しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

明治維新と国家神道① 【福山市史】

2017年01月18日 | 江戸~明治
明治維新と敗戦で神社は二度大きく変わった。

「福山市史 下巻」より転記する。

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神仏分離
明治2年、神仏分離は全藩的に実施され、典式以下が回村して仏体改めを行った。
寺院にある妙見・弁天・大黒天・鬼子母神などの像はこれまでどおり寺院に管理させ、
神社の仏体および神体と称していたものはすべて寺院に引き渡し、鏡か幣帛(へいはく)を新たに勧請させて神体とし、祭典を行わせることとした。
また神社にある寺院は移転させ、以後は僧侶が入ることを厳禁した。

神道の国教化
明治3年、天皇崇拝中心の神道を国教化しようとする新政府は、伊勢神宮を頂点とする各社の社格を定めた。
官社(官弊社と国弊社)
府県社
郷社
村社
および無各社の5段階の社格がそれで
各郡に一郷社、ほぼ各村に一村社とした。それ以外は無各社とした。

氏子札と御札
政府の神社保護政策は、神道の信仰、民衆の教化というイデオロギー的任務を強制するだけでなく、民衆の直接的掌握という実質的役割を期待した。
その代表が「氏子調べ」であろう。
これは旧幕時代の寺請制度の継承で、神社をして戸籍制度を補完させ、全国民を神社の氏子として掌握しようとするものであった。
神社が、生国・氏名・住所・生年月日・父名を書いた札を発行したが、政府の意図に反し無理な段階であった。1年ほどで中止された。

キリスト教と教派神道
明治6年、諸外国からの批判の前に、キリシタン禁止の高札は撤去された。文明開化を標榜する政府としては、キリスト教布教を黙認せざるをえなかった。明治8年には信教の自由も保証された。
明治10年代、政府は神社神道を国家の祭祀として一般の宗教から分離し、国家神道として確立する政策をとるようなった。
この過程で幕末以来の民衆的新興宗教が教派神道として別派独立することが認められていった。

コメント
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