ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



神さまって、1人のはずでしょ。だったら、イエスさまが信じた神がほんとの神さまなら、ほかの宗教で信じてる神さまって、偽物じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「神が一つであるかどうか。一人であるかどうか。唯一の神であるかどうか」という問題があります。
 神が唯一であるならば、自分のところに降りた神が本物であれば、ほかのところに降りる神は本物ではない、ということになります。たとえば、古代のユダヤ人のところに降りた神が本物であるならば、アラブのほうに降りた神は本物のはずがない。あるいは、イランのほうに出た神が本物のはずがない。日本や中国やエジプトに降りた神が本物のはずはない。「神は一つであり、自分たちの民族だけのものである」と考えると、他のものは全部間違いということになります。これも歴史上、人類の大きな憎しみと闘争を生んだ考え方です。
 一つの宗教が起きる時に、そのなかで中心的な指導霊となる、神格を持った魂が一人であることは、確かによくあることです。特定の人が中心的に指導していることがあります。ですから、「私の教えにもとづいて行動しなさい」と言うことはあります。
 しかし、それは、その人以外に他の神がいない、ということを意味してはいません。ほかにもいるのです。人類がこれだけの人口を持っているところから見てもわかるように、多くの神がいなければ、大勢の人たちを幸福にすることはできないのです。数多くの方がたがいて、役割分担をしているのです。そして、それを取りまとめている人たちもいます。
 そのようになっていて、その時代において、その地域において、誰が担当してその宗教を起こすか、ということが決まることがありますが、それは同時に、他の地域、他の国、他の民族に出た神が偽物であったということではないのです。(中略)
 その時に熱心に指導した神が、「自分のみを神とせよ」と言い、あるいは、邪教を信じている人に対して、そう言ったことはあるかもしれません。しかし、それは、「自分以外の神の存在を許さない」という意味ではなかったわけです。
 もし、ほんとうに間違った宗教を信じている人がいたら、「その邪神を崇めるのはやめなさい。われのみを信ぜよ」と言うことは、方便としてはもちろん正しいことではあります。しかし、その教えが「他の宗教は全部間違いである」「他の神がすべて間違いである」というなら、これは大変な混乱を生みます。(中略)
 ですから、一神教といっても、ほんとうの一神ではないのです。たとえ主たる担当者が一つの霊存在であるとしても、指導霊はその霊だけではありません。
(198~202ページ)

神が唯一であり、自分のところに降りた神が本物であれば、ほかのところに降りる神は本物でないことになり、この考え方が歴史上、大きな憎しみと闘争を生んできた。

しかし、人類の人口の多さからは、多くの神がいなければ人々を幸福にできないため、数多くの神が地域や国、民族ごとに役割分担しており、それを取りまとめている神々もいる。

一神教といっても、ほんとうの一神ではなく、たとえ主たる担当者が一つの霊存在だとしても、指導霊はその霊だけではない──。

大川隆法先生がここで、「中心的な指導霊となる、神格を持った魂」と説明されているのが、それぞれの宗教の「神さま」なんであって、神さまというのは世界中にたくさんいるってこと。

そして、その神さまにも実はレベルの違いがあったりして、この大宇宙を創った根本神(根本仏)というのは、その「神格を持った魂」の中でも最高レベルの高次な存在としてある。

普通に宗教で「神さま」というときは、そんな高いレベルの存在ではなくって、もっと人間に近い、個性をもった指導霊を「神さま」として呼んでいる、と理解すればいいんですよね。

なーんだ、「一神教」と「多神教」の対立、みたいに言われる問題は、実は人間の側の認識のレベルの違いにすぎなかったことが、改めて腑において理解できた気が私はしているのです。

 

宗教選択の時代ーネオ・ジャパニーズ・ドリームへの胎動 (OR books) 『宗教選択の時代』

 大川隆法著

 

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妻子ある男性が好きになってしまったんだ。男性の浮気のことはよく分からないけど、女性の不倫って、別にいいんじゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、無限〔新装版〕──偉大なる信仰の力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 夫婦間の貞操の義務は昔から言われていることです。今では古いことと思われているかもしれませんが、夫婦が貞操の義務を持っているのは、「生まれてくる前に結婚の相手を決めている」というところに原点があります。
 要するに、「自分が約束した相手ではない人、つまり、他人の妻になる予定の人、あるいは、他人の夫になる予定の人に恋いこがれて、道を踏み外してはいけない」「他の人と理想的な家庭を持つべく予定されている人、つまり、自分が約束した相手ではない人と深い関係になってはいけない」という倫理的要求があるのです。(中略)
 もう一つ、数十年間、一緒に夫婦生活をしていこうとするならば、「お互いに裏切らない。誠実である」ということが、その基礎になるのです。(中略)
 愛情を裏切られたときのダメージは、なかなか大きなものがあります。(中略)相手の魂そのもの、奥深いところにまで影響を与え、回復できなくさせてしまいます。(中略)
 結局、「妻ある男性が妻以外の女性に心を寄せて、その女性と深い関係になる」ということ自体が問題というよりも、「本来、自分が愛すべき人を、深く傷つけてしまう」ということが、仏法真理に反することなのです。夫ある女性の場合も同様です。
(41~46ページ)

夫婦が貞操の義務を持っているのは、生まれてくる前に結婚の相手を決めているというところに原点がある。

また、数十年間、一緒に夫婦生活をしていこうとすれば、お互いに裏切らない、誠実であることが、その基礎になる。

つまり、本来、自分が愛すべき人を深く傷つけてしまうこと自体が、仏法真理に反することであって、これは夫ある女性の場合も同様である──。

いやあ、そうなんですね。

不倫小説って、けっこうベストセラーになったりして、これはこれでいいのかなあとか思ったりしてたんだけど。

今はまだ独身の女性でも、生まれてくる前に決めている相手がいるんじゃないかということを、忘れてはいけないんですね。

逆に男性の方も、他の人と理想的な家庭を持つべく予定されている女性と、気軽に遊んでしまったりしてはいけない。

それ以上に、本来、自分が愛すべき大事な女性を、そんな遊びで深く傷つけてしまってはいけない。

つまり、これは義務、だったんですね!

一見古風に感じられるかもしれないけれども、こういう霊的な視点の大切さを、改めて深く知った気が私はしているのです。

 

愛、無限 〔新装版〕―偉大なる信仰の力― (OR books) 『愛、無限〔新装版〕
  ──偉大なる信仰の力』

  大川隆法著

 

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信仰してるって、ヘンなのかな、学校でも職場でも、信仰の話なんてできる雰囲気じゃないし、自分だけ人と違ってるのって、おかしいのかなあ? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『限りなく優しくあれ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、仏法真理の話を聴いたときには 「なるほど」と思っても、家や職場に帰って周りの人たちの言葉を聞くと、自分が特殊な人間であるかのような気持ちになり、不思議な感慨に打たれることがあるでしょう。周りには、仏神や霊の存在を軽々しく否定し、享楽のみの人生を生きている人が、あまりにも多すぎるのです。
 しかし、周りの人たちが病気にかかっているからといって、みなさんも病気にかからねばならない理由はありません。周りの人たちが心の病にかかっているからといって、みなさんも心の病にかからねばならない必然性はないのです。
 現代においては、唯物主義という〝伝染病″が流行っています。これは心の病です。この病にかかると、永遠の生命に陰りができます。本来の自己の存在を否定するようなことになるからです。
 すなわち、霊的なる真実を言えば、「人間は仏の子であり、霊的存在である」ということを否定するのは、自殺行為以外の何ものでもないのです。
 みなさんは、自殺する人を「素晴らしい」と思うでしょうか。そういう人の仲間に加わりたいと思い、「君が自殺するなら、自分も自殺する」と言うでしょうか。そんなことはないでしょう。
 最も大切なものを捨て去り、己の真実の命を土くれか何かにしようとする思想に賛同する人たちの言葉に、迷ってはなりません。
 彼らの心は病んでいます。病んでいる人たちに正しき生き方を教え、「健康で健全な人間の魂のあり方とは、いかなるものであるか」ということを教えることこそ、病んでいない正常な人間の仕事ではないでしょうか。
 みなさんは、どちらが病んでいるかをはっきりと自覚し、自信を持たなくてはなりません。みずからが、考えにおいて健全であること、人間が自然に持つべき考えを持っていること、よき思想、よき心情を持っていることを、誇りに思わなくてはなりません。
(22~24ページ)

仏神や霊の存在を軽々しく否定し、享楽のみの人生を生きている人が、あまりにも多すぎるが、それは唯物主義という〝伝染病″、つまり心の病にかかっているにすぎない。

しかし、周りが病気にかかっているからといって、自分も病気にかからねばならない理由も必然性もない。

どちらが病んでいるかをはっきりと自覚して自信を持ち、自らが考えにおいて健全であること、人間が自然に持つべき考えを持っていること、よき思想、よき心情を持っていることを、誇りに思わなくてはならない──。

大川隆法先生は、信仰を持っていることこそ、人間として健全であり、健康であるのだと教えて下さっています。

そして、このことに確信をもっていいのだ、ということなんだと思います。

こんなふうに、力強い言霊で励ましていただけることのありがたさ。

仏陀であり、主エル・カンターレであられるからこそ、この霊的真実の正しさを全面的に保証して下さることのありがたさ。

また、そのお方と同じ時代に、同時進行で修行させていただいていることのありがたさ。

本当に心から感謝するほかありません。

改めて今日は、一日も早く、世間に蔓延している間違った唯物主義の考え方を変えてもらえるように、さらに努力を重ねていくことを、強く強く決意しているのです。

 

限りなく優しくあれー愛の大河の中で (OR books) 『限りなく優しくあれ』

 大川隆法著

 

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去年までと違って、なんだか最近、何やってもうまく行かないんだよね。「さんりんぼう」とか「天中殺」なんて聞いたりするけど、やっぱり人生って、なにか周期があるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛の原点―優しさの美学とは何か―』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人生の循環は、大自然の循環や経済法則における循環とは必ずしも一致しません。個人個人によって、その循環の波が違っています。それは結局、その人の魂の器によっても違っているのです。
 魂の器として、異常な変化が欲せられている魂があります。(中略)また、魂がそれほどまでに荒々しさを求めていない場合、すなわち、大きな改革ではなくて平和を求める傾向を持つ魂である場合には、もちろん、その循環の速度がゆっくりとしたものになってきます。(中略)それぞれ、魂の求めているものが違うと考えてよいでしょう。(中略)
 いずれにせよ、大切なことは、みずからの魂がどういう周期でもって生きているかということを見、そして、魂の強く出てくる面、また弱っていく周期、それを見て上手に乗り切っていくことです。
 その循環の法のなかを生きるときに大切なことは、次の二つのポイントを押さえることだと思います。
 一つは、自分が衰退期あるいは準備期にあるときには、内なる蓄積を積む、これに徹するということです。放電を少なくし、充電を多くする、蓄積を多くするということです。
 もう一つは、活躍期、放電すべきときが来たならば、どんどんとそれを出して、大いに、縦横無尽に働いていくということです。こうしたことが大事です。その際に、(中略)「繁栄期にはすでに衰退の芽がある」ということを忘れず、次なる蓄積を開始しておくことです。
 このように、循環型、サイクル型の人生計画を持っていると、多くの場合、大きな失敗はないのです。(中略)
 単調な、単線的な発展のみを、発展と呼んではなりません。四十五度の角度でもって一直線に伸びていく発展のみをもって、発展としてはなりません。やはり、「発展のなかには、螺旋(らせん)階段状の発展もある」ということを考えねばなりません。一時期、後退したように見えても、それが次なる準備であるということもあるのです。
(114~118ページ)

人生の循環の波は人によって違っているが、大切なのは、みずからの魂の周期を見て、上手に乗り切っていくことである。

そのとき大切なポイントは、衰退期(準備期)には内なる蓄積を積むことに徹し、活躍期(放電期)が来たら大いに縦横無尽に働いていくことだが、繁栄期にはすでに衰退の芽があることを忘れず、次なる蓄積を開始しておくこと。

一時期、後退したように見えても、それが次なる準備であるのであって、「発展には、螺旋階段状の発展もある」ことを考えることである──。

大川隆法先生は、人生には周期があることを真正面から肯定されます。

そのうえで、それを乗り切る方法を教えてくださっています。

自分の人生がいま衰退期(準備期)にあるのか、活躍期(放電期)にあるのかを見極め、それに応じた対応をするというところまでは、人生経験が浅い私にもよく分かる気がします。

ただ、その際に、次のサイクルの蓄積にまで目を配ることを教えられつつ、「発展には、螺旋階段状の発展もある」ことまで教えてくださっているわけです。

なるほどと目が開かれる「叡知」に満ちたお教えであるし、また、とても勇気が出てくるお教えでもあるなあと、改めて私は感じ入っているのです。

 

愛の原点 ―優しさの美学とは何か― (OR books) 『愛の原点―優しさの美学とは何か―』

 大川隆法著

 

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見返りを求めてたら本当の愛じゃない、っていうような記事がちょっと前にあったけど、なんで、見返りを求めちゃいけないの? って思ってる人、いませんか? ここは大事なところなんで、少し重なるかもしれないけど、もう少し書いてみます。

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福の科学の本には、「与える愛とは無償の愛の別名である。ただ与えることに意味がある。見返りを求めたときに愛は死ぬ」とよく書いてあります。
 この「見返りを求めたときに愛は死ぬ」という言葉は、詩的な言葉というか、言葉自体の響きのために語られているものではありません。これは真実なのです。何かよいことをしたとしても、同じだけの結果、あるいは、それ以上の結果を期待してなされたときには、その行為は必ず帳消しになるのです。
 そして、なぜ「見返りを求めるな」と言っているかといえば、与えた愛はその人のものになるからです。これが人間の心を貫く偉大な法則です。生きているうちに、このことだけでも知っておくことが大事です。「与えた愛は、与えた人のものになる」──これが目に見えない世界の法則なのです。
 みなさんは偉大な人物についての話を数多く読んでいるでしょう。そうした人びとがなぜ偉大なのかといえば、見返りを求めずに多くのものを与えたからです。その結果、与えたものがその人のものになったのです。
 これは、仏光物理学という霊界の物理法則にもとづいて述べると、光がそれだけ増えるということです。
 「あの人のために」という純粋な思いや行為においては、その思いや行為を発した瞬間、霊的に見ると、その人の頭に後光(オーラ)がパッとさしています。その後光は、与えられたもの、天上界から投げかけられたものです。自分の目には見えないかもしれませんが、霊的には確かに光が出ているのです。
 その証拠に、心から他の人を喜ばせることをしたときには、身体が熱くなるでしょう。相手ばかりでなく自分も温かくなります。真冬であってもポッと温かい気持ちになります。それが実は光が出ていることの証明なのです。
 霊視ができると、鏡を見てもその光がはっきり見えます。よいことを思えば、頭のうしろに後光がパッと出ます。他の人びとへの愛の思いに満ちたならば、与えることを考えているのに、むしろ与えられているのです。
 これは、仏がなぜ人間を創ったかということと、きわめて深く関係しています。
 当会では「人間は仏の子である」と説いていますが、それは仏と同じ本質を内在しているということです。同じ本質とは何でしょうか。仏にはいろいろな要素がありますが、いちばんの要素は「与える愛」です。
 したがって、仏の子である人間が、その本来の姿に最も近いのは、愛を与えんとしているときなのです。そのとき、人間は自分を真に仏の子として認識することができ、また、「あなたがたは仏の子なのだ」ということを証明するかのごとく、光が与えられ、パッと輝くのです。
(38~40ページ)

「与えた愛は、与えた人のものになる」──。

でも、これは結果なんであって、これを目的に愛を与えようとしてしまったら、結局、見返りを求めたことになって、その愛は死んでしまうんですね。

頭だけで考えようとするとむずかしいんだけど、以前の映画『永遠の法』に、五次元善人界の住人に、次々にポッと後光が射しているシーンがあったと思います。

たとえば誰かのためにプレゼントを選んでるときというのは、ポッと身体が熱くなって温かくなって、とても幸福な気持ちになる。

これはやってみれば、ほんとに実感ですよね。

幸福の科学の人が、熱心にボランティアをしたり、伝道したりするのは、この有無を言わせない「実感」が、ほんとにあるからだと私は思っているのです。

 

人を愛し、人を生かし、人を許せ。―豊かな人生のために (OR books) 『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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信仰の道に入ったら、異性には手を触れちゃいけないの? 異性を経験したら、宗教者として生きていけないの? 結婚してないのに自由に付き合ってたら、堕地獄の罪なの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『新・心の探究』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 やはりできれば、現代では、夫婦単位で一つの信仰を持っていく方向に行くのがいいと思うし、あるいは恋人であっても、同一神理を信じている者どうしのお交際(つきあ)いというものは、これはいいのではないか。なるべく同心の者どうしが、共通の人生観をわかち合う者どうしが、苦楽を共にしていくのがいいのではないか。そういうふうに感じるわけです。
 したがって性的なものも、もちろん極端な行き方について賛成はできるわけではありませんけれども、極端に潔癖症に陥るのもまた不自由。中道にこそ入るという表現は適切ではありませんけれども、要するに、神理なら神理、人生観なら人生観という一つの目的を共有する者どうしが自分達を解放し、愛し合い、幸福にし、豊かにしていくために、異性との接触を持つこと自体は罪でも悪でもない、こういうふうに思います。要するに、肉体の奴隷となってしまわないことです。また、がんじがらめの堅物にもなってしまわないことです。まあそういうふうに、人間というものは、できるだけいい目的を持ってその達成を促進するという面があるなら、その手段に関しては、合理的と思える範囲で許容していくというのが一つの方向ではないだろうか。(中略)
 こういうふうに、ある程度の枠を設けながら、自由にしていくことが現代的にはいいのではないかと思います。
(75~77ページ)

できれば、夫婦単位で一つの信仰を持っていく方向に行くのがよいし、恋人も、同じ信仰を持った者どうしの交際がいいのではないか。

性的なものも、極端な行き方に賛成はできないが、極端な潔癖症もまた不自由なので、要は肉体の奴隷となってしまわないことである。

ある程度の枠を設けながら、自由にしていくことが現代的にはよいのではないか──。

肉体の欲望に溺れてしまわず、逆にがんじがらめの堅物にもなってしまわないこと、ということでしょうか。

最初期のころの御法話なので、大川隆法先生は、できるだけ難しくならないように説いて下さってます。

これを改めて仏教的な言葉で理解し直すならば、要は、異性との関係も両極端ではない「中道」が求められる、ということなんだと思います。

そして、同じ信仰を持った者どうしでつきあい、いずれは夫婦となっていき、人生の苦楽を共にしていくのがよい、という指針を示してくださったのだと私は思っているのです。

 

新・心の探究 ―神の子人間の本質を探る― 『新・心の探究』

大川隆法著

 

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みんなお祈りって、やってる? 一度、「正しい祈りのしかた」については書いたんだけど、逆に、正しくない祈りをした場合、誰にも届かないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学の十大原理〔下巻〕──エル・カンターレ「救世の悲願」』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 祈りというのは一つのエネルギーの法則です。
 それゆえに、その祈りが、真に神のもとへと通じたものでなくとも、かたちだけ似ていれば、それをどこかで聞いている者もいます。それが、私たちが魔界と呼んでいる世界の者たちです。(中略)
 間違った祈りが、いかに、この魔界、あるいは地獄界ともいわれる世界のエネルギー源となっているかということを、私はみなさんに訴えておきたいのです。そこは、たいへん見るも無残な世界でありますが、彼らもまた、一つのエネルギーの法則のもとに生きています。
 地獄界というところは、大いなる想念の曇りによって、霊太陽の光が射さなくなっているのです。この霊太陽の光が射さないところで、彼らがどのようにして生きているか、みなさんはご存じでしょうか。
 天上界の諸霊たちは、霊太陽から直接のエネルギーを引いて生きています。しかしながら、地獄界にいる人たちは、霊太陽のエネルギーを引くことはできません。彼らの活動エネルギーは、まさしく、地上の人間たちの発する悪想念であるのです。その悪想念のなかには、自分によかれと思っているものがあり、そうした「思いにおける間違い」の大部分が地獄に行っているのです。
(321~322ページ)

祈りというのは一つのエネルギー法則である。

それゆえ、その祈りがかたちだけ似ていれば、魔界、地獄界の者たちが聞いている。

彼らの活動エネルギーは、そんなまちがった思いで地上の人間たちが発する悪想念である──。

つまり、今日のお教えによれば、間違った祈りは、地獄霊を増大させる困った行為であるわけです。

そしてそれは、地獄霊の憑依を招いて、不幸の原因にもなってしまう行為でもあることになります。

せっかくお祈りするんだったら、自分が幸福になれる正しいお祈りをしたほうがいいにきまってます。

そして多くの人による日々の積み重ねが、いずれは地獄をなくしていくことにもつながっていくのだと私は思っているのです。

 

幸福の科学の十大原理(下巻) ーエル・カンターレ「救世の悲願」ー (OR BOOKS) 『幸福の科学の十大原理〔下巻〕
 ──エル・カンターレ「救世の悲願」ユートピアの原理』

 大川隆法著

 

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あーあ、もう若くはないのよね。トシとるの、いやだなあ。ほんとにいやだなあ。なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 老いてゆくということに抗しうる人はいません。どのような身分の人でも、どのような大金持ちでも、どのような学歴の人でも、等しく人は老い、等しく人は死んでゆくわけです。(中略)世とはこのように、まことに無常に満ち溢れているものなのです。
 しかし、それを嘆くのは、必ずしも正しいことではありません。「無常こそが原則なのだ」ということを、まず考えることです。無常が原則なのです。無常なるものを、無常ならざるものとしてこの世的に追い求めようとしているところに無理があり、執着が起きるのです。
 無常であると考えることは、不幸ではないか、苦しみではないか、悲しみではないか。そう憤慨し、抵抗する方もいるかもしれません。ただ、その考えにこだわっても、何ら生産性はないと私は思うのです。無常こそが本則なのです。変化してゆくものなのです。常なるものは何一つないのです。それこそが本筋であるのです。(中略)
 しかし、「観の転回」と言いますか、ものの見方、考え方をまったく変えてみると、無常の考え方も幸福論をその基礎として持っているものであると言えます。(中略)
「この世の生命は仮の宿りなのだ。私たちは一時期の旅人にしか過ぎないのだ。ある国から遥かなる旅に出て、数十年、夢のような生活を送って、そしてまた還ってゆくのだ」と思ったときに、あれほど喉から手が出るほど欲しかったものが、実は虚しいものであったと知り、そこにひとときの幸福なる瞬間が現われてくるのです。(中略)
 このように、執着を去ることは、一つの心地よい快感でもあるということを知っていただきたいのです。あの世の実在界の視点から、この世の自分の生活を見つめ直す──すべては、そこから始まると思うのです。
(61~73ページ)

老いてゆくことに抗しうる人はいないのであって、この世はまことに無常に満ち溢れている。

この無常こそが原則であるのに、無常なるものを無常ならざるものとして追い求めようとしているところに無理があり、執着が起きる。

しかし、ものの見方、考え方をまったく変えて、あの世の視点から、この世の自分の生活を見つめ直し、執着を去ることは、一つの心地よい快感でもある──。

トシをとることを止めることはできず、若さは取り戻せません。

人は必ず老いていくものだということです。

ここで「あの世の視点」と言われているのは、この世というのは、ひとときの宿りでしかない、あの世こそが、ほんとうの世界だったのだ、という視点のことだと思います。

そうした視点で見ることで、この「老いの苦しみ」を解決していく入口に立つことができる、と今日は教えて下さっているのだと思います。

これは詰まるところ、「霊的人生観」を持てということでもあって、これこそが大事な大事なキーポイントの一つであるのだと、私は思っているのです。

 

宗教の挑戦 ―ミラクルの風― 『宗教の挑戦』

   大川隆法著

 

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今日は、2024年7月7日。何の日かご存じですか? え、七夕? 都知事選の投票日? うんうん、もちろんそうなんだけど。

幸福の科学の大川隆法先生は、『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(5)』(幸福の科学出版)に収められた1990年第7回大講演会「勝利の宣言」で、次のように説いておられます。

 私は昭和三十一年の七月七日、朝、潮満つるころ、七時ごろに生まれました。その数字の示すとおり、「777」という数字が並びます。これは偶然ではありません。それは意味があって並んだ数字であるのです。
 
「7」という数字は、天上界において、これは「勝利」を意味する数字であるのです。これは一つには勝利を意味し、もう一つには「完成」を意味する数字であります。
(21ページ)

そう、今日7月7日は、大川隆法先生が生まれられた日。

2500年前には、インドで仏陀(ぶっだ、お釈迦様)として生まれられ、4000年前には、ギリシャでヘルメスとして生まれられた大川隆法先生が、この日本の地で、再び生まれられた記念日です。

幸福の科学では、全世界の精舎や支部で、この7月7日を中心とする数日間を、毎年、「御生誕祭」として、大々的にお祝いしています。

今年は、本日午後、「別格本山・聖地エル・カンターレ生誕館」を本会場にして、全世界を同時中継で結んだ記念式典が開催されました。

この大川隆法先生が生誕された記念日を、いずれは世界中の記念日としてお祝いしたいものだと、強く強く私は願っているのです。

 

大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション5 ー勝利の宣言ー (OR BOOKS) 『大川隆法 初期重要講演集 ベストセレクション(5)』

 大川隆法著

 

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守護・指導霊なんて、ほんとにいるの? ほんとにいるのなら、こんな大きな問題で苦しんでるのに、なんで助けてくれないの? なーんて疑問もってる人、いませんか。

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学原論①』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 守護・指導霊が助けない場合に、二通りあります。ひとつはその苦しみが、本当にその人にとってどうしても通らねばならない過程であるときです。そういう人生計画で出ている方もいるので、その場合に助けるわけにはいかないのです。悲しいけれど見ているだけです。それは、助けたらランニングの途中で背負って走ったのと同じことになってしまうので許されないのです。
 もうひとつの場合は、神への感謝を忘れていないか、守護・指導霊への感謝を忘れていないか、人の心を本当にまともに受け取っているかどうか、一人相撲をしていないか、自分で勝手にいろいろなことをあてはめて考えすぎていないか、そのようなことを感じる必要のあるときです。
 能力があっても運命が開けない理由は、たいていこの素直さの欠如にあります。これほど能力が高いのに、なぜこの人が出世しないのかとか、この人が商売繁盛しないのだろうかと思うと、たいてい欠けているのがこの素直さです。
(58~59ページ)

守護・指導霊が助けない場合のひとつは、その苦しみが、その人にとってどうしても通らねばならない過程のときである。

もうひとつの場合は、神への感謝を忘れていないか、守護・指導霊への感謝を忘れていないか等を感じる必要があるときである。

能力があっても運命が開けない理由は、たいてい素直さの欠如にある──。

いや、胸をつかれるお言葉です。

その人の人生のシナリオだから、しょうがなく助けてくれないこともある。

それ以外にも、感謝の心がないから、天上界から助けられなくて、守護・指導霊も困っていることがあるってことですよね。

自我力になっていなかったか。

素直であったか。

感謝の心を忘れてなかったか・・・。

今日のお教えを受けて、改めて深く深く私は反省しているのです。

 

『幸福の科学原論①』

 大川隆法著

 

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起業したいんだけど、理屈だけ書いた本を勉強しても、実際には役に立たないよね。もっと実戦的な参考書って、ないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『実戦起業法』――「成功すべくして成功する起業」を目指して(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。

 若い人が、独立・起業して大企業を目指すための、段階的に発展する組織のつくり方を指南した本である。もちろん学問的にも、経済学や経営学もそうとう勉強した上、実戦で鍛えられて書いてあるものだ。この点、単なる「直感」だけに頼ったものではない。しかし、また、知識と経験に裏づけられた智慧を身につけた者の「直観」を否定するものでもない。
 私の仕事法は、時間の活かし方を常に考えつつ、手ばやく速断即決し、手持ち仕事を減らし、多様な業務を統括することである。また、年二百回近い説法をこなし、百数十冊(対内ものを含めると三百数十冊になることもある)の本を出すこともある。「成功すべくして成功する」秘訣は、時間管理術、勤勉な習慣、一日の仕事は一日で終える決意の中にある。本書が未来の大鷲たちの参考になれば幸いである。
(148~149ページ)

独立・起業して大企業を目指すための、段階的に発展する組織のつくり方を指南した本である。

経済学や経営学もそうとう勉強した上、実戦で鍛えられて書いてあるものだ。

「成功すべくして成功する」秘訣は、時間管理術、勤勉な習慣、一日の仕事は一日で終える決意の中にある──。

こんなに手軽な本の形で、こんなにも重要な、そして価値が高い教えを、いただいてしまってもいいものなんでしょうか。

そして、こんな大切な教えが書かれた本であることを、ここで簡単に紹介してしまっても、いいものなんでしょうか。

率直にちょっともったいないなあと考えてしまう、そんな快著であると私は思っているのです。
 

『実戦起業法』

 大川隆法著

 

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霊界って何なの? どこにあるの? 空の上の方にあるんだったら、どうして飛行機がぶつからないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊界と言ってももちろんいろいろありますが、大きな意味で言うならば、この地上世界を去った世界のこと、すなわち、私たちの肉体が死したあと、私たちの魂とも言うべきものが赴くところということになりましょう。
 ただ、ここでだいじなことは、どうか、目に見えぬ雲の上の世界とか、そういうところに霊界があるように思ってほしくないということなのです。じつは、私たちが生きているこの同じ空間のなかに、霊界もまた存在するのだと知っていただきたいのです。
 もちろん、霊界についての説明をいろいろ読むと、それが何段階にも分かれていて、上下の差があるように言われています。その意味においては、高級霊界と言われるところが、地上何千メートルとか、何万メートルのところにある感じだと言われておりますが、あくまでもそれは、地上にいる私たちがわかるような範囲で説明し、比喩をすればそのようになるということであって、じつは霊界の霊界たるゆえんは、この物質世界と共存しているというところに意味があるのです。ですから、遥かなるかなたにあるものではなくて、私たちが住んでいる世界に、同時にそうした世界があるというふうに考えていただきたいのです。
 それはちょうど、私たちのこの世界に、目に見えない電波が飛び交っているのとよく似ています。たとえば、テレビを置いてそのチャンネルを回せば、一チャンネルから十二チャンネルまでいろんな映像が映りますが、これと同じように、その映像相応の電波が空間を、またこの地上を飛び交っているのです。同じように霊界というのも、言ってみればそうした電波や電磁波の波長のようなものであって、波長が違い、周波数が違うから違う世界を創っているだけであって、実際はまったく別なところにあるわけではないのです。つまり、テレビのチャンネルのように、その波長を受信する装置があれば、あるときは地獄界という世界が映り、あるときは霊界となり、あるときは高級霊界という景色が映るということになりましょう。
(34~36ページ)

霊界は、目に見えぬ雲の上の世界にあるわけではない。

たとえて言えば、テレビのチャンネルごとにいろんな映像が映るのと同じように、波長が違い周波数が違うから、違う世界を創っているだけで、まったく別なところにあるわけではない。

じつは、私たちが生きているこの同じ空間のなかに、霊界は存在する──。

「波長」という言葉は、大川隆法先生のお教えの中で、よく登場します。
 
映画『永遠の法』では、あの世の世界(霊界)がものすごくリアルに描かれていましたが、それを言葉で説明すると、じつはこんなふうな理論になるってことなんですね。
 
今日のお教えで、霊界の秘密が、よりよく分かるようになった気が私はしているのです。
 
 
幸福の科学とは何か ―初歩からの仏法真理― (OR books) 『幸福の科学とは何か』

 大川隆法著

 

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こんなに彼氏を愛してるのに、夫を愛してるのに。なんで彼氏は、夫は、同じように愛してくれないの? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 たとえば、あなたが結婚している女性だとしましょう。あなたは「私は夫を愛している。一生懸命に愛を注いできた」と思っているでしょうが、その愛は、私が語っている愛と一致しているかを考えてみると、違うところもあるのではないでしょうか。
 あなたは「これだけ夫に尽くしたならば、当然、それだけの見返りが来るはずだ」と考えてはいませんでしたか。
 あるいは、「与える愛」だと思いつつ、相手を縛ってはいませんでしたか。愛という名の言葉で、相手の行動や思いに枠をかけていただけではありませんか。
 この二つの観点から見たとき、あなたの愛に問題はないでしょうか。これは、言われてみないと分からないことなのです。(中略)
 「もっと純粋に相手のことを考えて、愛を発揮したことがあるだろうか」と考えていくと、「愛を与える」という、幸福の科学の原点となる考え方であっても、きわめて難しいことが分かると思います。実際、それは難しいことなのです。そう簡単なことではありません。(中略)
 「見返りを求めたときに愛は死ぬ」という言葉は、詩的な言葉というか、言葉自体の響きのために語られているものではありません。これは真実なのです。何かよいことをしたとしても、同じだけの結果、あるいは、それ以上の結果を期待してなされたときには、その行為は必ず帳消しになるのです。
 そして、なぜ「見返りを求めるな」と言っているかといえば、与えた愛はその人のものになるからです。これが人間の心を貫く偉大な法則です。生きているうちに、このことだけでも知っておくことが大事です。「与えた愛は、与えた人のものになる」──これが目に見えない世界の法則なのです。
(34~39ページ)

「与える愛」だと思いつつ相手を縛っていなかったか、愛という名の言葉で相手の行動や思いに枠をかけていただけではないかというのは、言われてみないと分からない。

「見返りを求めたときに愛は死ぬ」という言葉は、言葉自体の響きのために語られているものではなく、これは真実である。

見返りを求めるなという理由は、「与えた愛は、与えた人のものになる」のが、目に見えない世界の法則だからである──。

いやあ、愛って、むずかしいですよね、ほんとに。

どうしても、相手に求めてしまう。でも、それはほんとの愛じゃない。

「純粋に相手のことを考えて、愛を発揮」するって、大多数の人にとって(もちろん私にとっても)、けっこう大きな課題ですよね。

今日のお教えで、相手に求めずとも、その愛は必ず私たちのものになることを、知ったわけです。

明日からは、何かを見返りにもらおうとか思わずに、ほんとに純粋な思いで愛してあげたいものだと、改めて私は強く思っているのです。

 

人を愛し、人を生かし、人を許せ。―豊かな人生のために (OR books)

『人を愛し、人を生かし、人を許せ。』

 大川隆法著

 

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幸福の科学の大川隆法先生は、『富国創造論──二宮尊徳・渋沢栄一・上杉鷹山』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように説いておられます。

 渋沢栄一さんは天才だ。あの世界的な経営学の大家、ピーター・F・ドラッカーが尊敬してやまない人であり、百数十年前の一人の日本人が、五百社以上もの企業群をつくりえて、近代マネジメントの精神を体現したのだから、われわれ、後世の日本人も誇りに思うべきだろう。二十世紀のアメリカの繁栄に先んじて“THINK BIG”の思想を実践してみせたのだから。
 彼から見たら今の日本が、これだけの産業基盤を持ちながら低迷している現状に歯がゆい思いをしているだろう。(中略)
 われわれは先覚者に敬意を払いつつも、大いなる自信を取り戻すべきだ。
(232~233ページ)

大川隆法先生が、歴史上の有名人に対して、これだけストレートな言葉で絶賛しておられるのは、とても珍しいことだと思います。

それだけ、今回、「日本経済を象徴する顔」になるとも言える渋沢栄一氏の実績は、まったく他の追随を許さないくらいもの凄いのだと、改めて強く感じます。

本書は、その渋沢栄一氏の霊が、対談者の質問に、直接親しく答えて下さっている対話記録になっているわけで、その考え方や人となりが、手にとるように分かる気がします。

これを機に、この渋沢栄一という天才にして先覚者に学んでみたい方に、この霊言集は強く強くお勧めできる書物であると私は思っているのです。

 

富国創造論―公開霊言二宮尊徳・渋沢栄一・上杉鷹山

『富国創造論
 ──二宮尊徳・渋沢栄一・上杉鷹山』

   大川隆法著

 

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“先祖の因縁があなたを不幸にするから、その因縁を断たねばならない”っていうような話を聞いたんだ。行法をしてもらったり、壺とか塔とかを買わなきゃなんだって、ほんとなのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 考えてみますと、この因縁話の場合に、ありえることも一つあります。
 確かに、身内のなかに──父母、祖父母、あるいはその前の先祖に──不成仏の霊がいるということは現実にあると思いますし、ずっと手繰っていけば、不成仏霊がいないような家系というのはないでしょう。ですから、そういう方が子孫に影響を与えているということは、理論的にはありえることです。(中略)
 ただ、幸福の科学では、「そうした悪霊の霊障があれば、確かに体調の不調や、さまざまな間違った判断による苦しみが生まれることはありえるけれども、自分自身の心を磨いて、行ないを修めていくことによって、あるいは心自体を調えていくことによって、そうした悪霊の波動を断ち切ることができる」ということを、お教えしています。そして、「地上に生きている人が正しい生活を送ることによって、間違った生き方をして苦しんでいる先祖たちも、その姿を見て救われることがある」という話もしています。
 これは、たとえ話でいえば、こういうことです。父親が多大な借金を背負っていて、また息子は息子でまったく別に同じような借金を背負っているとしましょう。その借金を背負っている息子が父親の借金を返すことができるでしょうか。そういう問題を提起してみると、「できない」というのが答えです。ところが、「事業に成功して大きなお金を持っている息子が、父親の借金を返すことができるか」という設問の場合には、「できる」ということになります。これが先祖と子孫の関係であるわけです。(中略)
 豊かであればこそ、他人の借金を払うことができるのです。
 この「豊かである」ということは何かというと、今世において徳を積んでいるということなのです。それは、仏法真理に基づいて日々修行をしているということです。光の徳を積んでいること。光を蓄積していること。天の蔵に富を積んでいること。それがあってこそ、苦しんでいる人に対して、その光を廻向(えこう)することができるのです。光を手向(たむ)けることができるわけです。これが、先祖を供養する場合の正しいものの考え方なのです。
(251~254ページ)

確かに、身内や先祖のなかに不成仏の霊がいることはありえるし、そういう霊が子孫に影響を与えているということは、理論的にはありえる。

しかし、そうした悪霊の霊障があっても、まず自身の心を磨き、行ないを修め、あるいは心自体を調えていくことで、その波動を断ち切ることができる。

そして、地上に生きている人が、仏法真理に基づいて日々修行をし、光を蓄積しているからこそ、苦しんでいる霊に対して、その光を廻向することができる──。

つまり、先祖供養は、年に1回とか2回、お彼岸とかにやってよい。

でも大事なのは、生きている私たちが、日々、光を蓄積し、光の徳を積み、天の蔵に富を積んでいることである、と。

そうであって初めて、私たちが蓄えている光をご先祖に手向ける(廻向する)ことができる。

これこそが正しい先祖供養の考え方だと、大川隆法先生は教えておられるわけです。

“先祖の因縁”なんて怪しげな霊話で脅して、極端な高額な供養を強要してくる、おかしな宗教には、ほんとうに気をつけたいものだと、改めて私は思っているのです。 

 

心の挑戦ー宗教の可能性とは何か (OR books)

『心の挑戦』

  大川隆法著

 

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