しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

潮 (水軍之将)

2021年05月04日 | 銅像の人
場所・広島県尾道市因島土生町 因島公園





潮―水軍之将

吉田正浪
ブロンズ。195×80×140。昭和61年5月。因島公園。
故村井修さん(元因島汽船社長)の藍綬褒章受章を記念した作品。
村上水軍の武将の雄々しい姿で因島を強く表現することを狙った。
台座には、四国特産の青石を使用。
さらに、作家・城山三郎著の「秀吉と武吉」から文章を引用。
「目を上げれば海 運に任せて自在の海 あゝ人生は海」とある。

瀬戸内タイムズweb2010年10月2日







海上の武士たち

室町時代後期になると、いわゆる三島村上氏の勢力が押してきた。
島嶼部の要地を占めて、海賊衆のみによる独自の組織体制をかためたのが、
能島・来島・因島に拠る三島村上海賊集である。

それぞれの海域における棟梁として成長してきた土豪的勢力で、
名門村上義弘の家系で結ばれる形で同門意識を強くし、連帯して独自の勢力をかためものと考えられる。
三島村上氏もいちおう伊予河野氏を宗家とあおいでいるが、ほとんど支配を受けることなく、独自の行動に終始している。

因島村上氏は1434年山名氏の命を受けて遣明船の警護にあたり、恩賞地を受けておあり、
1449年には河野氏のため伊予本土に出陣して各地で戦っているが、
その後は大内氏の求めに応じて警固船を提供するなど、特定の大名に縛られないで行動の自主性を堅持するおもむきがある。

能島村上氏は最も実力が優勢で、つねに他の二氏をリードする立場にあった。
三島村上氏は海域での通行税を徴収していた。
大内、毛利の合戦に参加するがどこまでも客分として協力関係を持していたようである。
だいたい毛利氏の水軍の性格を強めたが、
織田の西進後分裂。
ついで豊臣秀吉の海賊鎮圧令により、
海を根拠地として活躍を示した三島村上海賊衆も、全く封建体制の枠組に縛られてしまうのである。

「瀬戸内の風土の歴史」 谷口・後藤・石田著  山川出版社 昭和53年発行









撮影日・撮影日・2013年4月9日



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