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富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「道であり、真理であり、命であるイエスの与える真理の霊」ヨハネによる福音書14章1~17節

2016-05-22 23:19:19 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

          日本キリスト教 富 谷 教 会

                週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第2主日   2016年5月22日)   午後5時~550

     礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21)  51(愛するイエスよ)

交読詩篇   86(主よ、わたしに耳を傾け)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書14章1節~17節(新p.196)

説  教    「道であり、真理であり、命であるイエスの与える真理の霊」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 342(神の霊よ、今くだり)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                  次週礼拝 5月29日(日) 午後5時~5時50分

                  聖書 ローマの信徒への手紙10章5~17節

                  説教    「神の民の誕生」

                  賛美歌(21) 459 517 24 交読詩編 29篇

    本日の聖書 ヨハネによる福音書14章8節~17節

 1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。2わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。3行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」5トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」6イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである

   本日の説教

 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(14節)

  ヨハネによる福音書13章では、最後の晩餐の席で、イエスは弟子たちの一人が裏切り者となることを予告し、<わたしが行く所にあなたがたは来ることができない>という弟子たちとの別れの言葉が語られ、そしてペトロの離反の予告が語られたので、弟子たちの心には大きな不安と動揺がありました。この不安を感じている弟子たちに、イエスは、<心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい>と言われました。神に対する信仰と、イエスに対する信仰とを、同列に置く宣言がなされています。神に信ずるということは、このような不安を覚えるときに、絶対の信頼をささげて神にすべをゆだねることが、神を信ずるということの具体的な内容なのです。神から派遣され天に帰っていくイエスは、弟子たちのために、天に住居と場所を用意し、彼らをも父と子の交わり入れようと、天に帰る目的を語ります。そしてその用意が済み次第、<戻って>来ると約束しました。イエスが約束している再来は、聖霊の来ることによるイエスの顕現です。ヨハネによる福音書では、聖霊の時は十字架と復活の時に始まっているので、イエスは、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言っています。

 「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と、トマスが言います。それに対してイエスは言われます。

 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(67節)

 ここに「道」「真理」「命」という三つの言葉が併記されています。「道」とは、目的地に行く通路という意味と、生き方の目標をさす場合があります。イエスは、真理であり、命なので、イエス自身は、通路であると同時に、また目標でもあります。

  詩編86篇11節に、「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまこと(真理)の中を歩みます」という言葉があり、道と真理が並行的に用いられています。主イエスは、この求めに答えるために、この世に来られたのです。

  イエスは人々を神に至らしめる道であると同時に、恵みと真理に満ちている(114)方です。学問としての真理ではなく、神の真理、すなわち救いの真理であり、命にかかわる真理です。神と共にあったイエスのうちに命(14)がありました。イエスは復活の命(1125)であり、永遠の神の命です。キリストはこの道、真理、命そのものであり、このキリストによって、人は初めて神のみもとへ行くことができ、このキリストによらなければ神の救いと命とに預かることが出来ないのです。イエスは神から派遣された神の独り子であり、神を啓示する者、神御自身なのです。

 「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」、と今度はフィリポが尋ねます。イエスはフィリポの問に対して答えます。

 「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(9~11節)

 イエスはフィリポの問に対して、再び、自分と父との一体性を強調します。イエスの語る言葉は父と同じことを語るのであり、イエスの行った業も同様であると話します。<業>とは、福音書の前半に記されているイエスのしるし・であり、奇跡です。しるしを行うイエスの中に父なる神が共にいるいることを信じなさい、と父とイエスは一体であると語ります。

 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(12節)

 <イエスを信じる者は、…もっと大きな業を行うようになる>とは、イエスが神のもとに帰った後に、弟子たちの与えられる聖霊の働きを指しています。弟子たちは全く新しい存在に生まれ変わり、イエスの御業を継承することになるのです。それは、めざましい奇跡が次々と行われるというよりも、聖霊によって促されるあらゆる意味での宣教の業を示しています。

 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(1314節)

 ここで、イエスの名によって願うことは何でもかなえられることが約束されます。<何でもかなえてあげる>ことが出来るのは、神にのみ可能なことです。イエスの名によって祈りがかなえられるということは、そこに神の栄光が現れるということにほかなりません。

 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(13節)

 <わたしの掟を守る>とは、1334節で、イエスが話された「新しい掟」です。それは「互いに愛し合いなさない。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という掟でした。イエスを愛することは、即ちその戒め(互いに愛し合う)を守ることであると言っています。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(14節)

イエスは父なる神に願って別の<弁護者>を派遣してもらうことを約束します。<弁護者>とは、自分一人では立ち向かえることの出来ず、処理できない問題に助力を与えるものとして呼び出される弁護士の役を担う助け主、聖霊のことです、イエスは、イエスの人格と働きを継続する<別の>弁護を遣わすと約束しているのです。

 「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

 この方、<弁護者>は、「真理の霊」であり、<真理の霊>は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>(1613)働きをします。イエスは道・真理・命そのものであると、6節ですでに言われました。聖霊は、そのイエスの霊であり、イエスの代わりの者です。「わたしもあなたがたの内にいる」とあるのは、聖霊がイエスの代わりにあなたがたの内に居るという意味です。だから、聖霊は信者の内に居て、イエスのように道=生き方を示します。真理の道を示します。その生き方は永遠の命に至る道であります。聖霊はわたしたちの心に働きかけて、悪さ・弱さを抱えているわたしたちも、互いに愛し合い、互いに仕え合うことができるようにしてくださるのです。

 しかし世は、霊を受け入れることができません。私たちは人々が聖霊を疑う時代に生きています。イエスも聖霊も受け入れようとしない世の人々は、「真理の霊」とは絶縁状態にあります。イエスは、時が満ち、「肉となって」(ヨハネ1114)、わたしたちが知ることができるようになるために、わたしたちのただ中に来られた真理です。真理は何らかの対象として捉えるものではありません。真理とは出会うものです。真理とは所有ではなく、一人の人格との出会いです。 しかし、イエスが真理「そのもの」であり、父である神の独り子であることをだれがわたしたちに悟らせてくれるのでしょうか。パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とはいえない」(一コリント123)ことを教えてくれます。復活したキリストのたまものである聖霊こそが、真理そのものであるかたをわたしたちに悟らせてくださいます。イエスを信じ受け入れた人々との間には、この霊が親しく降り、内に住み、信じる者のうちに働いてくださるのです。日々、聖霊を豊かにを受けられるように、祈り求めましょう。

 

 

 

 

 

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「聖霊の賜物」 ヨハネによる福音書14章15節~27節

2016-05-15 21:46:27 | 説教

                   ↑  聖霊降臨日に、聖霊の力を受けた弟子たちは、エルサレムに住んでいた外国生まれのユダヤ人やユダヤ教に改宗した改宗した外国人たちに、彼らの15か国の生まれ故郷の言葉で福音を語った。これが世界宣教の発端となり、世界に福音が届けられることを示した。

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

                    週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 聖霊降臨節第1主日(聖霊降臨日) 2016年5月15日(日)  午後5時~5時50分

                 礼 拝 順 序

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉                                     讃美歌(21)  56(主よ、いのちのパンをさき)                                                          交読詩篇  103(わたしの魂よ、主をたたえよ)               主の祈り   93-5、A                         使徒信条   93-4、A                         聖 書 ヨハネによる福音書14章15節~27節(新p.197)           説  教      「聖霊の賜物」 辺見宗邦牧師                祈 祷                                 讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)                     献 金                                  感謝祈祷                                頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)                    祝 祷                                 後 奏 

                                                       次週礼拝 5月22日(日) 午後5時~5時50分       

                聖書 ヨハネによる福音書14章8~17節           

                                                          説教    「真理の霊」

                                                           賛美歌(21) 51 342 24 交読詩編 37篇

      本日の聖書 ヨハネによる福音書14章15節~27節

   15「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。20かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。21わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

          本日の説教

    教会暦では、今日が聖霊降臨日(ペンテコステ)の日です。使徒言行録二章によると、ユダヤ教の五旬祭(ペンテコステ)の日に主イエスの弟子たちの上に聖霊が降り、初代教会が創設され、宣教活動が始まったと伝えています。「ペンテコステ」という言葉は、もともと「五十番目」を意味するギリシア語です。キリスト教の場合、主イエス・キリストの復活を祝うイースターから数えて五十日目にあたることから、この五旬節の日を、ペンテコステ(聖霊降臨祭)として祝うようになりました。今日がその聖霊降臨日に当たります。聖霊は神の力、神の働きとして与えられ、聖霊に満たされた一同は、主のよみがえりを証言し、主イエスによる救いの恵みを知らせる福音を伝える者となりました。当時、エルサレムにすんでいたユダヤ人は外国生まれの人たちが多く、またユダヤ教に改宗した外国人が大勢住んでいました。十五か国にも及ぶその人たちの生まれる故郷の言葉で、語るための力が与えられた弟子たちは神の偉大な業を語ったのです。これはすべての国に福音が届けられることを示しています。このように聖霊降臨の日の出来事が世界宣教の発端となりました。

    今日の聖書の箇所は、最後の晩餐の席で、「別れの説教」(訣別の説教)を語られたときに話された、主イエスの「聖霊を与える約束」です。この約束は、後に残される弟子たちへの語りかけであり、同時に今日に生きる私たちにも向けられた言葉でもあります。。

あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(15節)

    主イエスは地上を去るに当たって、弟子たちとの間に結ばれた愛の結合関係が失われないように確かめます。<わたしの掟を守る>とは、13章34節で、イエスが話された「互いに愛し合いなさない。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という新しい掟です。イエスを愛することは、即ち、互いに愛し合うという戒めを守ることであると教えています。兄弟たちが互いに愛し合う地上の愛の営みを通して、イエスとの愛の結合関係が維持されると教えているのです。

  「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」(16節)

   イエスは御自分に代わる他の<弁護者>を父なる神から送ってもらうことを約束します。<弁護者>とは、自分一人では立ち向かえることの出来ない問題に助力を与える弁護士の役を担う助け主、聖霊のことです、イエスは、この地上を去っていくが、<弁護者>は永遠に弟子たちと一緒にいるようにしてくださる、というのです。<永遠に>とは、単なる時間的な長さを示すよりも、いつでも、どこでも、どんな状況の中でもという意味をもつ言葉です。イエスは、イエスの人格と働きを継続する<別の>弁護者を遣わすと約束したのです。

  「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(17節)

 この霊は、この世からの烈しい非難と攻撃にさらされているイエスの弟子たちのために、弁護の役割を果たすものですが、それは<真理の霊>です。<真理の霊>は、弟子たちを<導いて真理をことごとく悟らせる>(16・13)働らきをします。

   この霊は、いつでも、どこでも、私たちと共におり、私たちのうちにいます。どんな状況の中でも、私たちと共にいてくださるのです。しかし世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受けることができません。イエスも聖霊も受け入れようとしないユダヤ人のことが語られています。

   しかし、世とは違って、イエスを信じ受け入れた人々の間には、イエスは今や愛の霊として、彼らの間に留まるので、彼らは霊を知り、霊と共にあることを知るのです。

 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(18節、19節)

  イエスは世を去っていくが、弟子たちを「みなしご」にはしておかない、と約束します。「みなしご」とは親のない孤児のことです。これは、師イエスを失う弟子たちのことを指しているのです。

 イエスは死と復活によって、地上から天に取り去られるけれども、すぐ<弁護者>また<真理の霊>として地上に戻って来るので、決して弟子たちを孤児にはしない、と残る弟子たちを励ますのです。世またユダヤ人は、イエスの十字架の死によって、イエスを見ることはなくなります。しかし、弟子たちは復活のイエスと聖霊の到来によって、再びイエスと出会うのです。<わたしが生きる>とは、「わたしは十字架の死を超えて生きる」という意味です。イエスは復活し、昇天して、今も生き続けておられます。生きておられるキリストから生命と力と助けを受けて、あなたがたもまた、生きることができるようになる、と励ましています。

  「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(20節)

  終末の日には、父なる神と子なるイエスとの愛の結合関係が、弟子たちとイエスとの間にも結ばれていることが、あなたがたにも分かるであろう、と言われたのです。

  「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(21節)

    その結合関係は、イエスの掟を受け入、愛の戒めを守る人であり、イエスを愛する人との間に実現するのです。わたしを愛する人は、父なる神に愛され、イエスもその人を愛し、その人にイエス御自身を現すのです。

  「イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。」(22節)

  <イスカリオテでない方のユダ>とは、<ヤコブの子ユダ>(ルカ6・16)ことか、<イエスの兄弟ユダ>(マルコ6・3)のことでしょう。このユダは、復活のイエスが弟子たちにだけに現され、世、具体的にはユダヤ人には、イエスの顕現が現わそうとされない理由を尋ねます。

  イエスはこう答えて言われました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣 わしになった父のものである。」(23、24節)

   イエスの解答は、イエスを愛し、イエスの言葉を守る者にのみ、父はイエスと共に来たり給うて、一緒に住んでくださる。これに反して、イエスを受け入れず、その言葉を守らない者は、イエスの顕現にあずかることはできない。

  「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(25、26節)

   別れに臨んで、イエスの語るべきことは終わりました。やがて、彼の取り去られた後、弁護者、すなわち、父なる神がイエスの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、イエスが生前に話されたことをことごとく思い起させます。聖霊は、私たちの心をみことばに向かって開き、地上のイエスの言葉と業を思い起させる働きをします。この意味で聖霊は助け主であり、私たちと共に今も生きておられるイエスの働きなのです。

 「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(27節)

  イエスが地上を去るに当たり、弟子たちは不安に陥るかもしれないが、<平和を与える>と約束します。

<平和・平安>は、あらゆる面での完全な充足、至福の状態を表すものです。イエスが与えようとされる平和は、神から与えられる恵みとして、私たちに贈られる救いであり、いやしであり、それは真の愛と和解を私たちにもたらすものです。わたしがあなたがに残すのは不安ではなく、それに打ち勝つ平安であると主は言われ、<心を騒がせるな。おびえるな>と弟子たちを勇気づけられます。イエスの与える平和は、戦争のない、一時的な平穏無事な状態を指すのではなく、不安動揺の中でも奪い去られることのない平和です。

     このイエスが私たちに与え、遺してくださった平安を、世に対して証しすることが、キリスト者の伝道の使命です。別れに際してのイエスの「聖霊を与える約束」は、今まで以上に強く、イエスが「いっしょにいる」ことを説いています。聖霊とは、私たちと共にある神、今も共に生きるイエスのことであり、<みなしごにはしておかない>との約束は聖霊降臨の出来事において実現したのです。

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「主イエスとの愛による永遠の結合関係」

2016-05-07 22:15:33 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会      週  報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 復活節第7主日  2016年5月8日(日)  午後0時40分~1時10分

仙台青葉荘教会壮年会との合同礼拝

礼 拝 順 

                 司会 武石晃正兄

前 奏              奏楽 松本芳哉兄 

讃美歌(21) 481(救いの主イエスの)

交読詩篇  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書21章15節~25節(新p.211)

説  教   「主イエスとの愛による永遠の結合関係」    辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 483(わが主イェスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

合同礼拝について

日本キリスト教団仙台青葉荘教会は、毎年この時季に、富谷教会支援のために、壮年会との合同礼拝を催してくださっています。参加者は壮年会が12名、富谷教会は8名、計20名です。礼拝の後、青葉荘教会壮年会で用意して下さった昼食をいただきます。昼食後、茶室で呈茶をし、親睦の時を過ごします。終了は午後二時頃の予定。

                                                              次週礼拝 5月15日(日) 午後5時~5時50分

                                                           ペンテコステ(聖霊降臨日)礼拝です。

                                                              聖書 ヨハネによる福音書14章15~27節

                                                              説教    「聖霊の賜物」

                                                              賛美歌(21) 56 343 24 交読詩編 116篇

 

本日の聖書 ヨハネによる福音書21章15節~25節

     15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

      本日の説教

    ヨハネによる福音書21章は、補遺としてつけ加えられた部分です。この補遺の部分で復活された主イエスがガリラヤで七人の弟子たちに現れたことを伝えます。

    マタイによる福音書によると、マグダラのマリアたちは復活されたイエスに会い、イエスから、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と言われました。この伝言を聞いた弟子たちは、ガリラヤに行き、イエスが指示した山で宣教の派遣を受けています。ヨハネによる福音書も独自の伝承資料により、イエスのガリラヤ顕現を書き加えたと思われます。

    ガリラヤに戻ったペトロたち元漁師は、一晩漁をしたが何も獲れませんでした。漁をする網を捨ててイエスに従った弟子たちが、再び漁を始めたことが、イエスへの信仰を失ったことのように言われますが、生活の糧を得るために必要なことだったと思われます。

   夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられました。だが、弟子たちは、それがイエスだと分かりませんでした。イエスの言葉に従って、弟子たちがもう一度網をおろすと、網を引き上げることのできないほどの大漁となりました。愛弟子が岸に立っているのはイエスだと証言したので、裸同然だったペトロは漁師の着る上着をまとって湖に飛び込み、泳いでイエスに近づきました。ほかの弟子たちも魚のかかった網を引いて、舟で戻ってきました。陸に上がってみると、炭火がおこしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもありました。イエスはペトロに「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われました。イエスは、「さあ、来て朝の食事をしなさい」と言われ、パンを取って弟子たちに与えられ、魚も同じようにされ、日用の糧を与えられました。エルサレムで二度弟子たちに現れた復活のイエスは、これで三度現れたことになります。

   ガリラヤ湖畔での朝食が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。他の福音書では<バルヨナ・シモン>、つまりヨナの子シモンと言われていますが、この福音書では<ヨハネの子シモン>と,実名で呼んだのです。<この人たち以上に>というのは、この人たちがわたしを愛している以上にという意味です。このお言葉は、他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけではなく、主イエスの真意は、「あなたはだれにもまさって、わたしを愛しているか」という問いではないかと思われます。この問いの背後には、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という、ペトロへの主イエスの愛が込められています。主イエスに誰より以上も以上に愛され、多くの罪を赦された者は、誰よりも以上に主を愛する者とされるのです。しかし、神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもまさって愛しておられるのです。

 結婚式では、夫婦となるための誓約があります。「あなたは彼(彼女)を、愛すことを誓いますか」と牧師は新郎・新婦に尋ねます。主イエスのペトロへの問いは、主イエスがペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためであったと考えられます。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)とあるように心からなる愛がペトロに求められてしかるべきなのです。

 主イエスの三度にわたる「わたしを愛しているか」との問いは、言わば主との愛の契りを結ぶことです。ここに確固とした主イエスとの永続的結合関係を与えられるのです。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。……わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいる者も、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマの信徒への手紙8・35、38、39)という信仰の確信が与えられるのです。

 ペトロは主の問いに、<はい、わたしはあなたを愛しています>と答えずに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と控えめに答えています。「わたしはあなたを愛しています」とペトロがなぜ答えなかったのかということについては、ペトロがイエスを明らかに三度知らないと裏切っているので、このような間接的な言いまわしをしたと思われます。最後の晩餐の席で、あなたのためなら命を捨てます」と言っています。マタイによる福音書には、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」とあります。ルカ福音書には、「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しています」とあります。復活のイエスとの出会いを経験する前のペトロの信仰は人間的な意気込みによるものであり、イエスとの間に永続的結合関係ができていませんでした。イエスを裏切り、捨てるという挫折と破綻を経験した後、復活の主と出会い、主イエスは十字架の贖いにより、罪深い自分を赦し、支え給うという事実を知ったのです。もはや信ずるということも、自分の側からの決断によるものではなく、キリストの霊によって神から賜る恩恵であることを知ったのです。

 ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えるほかありませんでした。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられたのです。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る復活のキリストの前にいるペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じました。

 二度目にもイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。

 三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも受け取られます。しかしそれだけではありません。もっと大きな主イエスの深い愛に触れたのです。罪を犯して、もう弟子とよばれるにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、一緒に食事をし、そして過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて主イエスがそれほどまで、心を傾けてくださることに感激したのです。同時に、主を裏切った罪だけでなく、これまでいかに自分が罪深い者であるかを知らされ、そのような自分を主は愛し、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦痛と痛みを覚えて悲しくなったのだと思います。その悲しみは、ペトロの心に主の愛が満ちたことによって起こったものです。

 イエスが三度も「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに対する主イエスの不変の愛を示し、どんなものも引き離すことのできない愛の関係で結ばれていることを確信させ、このイエスの愛に応えて生きる新たな決意をもって、主の与える使命に生きる者とするためでした。

 ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

「何もかもご存知です」という言葉の中には、ペトロのこれまでのすべての罪を御存知である主に対して、ペトロの懺悔と悔い改めが言い表されています。

 主イエスはペトロの主に対する愛を確認したあと、一度目は「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、二度目は「わたしの小羊を養いなさい」と言われました。この異なる二つの表現は羊飼いの種々の働きを表していますが、それほど違って理解する必要はないと言われています。主イエスは、御自身を「わたしは良い羊飼い」(ヨハネによる福音書10章11節)と言われました。良い羊飼いは、羊のために命を捨てると言っています。主イエスは、御自分の羊を、ペトロに託したのです。その任に、主イエスを三度知らないと言ったぺトロがその任に堪えることができるでしょうか。主イエスは、まことのぶどうの木とその枝のたとえで、「人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と話されています。主イエスは羊を飼う務めをペトロに託すに当たって、主に対する愛を問い、主と固く結びつくようにされたのです。この主イエスを愛するというところにおいて、すべては与えられていくのです。主イエスが与えてくださるのです。主イエスを愛する者は、主イエスの羊を愛さないではいられないのです。そこに、愛の交わりが形作られ、主イエスの愛によってうち立てられるキリストの体としての教会が建っていくのです。
 「わたしを愛しているか。」この問いは、私たちにも向けられている、イエスの問いかけです。神がわたしたちに求められるのは、わたしたちが神を愛すことと、神が愛しておられる一人ひとりの隣人を、自分と同じように愛すことです。隣人を愛すことも、主イエスを愛することによって、可能となるのです。愛を追い求めましょう。主イエスを愛する愛を、主イエスの羊を愛する愛を、隣人を愛する愛を増し加えていただきましょう。

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「霊の導きに従って歩もう」 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節

2016-05-01 13:33:59 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

 日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   復活節第5主日      2016年4月24日(日)   午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 475(あめなるよろこび)

交読詩篇   96(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節(新p.349)

説  教   「霊の導きに従って歩もう」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 343(聖霊よ、降りて)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                    次週礼拝 5月1日(日)  午後5時~5時50分

                    聖書 ヨハネによる福音書16章25~33節

                    説教   「世の苦難に打ち勝つ勝利」

                    賛美歌(21) 531 528 24  交読詩編 8篇

   本日の聖書 ガラテヤの信徒への手紙5章13節~25節

 13兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。14律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。15だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。16わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。18しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。19肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。22これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。24キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。25わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。

         本日の説教

 「ガラテヤの信徒」へ宛てた使徒パウロの手紙ですが、「ガラテヤ」は、ガラテヤ人が住み着いた地域、現在のトルコ共和国の内陸中央部にある首都アンカラを中心とする周辺一帯を指す地名でもあり、またローマの属州とされた地域、従来のガラテヤ人定住地にフリギヤ、ピシディア、リカオニアといった南部地方を合わせた地域を指す場合と、二つの説があります。

 パウロがこの「ガラテヤの信徒」へ手紙を送ったのは、パウロがこの地の伝道し、立ち去った後にやって来たユダヤ人キリスト者の扇動に惑わされて、彼らは「真の福音」から離れようとする危機にあったからです。彼らユダヤ人キリスト者は、異邦人でありながらキリスト者となったガラテヤの人たちに、律法、ことに割礼の遵守を説くばかりでなく迫ってもいました。パウロにとって、彼らのそのような言動は「律法からの自由」の喪失を招き、また十字架の死によって成し遂げられたキリストの救いの業を無意味にしてしまうことにほかなりまえん、そこでパウロは、この手紙で「真の福音は律法の実行によらず信仰による救い」と、「キリスト者の律法からの自由」を説いたのです。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。

 人をキリスト者とし、律法の束縛から自由な状態に置くのは、神の働きであり、またキリストの働きでもあります。しかし、この自由は決して無軌道や勝手気ままを意味するものではありません。「肉に罪を犯させる機会とせずに」とありますが、「肉」とは「霊」との対比で用いられています。「霊」が人間に宿っている神の霊(聖霊)、あるいは神の霊に導かれて神中心に生きる人間を指すのに対し、「肉」は神の霊に導かれず自己中心に生きる人間を表しています。「罪を犯させる機会」は、罪を犯す手掛かり、そして原因やきっかけにしないようにと勧告しています。

 「愛によって互いに仕えなさい」は、隣人愛こそが「キリスト者の自由」の実践原則に他ならないことを端的の示す発言です。この発言はパウロのこれまでの律法観と矛盾する主張のように思われます。「律法は人間を救い得ず、キリスト者にとってはもはや拘束力を失い、廃止された」と主張してきたからです。しかし、パウロにとっても律法自体は神に由来するものであり、したがって、神の意志を表す限りにおいては遵守すべきであることに変わりなく、また遵守すれば、人間に命(救い)をもたらすものなのです。それにかかわらず、人間は「肉」の弱さのゆえに律法を完全に遵守できず、神の意志に従わないことになるところに問題があるのです。その上、律法は人間に「善」とは何かを教えはするが、それを実行する力を与えてくれず、「罪」とは何かを指摘はするが、それを避ける力を与えてくれません。ただ人間を法的規定で束縛し、その「奴隷」とさせるのみです。そこでパウロが主張するのは、キリストによって「自由」を与えられて、もはや「奴隷」でなくなった人間が、今度は互いに「隣人愛の奉仕の奴隷」となって仕え合うことにより、かえって「律法」の全要求を完全に果たし、神の意志に従いうるということです。

だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。

 ガラテヤの信者たちの実情が指摘されています。「キリスト者の自由」が危険にさらされていたのです。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。

  キリスト者にとって、与えられた「自由」を正しく行使し、「隣人愛の奉仕」に努めることは、取りも直さず、「霊」を指導原理とする生活にほかならないち、とパウロは主張しています。「霊の導きに従って歩く」、「霊によって歩く」とは、人間が「肉」すなわち、自己中心主義に生きる自分の支配を脱して、神中心主義の自分として生きることであり、それはまた、究極的には神の霊(聖霊)の指導の下に生活することです。ガラテヤのキリスト者がいわば「共食い」、または自己破滅の危険にさらされているのは、「隣人愛の奉仕」に欠けており、「霊」の指導下に生きていないためであることが暗示されています。

  自己の内部における「肉」と「霊」との対立抗争から人間を脱出させるのは、「霊」を指導原理とする生活であり、それはまた、「隣人愛の奉仕」の実践による「自由」の正しい行使に他ならず」「奴隷の軛(くびき)」を免れる道でもあります。

  ところで、キリストによって既に救われ、「神の子」とされたキリスト者について、なぜ今なお「肉」と「霊」との対立抗争が言われなければならないのでしょうか。これに答えるには、この地上に「肉」をまとって生きている限り、「既に救われた者でありながら、その救いはまだ完全なものではない」という、「もう既に、しかしまだ」で表される二重の実存状況としてキリスト者の生を捕らえるパウロの思想があるからです。

 「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。

  パウロは、「肉」と「霊」とをめぐる「あれか、これか」の二者択一の問題に決着を付けます。「導かれる」ということには「霊」の主導性がいっそう強調されており、「霊」の指導に積極的に自己を委ねる決断の意も含まれています。

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。

 「肉の業」とありますが、「業」は複数形であるのは、自己中心主義に生きる人間の行為にかかわるものだからです。「肉の業」の実例として15種の悪徳が列挙されています。(1)性的不道徳に関するもの三つ:姦淫わいせつ好色、(2)真の信仰に反するもの二つ:姦淫わいせつ、(3)対人関係と共同体の秩序を乱すもの八つ:敵意争いそねみ怒り利己心不和仲間争いねたみ(4)過度の飲酒に関すもの二つ:泥酔酒宴、とグループ化されています。このようなことを行う者は、キリストの再臨によって完全に実現し、確立する終末的な「神の支配・統治」を意味する「神の国」を受け継ぐことはできません。

これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。

「霊の結ぶ実」の「実」は、単数形です。人間のものではない力によって作り出される何かであるからです。すべての美徳は聖霊の賜物として一つの源より生じていることを暗示しています。「実」は「霊」に属するもの、すなわち「神の恵み」(聖霊の賜物)を意味しています。

 冒頭に「」が挙げられているのは、他のあらゆる美徳のかなめであるからです(ローマ5・2~5、コリント一、13・3参照)。「どうか、御父がその豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つ者としてくださるように。」(エフェソ3:16、17)このようなパウロの言葉から、クリスチャンは、「キリストと結ばれて」歩み、「心の内にキリストに住んでいただき」、キリストを心に宿す者であることが分かります。そして「喜び平和寛容親切善意誠実柔和節制」と、八つの美徳が挙げられています。

 「キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。

  ここでは「洗礼」との関連から、キリスト者が自分の「肉を十字架につけた」ことは、取りも直さず、「キリストと共に十字架につけられた」ことでもあります。パウロがローマ六章で語っているように、「洗礼」こそは人間が神の敵であった「古い人」たる自分にキリストと共に死に、神の子である「新しい人」としての自分によみがえるという出来事なのです。

  霊の導きに従って歩むということは、絶えず自分の自己中心的な思いを、その都度その都度ふっきり、決断して生きることです。それに反して、肉の業というのは、決断しないで生きることです。ここにでてくる姦淫からはじまる泥酔、酒宴のすべては、はっきりと決心して行うというようなことでありません。愛をもって仕えることも、祈りをもって決断しなければできないことです。絶えず祈りつつ、霊の導きに従って前進しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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『あなたはこの人たち以上にわたし(イエス)を愛しているか』 ヨハネによる福音書21章15~25節

2016-04-17 16:00:52 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

 復活節第4主日      2016年4月17日(日)  午後5時~5時50分

礼 拝 順 

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 481(救いの主イエスの)

交読詩篇  116(わたしは主を愛する)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ヨハネによる福音書21章15~25節(新p.211)

説  教   『あなたはこの人たち以上にわたし(イエス)を愛しているか』   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 483(わが主イエスよ、ひたすら)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                                  次週礼拝 4月24日(日)  午後5時~5時50分

                                                  聖書 ヨハネによる福音書15章18~27節

                                                  説教     「聖霊の実」

                                                  賛美歌(21) 97 483 24  交読詩編 116篇

本日の聖書 ヨハネによる福音書21章15~25節

 15食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

20ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。21ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。22イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」23それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

24これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

25イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

      本日の説教

 ガリラヤ湖畔での朝食が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われました。<この人たち以上に>というのは、この人たちがわたしを愛している以上にという意味です。このお言葉は、他の弟子たちとの競争をあおるような問いかけのようにも受けとられますが、主イエスの真意は、「あなたはだれにもまして、わたしを愛しているか」という問いではないかと思われます。この問いの背後には、「わたしはあなたをだれにもまして愛している」という、ペトロへの主イエスの愛が込められています。しかし、神の愛は差別のない愛なので、特にペトロだけを優先して愛しているということではありません。神は、それぞれの人の特性に応じて、それぞれの人をだれにもました愛しておられるのです。

 結婚式では、夫婦となるための誓約があります。「あなたは彼(彼女)を、愛すことを誓いますか」と牧師は新郎・新婦に尋ねます。主イエスのペトロへの問いは、主イエスがペトロの愛を確かめ、親密な愛の関係を結び、新たな任命をペトロに託すためであったと考えられます。神であられるイエスを愛すということは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22・37)とあるような心からなる愛がペトロに求められてしかるべきなのです。

 ペトロは主の問いに、<はい、わたしはあなたを愛しています>と答えずに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と控えめに答えています。ペトロがイエスを三度知らないと裏切っているので、このような間接的な言いまわしをしたと思われます。

 ペトロはもう以前のように、他の人と比べるようなことをせず、心砕かれて「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」と答えています。もはや自分の確信の力、自分の意志の強さに頼るのではなく、主イエスが知っていてくださればいいと、全てを主に委ねる告白へと、変えられています。<あなたがご存じです>という言葉は、すべてを知る復活のキリストの前にいるペトロの畏敬の念を感じさせます。そのようなペトロに主はご自分の大切な羊を任せようとされるのです。イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と命じました。

  二度目にもイエスは、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われました。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。

  三度目にイエスは言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」主イエスから三度も繰り返し問われたペトロは「悲しくなった」とあります。三度繰り返して念を押されることによって、ペトロは自らが三度イエスを知らないと言ったことを思い起して悲しくなったとも思われます。しかしそれだけではありません。もっと大きな主イエスの深い愛に触れたのです。罪を犯して、もう弟子とよばれるにふさわしくないペトロに、主イエスの方から近づいて来てくださり、一緒に食事をし、そして過去の罪を責めるのではなく、今も変わらずに愛してくださり、自分の大切な羊を任せようとしていてくださる、その愛、赦し、信任といった、主の大きな愛に触れて主イエスがそれほどまで、心を傾けてくださることに感激したのです。罪深い者を愛し、身代わりのいけにえとなってご自分の身を父なる神に献(ささ)げ、ご自分の血によって罪から解放してくださった神の子であられる方の苦痛と痛みを覚えて悲しくなったのだと思います。その悲しみは、ペトロの心に主の愛が満ちたことによって起こったものです。

  イエスが三度も「わたしを愛しているか」と問われたのは、ペトロに対する主イエスの不変の愛を示し、どんなものも引き離すことのできない愛の関係で結ばれていることを確信させ、このイエスの愛に応えて生きる新たな決意をもって、主の与える使命に生きる者とするためでした。

 ペトロは、イエスの三度目の問いに答えて、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と言いました。

「何もかもご存知です」という言葉の中にはペトロ自身がどんなに弱く罪深いものであり、その罪のゆえにイエスを見捨てたということや、このような罪を犯したペトロをイエスが愛し、赦してくださる方であることを信じたことも、またイエスが神であられることも信じたことも含まれています。

 イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われ、教会に対する指導者としての役割をペトロに委託しました。「わたしの小羊を養いなさい」、「わたしの羊の世話をしなさい」、「わたしの羊を養いなさい」という三つの異なる表現も、羊飼いの種々の働きを表していますが、意味の相違はないと思われます。  

【イエスの第一回目、第二回目の<(あなたはわたしを)愛しているか>の場合の「愛す」という動詞は、<アガパス(原形はアガパーン)>というギリシャ語が用いられています。これはアガぺーという言葉の動詞です。それに対して、ペトロが<(わたしがあなたを)愛している>と答えた時の「愛す」という動詞は、<フィロー(原形はフィレイン)>という言葉を使っています。三度目にイエスがペトロに<(あなたはわたしを)愛しているか>と問うた時は、イエスの方もペトロの使ったことばに合わせて<フィレイス(原形はフィレイン)>という言葉を使っています。

 一般にアガぺーは神が人間を愛するときなど、高い次元の愛に意味します。それに対して、フィレインは人間相互の愛情といった自然の愛情を意味します。これらの二つの言葉が用いられていることから、次のように解釈する人たちがいます。ペトロは終始<フィレ―ン>を用い、自然の愛情を強く言い表し、イエスは最初は<アガパ―ン>を使って高い次元の愛を要求するが、三回目にはペトロの用いた言葉を受け入れる。人間的な限界内でしか愛することのできないペトロの次元にまで、イエスが降りてきて、ペトロの愛を容認してくださったのだとする解釈です。

  しかし、ヨハネによる福音書においては、これらの二つの言葉は同義的に用いられているので、このような解釈は成り立ちません。その例として、「もしだれでもわたしを愛する(アガパ)ならば…わたしの父はその人を愛し(アガぺイセイ)…」(14・23)の場合は<アガパ―ン>を使い、ほとんど同じ意味を表す文章の「父ご自身があなたがたを愛して(フィレイ)おいでになる。それは、あなたがたがわたしを愛した(ペルヒルエケーテ)ためである」(16・27)の場合の動詞の原形は<フィレ―ン>です。二つ言葉は意味の上で同じですが、<アガパーン>も<フィレ―ン>も区別なく用いられているのです。

  また、イエスの「わたしを愛するか(アガパス)」という問いに対して、ペトロが肯定的に「主よ、そうです」と答えているところからも、異なる二つの動詞の使用は、同義的に用いられ、どちらもキリストの要求する高い次元の愛を表す言葉として用いられています。これは同じ言葉を繰り返すことを避け、言葉に変化をつけたヨハネの文学的技巧によるものと解されます。】

はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。

この表面的な意味は、若くて元気な時には自由に活動できるが、高齢になると人々の世話にならなければ何一つできないようになるという意味です。しかし、ここではペトロの殉教の死を知っていてこれを語っているのです。他の人々に縄をかけられ、逮捕され、十字架の上に両手を伸ばして死刑にされるということが暗示されているのです。ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのです。ペトロは復活の主との固い結びつきにより、死の恐怖も乗り越えていく者へと変えられていきました。

ペトロの殉教の死は紀元六二年頃ネロ皇帝の迫害の下にローマで行われたという伝説が残っています。執筆者は明らかにこのことを知って書いています。

このように話してから、イエスはペトロに、「わたしに従いなさい」と言われました。

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えました。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人です。<あの夕食のとき>とは、最後の晩餐の席上のことを指しています(13・21~30)。

ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言いました。イエスは「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」と言われました。

イエス様にお仕えする時、どうしても他の人のしていることや、していないことが気になってしまう。それは人間の情として仕方がないことかもしれません。けれども、主イエスは、あなたは、あなたに与えられた分を忠実に果たしなさいということをおっしゃるのです。イエスの答えは、一方が殉教したとしても、他方がそういう死に方で死なないとしても、主が定めることであり、あなたには関係のないことであると言われたのです。

それで、この愛弟子は再臨のイエスが来る時まで生きているいううわさが初代教会に広まりました。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのです。

これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この愛弟子です。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っていると、このヨハネによる福音書の編集者は記しています。

イエス・キリストが「わたしを愛しているか」と三度ペトロに語られたことは、わたしたしに対する主イエスの問いでもあります。私たちを愛し、私たちの罪のために身を献げ、私たちのために親密な愛の関係を結んでくだされる、復活の主イエス・キリストの問いであります。この問いかけに、ペトロと一緒に私たちも「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とお答えしていきたいと思います。

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