しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」③

2019年07月20日 | 占守島の戦い
平家物語の俊寛と有王の話しは有名だが、知るのは有王ひとりで、信憑性は心もとない。

近代の戦もそうゆう面が結構あり、
占守島の戦いの日本兵は多かったが(1万数千)、ソ連との停戦交渉では、立ち会った人数すら確認されていない。

正使であった杉野巌少将は、シベリア拘留を経て笠岡市に住み、戦後は隠居的な平穏な生活で一生を終えた。
杉野少将の日記が残され、発見される事が期待される。現代史の大きな資料に成るのは間違いない。



「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防記」 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記

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グネチコ中将はニコリともせず、高圧的だった。
日本軍の武器引き渡しの手順、ソ連海軍が片岡湾に入る、など7ヶ条の文書が渡された。
長島は、
「軍使は杉野少将が正で、柳岡参謀長が副使です。グニチョコが”イエスかノーか“えらい剣幕で迫ってきた。
こうして杉野軍使以下の一行は19日午後8時ごろ、大観台に帰着した。
19日夕、戦車隊はふたたび師団参謀に後退を命じられた。

柳岡大佐は、すぐさま千歳台に進出していた師団長・堤中将に電話で報告した。
堤中将は“明日行って取り消してこい”と、
堤中将は、停戦したのち、武器引き渡しを交渉するのが手順だという。

8月19日夜、戦闘はまだつづいていた。
旅団司令部から、大観台に終結せよと命令が下った。
午後10時、撤退開始。

占守島の武装解除は、一日延びて8月23日に三好野飛行場で行われた。
その日正午、小雨そぼ降るなか、杉野巌少将は、1万3千の将兵を前に最後の別れの閲兵を行った。
総員、南西にむかって直立不動の姿勢をとり、遥拝したあと君が代を斉唱。
〈将兵は、流れ出る悲憤の涙を如何ともすることができなかった〉
やがて現れたグネチコ少将と杉野少将が握手をした。
戦車隊の須田准尉は現れず、軍刀を前に拳銃自殺した。

将兵の遺体収容は、再三交渉の結果、ようやく9月なかばに許された。
遺体の確認と埋葬が行われた。
移動可能な大砲や小銃は島から消え、壊れた大砲だけが残った。
12月8日より、将校が出航した。
着いたところはナホトカだった。
将校は軍刀を没収され、それぞれのラーゲルに送られることになる。

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「北海道を守った占守島の戦い」 

2019年07月20日 | 占守島の戦い

「北海道を守った占守島の戦い」 上原卓 祥伝社新書 より転記

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8月9日午前0時、
ソ連軍は北満州、朝鮮北部および樺太への進攻を開始した。
タス通信によって知った大本営は、関東軍・支邦派遣軍・第5方面軍(千島・樺太・北海道)に「敵の進攻を破砕スヘシ」と下命した。

8月12日、第5方面軍司令官樋口中将は、
「宿敵ソ軍遂ニ我ニ向カッテタツ。断乎仇敵ヲ殲滅シ・・・」との訓話を出した。

8月16日、スターリンは、
「天皇が行った発表は宣言に過ぎない。極東のソ連軍は対日攻撃作戦を続行する」
同じ日に、トルーマンに親展電報を送り、クリル諸島全てと北海道の北東半分を占領することを認めるよう要求した。その上、東京にも保障占領を認めよと要求した。
--その理由は、日本は1919年から21年にかけて全極東を占領した(その報復をする)

8月17日、トルーマンから返信は、
ソ連軍のクリル諸島の占領は認めていたが、ソ連軍の北海道占領と東京駐留は拒否していた。

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8月16日の夜、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は
カムチャッカの現有兵力をもって千島列島上陸作戦を命じた。
それを受け、極東軍は「占守島ほか北部諸島を8月25日までに占領する」
先遣隊が占守島の竹田浜に奇襲上陸する。
上陸部隊8000名が編成された。

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8月18日の午前2時ごろ、
6.000トン級の輸送船14隻が約8.800名のソ連兵を乗せて竹田浜沖に現れた。


8月18日2時15分、国端崎監視硝から
「竹田浜沖に、輸送船らしきもの発見」
「上陸艇発見」
「敵、上陸開始、兵力数千人」と連続的に村上大隊に入った。
大隊長は司令部に連絡と、配下に射撃開始命令を発した。

8月18日2時30分、堤師団長は
旅団長・杉野巌少将に、「大観台に司令部を移し、兵力を結集して外敵を撃滅せよ」との命令を下した。
堤師団長は74旅団の一部を割いて占守島へ進出させることにした。

竹田浜に上陸しようとしたソ連軍先遣隊は、
上陸前に思いがけない障害にぶつかった。
上陸艇が重すぎる積載量のため、海岸線の150m~200mで座礁したのである。
大砲は置き去りにした。


泳ぐソ連兵、上陸したソ連兵に野砲・臼砲・速射砲を絶え間なく轟かせた。
前と左右の三方から日本軍の砲弾を浴びながらソ連軍は四嶺山方面を目指した。見晴らしの効く四嶺山を確保して主導権を握るためである。

千歳台にある第73旅団司令部の旅団長・杉野巌少将は、司令部の命令を受けると、直ちに大観台に司令部を移した。

午前4時ごろ、夜は明けたが、霧は深く、視界はよくなかった。

午前6時20分、戦車11連隊が出陣した。
午前6時50分、第一次攻撃。
午前7時50分、第二次攻撃。ソ連兵竹田浜に退く。

正午前、第5方面軍司令官樋口中将から
戦闘中止命令が届いた。
その命令を受け、堤師団長は
「18日16時をもって攻撃を中止し、防御に転移すべし」との命令を発した。

午後1時ごろ、堤師団長から杉野旅団長のところに
「ソ連軍司令部と停戦交渉をせよ。軍使は長島大尉をあてよ。長島大尉は停戦交渉に入ることを第一線の部隊に周知徹底させよ」との文書が届いた。

午後2時、軍使長島大尉は停戦文書を図嚢に入れ、旅団司令部を出発した。随行者は他に8名。
当日、ソ連軍に幽閉。


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8月19日、午前6時30分ごろ
軍使・長島大尉とソ連軍の停戦交渉が始まる


午前8時30分ごろ、
長島大尉とソ連軍使が、杉野旅団長のいる大観台旅団司令部に着く。
ソ連軍使は、
「我が軍司令官が、本日15時竹田浜で会う」と伝えた。

午後2時、
軍使・杉野旅団長、長島大尉ほか随員4名が出発。

定刻の午後3時、
竹田浜の砂浜に立ったまま、停戦交渉は始まった。
杉野旅団長が、現在の線で停戦することを主張した。
ソ連司令官は、停戦即日本軍の武装解除を要求した。
ソ連軍の要求を受ける事にした。

午後6時ごろ、
杉野旅団長以下が大観台に帰還した。

杉野旅団長の報告を受けた堤師団長は、再度ソ連軍司令官との交渉に赴くよう柳岡参謀長に命じた。
「停戦即武装解除には応じられない。停戦後の治安を維持しつつ日本軍の武器を引き渡す手順、撤退について平和的に交渉したい」


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8月20日の午前、
師団長の声明書を持った柳岡参謀長は、長島大尉他と竹田浜に向かった。
ソ連側将校は、これ以上交渉する必要はないと言った。
柳原参謀長と長島大尉は、ソ連軍に拘束された。

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8月21日午前、
柳原参謀長と長島大尉は、ソ連軍将校3名とともにシープで大観台に帰還した。

柳原参謀長は幌莚島から占守島に進出してきた堤師団長に交渉結果を電話報告した。
その時すでに、堤師団長は第5方面軍司令官樋口中将から即時停戦と武器引き渡しに応認せよとの命令書を受け取っていた。

8月21日昼頃、
堤師団長は、ソ連軍将校に「停戦即武器解除」の要求を認める旨伝えるとともに、麾下の全軍に一切の戦闘行動の停止を命じた。
交渉は一段落した。


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8月22日、
スターリンは、北海道上陸作戦の中止命令を出した。
8月22日、
午後1時、堤師団長は降伏文書に調印した。

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8月23日、
スターリンは、「日本将兵50万人を抑留し、シベリアへ終結させよ」と極東軍司令官へ直電した。


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8月24日堤師団長は、指揮官たちを集め、日本軍としては最後になる会同を行った。
「貴官たちは郷里に帰ったら、米軍管理下で生活しなければならなくなるが、その制約にめげることなく、新しい生活手段をみつけ、皇国再建のために鋭意努力してもらいたい」と訓示した。

しかし、下級将校と兵卒は樺太あるいはシベリアに、堤師団長以下の中・高級将校はヨーロッパに抑留されることになった。




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