しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ポツダム~新型爆弾投下~ソ連参戦

2018年07月10日 | 昭和20年(終戦まで)
ソ連大使はとんだピエロをやらされた。
仁科芳雄博士は確認のため広島に飛んだ。

「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防紀」新潮社より転記
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ソ連、参戦へ
ポツダムから、スターリンとモロトフがモスクワに帰着したのは8月5日だった。
佐藤大使は、すぐさまモロトフに会見を申し入れた。
モロトフは、8月8日午後5時(日本時間午後11時)を指定した。
昭和20年8月6日午前8時15分、ポツダム宣言の「日本国本土の完全なる破壊」を謳った警告は、現実のものとなって広島市を襲った。
通信網を破壊された広島市の惨状は、すぐには東京へ伝わらなかった。
6日午後、第二総軍司令部が呉鎮守府経由で伝送した報告は「未だかつてない破壊力を有する高性能爆弾を使用」という子供だましのような内容だった。
翌朝、原子爆弾を使用したトルーマンの声がラジオを通じて流され、日本でも聴取された。
そのうちに広島近在から情報がつぎつぎにもたらされ、参謀本部第二部長有末中将、仁科芳雄博士らが現地に入って確認するのが8月8日午後のことである。
その日の夕刻、モスクワでは待ちに待ったモロトフとの会見が叶った佐藤大使は、意外にも、モロトフから宣戦布告書を受け取るのである。
佐藤大使の電報は、遅くとも日本時間の8月9日の深夜を回ったころに発信されたはずである。
ところが、それが日本に届かなかった。

時差の謎
日本は、全戦場で明石標準時間を使用したが、ソ連は現地時間を用いた。
カムチャッカは日本より3時間早い。
さらに問題は、このころ欧米主要国では、夏時間をもうけていた。


コメント
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