塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

価格、それややはり大事な要素

2016-09-30 00:47:48 | 日記
 自分でも不思議なのですが、映画に関心を抱いたころ、ルキノ・ヴィスコンティの作品「ヴェニスに死す」が名画であることを認識していました。

 当時はVHSで購入し鑑賞したのですが、世間一般で語られるような感銘は抱かなかったと記憶しています。

 アウシェンバッハが思い描く

 「芸術とは我々芸儒家が生み出したもの」
 「その概念を先天的な美貌で眼前に現れた少年」

 という作者トマス・マンの訴えがわからない形だったのでしょう。

 サッカーでいえば、グアルディオラ時代のバルセロナを見たような、監督がサッカーに美しさをもたらすのか、それともペレやガリンシャのような名手の想像力にゆだねるのか。

 という形かもしれません。

 サッカーではレプリカジャージが高いという方のために

 「レプリカTシャツ」

 がありますよね。

 DVDやブルーレイも近年非常に買いやすい価格になりましたが、なぜかヴィスコンティの作品は値が張るものが多いのです。

 ヴェニスに死すを昨日DVDで買い直したのはよいのですが、以前所有していた

 「地獄に堕ちた勇者ども」

 がなかなか見つかりません。

 他にも「山猫」「リードヴィヒ」など、どれも素晴らしいと讃えられる作品が多いのですが、これらこそ幅広い方に見てもらうような価格になってもらえると助かります。

 ちなみに映画ソフトを本格的に買い求めたとき、偶然にも手に取ったのがVHSの

 「地下室のメロディ」

 でした。

 これもも手放したのですが、惜しい事をしたと思っています。
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ムーランルージュにみる、マリーシアの手本

2016-09-30 00:35:31 | 日記
 バズ・ラーマンが指揮を執った映画「ムーランルージュ」では支配人役としてジドラーという人物が現れます。

 当初はアクの強い人物として描かれていますが、物語が進むにつれて冷静であり、冷酷であり、同時に起点が聞く人物であることがわかります。

 主人公クリスチャンと恋に落ちる娼婦のサティーンとの間に割って入る、ムーランルージュのパトロンである公爵。

 この公爵を巧みになだめ、従う素振りを見せながら生きてゆくジドラーはサッカーでいえば

 「ブラジルやアルゼンチンの選手たち」

 のように思えます。

 我々は通常

 「ルールは尊重すべき」

 と考えますから、赤信号で渡る気配すらないのは当然なのですが、過去トルシエがこの点を指摘していたものです。

 欧州は南米の選手たちは

 「審判の笛の傾向を知るために、わざと序盤にきついタックルを浴びせる」
 「相手と同じことをするのが、ルールの範囲内での戦い方」

 と考えます。

 もしかすると彼らは、日本人は

 「ミスを申告するのは、自分の評価を自分で落としている」
 「すぐに頭を下げているひ弱な形」

 と感じているかもしれません。
 
 ムーランルージュは以前鑑賞経験があり、もう一度見直したわけですが、新しい発見がそこにはありました。
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