平家物語の俊寛と有王の話しは有名だが、知るのは有王ひとりで、信憑性は心もとない。
近代の戦もそうゆう面が結構あり、
占守島の戦いの日本兵は多かったが(1万数千)、ソ連との停戦交渉では、立ち会った人数すら確認されていない。
正使であった杉野巌少将は、シベリア拘留を経て笠岡市に住み、戦後は隠居的な平穏な生活で一生を終えた。
杉野少将の日記が残され、発見される事が期待される。現代史の大きな資料に成るのは間違いない。
「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防記」 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記
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グネチコ中将はニコリともせず、高圧的だった。
日本軍の武器引き渡しの手順、ソ連海軍が片岡湾に入る、など7ヶ条の文書が渡された。
長島は、
「軍使は杉野少将が正で、柳岡参謀長が副使です。グニチョコが”イエスかノーか“えらい剣幕で迫ってきた。
こうして杉野軍使以下の一行は19日午後8時ごろ、大観台に帰着した。
19日夕、戦車隊はふたたび師団参謀に後退を命じられた。
柳岡大佐は、すぐさま千歳台に進出していた師団長・堤中将に電話で報告した。
堤中将は“明日行って取り消してこい”と、
堤中将は、停戦したのち、武器引き渡しを交渉するのが手順だという。
8月19日夜、戦闘はまだつづいていた。
旅団司令部から、大観台に終結せよと命令が下った。
午後10時、撤退開始。
占守島の武装解除は、一日延びて8月23日に三好野飛行場で行われた。
その日正午、小雨そぼ降るなか、杉野巌少将は、1万3千の将兵を前に最後の別れの閲兵を行った。
総員、南西にむかって直立不動の姿勢をとり、遥拝したあと君が代を斉唱。
〈将兵は、流れ出る悲憤の涙を如何ともすることができなかった〉
やがて現れたグネチコ少将と杉野少将が握手をした。
戦車隊の須田准尉は現れず、軍刀を前に拳銃自殺した。
将兵の遺体収容は、再三交渉の結果、ようやく9月なかばに許された。
遺体の確認と埋葬が行われた。
移動可能な大砲や小銃は島から消え、壊れた大砲だけが残った。
12月8日より、将校が出航した。
着いたところはナホトカだった。
将校は軍刀を没収され、それぞれのラーゲルに送られることになる。
近代の戦もそうゆう面が結構あり、
占守島の戦いの日本兵は多かったが(1万数千)、ソ連との停戦交渉では、立ち会った人数すら確認されていない。
正使であった杉野巌少将は、シベリア拘留を経て笠岡市に住み、戦後は隠居的な平穏な生活で一生を終えた。
杉野少将の日記が残され、発見される事が期待される。現代史の大きな資料に成るのは間違いない。
「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防記」 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記
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グネチコ中将はニコリともせず、高圧的だった。
日本軍の武器引き渡しの手順、ソ連海軍が片岡湾に入る、など7ヶ条の文書が渡された。
長島は、
「軍使は杉野少将が正で、柳岡参謀長が副使です。グニチョコが”イエスかノーか“えらい剣幕で迫ってきた。
こうして杉野軍使以下の一行は19日午後8時ごろ、大観台に帰着した。
19日夕、戦車隊はふたたび師団参謀に後退を命じられた。
柳岡大佐は、すぐさま千歳台に進出していた師団長・堤中将に電話で報告した。
堤中将は“明日行って取り消してこい”と、
堤中将は、停戦したのち、武器引き渡しを交渉するのが手順だという。
8月19日夜、戦闘はまだつづいていた。
旅団司令部から、大観台に終結せよと命令が下った。
午後10時、撤退開始。
占守島の武装解除は、一日延びて8月23日に三好野飛行場で行われた。
その日正午、小雨そぼ降るなか、杉野巌少将は、1万3千の将兵を前に最後の別れの閲兵を行った。
総員、南西にむかって直立不動の姿勢をとり、遥拝したあと君が代を斉唱。
〈将兵は、流れ出る悲憤の涙を如何ともすることができなかった〉
やがて現れたグネチコ少将と杉野少将が握手をした。
戦車隊の須田准尉は現れず、軍刀を前に拳銃自殺した。
将兵の遺体収容は、再三交渉の結果、ようやく9月なかばに許された。
遺体の確認と埋葬が行われた。
移動可能な大砲や小銃は島から消え、壊れた大砲だけが残った。
12月8日より、将校が出航した。
着いたところはナホトカだった。
将校は軍刀を没収され、それぞれのラーゲルに送られることになる。