goo blog サービス終了のお知らせ 

富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「異邦人の救い」 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

2016-06-19 02:15:46 | 説教

「981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

    日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第6主日       2016年6月19日)  午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 405(すべての人に)

交読詩篇  126編16節(主がシオンの捕らわれ人を)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節(新p.354)

説  教    「異邦人の救い」       辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 402(いともとうとき)

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                     次週礼拝 6月26日(日) 午後5時~5時50分

                                      聖書  使徒言行録9章36~43節

                                      説教    「生命の回復」

                                      賛美歌(21)405 481 24 交読詩編 49篇

           

                本日の聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

 11だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。12また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。14実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。17キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。19従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、21キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

            本日の説教

   エフェソの信徒への手紙は、宛先がエフェソの教会となっていますが、他のパウロの手紙とは異なり、ただ一般的な教えが説かれているだけであって、差出人と受取人の具体的な状況記述がなく、宛先も不確かです。

     この手紙の著者については、パウロ自身の真正な手紙であるとする立場と、パウロの弟子がパウロの名を借りて書いたものとする立場があります。エフェソ書は他のパウロの手紙と比較して語彙や文体、さらに思想などに変化があるからです。ガラテヤ書やローマ書の主題であった信仰のみによる救いや義認の教えなどの論争は影をひそめ、おだやかな調和と一致への教えとなっています。これは読者の状況の違いや著者の目指した主題の相違などによる結果とも思われます。文体の相違は、秘書や書記を通じて書かれたことによる変化とも思われます。秘書として、フィレモン書の奴隷オネシモや、エフェソ出身のテキコ、あるいは、長年の協力者であったテモテなどが考えられます。

   いずれにしても、この手紙の差出人はユダヤ教出身者で、読者はユダヤ教とは関係のない人々が大半を占めていたと推察されます。この手紙は、フィリピ書、コロサイ書、フィレモン書と共に、「獄中書簡」と呼ばれてきました。使徒パウロが牢に繋がれた場所は、ローマ、カイサリア、エフェソの三つの都市があげられています。

    内容は、1章~3章の終わりまでが教理的部分であり、人類に対する神の大いなる救いの計画と、キリストによるその実現と、さらにキリストの教会の意義とがしめされています。4章以下は、それに対する実践的な部分です。特に教会の一致と愛による建設を教え、聖霊による生活をすすめています。また、夫婦、親子、主人と奴隷などの関係をも説き、外敵に向かって神の武具を装って雄々しく戦うよう励ましています。

   本日の聖書の箇所は,2章11節から22節までです。「だから、心に留めておきなさい」という言葉で始まります。「だから」とは、2章1節から言われていたことを受けています。2章1節から10節までで言われていたのは、「あなたがた」も、「わたしたち」も、以前は「肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたので」、生まれながら神の怒りを受け、滅ぶべき存在だった、と言っています。しかし、このような罪に死んでいた私たちを、神は御子の十字架と復活にあずからせて、キリストと共に生かし、復活させ、天の王座に着かせてくださったのです、と語っています。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。御子キリストを信じる信仰によって救われたのです。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それはだれも誇ることがないためなのです、とあります。私たちは神によって、イエス・キリストにあって造られた者であり、神が前もって準備してくださった善い業を行って歩むようにしてくださったのです、と語っています。そして今日の箇所に入ります。

   読者の多くはユダヤではなく異邦人でした。「あなたがた」は、「肉によれば異邦人」の生き方していました。以前は、神がイスラエルの民に与えた「約束を含む契約」に関しては全く関係がなく、「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きて」いました。真の神を知らず、何が罪であるかも知らず、それ故まことに正しい道も知らず、死んだら終わりというところに生きていました、と言っています。私たちは神様の救いから遠く離れていた異邦人でした。しかし「今や」、「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

   このように「以前は自分の過ちと罪のために死んで」(エフェソ2・1)いた者を、あわれみ深い神はキリスト・イエスにあって生かしてくださったのです。異邦人のクリスチャンは、常に自分の現在と過去とを比較することによって、神の恵みの偉大さを知るべきです、と説いています。

   一方、ユダヤ人たちは、自分たちの先祖にはアブラハムがいる、自分たちには神の約束があると言いながら、実際には「約束の契約」を守らず、神のみこころに背いた生活をしていました。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた神の民としての立場を誇り、他の民族を「異邦人」と呼び、心の底では穢れた民として彼らをさげすんでいたのです。

   確かに異邦人は「神を知ら」ない人達で、以前は「キリストと関わりはなく」、そのままでは望みのない人たちでした。しかし、今や神の御計画に基づいて、キリスト・イエスの血により、「遠い者」(異邦人)も、「近い者」(ユダヤ人)も、共に神との和解にあずからせていただいたのです。

   実に、キリストはわたしたちの平和であります。」キリストがご自分の死によって敵意という「隔ての壁」を打ち破り、規則と戒律ずくめの律法を廃棄してくださったからです。「平和」という語は、ギリシャ語ではおおよそ戦争のない時期を示しているが、聖書では平和な時期よりもむしろ平和な関係を示す語です。ここでは神と人、人と人との関係が平和であることを語っています。

   こうしてキリストは、「双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

   ユダヤ人も異邦人も罪深い者であり、偏見と高ぶりに満ちていました。このような両者を「一つの体」とするために支払われた代価は、神の御子の十字架の死です。イエスの十字架のあがないの血によって、神と罪人との和解は成立し、人と人との間の平和も確立できるようになったのです。今では、キリストにおいて、ユダヤ人もなければ異邦人もありません。ただあるのは「一人の新しい人」です。

   この「一人の新しい人」というのは、キリストの体である教会を指しています。キリストはこの世においでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいるユダヤ人にも、平和の福音を告げ知らせました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ、アバ父よといって祈り、神の家族となるのです。

   「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族です。」最も遠い関係である「外国人」と「家族」の関係を例にとり、この世から召し出された聖徒たちの新しい関係を表現しています。ユダヤ人も異邦人も「キリストによって」一つの国民とされ、神の民として聖徒と呼ばれていることを明らかにしています。そればかりでなく、クリスチャンは「一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができ」、神の家族とされているのです。家族とは、この世の中で最も基本的な単位です。神の家族の長は父なる神であり、御子イエスは長子です。

  ここで聖徒の群れを建物にたとえています。この比喩によってパウロが明らかにしようとしている真理の一つは、教会が地上における「神の住まい」となるということです。この「建物」の構造は、キリスト・イエスを礎石とし、使徒と予言者を土台とし、選ばれた信徒を一つ一つの素材として、「組み合わされた」ものです。私たちは、教会の構造の中に全体として組み合わされ、神の栄光を現す役割を果たさなければなりません。各人が生きた石であるように積み上げられることにより、建物全体が成長して行くところの建築のイメージをもって説かれています。使徒や預言者、そしてキリストさえ建物全体の素材の一部と見られています。キリストは「隅の親石」あるいは要石(かなめいし)」に譬えられています。ギリシャ・ローマ世界において、建築現場で大理石を積み上げて行く時、まずははじめに、「隅に親石」を置き、そして礎石、それから次々に大理石を積み上げて組み合わせていきます。アーチの頂点に最後にはめこむのが「要石(かなめいし)」です。体なる教会におけるキリストの機能の一つが「組み合わせる」ことですから、キリストは「隅の親石」に譬えられます。キリストなくしては建物はばらばらになり、分裂分派してしまいます。また、建物全体が、終末の完成をめざしているので、その完成である「頭」であるキリストへと向かって成長するので、キリストは「要石」に譬えられるのです。

  このように、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。教会が「聖なる神殿」にたとえられています。しかし教会は建物・建造物ではありません。聖徒の群れ、神の家族、信仰者の共同体を、建物に例えて語っているのです。あなたがたは神の神殿です」(Ⅰコリント3・16~18)キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。主の名のもとに二、三人いるところには、御霊の主が共におられ、聖霊が働いておられます。この霊の働きによって、聖徒の群れは神の住まい、神の家族となるのです。手紙は「あなたがた」と、直接呼び掛けて、一人一人が教会の成長と完成に向かって、協力し励むように励ましています。神は私たちを用いて個々の教会の成長のための人材としてくださるとともに、キリストを頭とする世界規模の神の家族としての教会の一員であることも覚えて、そのための教会形成の役割をも担っていること忘れてはならないと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「天のエルサレムを目指して」 ヘブライ人への手紙12章18~29節

2016-06-11 23:53:01 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

     週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

   聖霊降臨節第5主日       2016年6月12日)   午後5時~550

    礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 498(道、真理、命)

交読詩篇   84(万軍の主よ)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヘブライ人への手紙12章18~29節(新p.)

説  教  「天のエルサレムを目指して」 辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 579(主を仰ぎ見れば)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                                                     次週礼拝 6月19日(日) 午後5時~5時50分

                                                     聖書 エフェソの信徒への手紙2章11~22節

                                                     説教    「異邦人の救い」

                                                     賛美歌(21)405 402 24 交読詩編 126篇1~6節

              本日の聖書 ヘブライ人への手紙12章18~29節

 18-19あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。20彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。 21また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。22しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、23天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、 24新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。25あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。26あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」27この「もう一度」は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。28このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。29実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。

             本日の説教

   ヘブライ人への手紙は、宗教改革以前はパウロの著作とみなされていましたが、現在では、バルナバ(キプロス島出身のユダヤ人)やアポロ(アレキサンドリア出身のユダヤ人)といった人物が著者として支持されています。著者はテモテを知っている(13・23)、第二世代のキリスト者であり、ステファノやフィリポたちの立場を受け継ぐ人物です。

   受信者はヘブライ人とありますが、必ずしもユダヤ人に限られず、13・24の<イタリア出身の人たち>という句はイタリアないしローマを予想させます。迫害に際しての忍耐をすすめている点などから、離散したユダヤ人がいるローマの教会が予想されます。

   この文書は手紙とされていますが、手紙につきものの最初の挨拶がなく、13・22以下の終わりの挨拶部分は、後から特定の教会に送るために付加されたもので、手紙というよりも、著者によってなされた幾つかの説教を文書の形にまとめたものです。執筆年代は80~90年頃と予想されます。

   ヘブライ人への手紙は、最後の添え書きを別にすると、三つの主要な勧告(説教)から成り立っています。第一部は「神の言葉に聞き従おう」(1・1~4・13)、第二部は「信仰告白をしっかり守り礼拝に励もう」(4・14~10・31)、第三部は「イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走り抜こう」(10・32~13.21)です。

   今日の聖書の箇所では、第三部に属します。12章の18節~24節は、古い契約が与えられた山と新しい約束が与えられている山を比較します。古い契約はシナイの荒れ野の中でモーセを通して結ばれました。それは律法を守らない者は死ぬという厳しさの中にありました。新しい契約はエルサレムのシオンの丘で結ばれました。それは神の御子イエスによって与えられた福音です。あなたがたはすでに贖われて、天の国の住人になっているのだと、信徒を励まします。

  あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。」(18~19節)

   イスラエルの民が荒野でさまよったとき、シナイ山で経験した恐ろしい体験を例にあげて語ります。<あなたがた>は、この手紙(説教)の受け取り人である迫害によって散らされたキリスト者たちです。

   手で触れることのできるもの(山)>は、出エジプト記19・13によれば、主はモーセに対して、「山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ」と、民が山に近づかないように忠告しています。<黒雲>(出19・16~18、22・18)、<暗闇>(申命記4・11)、<暴風>は神が住まわれる場所、<ラッパの音(角笛)>(出19・16,19、20・18)は、神の顕現を現しています。<聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような(出20・19、申5・25、18・16)、<言葉の声>(出19・19、申4・12)とは、イスラエルの民が「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」と願い、直接神の声を聞くことに対して極度の恐怖心を抱きました。このように荒れ野のイスラエルの民がシナイ山のふもとで経験した恐ろしい光景が語られ、そのような出来事が近づいたのではないと言っています。

   彼らは、「たとえ獣でも、山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない」という命令に耐えられなかったのです。」(20節)

   出エジプト記19・12~13からの引用です。<彼ら>はイスラエルの民のことです。<命令>の言葉は、契約を守らないイスラルの民に対する神の怒りと憤りが現れています。

   また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、「わたしはおびえ、震えている」と言ったほどです。」(21節)

   申命記9・19との関連で語られています。人間の罪に怒る神の前では、イスラエルの民はもとよりモーセでさえ震えあがらざるを得ませんでした。シナイ山のふもとでは、イスラエルの民は神の怒りの前に近づいた経験をしたのです。迫害下にあるキリススト者たちが今経験していることも、神の怒りの前に恐れるということにおいてイスラエルの民の経験と共通する経験をしているのです。

   しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、」(22~23節)

  ここからはキリスト者が今現在直面している状況の下でいかにあるべきかが語られます。あなたがたが<近づいたのは>、むしろ救いの神に近づいたことが語られます。シナイにある山ではなく、シオンにある山です。けれども、今地上にあるエルサレムにある山のことではありません。ここで言われている<シオンの山>とはシナイ山のような現実の山ではなく、「生ける神の都」「天にあるエルサレム」を指します。「天上のシオン」の<シオン>は、エルサレムの元々の名称で、後にソロモン王が神殿を建ててからは、神殿を含めて「シオン」と呼ばれるようになりました(列王記上8・1)。シオンの名称は、詩的用法で用いられ、神ヤーウェが住まわれる都としてのエルサレムを意味します。<天に登録されている長子たちの集会>とは地上の教会に属するキリスト者に約束されている終末の教会のことです。<すべての人の審判者である神>の<すべての人>とは、生きている者と死んだ者のすべてを指します。<完全なものとされた正しい人たちの霊>とは、キリストの出現を待ち望み、その贖罪によって初めて完全なものとされた旧約の義人たちを指します。

  新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」(24節)

  古い契約の仲介者モーセに対して、<新しい契約の仲介者>イエスが天のエルサレムのシオンの丘におられる様が語られます。<アベルの血よりも立派に語る注がれた血です>の<注がれた血>とはイエスが十字架上に流された贖いのための血です。その血はかつて<アベルの血>(創世記4・10~11)、すなわちアベルによって流された犠牲の血よりも、はるかにまさった犠牲と和解のしるしとなっていることを伝えています。それは復讐を叫ぶアベルの血ではなく、恵みに満ちた罪の赦しを与える血でした。

   あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。もし、地上で神の御旨を告げる人を拒む者たちが、罰を逃れられなかったとするなら、天から御旨を告げる方に背を向けるわたしたちは、なおさらそうではありませんか。」(25節)

   語っている方>とは、天から語っておられる復活のイエスを指しています。天からのイエスによる救いのメッセージは、私たちにとって拒むべきべきではないことが警告されています。この勧めは、み言葉を聞いた者がその生活において積極的な生き方をするように求められているという意も含まれているのです。<地上で神の御旨を告げる人>とはモーセのことで、天から語っておられる方と対比させられています。地上で神の言葉を語ったモーセを拒否し、その言葉に背いた者は罰を逃れることはできませんでした。イスラエルの人々がシナイの荒れ野でとった態度を思い起させることにより、神に逆らうことの意味を教えています。今私たちは、かつての地上における声、つまり代弁者モーセを通して語られた声ではなく、「天から」遣わされた御子イエスを通して語られる御声を聞くのです。

  あのときは、その御声が地を揺り動かしましたが、今は次のように約束しておられます。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」(26節)

   あのとき>は、神がモーセを通して語られた時です。<その御声が地を揺り動か>したとは、律法が伝えられた時シナイ山が震えたこと(出19・18)を指し、この神顕現の光景は、終末の日の状況を想起させます。詩編18篇8節に「主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ」とあります。<わたしはもう一度…>はハガイ書2・6の引用です。ハガイは、バビロンからの帰還者たちに、神殿を中心とするイスラエルの再建を語り、神殿完成後にメシアの時代が到来することを預言しました。著者はこのハガイの預言を世界の終末と受け止め、ここに引用したものと思われます。終わりの日には<地だけではなく天をも揺り動かそう>と主は言われます。

   この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。」(27節)

  もう一度、地だけでなく天も揺り動かされるのは、<揺り動かされないものが存続するため>です。<揺り動かされないもの>とは、28節の<揺り動かされることのない御国>のことです。著者は、読者であるキリスト者に御国の一員である自覚をうながして、喜びの確信の中にある幸いを示します。それはそのまま28節の「神への感謝、そして奉仕」につながります。

   このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。」(28節)

   キリスト者は今すでに終末的な約束としてこのような御国を与えられています。神の恵みを受けとめることのできる者のみが、まことの感謝を神にささげることができるのです。また<感謝の念>と<畏れ敬う>神への思いは、<神に喜ばれるように仕え>るということで姿勢が生まれ、ふさわしい礼拝の態度が生まれます。

  実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です。」(29節)

   申命記4・24の引用です。新しい契約においては神はすべてのものを<焼き尽くす火>のような厳しさを失われません。恵みと厳しさは並存します。キリスト者が神の恵みに甘えて福音の言葉を拒否するならば、神との永遠の交わりに入ることはできません。審判を恐れつつ、仕えてゆくことが求められています。

  世界を創造し、支配し、その世界を揺り動かす力を持っておられる方、それがイエスによって啓示されました。同時に、イエスはこの「揺り動かされることのない御国の」の王であり、キリスト者はその御国の一員です。この御国にある<天のエルサレム>こそ、私たちが目指す<神の都>です。<天のエルサレム>は、11章には、「神が設計者であり、建設者である堅固な土台を持つ都」(11・10)とあり、信仰の先達たちが熱望した「天の故郷」(11・16)です。それゆえに、今、置かれている生活の場がどのような苦境にあったとしても決して絶望に終わることはありません。神に喜ばれるように仕えながら、天のエルサレムを目ざして歩んでまいりましょう。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「信仰の道」 ヨハネ第一の手紙2章18~29節

2016-06-05 01:07:17 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

     日本キリスト教 富 谷 教 会

              週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

  聖霊降臨節第4主日       2016年6月5日)   午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 227(主の真理(まこと)は)

交読詩篇   16(神よ、守ってください)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書   ヨハネ第一の手紙2章18~29節(新p.443)

説  教      「信仰の道」     辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 458(信仰こそ旅路を)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                                       次週礼拝 6月12日(日) 午後5時~5時50分

                                         聖書 ヘブライ人への手紙12章18~29節

                                         説教    「天のエルサレム」

                                         賛美歌(21)498 579 24 交読詩編 84篇


本日の聖書 ヨハネ第一の手紙2章18~29節

 18子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。19彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。20しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。21わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。22偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。23御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。24初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。25これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。26以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。27しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。28さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。29あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。

               本日の説教

 ヨハネによる福音書とヨハネの手紙は、用いられている用語や表現などが極めて似ているところから、同じ教会(仮にヨハネの教会と呼ばれている)の中で成立したと考えられています。

ヨハネによる福音書は、イエスの十二弟子の一人のヨハネの権威の下に、ユダヤ教会堂に対してキリスト教の信じる神の独り子イエス・キリストを明らかにするために、紀元80年から後半から90年頃にかけて書かれました。

ヨハネの手紙(一、二、三)は、ヨハネの教会の指導的位置にあったユダヤ人キリスト者の長老が、教会内部に起こった福音理解についての異端に対応するために、紀元100年前後に書いた勧告や手紙です。

なお、ヨハネによる黙示録は、ローマの属州アジア州(現在のトルコ西部)に対する迫害が厳しくなったドミティアヌス帝の治下、紀元95年頃、福音宣教のためにパトモスの島に流刑の身となった教会の予言者を自称する(しもべ)ヨハネが、さし迫ったキリストの再臨、この世の終末と完成を告げ、諸教会を励ました文書です。

ヨハネ黙示録も、用語・表現がヨハネによる福音書やヨハネの手紙とかなりの関連があるので、これらを総括して「ヨハネ文書」と呼んでいます。

 ヨハネの手紙二、三は、長老が教会や個人に書いた手紙ですが、ヨハネの手紙一は手紙というより勧告であり説教のようなものとして書かれています。

 1章から2章27節までに書かれていることは、御父と御子イエス・キリストとの交わりを持つための道として、①光の中を歩くこと(1・7)、②戒めを守ること(2・3)、③兄弟を愛すること(2・10)、④伝統的信仰を守ること(2・24)の四つのことを勧めています。

今日の聖書の箇所は、福音を正しく受け取ろうとしない<異端者>について語り始めます。今や多くの反キリストが現れているので、終わりの時が来ていると分かるというのです。<反キリスト>はキリストを否定する悪霊をうけた教師たちのことで、当時このような教師が多数出て教会を乱し、教会に分裂をきたしました。<終わりの時>はキリストの再臨が近づいた時期を意味しています。彼らはもともと仲間ではなかったので、わたしたちから去って行ったと告げ、残留した信徒に動揺しないように、また彼らの誘いにのらないように、自覚をうながしています。

 「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。」(20節)

 <聖なる方>とは、神であるイエス・キリストを指します。<油を注がれている>とは、聖霊が与えられていることを表現しています。油(オリーブ油)はユダヤ教では聖別のために用いられ、頭に油を塗る塗油(とゆ)と聖霊が下ることが密接に関係しています。聖霊は真理の霊です(ヨハネ福音書14・17)。聖霊は真理の霊です(ヨハネ福音書14・17)。<皆、真理を知っています>は、イエス・キリストあるいはその福音を知っていることを意味しています。

 「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」(22節)

 <偽り者とは嘘をつく者の意ですが、具体的には異端教師を指します。当時の異端説は、イエスがメシア(救世主)であることを否定する者のことです。特に御父と御子を認めないことがメシア性の否定とつながっています。異端説は、神の子が人間となって世にこられたという受肉を認めず、キリストを単なる霊的存在とし、父なる神と御子イエスとの父子関係を否定しました。

 「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。」(23節)

 イエスこそ神と等しい者であるという告白する正しい信仰には神との交わりが伴います。この独り子なる神イエスを認めない者には神との交わりは回復されないことが語られています。

 「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。」(24節)

 <初めから聞いたこと>は、ここではイエス・キリストの福音を聞いた当初のことです。伝統的信仰を堅く保つように勧めています。そうすれば、御子と、また父なる神の内にいつもいることになりますと教えています。

 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。」(25節)

 前節のことばは、御子キリストが約束されたことであり、神との交わりを持つことが、すなわち永遠に命なのです、と教えています。

以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。」(26節)

 以上の部分が、異端に導く者たちについての警告ですと結んでいます。

 「しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。」(27節)

 <御子から注がれた聖霊は、すべてのことを教え、思い起させ(ユハネ14・26)、真理をことごとく悟らせます(ヨハネ16・13)。だから他に教える者を必要としないと言うのです。御子の内にとどまることのみが強調されています。

 「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。」(28節)

 <子たちよ>と、神の子たちである教会員に呼びかけます。ふたたび、<御子のうちにとどまりなさい>と命じています。キリストといつも一体であるなら、<御子が現れる>再臨の日に、神の赦し、神の愛に対する確信が与えられて安心し、裁きに対して<御前に恥じ入る>ようなことはありません。

 「あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。」(29節)イエス・キリストも正しい方である(2・1)ことを知っていれば、<義を行う者>も皆、神から生まれた神の子であることが分かるはずだ、というのです。<義を行う者>とは、神の目に正しいとされる者のことで、ここでは福音を受けいれ、特に異端に走らず正しい信仰告白にふみ留まり、互いに愛し合う者のことです。

 5章1節~4節に、「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。…神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。」とあります。

この世に打ち勝つ<信仰の道を歩んでまいりましょう。また、私たちは異端とも戦わなければなりません。

エホバの証人 (ものみの塔聖書 冊子協会)がキリスト教の異端であるのは、イエス・キリストを神と認めないからです。救いは信仰よると一応説くが、実際には行いによる救いを説く。その行いのうちで最高のものが伝道であると教えています。

また、モルモン教(末日聖徒イエス・キリストの教会)が異端であるのは、神について聖書の教えとは異なる神を信じているからです。人間と同じ肉体を持つ天父と天母、その多無数の神々を信じているのです。天より高い階段を昇るために、地上で忠実にモルモン教のおきてを守り、儀式を受けなければならないと教えているのです。

              キリスト教の異端早見表  MGF資料マラナサ・グレイス・フェローシップ)

 

 

正統派

キリスト教系の二大異端

キリスト教

(プロテスタント)

エホバの証人
(ものみの塔聖書
冊子協会)

モルモン教
(末日聖徒イエス・
キリスト教会)

 

父、子、聖霊の三位一体。
万物の創造主。

エホバという名を持つ。
天使長ミカエルのみを創造。

人間と同じ肉体を持つ天父(エローヒム)と天母、その他無数の神々。

 

イエス・
キリスト

神と同じ本質を持ち、処女マリヤより人間として誕生。
肉体を持って復活。

天使長ミカエルが人間イエスになった。
万物を創造。

エローヒムが生み出したエホバをイエスと呼ぶ。ルシファーの兄。イエスは万物を創造。

 

聖霊

父、子と同じ本質を持つ。
特にキリストを証しする。

神の非人格的な活動力。

父なる神、イエスとは異なり、骨肉の体を持たない。

 

正典

「聖書」

(旧約27巻、新約39巻、計66巻)

「新世界訳聖書」

「聖書の研究」(全7巻。上記を補強する中心的教典)

「聖書」
「モルモン経」「教義と聖約」
「高価なる真珠」

 

人間

神の被造物で、最も尊い。

死後神の裁きを受ける。

霊を生命力とみるので、死とともに消滅する。

掟を守って結婚をした者は、死後神になる。そうでない者は、

死後天使になる。

 

救い

人の行ないではなく、神の恵みによって罪が赦され、永遠の天国に入る。

イエス以後の選ばれた14万4千人が天に行き、その他の者は、地上の楽園に入る。

死後神になって、新しい宇宙を造って治めるようになる。

 

救いの条件

イエス・キリストを罪からの救い主として信じる。

統治体の取り決めに従い、バプテスマを受け、訪問伝道を行う。

イエスを信じ、悔い改め、バプテスマを受け、聖霊の賜物を得る按手礼を受け、すべての戒めに従う。

 

社会

神の愛、隣人愛をもって社会に積極的に働きかける。

堕落した社会を支持することになるので、政治活動を行なわない。

政府に従い、法律を守る。
一夫多妻も、アメリカの法律のゆえに、中止した。

 

 

特殊な教理
の例

三位一体の神。
イエスの処女降誕、

肉体を持った復活。

キリストは1914年に不可視的に再臨。
輸血禁止。十字架を杭とする。

不滅の魂と地獄の存在の否定。

アメリカ大陸に、新エルサレムが建てられる。教会は、1世紀と同じ組織を持つ。
コーヒー、お茶等を飲んではいけない。

 

 

1884年にアメリカにてチャールズ・テイズ・ラッセルが創始。日本においては約21万人の伝道者が活動している。

 

1830年アメリカにてジョセフ・スミス・ジュニアが創始。日本における信者数は12万人。

 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新たな神の民の誕生」 ローマの信徒への手紙10章1節~17節  

2016-05-29 00:39:22 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第3主日    2016年5月29日)  午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

交読詩篇   29(神の子らよ、主に帰せよ)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節(新p.288)

説  教  「新たな神の民の誕生」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                        次週礼拝 6月5日(日) 午後5時~5時50分

                         聖書 ヨハネ第一の手紙2章22~29節

                         説教    「信仰の道」

                         賛美歌(21) 227 458 24 交読詩編 16篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節

  1兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

  5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして()べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

    本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは<兄弟たちよ>と、読者であるローマの信徒たち一同に対して呼びかけ、パウロは祖国を同じくするユダヤ人が救われることを心から願い、神に祈っていると伝えます。パウロは、ユダヤ人たちが<神に熱心であった>ことを認めています。この<神への熱心>とは、ユダヤ教とその律法への熱心です。パウロ自身もかつて律法に熱心でした(ガラテヤ1:12、フィリピ36)。しかし、その熱心は<正しい認識に基づくものではない>と言っています。それは神の義を正しく理解し、それにふさわしくうやまう態度をとらなかった、ということです。<神の義>を無視して、<自分の義>を建てることに熱心であって、<神の義>に従わなかったのです。

  <自分の義>は、人間が自分のした働きと功績によって、神に要求するメリット(わけまえ、報酬、手柄)としての義を獲得しようとすることであり、神に自分を正しい者として認めさせようとすることです。しかし人は律法を行う力がないこと、従って律法によっては義とされることは不可能なことを、パウロは繰り返し述べてきました。主イエスは、律法を守っていると自負しているユダヤ人に、山上の説教で「殺すな」という命令については、<腹を立てるな>、<ばか者>と言う者は火の地獄に投げ込まれると教え、「姦淫するな」という命令については、みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである、もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさいと教え、律法の戒めを完全に実行することの不可能なことを教えています。

   それに反して<神の義>は、神から人に恵みの賜物として与えられる義であり、神がつくり出す救いとしての義であり、神がその人を全く罪のない正しい人と認める赦しの恵みです。人はただこれを信じて受け入れるだけなのです。それはただ神の義の福音を聞いて信じ服従することによって与えられるものです。ところがユダヤ人はこのことを知らないで、自分の義を立てようとしました。これは自己主張であり、自己を誇ることであり、神への不服従なのです。

  人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。神は人を救うために御子をこの世に送られ、人の罪をイエス・キリストに負わせて、神の徹底的な審(さば)きと赦しの御業を行われました。ただキリストによる罪のつぐないの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。信仰とは、このイエス・キリストを信じることです。、私たちを罪なきものとしてくださる神の義を正しく知り、全存在をもって受け入れることです。そのとき、キリストは聖霊としてしっかり私たちの心のうちに住み、私たちの存在の中心になってくださるので、その聖霊の力を受けて良き業を行う者とされます。

   キリストは、「信じる者すべてに義をもたらすために」、<律法の目標>となられました。キリストを信じる信仰の道が開かれた今は、律法的努力は不必要となりました。キリストは律法に終止符を打たれたのです。神はイエス・キリストにおいて律法を<終わり>とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。神を愛し、人は互いに愛し合いなさい、ということが新しい律法となったのです。

  モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(5節)

   パウロは、レビ記185節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。

  人間は律法を完全に行うことはできません。6節から8節にかけては、申命記301114節の引用です。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」と結論していることをパウロは全く無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰による義(信仰義認)>の聖書証明としています。   

  申命記3011節以下は、ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。パウロにとって、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。

  心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたのです。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用なのです。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではありません。こう述べて、自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記3012の引用文でパウロは正したのです。

  また、<「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。 これはキリストを死人の中から引き上げることになります>という勧めも、申命記30・13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。

  御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。>これも申命記3014の引用の言葉です。この御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

  キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。

  パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。

  口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」9節)

   <口でイエスは主であると告に言い表し>とあるのは、原始教会における最も根本的な信仰告白です。この告白によって人々はキリスト者とされました。

  聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。(11)

  11節では、イザヤ書の2816にある「…信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、主を信じる者はだれも失望するようなことがない、と言っています。

  そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じがおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<>として用いることによって、神の民が拡大されました。さらに、ヨエル書3・5を引用し、13節では、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」としています。 

  「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

  これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。このように、<信仰はキリストの言葉、福音を聞くことによって始まる>は、パウロの基本的な福音理解の一つです。

  最初の信仰告白は「主イエス」、原典ではギリシャ語の<キュリオス イエスース>という二語が、初代教会の信徒の最も簡潔な信仰告白でした。《キュリオス》というのは全世界の主権者を意味し、イエスが復活して天に上げられ、神の右に座す方となられたことを言い表す称号でした。<主イエス>を信じ、告白する者は、ユダヤ人も異邦人も「すべて」、なんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神に義と認められます。律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかし、主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新たな神の民の誕生」 ローマの信徒への手紙10章1節~17節  

2016-05-29 00:30:10 | 説教

981-3302宮城県黒川郡富谷町三ノ関字坂ノ下120番地12 TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会

      週    報

年間標語 『日々聖霊を豊かに受けて神の栄光を表す人になろう。』

聖句「神は、わたしたしの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊を豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。」(テトスへの手紙3:6~7)

    聖霊降臨節第3主日    2016年5月29日)  午後5時~550

礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉 

讃美歌(21) 456(わが魂を愛するイェスよ)

交読詩篇   29(神の子らよ、主に帰せよ)  

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節(新p.288)

説  教  「新たな神の民の誕生」   辺見宗邦牧師

祈 祷

讃美歌(21) 517(神の民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

 

                        次週礼拝 6月5日(日) 午後5時~5時50分

                         聖書 ヨハネ第一の手紙2章22~29節

                         説教    「信仰の道」

                         賛美歌(21) 227 458 24 交読詩編 16篇

  本日の聖書 ローマの信徒への手紙10章1節~17節

  1兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。2わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。3なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。4キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。

  5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

 14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15遣わされないで、どうして()べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

    本日の説教

 異邦人に福音を伝えるために、キリストの使徒とされたパウロは、ローマの信徒たち一同に対して、<兄弟たちよ>と呼びかけ、パウロと祖国を同じくするユダヤ人が救われてことを心から願い、神に祈っていると伝えます。パウロは、ユダヤ人たちが<神に熱心に仕えている>ことを認めています。しかし、その熱心は<正しい認識に基づくものではない>と言っています。この熱心は、個人的な信心についてではなく、歴史におけるイスラエルの律法に対する態度を言っています。パウロにとって、この<正しい認識>とは、神の支配と権能を受け入れ、自らをその下でとらえることです。イスラエルの判断の誤りは、神の義に対する無知によるものです。神の支配としての<義>を無視して、己の義を建てようと苦心したからです。この己の義を建てようとする<自分の義>は、自分自身の努力で律法の要求を満たすことによって、自らを正しいものとしようとすることです。この努力そのものが、神の義に従うことにならないのです。神の義に従うことは、人間がつくり出す義によるのではなく、神がつくり出す救いとして義を信じて生きることにあります。パウロは、イエス・キリストによって人を救おうとする神の業が示されたのであり、イエス・キリストにおいて示された神の徹底的な審(さば)きと赦しの御業こそ神の義であり、この神の義に従うことが信仰なのです。信仰とは、イエス・キリストにおいて示されている神の義を正しく認識し、これを全存在をもって受け入れることです。そのとき、キリストはしっかり私たちの心のうちに入り、私たちの存在そのものの中心になってくださり、信仰は神の力を受けて業を生むのです。キリストは<信じる者すべてに義をもたらすために>律法に終止符を打たれたので、<キリストは律法の目標>であり、<成就>であり、神はイエス・キリストにおいて律法を<終わり>とされたのです。律法に代わってキリストの支配する新しい世界が始まっているのです。

 5モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。」(5節)

 パウロは、レビ記18章5節の「わたしの掟と法を守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」のことばを、本来の文脈における意味を無視して、<掟を守る人は掟によって生き>る、として引用しています。レビ記の言葉は、ユダヤ人の一般的な律法理解であり、律法の要求を満たすことによって神の救いを獲得することが目指されています。パウロは、この言葉に律法の要求が簡潔に示されていると理解して、このことばを<律法による義>についての聖書の証明としています。

 「6しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。8では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。」(6~8節)

 人間は律法を完全に行うことはできません。6節から8節にかけては、申命記30章11~14節の引用です。申命記には、「あなたは…それを行うことができる」と結論していることをパウロは全く無視して、律法のわざによらず、ただ信仰によって義とされるという<信仰による義(信仰義認)>の聖書証明としています。   

 申命記30章11節以下は、ユダヤ人が、神の言葉がいかに身近なものであって、それを実行することがいかに容易であるかを語る格言として親しんでいたものです。パウロにとって、旧約聖書の神の言葉の近さは、キリストによってまさに文字通り完全に実現したと認識したのです。

 <心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない>という勧めは、キリストがこの世に来たことによって、神と人、天と地との間に神の側からの橋がかけられたのである。人間の側から神への橋渡しをしようとするような<天に上る>試みは、不可能であり、また無用である。自分の力で<キリストを引き降ろ>すようなことはすべきではな

い。自分の業によって義を得ようとする律法主義者の誤りを、申命記30・12の引用文でパウロは正したのです。

 また、<「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。これはキリストを死人の中から引き上げることになります>という勧めも、申命記30・13の言葉を引用して「死にて葬られ、陰府(よみ)に下り、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり」たもうたキリストの救いの働きを無意味にするような、自分の業に頼ろうとする者の誤りを戒めています。

 <御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。>これも申命記30・14の引用の言葉です。この御言葉>とは、律法の戒めではなく、パウロが宣べ伝えている<信仰の言葉>であるとパウロは理解したのです。

  キリストは旧約においてすでに、契約の主、恵みの言葉として、その民の近くにおられたが、今やすでに世に来られて救いの働きを完成された方として、宣教の言葉を通して出会われる近くにおられる方です。これにこたえるのが信仰です。

  パウロは、律法を最大の関心事とする旧約聖書から、一方では律法の領域、他方では信仰の領域についての全く逆方向の証言を導き出すことに矛盾を感じてはいません。パウロは旧約聖書がその根本においてキリスト証言であることを示そうとしているのです。イスラエルは、この旧約聖書の根本性質を洞察できなかったために、キリストの救いを拒否してしまったのです。

 「9口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(9,10節)

  信仰の言葉は信仰告白を生み出します。これは、キリスト教の信仰告白につて語っています。<イエスは主である>と<死者の中からの復活>という教会の信仰告白と結び付けています。信仰告白は、告白する個人の主体的な決断にもとづくものですが、それは決して孤独な決意というものではなく、<公に言い表す>という集団の行為であり、継承された信仰です。

 「11聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。」(11節)

 11節では、イザヤ書の28・16にある「…信ずる者は慌てることはない」という言葉を用いて、信仰義認が主を信じるすべての者におよぶことが言われています。

 そして、12節で、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じがおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。」と語っています。旧約聖書の神の呼び名であった<主>を、今やキリストを意味する<>として用いることによって、神の民を拡大しています。さらに、ヨエル書3・5を引用し、13節では、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」としています。

 「14ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(14節)

  14節は、8節以降の教会の使徒的宣教を背景にしています。

  「15遣わされないで、どうして宣(の)べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。」(15節)

  15節の聖書証言はイザヤ書52章7節からなされています。が、ユダヤ教のラビ達はこれをメシア証言として受け取っていました。しかしここではその文脈から、イエスを指すのではなく、教会の宣教を意味すると考えられています。

「16しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。」(16節)

16節は、イスラエルの拒否を念頭に<すべての人が福音に従ったのではありません>と語られています。イザヤ書53章1節の引用です。この世の不信仰の事実を訴えています。<だれが>とはユダヤ人を指しているのでしょう。「すべての者へと開かれている福音が、それにかかわらず「すべての者が信じたわけではない」ということは、福音の側にではなく、受け取る側に、問題があることになります。

「17実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

 これは、ガラテヤ人への手紙3章2節に、「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」とあるように、律法の業に対して信仰の聞くことを鋭く対立させ、業によってではなく、信仰の聞くことから聖霊を受けると強調しています。このように、<信仰はキリストの言葉、福音を聞くことによって始まる>は、パウロの基本的な福音理解の一つです。

 最初の信仰告白は「主イエス」、<キュリオス イエスース>という二語でした。これこそ初代の信徒の最も簡潔な信仰告白でした。《キュリオス》というのは全世界の主権者を意味し、イエスが復活して天に上げられ、神の右に座す方となられたことを言い表す称号でした。<主イエス>を信じ、告白する者は、ユダヤ人も異邦人も「すべて」、なんのいさおし(功績や手柄)がなくても、神に義と認められます。<義と認められる>とは、神がその人を全く罪のない正しい人と認めるということです。人が神の前で義と認められる条件はただ一つ、主イエスへの単純な信仰です。

 律法はユダヤ人と異邦人を区別し、分離しました。しかし、主イエスを信じる信仰には、ユダヤ人とギリシャ人との差別はありません。ここに信仰の世界性があります。ここに、新たな神の民が誕生したのです。主イエスは万民の主であり、呼び求める者に、はかり知り得ない富、すなわち恵みと生命と救いとが充満している豊かな富にあずからせてくださるのです

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする