しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡の映画②笠岡が登場する映画

2021年12月19日 | 暮らし

(映画「海峡」のロケ地、笠岡市神島外浦・日光寺)



「笠岡シネマ風土記」 世良利和 岡山文庫  令和2年発行

映画に登場する笠岡

『獄門島』1949
片岡千恵蔵がモダンな金田一耕助に扮し、笠岡という地名が何度も出てくる。

『花の講道館』1953
旧井笠鉄道の吉田村駅付近で行われている。
第一回ミス日本の山本富士子が見送るシーンが撮影された。

『友情』1975
渥美清と中村勘九郎が主演では、終盤で笠岡が舞台となる。
二人が笠岡駅に降り立つ場面や住吉港の旧桟橋の場面が撮影された。
北木島の天野屋旅館前。
真鍋島ロケには渥美清、勘九郎、加藤嘉、佐々木愛が参加した。

『獄門島』1977
西ノ浜地区で撮影されている。

『悪霊島』1981
住吉港など。

『草原の椅子』2013

『海峡』1982
高倉健の実家で、笠智衆の老父と語り合う場面がある。
日光寺で撮影されている。

『釣りバカ日誌18』2007
島の西端ナビックランド付近で撮影。

『瀬戸内野球少年団』
真鍋島。
久乃家旅館とその別館には、夏目雅子や篠田監督・岩下志麻夫妻、カメラマンの宮川一夫をは始めとするスタッフが宿泊したという。
子役たちは三虎に宿泊したが、郷ひろみや島田紳助は泊っていない。
撮影はひと月に及び、その間約50名のロケ隊が島に滞在した。

『旅の贈りもの0.00発』2018
真鍋島
大滝秀治が出演している。

『獄門島』
六島
石坂浩二、大原麗子、ピーター、加藤武が島を訪れた。
島のイメージ悪化懸念からロケ隊を歓迎する雰囲気ではなかったという。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

笠岡の映画①笠岡の映画館

2021年12月19日 | 暮らし
茂平に映画館は、もちろん、無かった。
月に1~2度、金浦座が茂平の番屋の隣の旧小学校で上映していた。
ほぼ、2回に一度は見に行っていた。
番屋の前では青天に幕を張って上映したこともあるが、画面が揺れてさっぱりだった。
・・・・
城見地区では小学校の校庭でも上映していたようだ。
城見小学校のときは、学校の講堂で年に2~3回文部省推薦映画をして、生徒全員見ていた。
・・・・
金浦中学校の時は、体育館で金浦座が来て上映した。年に一度くらい。
生徒全員見た。「太平洋ひとりぼっち」をよく覚えている。
・・・・
高校のときは、市川崑監督の「東京オリンピック」を学校全員で見に行った。
大和座だった。学校から行ったのは3年間でその一度だけ。
・・・・
小学生の時は、映画は年に2回ほど福山の映画館で見ていた。
笠岡の映画館に入ったことはない。

高校生になって笠岡の映画館に行くようになった。
大和座・セントラル・中央劇場の3館によく行ったが、
金星劇場(きんえい)は成人映画が多く、一度も入ったことはない。




笠岡の映画①笠岡の映画館
「笠岡シネマ風土記」 世良利和 岡山文庫  令和2年発行

大和座
笠岡
もともと芝居劇場だったので広い舞台があった。
かつては戎座と呼ばれ、大正頃から映画も上映し出した。
歌手を目指していた松方弘樹が父近衛十四郎に連れられてきた。
1981年閉館。

笠映
笠岡
定員500名、
当初は大映、東宝、新東宝の配給を受けていた。
場所は曙館があったとこ。
1962年閉館、跡地は和信となった。

太陽座
笠岡
笠映の裏側にある定員150人の小規模な映画館。
当初は大映、新東宝の作品や洋画を上映。
1960年閉館。

金映(金星劇場)
笠岡
当初は新東宝、東映などの配給を受けたが後には大映作品を上映して笠岡大映と称した時期もある。
1969年までには閉館。跡地はスーパー・キンエイ。

金浦座
金浦
戦前からの芝居小屋を引き継いだものだ。
1965年頃閉館。

中央劇場
笠岡
大和座の小野圓治が系列館として1955年5月にオープン。
この映画館は地元の人々に洋画専門館として記憶されているだけでなく、
斜め向かいにあった「斎藤」の中華そばの味とセットで想い出す人も多いようだ。
1970年閉館。

東映セントラル
笠岡
1960年に開館、1962年頃に笠岡セントラルと改称。
2階に座敷席があった。
当初は東映の配給を受けるが後には主に日活作品を上映し、
藤竜也、笹森礼子、浜田光夫、太田雅子(後の梶芽衣子)らが訪れている。
さらには松竹や東宝の作品を上映した時期もある。
1985年閉館。




神映館
神島外浦
1956年から、上映は週に2~3日くらいのペース。
上映がある日は町内放送のスピーカーから案内が流れた。
フィルムは笠岡からバイクに載せて運んだ。
建物は現存してあり、外浦港から西へ歩き山側に引っ込んだあたり。
映画館には売店もあり、上映日には外浦の商店2店が交替で、菓子や飲み物を販売していた。
1963年頃で営業を終えた。

もうひとつ
外浦
外浦にはもう一つの別な映画館が存在したという情報もある。

白映館
白石島
「あまのストア」の斜め向かいに現存している。
長椅子が置かれ、上映は週に1~2日だけ、夜の一回のみだった。
北木島の映画館との間で、郵便船を使ってフィルムのやり取りをしながら、1964年頃まで営業していたのではないかという。
当時の白石島の人口は約2.500人で活気にあふれていたが、生徒が映画を観ることは親と一緒でもダメだったそうだ。

光映劇(光劇場、ひかり劇場)
北木島
北木島金風呂にあり、開業時期は不明で1960年に廃業。
現在も建物と内部がほぼそのまま残っている。
上映は週に2日程で夜に2本立て。
日中、スピーカーから上映作品の紹介をした。
経営者・赤瀬は裸一貫からのたたきあげで財を成し、映画館経営に乗りだしたという。
笠岡市議も務めた。
上映はたいてい土日のみで、全盛期には島中から観客がきて2階席まで満員になっていた。

OK劇場(港劇場)
北木島
金風呂地区。
もともとは芝居小屋だったそうで、上映する時には屋根の上に取り付けられたスピーカーから客入れの音楽を流すなど活気があった。
1963年頃閉館している。

大福座
北木島
大浦地区。
旅客船待合所から南東に50mほど行った場所に「民宿多喜」という看板が残る大きな建物があり、そこが大福座の跡地だ。

港屋の前の公民館跡地
北木島
もしかすると、ここが島にあっという4つめの映画館のことなのかもしれない。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二上がり踊り(にあがりおどり)

2021年12月18日 | 銅像の人
場所・広島県福山市笠岡町

福山市を代表する盆踊り。
毎年、お盆には市内のほぼ全域の商店街を踊り歩く。





哀愁ある踊りだが,見方によれば地味。
観光としては無理だが、伝統的な盆踊りとして味がある。

踊りの始まりは、
江戸時代末期、”江戸詰の福山藩士によって伝えられたものと思われる”そうだ。








撮影日・2021年11月27日

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高見章夫

2021年12月18日 | 銅像の人
場所・岡山県倉敷市真備町 まきび公園

真備(まび)町の「まきび公園」に胸像がある。
しかも、公園のいい場所に。





その人の名は「高見章夫」さんとわかるが、どうゆう分野の方か、どうゆう功績の方かはわからない。




倉敷市民でも、氏の知名度はほぼゼロだろう。
説明版が像の隣にほしい。



撮影日・2021年12月5日



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

せんとくん

2021年12月18日 | 銅像の人
場所・奈良県奈良市  奈良公園周辺

せんとくんは、2010年の平城遷都1300年祭で大々的にデビューした。





デビュー当時は奈良市のマスコットキャラクターだったが、
今は奈良県のマスコットキャラクターに昇格しているそうだ。




撮影日時・2021年11月5日
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

女の仕事着(モンペ)

2021年12月10日 | 暮らし
母が、たまに言っていたこと。
「あれには、くつれいだ」、が二つあった。
それが、着るものが”モンペ”になった時。
自分の身体の”生理”が終わった時。

母が嫁に来る(昭和17年5月)頃、ちょうど国民運動としてモンペの普及が図られた。
母は喜んで、持っている着るものをほどいて、モンペに仕立て直したそうだ。
母を思い出すとき、まっさきにモンペ姿が浮かぶ。
昭和17年頃から平成25年頃まで、家でも外でもモンペを着ることが多かった。



「奥津町の民族」  苫田ダム水没地域民族調査団  ぎょうせい 平成16年発行

女の仕事着

明治のころから戦前までは女も上衣のジバンとか腰着(腰切り)、下衣の紺股引を着用したのが特徴である。
腰着、尻切れジバンの上から、または長着を短く着付けて帯(半幅帯、ぼろ帯など)をして、前掛けで農作業をするのもあった。
第二次大戦中に、モンペが流行し、保温にも、ブト除けにもよく、作業効率もよいことからモンペの着用が定着した。

戦時中までは男女ともにジバンに股引で仕事をしていた。
終戦後モンペがはやり、ほどいたり、一反の布でモンペ2枚を縫った。
お腰し(腰巻き)は戦後まで使った。昭和になってパンツが使われ出した。
割烹マイカケはずっと前からあった。
戦争でよかったのはモンペくらいのもの。








「戦前昭和の社会」  井上寿一 講談社現代新書 2011年発行

モンペが脚光を浴びるのきっけとなったのが日中戦争である。

「東京朝日新聞」(昭和12年9月27日)は、
「和服が非活動的なものであるとは、つとにいわれているところです。
そこで着物に変わるべき非常服として、カーキ色の国防服とか、スカートをボタン一つでズボン式に変える仕方とか種々考案されていますが、
最近活動に便でしかもとっさの場合にも非常服として役立つもんぺが各方面から推賞されて、
山村の野良娘の服装が一躍昭和の非常服として再認識されるに至りました」。

モンペの着用前に、和服に対する批判となって展開する。

帯がむだです。
袖は短くして。
日本婦人の服装が世界で一番危険な着物といわれている。

戦時下の女性の「作業服」としてモンペが役に立つ
「都会の婦人」も防空演習でモンペの便利さを認めた。
「服装改善」委員会は、戦時服としてのモンペの機能性の再評価した。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校農園・開墾地(金浦国民学校)

2021年12月10日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県笠岡市吉浜 
訪問日・2006年1月25日  

山陽本線の金浦小学校前は曲線をゆるめ、汽車のスピードを速めた。
それにより廃線跡が、小学校の農園となった。

終戦ごろには、追加して更に校庭も農園化されたものと推測される。


(金浦国民学校の農園=廃線跡)


(金浦国民学校の農園=廃線跡)


(金浦国民学校の農園=廃線跡)


「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

学校農園

前年から始まった空地利用の食糧増産は、県下の中等・青年・国民学校700余校の校庭まで及び、学校農園と呼ばれた。
中等学校や青年学校では勤労動員されない、1.2年生の教練・体操用に必要な最低面積を残して、国民学校では初等科一人当たり0.8坪、高等科は一人1坪分を残して、すべて掘り返され畑になった。
岡山師範女子部は米5表、野菜を収穫、今年度は小麦を加える予定。
岡山一女は7反に小麦3表、野菜1.000円分を収穫。
清心高女は3反5畝からジャガイモ80貫、南京豆130貫、野菜を収穫。
市内14国民学校は甘藷・ジャガイモ・芋の栽培。
玉島高女の生徒は作地化するため馬糞拾いに精出した。
学校農園は敗戦後も食糧不足を補うために続けられたが、学校側が生徒に無断で収穫・処分することが多かった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「桃太郎」は皇軍の正義の士(さむらい)となった

2021年12月08日 | 昭和11年~15年
「桃」 有岡利幸 法政大学出版局  2012年発行

桃太郎の変容

桃太郎は、降参した鬼を許してやる。
その寛大な得に対して感謝のしるしとして、
「イロイロナ タカラモノヲ、サシダシマシタ」としている。

もう一つの重要な点は、
「モウ、ケッシテ人ヲクルシメタリ、モノヲトッタリイタシマセン」と言わせているところである。
この言葉によって、桃太郎の鬼ヶ島征伐を正当化しているのである。
桃太郎の鬼退治は、正義の戦いであることを鬼の側に言わせているのである。

この時代における「国民精神総動員」運動、満州事変以来の大陸進攻を「聖戦」とし、
「八紘一宇」の思想によって、侵略思想に非ずとするとき、「皇軍」は正義の士となる。
そうした時勢の中でこのように「桃太郎像」が生まれ、解釈されたと見なければならない。

こうして桃太郎は太平洋戦争直前の状況のなかで、権力者や軍国主義者の手によって大東亜の士として、「鬼畜米英」を象徴する鬼を、天に代わって征伐することになったのである。





長い戦争によって立場が逆転して、
征伐するはずであった鬼ヶ島の鬼のほうが強くて、降参したのは桃太郎である日本人自身となった。
戦後の教科書から一切「桃太郎」は姿を消し去ったのである。
そして現在に至るまで小学校国語教科書には、一度も登場してこない。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

開戦決意

2021年12月07日 | 昭和16年~19年
昭和16年の日米交渉だけをみれば、開戦原因はアメリカにある。
そこになぜ至ったのかをみれば、開戦原因は日本にある・・・と、自分は思っている。




・・・・・・・・・・・・・

「岩波講座・日本歴史21」   岩波書店 1977年発行 


開戦決意

米英蘭の対日資産凍結と石油禁止が実施されると、まず海軍のなかから日に12.000トンづつ石油がなくなり、戦わずして屈服に追い込まれると対米開戦論がおこった。
7月29日、永野軍令部総長は「この際打って出るの外なし」と上奏し天皇を驚かせた。
陸軍でも対ソ開戦が薄れるにつれ対米開戦論が強まった。
参謀本部は8月9日「11月末を目標として米英作戦準備を促進す」る方針を立案した。
日本の新聞もABCD包囲網を連日非難するようになった。

他方、近衛内閣は戦争の危機を前に日米交渉の促進に懸命になった。
政府は統帥部と相談していては間に合わないとして独自に動き始めたのである。

陸軍は、
三国枢軸堅持
大東亜共栄圏遂行
撤兵せず
の三条件を固守する。

9月6日には秘密裡に御前会議が開かれ、
10月下旬を目標に戦争準備をする。
10月上旬になっても外交交渉の目途がない場合には対米英蘭開戦を決意する。

外交上の要求としては、
日本が仏印以外に武力進出しないかわりに、
米英はビルマルートの閉鎖、対中国援助打ち切り、日本の物資獲得への協力をもとめると強めた。
これらの要求が達成される見通しはまったくなかったから、事実上の開戦決意である。

これと並行して首脳会談の交渉案が立案されていた。
10月2日アメリカはもっと事前同意を要求する回答だった。

東条陸相の、
「撤兵でアメリカに屈すると支那事変の成果を壊滅する。満州国をも危なくする、朝鮮統治も危なくする」
と交渉打ち切りを要求した。
内閣不統一で第三次の近衛内閣は退陣する。

宮中では第四次近衛内閣が優勢であった。
宇垣内閣も有力で、宇垣自身も工作した。
天皇も重臣も陸軍を抑えることで対立が深刻化し、部分的にせよ中国からの撤兵は方向転換できにくかった。
重臣会議で宇垣・東条が推薦され、御前会議を白紙に戻す条件で東条が決まった。

野村大使を助けるためあらたに来栖三郎大使をアメリカに派遣した。
ハル長官は悠長な交渉態度をとった。
中国蒋介石は対日経済封鎖を解除しないようアメリカに訴えた。

日本の攻撃を知っていたハルはハルノートを野村大使に手交した。
日本に満州事変以前への復帰をもとめるものである。
12月1日の御前会議は「帝国は米蘭豪に対し開戦す」と決定した。

おりからドイツ軍は12月6日に始まるソ連軍の反攻を受け敗北を喫していた。
12月8日の真珠湾攻撃はアメリカを開戦へと一致させ、第二次世界大戦へ参戦した。
1942年1月1日には、米英ソ中を中心とする26ヶ国によって連合国宣言が調印された。


・・・・・・・・・・・・・・

「日本軍事史」  高橋・山田・保谷・一ノ瀬共著 吉川弘文館  2006年発行

対米開戦の決意

対米戦争が広大な太平洋上での戦争である以上、
海軍が対米戦は不可能といえば本来戦争はできないはずであった。
しかし、海軍は決してそうはいわなかった。
一部の強硬派をのぞき多くの者が内心では勝利の見込みに乏しいと思っていたのだが、長年アメリカと戦うからといって多額の予算を獲得しておきながら、
いざとなったら戦争はできないなどとは、官僚機構として存在意義に関わることであり、到底言えなかったのである。
「総理が判断してなすべき」だと発言して責任を回避したのも、こうした事情にある。

そんな海軍にとって石油の禁輸は重大な意味をもった。
対米戦に内心反対でありながらそれを押し通せなかった近衛首相は10月16日、
内閣総辞職の途を選んだ。

11月26日、
「支那及び仏印」からの撤兵、
汪兆銘政権の否認、
三国同盟の死文化などを記したハルノートを突きつけられ、
12月1日ついに開戦を決定するに至った。

もし撤兵となれば、陸軍が過去4年間にわたって国民に負わせた犠牲はいったい何のためだったのかということになる、
だから絶対不可というのである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福山城②「史跡福山城跡石垣(二之丸西側上段石垣)の発掘調査現地説明会

2021年12月06日 | 令和元年~
「史跡福山城跡石垣(二之丸西側上段石垣)の発掘調査

現地説明会・2021年11月27日 
場所・広島県福山市丸之内 福山城公園


お城の発掘調査と言えば、
だいたい築城時を中心に、戦国や江戸時代の遺構をイメージするが、
今回の発掘は明治の廃城後にできた石垣の調査だった。

個人が境界線で造った石垣は、わざわざ行って見るほどのものではなかった。




福山城は今、”令和の大普請”を行政が行っているが、
10年前に10数万人の市民から要望署名があった御水門二重櫓の復元の方が、
よほどの価値があるように思う。







明治26年、福山城が廃城となり、本丸以外の二之丸・三之丸が民間に払い下げられた。
その後は民間の農地や住宅地として利用されていることから、今回見つかった石垣は民間の土地の境界を示すために築かれた可能性があります。
今後も継続して調査を行い、福山城の石垣の変遷を探るとともに、
二之丸西側一帯の櫓跡や石垣の様子を解明していく予定です。
福山市







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする