として共同性を言う時でした。だが、6章19節では、「あなたがたの体(単数)は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」とあります。ここではパウロは「神殿」の比喩を個人にあてはめています。教会という集団ではなくて、信仰者個人のことを語っています。信仰者の群れである教会はキリストの体であり、聖霊の宿る神殿です。私たちは主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に加えられ、キリストの体の一部とされます。そのことによって私たち一人一人の体も、聖霊の宿る神殿となります。神様が私たちの体に聖霊を宿らせて下さるのです。個人の体も聖霊が宿るにふさわしい、聖なる器として保たなけれならないのです。パウロは「あなたの体を聖く保ちなさい。そうすれば神が霊をくださる」とは言わず、「聖霊がすでに宿っているから、みだらな行いから離れなさい」と言うのです。悪い霊は私たちの罪に働きかけ、私たちを誘惑し、御国に向かっての歩みを妨げようとします。イエス様は私たちに「我らを、こころみにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈ることを教えてくださいました。この祈りを捧げつつ歩む中で、私たちは神様の栄光を現す者としてしっかり歩んでいきましょう。

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