しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

御真影を守る小学生

2017年01月03日 | 昭和20年(終戦まで)
校長先生は児童の命を守ることよりも、写真1枚無事の方が重大任務であった時代がある。
では実際に空襲の際、どのような行動をとったのであろうか?

下記は、深安郡引野町の引野小学校の事例。
被災から守るため奉安殿はコンクリート造りであったが、写真は疎開していた。
疎開から戦災まで4ヶ月間あるが児童の当番は継続し、
校長先生、他の先生は駆けつけず生徒だけが駆けつけた。

先生にとって、生徒の生命は虫けら同然だったようだ。

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「引野町誌」より転記する

これは「引野町誌」に長くその心根(こころね)を書き残さねばならぬと思われることがある。
高等科1年生であったF君とS君は警戒警報が発せられると学校へ向けて一目散に走り出していた。
いざという時のために御真影奉安殿の防護を命ぜられていたからである。家から500mも駆けだしたところ突然閃光がして大地が照らしだされ、次の瞬間立ち昇る真紅の火焔、「宇山がやられたぞ」という間もなく「グワッ、ザーザー」という音がして無数の火焔が降り注いできた。
思わず身を伏せ、一瞬気を失ったがまた駆け出し、燃え上がっている無数の焼夷弾の火柱を見ながら学校を目指して走ったが、学校は既に火の海であった。
後日分かったことであるが、校舎から離れた場所にあった奉安殿は被災を免れ、御真影は4月4日に竹尋国民学校に疎開されていたという。


コメント
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