サツマイモのフカシイモは間食の代表というより、大代表だった。
おやつといえば、フカシイモ。
腹が減ったといえば、フカシイモだった。
フカシイモは戸棚の皿に、”商品切れ”という状況は一度もなかった。
大人も子どもも、おやつ・副食・常備食・よーめしで、家族の必需品だった。
イモは、どこの家にも穴を掘った芋床に保存していた。
・・・
まんが雑誌の漫画に
「焼き芋」を買う、町の少女がいた。
町の人は、お金を出してまで、焼き芋を買うのだろうか?
それを食べて「おいしー」というのは本当だろうか?
ちょっとしたカルチャーショックのようなものを感じた。
「矢掛町史」 矢掛町 昭和55年発行
畑どころでは米の代用によく食べた。
また、第二次大戦中、砂糖の代用にイモヨウカン、イモアメを作った。
サツマイモの利用法には、
フカシイモ
イモ粥
煮つけイモ
イモ飯
揚げイモ
などがある。
「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行
サツマイモ
サツマイモは大切なご飯の足しであった。
どこの家でも三畝も四敵も芋を栽培し保存した。
冬の寒さで傷む(腐る)ので、納屋や下の間の下に穴を掘って芋床(芋釜)を作り、芋を山のように入れて、間にすくもを入れて保存した。
三月を過ぎると気温が高くなり、そろそろ傷みが心配になった。
ゆでたサツマイモは、お茶漬けのご飯の代用や夜食にもなった。
とくに戦時中にはサツマイモ、ジャガイモ、南瓜は人々の命を支えた大切な主食であった。
「岡山県史第15巻民俗Ⅰ」 岡山県 昭和58年発行
てんぷら
サツマ芋は蒸し芋・煮つけ芋・揚げ芋(芋の天麩羅)などのほか、
カンコロといって、輪切りにして蒸し、干す (日生町頭島・大多府島、吉永町神根本・備前市鶴山・笠岡市神島・真鍋島など)。
備中西南部の地方では、朝食はサツマ芋の蒸し芋であった。
新見市豊永や草間でも、ご飯を食べる前には、ご飯のシタシキにまず、サツマ芋を食べた。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版
サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。
「聞き書 広島の食事」 神田三亀男 農山漁村文化協会 昭和62年発行 その2
いもは日常の食べもので、生いもは蒸しいもの形で最も多く食べられ、いもに麦、または米を混ぜたいもごはんやいもがゆもつくられる。
いもを干してつくるかんころは小豆やささげと煮て、おけじゃにする。
(母の話)
芋あめ
芋あめは売りにきょうた。
たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。
おばさんは「テンプラはどうですか?」いうて売りにきょうた。
おじさんは自転車でトウフを売りにきょうた。
トウフは朝作って、それから芋飴をつくりょうた。
2002年10月14日
立ちションすると怒られ(貴重な肥料)
まるで江戸時代か、それとも古代かの飢餓の時代。
今のグルメ・美食・飽食の人には、言っても理解できないでしょうね。
まだ千円札が発行されてなく、藺草を売ってもそういう状態で、トラックへ出荷の手伝いをしている時は、積み重ねられた百円札のことが気になってしょうがなかったそうです。