しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

武漢作戦

2019年07月22日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

「第百一師団長日誌」伊東政喜中将の日中戦争 中央公論社 2007年発行より転記

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武漢攻略戦の発動

1938年(昭13)6月18日、初秋に漢口を攻略する方針が示された。
その背景には、同時に実施される広東攻略作戦と合わせて、実質的に中国を支配し得ると考えられたこと、またソ連の参戦はないと判断された。
7月末の日本陸軍の師団34個の配置は、
北支9個師団
中支14個師団
満州9個師団となり、対峙する極東ソ連軍20個師団と比べ著しく劣勢になった。

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武漢作戦の結果

日本軍は1938(昭13)年10月27日、目標の武漢三鎮の占領に成功したが、目的とした蒋介石政権の打倒はならなかった。
そこで陸軍は諜略耕作によって、国民政府内の親日派の中心である汪兆銘を離反させて蒋政権切り崩しをもくろんだ。
しかし汪につづく中国側の動きはなく、汪は日本の庇護のもとに日本占領地の南京に親日政権を樹立する。
地域住民の支持も少なく、44年に病死した。

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