問題が起きた時、「何も知らなかった」「知ってはいたが何もしなかった」
と令和の今も、新聞やテレビでいつものように見る。
人間は自分がいちばんかわいいのはわかるが、
いざという時に逃げることしか考えないのは、(残念ながら)近代日本の国民性かもしれない。
しかし、指導者と呼ばれる人が、その見本になるようでは、日本の未来は暗い。
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(Wikipedia)
木戸 幸一
1889年~1977年は、日本の官僚、政治家。
侯爵。
昭和天皇の側近の一人として東條英機を内閣総理大臣に推薦するなど、太平洋戦争前後の政治に関与した。
敗戦後にGHQによって戦争犯罪容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判において終身刑のA級戦犯となったが後に仮釈放された。
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「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫 昭和58年発行
「戦略爆撃調査団」⑤
木戸幸一内府の日記にはこう記されている。
「11月10日(土)晴
11時、戦略爆撃調査団のワイルヅ中佐来訪、調査の目的等につき話ありたり。
団長ドーリエ氏、 ニッツェ 主任等と会談、5時迄約3時間に亘り、
主として終戦時の状況、意見、及び戦争全体の観察見透等につき質問に応じ話す。
問
「サイパン陥落 (昭和19年7月)以後の戦争の展開について、あなたはどう予測したか。
戦争を続けられそうだったのか。
それ以後の戦局の進展について、あなたはどの程度、見通していたのか」
木戸
「サイパンが陥落し、B29の日本空襲が始まると、日本の戦略ではそれに対処できないことが明らかになった。
大都市ばかりでなく、中小都市の産業が破壊され、軍需品生産の能力を奪われたからだ。
それにもうひとつ、連合軍による日本本土上陸が万一行われたら、という懸念も私にはあった。
さらに、日本の都市に加えられる破壊のために、国内の一般国民の士気が失われてしまうことも、私は非常に心配したのだ」
問
「一般国民の士気が失われてしまえば、その結果どうなっていただろうか」
木戸
「この質問について、私の想像を述べるのは、いささかむずかしい。
一般国民が士気を失えば、日本が戦争を継続するのは不可能になっていただろう。
国民の間に、和平への動き、もしくは反戦運動が起っていただろうことは、想像にかたくない。
ただし私は、こうした運動が、それほど早くから起るとは思っていなかった」
問
「"それほど早く"とは?」
木戸
「前に述べたことを繰り返すが、私は実際に反戦運動が発展すると予期していたわけではない。
むしろ、都市が破壊され、そのために生じる家屋の損失、損害の増加、それに食糧不足などから、
きわめて扱いにくい緊張状況が発生するだろうと考えていたのだ」
問
「サイパンが陥落した時、戦争完遂を考え直すという点で、あなたと同じように考えていたグループは、どういう人たちか」
木戸
「一般的にいって、クラブに集まっていた日本のいわゆる自由主義者、貴族院と衆議院のかなりの議員、それに、いわゆる元老たちのほとんどが、
なんとかしなければならないという意見だった」
問
「で、何をしたのか」
木戸
「意見や見解を表明しただけで、何もしなかった」
問
「なぜ、何もしなかったのか」
木戸
「その答えは、私にもわからない。
私や他の者は、何かがなされるように願っていたが、何も現われなかった」
戦争に勝目がない、という認識が政界要人のなかに広がってから、なお1年も戦争が続いた。
その間、日本の政治を預かる人たちは、何もしなかった----
現実主義の国アメリカからやって来た調査団にとっては、いかに日本についての専門家だったとしても、これは不可思議な現象だった。
同じことは、開戦についてもいえた。
開戦直前まで首相をしていた近衛公が、「私は開戦に反対だった」と答えた時、調査団は「そんなはずはない」と、執拗に質問を繰り返した。
だが、このような答え方をしたのは、近衛公だけではない。
調査団に喚問された、他の首相クラスの要人のほとんどが、同じように「開戦に反対だった」と答えたのである。
では、なぜ、戦争は起ったのか――。
調査団は、ここで、戦前・戦中を通じての日本の軍部、特に陸軍の権力がいかに強大なものであったかということを、改めて思い知らされる。
木戸内府との問答を続けよう。
問
「何もしなかったという点については陸軍の態度がおもな原因だったのか」
木戸
「おっしゃるとおり、陸軍がおもな原因だった。それに、(陸軍は)監視網を広げて憲兵を強化し、反戦的な意見の表明を抑圧したのだ」
問
「その時、天皇の終戦の詔勅が出ていたとしたら、陸軍にはそれに従う忠誠心があっただろうか」
木戸
「ドイツの降伏(注=昭和20年5月)以前に陛下が和平の勅命をお出しになっていれば、クーデターの危険があった。
そのとき陛下が詔勅をお出しになったとして、どんなことになったか、私には判断することがむずかしい。
実際のところ、そういった機運、もしくはフンイキは、一般の政治家のあいだにさえ、十分に広がっていなかったのだ」
問
「どんなことが起れば、陸軍は和平の詔勅に従う気になっただろうか」
木戸
「陸海軍の指導者たちが、そうするよりほかはないという見解に達しなければダメだったと思う。
だが、少なくとも、ドイツの降伏以前には、陸海軍にそうした兆候は見られなかった」
問
「では、それ以後、フィリピンでの負け戦さのころはどうだったのか」
木戸
「フィリピンでの戦いのとき、それはまだハッキリしていなかった。当時は、沖縄でなんとかなるだろうというのが、一般の考えだった」
なお、前出のワイルズ元海軍中佐は、木戸侯爵についても、一つの思い出を持っている。
「木戸侯がひとつだけ、大へん心配していることがあった。
それは、天皇がわれわれ調査団に尋問されるのではないか、ということだった。
実際のところ、天皇を尋問するかどうかは、われわれ戦略爆撃調査団の会議の議題になったのである。
しかし、その結果、すでに多くの天皇側近や政治家から尋問ができていたので、改めて天皇に会う必要はない、という結論だった」
当時、調査団はこういう考え方をした天皇に会って聞いてみても、それはちょうど、
海水をすくって調べてみて、塩分が含まれているのを確認するようなものである。
・・・
幕末から明治にかけての指導者は、西洋諸国を非常に恐れた。
日本は文明が低開発国家であることを自覚していたから。
今も全国に残る”お台場”、西日本に多く残る”要塞”の遺構は西洋国家への恐怖が強く感じられる。
ところが、
昭和の指導者は国を護る意識がなく、攻守のうち、”攻”しかなかった。
さらに、開戦には「勝てない」「反対していた」のオンパレード。
アメリカから来た調査団は、不思議がり、あきれて、どうしても日本指導者層を理解できなかっただろう。
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