しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

明治維新後

2018年07月06日 | 江戸~明治
「三原市史・第二巻」より転記する。

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維新後の三原町


明治3年、正月4日の初寄合での協議内容によると、

(1)町では近頃物価高になり、商売も少なく、みんな困窮しているのに、役所へ上納する間内銀は三倍増となり、時の相場で米で立て替えて上納することになった。
(2)米値段はことのほか銀高になり毎年調達するのに困っており、取り揃えも容易ではなく、手元で立て替えて支払い、あとから未納者に催促するがうまくいかない、
(3)新しい体制になってからは、出費もかさみ、以前のように各村から年貢米を運んできてその年の決済をすることもなくなり困っている。
(4)目代所で増加した仕事は各村で努めるから、なるたけ間内銀を出さないですむようにしてほしい、と願い出る事にしている。
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新制高校の誕生

2018年07月06日 | 昭和21年~25年

「流れる おかやま百年」  昭和42年1月 山陽新聞発行より転記する。

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新制高校の誕生

23年には新制高校、教育委員会制度が生まれ、PTAも各校に設けられた。
総司令部は総合化と男女共学、学区制を指導した。

旧制中学をそのまま新制高校とし、21年までの入学生は付設中学に収容、24年8月から県立51校、市立3校、計54校を県立35校に統合した。
旧岡山一中と二女が統合され、岡山朝日高校となったのもこのときから。

総合化の掛け声で笠岡高校は普通、家庭、工業、商業の4科を持ち、7校が3科を設けた。
しかし、この総合化は生徒同士のコンプレックスの助長、あるいは経営の複雑化などから、しだいに分離され、間もなく笠岡は3校に分かれ、27校につくられた家庭科も11に減っている。

初の県教育委員選挙は23年10月5日行われ、11月5日から委員会が成立した。

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