しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年6月23日沖縄戦終了

2023年06月22日 | 昭和20年(終戦まで)

 

沖縄戦、

敵は米軍だったが、日本軍も味方とは言えなかった。

 

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雑誌「歴史人」 2022年6月号 


沖縄南部には民間人が10数万人いたといい、
彼らは日本軍の側にいることが安全だと思い、軍に付き従っていた。
というのは、
アメリカ人は鬼畜だという教育を受け、捕まれば拷問されたり凌辱されたりした後、むごい殺され方をすると信じていたからである。

沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護婦として従軍させられていた。
ひめゆり部隊も、そうした学生看護師隊の一つだった。
彼女たちは第三外科壕にいたが、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十名の若い命を奪ったのである。
沖縄県民の命は、アメリカ兵だけでなく、日本兵も足手まといになる民間人に自決を強要したり、スパイ容疑をかけて射殺したりということが起こった。


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「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行


沖縄戦の悲劇は戦闘による犠牲にとどまらず、友軍と信じていた日本軍に殺された例の多いことによって倍加されている。
はじめに上陸した慶良間諸島の渡嘉敷、座間味二村では、
村民は足手まといだとして守備隊によって集団自殺を強要され、
山中に逃げた者はスパイ容疑で惨殺された。
こうした例は本島でも多く、明らかに県民と知っていながら『スパイ嫌疑』で、
軍刀・銃剣・小銃で殺された。
沖縄の守備軍が、県民を利用できるだけ利用して、これを戦火の中に遺棄した。

本土決戦の基本的な考え方は、
「皇土の万物万象を戦力化し」「一億特攻」の攻撃精神で迎え撃つというもので、
まさに全国民を玉砕の道連れにする以外の何ものでもなかった。
戦場から住民を避難させるという考えは、輸送力の欠如から実行困難であり、
また避難させたとしても、それを保護する手段がなかった。
国民は動けるもの全てを戦闘に動員し、足手まといになる老人や幼児は見捨てる以外にないというのが実情だった。

6月22日、牛島中将は司令部で自殺した。「日本兵は命あるかぎり戦い続けよ」と遺言した。
軍人・民間人含めて20万人が犠牲となった。
沖縄県民は、なんと4人に1人が死んでいる。

 

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「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


捨て石にされた沖縄

大本営は、沖縄戦を本土決戦のための前哨戦、いわば「捨て石」作戦と位置づけていた。
沖縄守備軍の任務とは、沖縄にある人と物を使って本土決戦までいかにねばり、時間稼ぎができるかというその一点だけだったのである。
海も空もアメリカ軍が島をとりかこんでいて、もうどうしようのない状況だった。
ただ人間の命を時間稼ぎのためだけに消耗するという戦いを強いられた。
4月22日、ソ連軍はベルリンに突入し、30日ヒトラーは自殺、
5月7日ドイツは連合国に無条件降伏する。
ソビエト軍兵力の東方への輸送が3月ころから始まった。
ドイツ崩壊の前後、大本営ではソ連参戦防止のための対ソ外交について議論が重ねられた。

 

沖縄玉砕

5月下旬までに、沖縄の日本軍の主力部隊はほぼ壊滅していた。
日本軍は、まともな武器も兵もないため、ゲリラ戦で抵抗を続けた。
嘉数高地から浦添をへて、首里へいたる中部戦線は、わずか10キロ。
この10キロで、日本軍は64.000人戦死。アメリカ軍も26.000人死傷という死闘がくりひろげられた。
ここで日本軍は、自爆攻撃によってアメリカ軍にたちむかっていった。


陸の特攻作戦である。
爆弾箱を、自分の腕にかかえて突進したのである。
海も空もアメリア軍に握られた日本軍は、外からの補給は絶望的で、
それをあくまで精神力でのりきろうとしていた。
5月22日ごろ首里陥落。
軍民ともに最後まで闘い、本土決戦までの時間を稼ぐ「玉砕」を選択したのであった。
日本軍による住民犠牲は、わかっている数字だけでも数百件。
アメリカ軍によるものの4倍ともいわれている。
犠牲者数15万人という凄惨な結末だった。

 

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「教養人の日本史・5」 藤井松一  現代教養文庫 

硫黄島を攻略した米軍は、最後の決戦場を沖縄に求めて兵力を結集し、
4月1日上陸作戦を開始した。
総兵力54万、
軍艦38隻、
補助艦艇1.139隻、
上陸用舟艇 数千
まさに雲霞の大軍であった。

これを迎え撃つは、牛島中将指揮の
陸軍7万、
海軍8.000
男女中学生徒含む県民2万5.000人が義勇隊として動員された。
日本軍はほとんど全滅に全滅に近い。
一般住民15万人が戦火にたおれた。

6月22日、牛島司令官と長勇参謀長は洞窟の中で自決し、最後の突撃が敢行され、抵抗は終わりをつげた。

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米軍よりも日本軍が恐ろしかった

「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行

沖縄戦で正規軍の2.2倍もの住民が戦死した。
日本軍が、沖縄の人口の大多数が居住する南部に主戦地をとって立てこもったこともさることながら、戦争と民衆、軍と市民の関係という面で、現在に至るまで考えさせる問題を提起している。

端的に言えば、住民にとっての沖縄戦は、米軍と日本軍に挟撃される逃れようのない地獄図であった。
挟み撃ちにあったのは、肉体・生命だけでなく精神もそうである。
引き裂かれ傷つけられた精神は、皇軍とは?祖国とは?軍とは?戦争とは?
を問い返して今に至っている。

沖縄戦を象徴するできごとは、米軍の沖縄本島上陸以前に起こった。
慶良間列島で相次いだ住民の集団自決である。
手榴弾で死にそこなった者は
「互いに棍棒で打ち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しい者の頭を叩き割ったりした」。
軍に強いられた集団自決の後、住民は「米軍より日本軍が恐ろしくなった」と語っている。

これらの手記や報告は数多く残されている。
軍は、沖縄の人たちそのものを敵視したのである。
それは「戦場の狂気」ではすまされない。
たとえば5月5日、参謀長名で「標準語以外の使用を禁ず。沖縄語をもって談話したる者は間諜として処分す」

沖縄戦の特徴は、第一に住民が軍の指揮下におかれて戦闘に組み込まれたこと、
第二に軍と住民が混在している地域が戦場となったことである。
大多数の沖縄県民は、軍と共死共生しようとした。
しかし「共死共生」を破ったのは軍の方であった。
本土人をもって構成された軍は、沖縄住民を恐れ敵視したのである。
そこには、差別意識が強く働いていたといえよう。

 

・・・

牛島満軍司令官の最期の命令、
「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」(最後まで戦って、お国のために死ね)

海軍の大田実司令官は、
「沖縄県民かく戦えり」「県民に後世特別のご配慮を」と海軍次官へ打電し自決。

牛島司令官の命令通りすすんでいたら、沖縄県は生存者ゼロ、
大田司令官は後世への言葉が残り、いくらか救われる。

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