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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」閑かさや岩にしみ入る蝉の声  (山形県山寺)

2024年08月19日 | 旅と文学(奥の細道)

40年ほど前に、会社の慰安旅行で初めて、知らないまま「山寺」に行った。
なんで、わざわざ、日本全国のどこにでもある”山の寺”に行くのか?
それが不思議だった。

行ってみると、
これはすごいお寺だ。
山をくるぐる石段を上って登山のよう、
しかも参道の左右、上下、その雰囲気や眺めがいい。
芭蕉が有名な句を、ここで詠んだのもうなずける。
自分も一句詠もうと思った。(思っただけ)

芭蕉の時代も、現代も、立石寺(山寺)は見る価値がある、
特に”眺め”と”岩”がいい。健康にもいい。

・・

 

・・・

旅の場所・山形県山形市大字山寺「立石寺」  
旅の日・2019年6月29日          
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

 

・・・

「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

山形領に立石寺と云ふ山寺あり。
慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地也。
一見すべきよし、人々のすすむるに依りて、尾花沢よりとつて返し、
其の間七里ばかり也。
日いまだ暮れず。
梺の坊に宿かり置きて、山上の堂にのぼる。
岩に厳を重ねて山とし、松栢年旧り土石老いて苔滑かに、
岩上の院院扉を閉ぢて物の音きこえず。
岸をめぐり岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行くのみおぼゆ。

閑さや岩にしみ入る蝉の声

・・・

・・・


「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

しづかさや岩にしみ入蝉の声

これは名句としてよく知られていて、出てくる場所はどこか、鳴いている蟬はにいにい蝉だとか、
蝉しぐれのように鳴いているのか、一匹だけが鳴いているのか、とかいろいろな意見がある。
そして多くの人々の研究によって大体の定説ができている。
静かさを表現するのに閑という一文字で言い放ち、それを岩に対比しているのだから、
蝉しぐれのような騒がしい鳴き方ではない。
山形市山寺にある宝珠山立石寺がそうだというのだが、その寺の名前と芭蕉の句は不思議に響き合っている。
人の行かない、打ち棄てられたような山寺で蝉の声だけが己を主張しているが、
それも山寺の静寂のなかで、むしろ無力でさびしいと芭蕉は感じた。
弟子の曾良が書きとどめた最初の一句はつぎのようだった。
山寺や岩にしみつく蝉の声

・・・

・・・

「日本詩人選17 松尾芭蕉」 尾形仂  筑摩書房 昭和46年発行


閑かさや岩にしみ入る蝉の声

旅中、山寺での吟。
『おくのほそ道』きっての絶唱の一つに数えられる。
山寺と通称される宝珠山立石寺は、東北きっての天台宗の名刹で、慈覚大師入寂の地として知られるが、
当時、寺領千四百二十石、約百万坪に及ぶ境内は全山凝灰岩より成り、山門より 奥の院まで、おおむね石階をもって畳まれている。
芭蕉がここを訪れたのは、元禄二年五月二十七日(陽暦七月十三日)のことで、
その際、曽良の『俳諧書留』に「立石寺」と前書して見える、
山寺や石にしみつく蝉の声

 

・・・

 

 

(JR仙山線「山寺駅」の駅前)

・・・・


「山寺」は山形県の、ひなびた山の中にあるお寺ではなくて、
県都・山形市にあり、宮城県仙台市かも交通便利な場所に位置している。

 

・・・

 

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「奥の細道」眉掃きを俤にして紅粉の花  (山形県)

2024年08月18日 | 旅と文学(奥の細道)

紅花は山形県の”県花”に指定されている。
紅花は江戸時代に最上川沿岸で大隆盛したが、明治になって突然衰退した。
現在は観光用に少し栽培されている。

時期は、岡山県でいえば綿花に似ている。
一瞬で衰退したといえば、塩田もイ草もそうだ。
煙草や除虫菊や薄荷や養蚕も、今はない。

現在では「紅花」を偲ぶことしかできないが、
芭蕉は、紅花隆盛期の、しかもその開花時に最上川を訪れている。

 

・・・

「紅花(べにばな) ものとの人間の文化史」 竹内純子著 2004年 法政大学出版


江戸初期から栽培された最上山形の紅花は、色素が豊富で特に京都西陣の染織物に勧化され、
衣類の華美となった元禄のころから需要を増し、
輸出量は「最上千駄」といわれ、豊年のときは千三百駄にのぼったといわれる。
これらの積荷は最上川は舟で下り、酒田港で大船に積み替え、敦賀に入り、京都や大坂に輸送された。

紅花は花も葉も薊(あざみ)に似る越年草で、秋に種を蒔き、7月に花を咲かせる。
花は枝の末(先端)から咲き始め、その花弁を摘むので「末摘花」という異名が生まれた。
紅花は染料と顔料の二つの面を持つ、これは植物のなかでは紅花と藍だけである。
染料を得るため「寝かせ」という発酵の過程があり、熱を嫌うという共通点がある。

藍と紅花は相違点がありながら、その後は明暗を分けた。
藍は木綿と相性がよいことから仕事着から普段着まで用いられたが、
紅染は絹に染めつくため庶民の普段着用にならなかったのである。

紅花は葉や茎を乾燥して煎じ、民間薬として飲用され、間引きした紅花は茹でて食用にしていた。
種は油料である。
栽培の人たちは「紅花は捨てるとこがない」といわれていた。


芭蕉は奥の細道のどこで紅花を見たのか

尾花沢では紅花栽培はほとんど行われなかった。
芭蕉は尾花沢で10日間を過ごした。そのうち3日は清風宅で、あとの7日は養泉寺だった。
この間、雨の日が多かった。
芭蕉は尾花沢から立石寺に向かうのだが、楯岡村までは清風が用意してくれた馬で行った。
山形領に立石寺という山寺あり。慈覚大師の開祖にて、殊に清閑の地なり。
一見すべきよし、人々のすすむるによりて、尾花沢よりとってかへし、その間七里ばかりなり。

芭蕉が紅花を見たのは、尾花沢から立石寺に向かう道中であろう。

・・・

 

「NHKラジオ深夜便」 2014年7月号

ベニバナ 紅花

古代から地中海周辺で染料と薬用に栽培し、紅色を染める技術とともにシルクロードを経て、中国、日本に伝わった。
「紅藍花」は中国名、日本では「呉の藍」から紅と呼び、色の名にもなった。
摘んだ花を水に浸けて黄色い色素を除き、搾った花にアルカリ性の灰汁を注ぐと濁った赤い色となる。 
これに酸性液を入れると、一瞬で鮮紅色に変わり布を染められる。
これを沈殿させて作るのが紅で、
江戸時代の女性は貝殻などに塗ってあるものを小指に取り、唇につけた。
おちょぼ口が美人であった。
時には厚く塗ることが見栄で、美しく見せようと苦心した。


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旅の場所・山形県寒河江市「さがえサービスエリア」
旅の日・2022年7月10日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


・・・


「山形県の歴史」 山川出版 昭和45年発行

最上紅花の発展

紅花は、相模・出羽・上総・筑後・薩摩が産地だが最上山形がもっとも良質とされた。
最上紅花が全国の約半分を占めていた。

紅花は豊凶の差がはなはだしく、日照りや花どきに多雨があると半作にも達しない。
農民にとって貨幣収益がよく、換金作物だった。

紅花作には金肥が必要であり、摘み取り期の労働力の制約があり、規模拡大には限界があった。
農民が収益をあげられるのは、農民みずから干花加工を行った場合である。
花摘みから花餅まで一ヶ月、女・男・子供・賃労働者で行った。

紅花商人
前期の商人で代表は、紅花大尽といわれた尾花沢の鈴木清風であろう。
芭蕉の「奥の細道」でも紹介されている。
後期に栄えた紅花商人の多くは、現在の金融・商業界の中心的存在といってもいい。


全国にその名をはくした“最上紅花”は、幕末に支邦紅が輸入され、明治に入り化学染料が輸入され、衰退していった・・・・
商業・金融・木綿・絹・瀬戸物・書籍まで多様な営業内容で、質流れ旧地を獲得する形で、土地集積は進んだ。

 

・・・

「日本の城下町2東北(二)」 1981年3月ぎょうせい発行


山形市の築城と城下町づくりは最上義光によって行われた。

義光は最上川の三難所を削岩させ船便をひらいた。
山形を玄関として、幕府天領米・藩米は最上川を下って酒田から海路・江戸に送られ、
西回り航路がひらけると最上産の紅花・青そなどが京都・大坂・奈良へとおくられるようになる。
返り荷には、塩・砂糖をはじめ瀬戸物・太物・古手物・操綿・木綿などが送られてきた。

最上川水運がととのったのは寛文(1596~1673)にかけてである。
京都や奈良へ紅花・青その交易に先鞭をつけたは近江商人で、日野系と八幡系。

紅花は陽暦でいえば7月はじめから咲きだし、15日間くらいで終わる。
農家が朝早く摘んだ生花を、サンベと呼ばれる買人が買い集めて、山形の花市に持っていって加工する。

享保の頃、京都の花問屋が生産地で直接買い取りをはじめた。
そのころ、生産者農家も、自分の庭で花餅をつくるものが増えてきた。

明治初年、化学染料が輸入され出した。

 


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


まゆはきを俤にして紅粉の花


芭蕉は五月十七日、山刀伐峠を越えて尾花沢に鈴木清風を訪ね、十日間滞在。
手厚いもてなしをうけて二十七日に立石寺に向かった。
この旅の途中で「紅粉の花」が一面に咲いているのを見て詠んだものであろう。

季語「紅粉の花」は夏五月。
婦人が白粉をつけたあとの眉を払う化粧道具である眉掃きを連想させるような形状で咲いている紅粉の花は、
まことに可憐で美しい、の意。
本文では、清風の人柄を賞し、厚遇を謝したあとに発句四句を並べているのだが、
紅花問屋を営んでいた清風に対する挨拶と解することもできようか。

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「日本詩人選17松尾芭蕉」  尾形仂 筑摩書房 昭和46年発行


「眉掃をおもかげにして紅粉の花」の紅粉花は、『源氏物語』の「末摘花」である。
これらの句々の配列を貫くものは、
奥羽山系の横断を果たすことによって出羽の風土に発見した「古代」への賛歌という発想でなければならない。 

 

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「奥の細道」涼しさをわが宿にしてねまるなり  (山形県尾花沢)

2024年08月17日 | 旅と文学(奥の細道)

山刀伐峠。
芭蕉と曾良が命からがら峠越えした”最大の難所”。

峠の名からして恐ろしい。
反脇差を腰に差した若者が道案内をした
”今日こそ必ず危あやうき目にも遭うべき日なれ”と心細く後をついて行った。

峠を無事に越えて尾花沢に着いた。
この町には紅花大尽・清風が、芭蕉が来るのを待っていた。

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旅の場所・山形県尾花沢市  
旅の日・2019年6月30日
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「日本詩人選17 松尾芭蕉」 尾形仂  筑摩書房 昭和46年発行

涼しさをわが宿にしてねまるなり


元禄二年五月十七日(陽暦七月三日)、芭蕉は山刀伐峠の険を越えて、
奥羽山系の横断を果たし、羽前国北村山郡の尾花沢(今の山形県尾花沢市)に到着、
土地の豪商鈴木清風の厚遇のもとに二十七日までここに旅の足を休めた。

句はこの滞在の間に巻かれた清風・曽良・素英・風流との五吟歌仙の発句として披露されたもので、
険路を踏破した後、ひとときの清閑の宿りを得やすらぎの思いがおのずからにしてにじみ出ている。

季語の「涼し」は、「清風」の号にちなみ清風亭の涼風を賞するとともに、また、
あるじ清風の、富貴にして俗塵を離れた胸中の清涼をたたえる挨拶の意を寓したもの。
同じく「わが宿にして」にも、わが家にでもいるような気持でということの中に、
あるじの好意にまかせきり、 その清閑の情にあやかって、との含蓄がある。

一句の句眼ともいうべき「ねまる」の語義については、
江戸期の注釈書以来、諸家に説々あり、「坐る」「寝る」の両義いずれを取るかで論が分かれているが、
多くの用例を加えて従来の 諸説を徹底的に再検討し、
これを「坐る」の義と断じた山田孝雄博士の「ねまるなり」の考が最も従うべきであろう。 

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


山刀伐峠を越え尾花沢に入る

大雨のため、やむなく堺田の封人家で二泊した芭蕉は、快晴となっ 五月十七日、尾花沢へ向けて出立する。
寂しい山道を怖い思いをしながら山刀伐峠を越え、市野々、正厳 を経て、尾花沢の鈴木清風宅に入る。

 ●山刀伐峠 
芭蕉はこの峠越えを最も心細く感じ、今日は危険な目に遭うに違いないと予感した。 
若者を案内につけてもらったが、道はわかりにくく、樹木はうっそうとしてなお暗いという不気味さ。
しかも、ここては必らず、乱暴な事件が起こると聞かされて、芭蕉は生きた心地もなく峠を越えたようである。

 

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


尾花沢にて清風と云ふ者を尋ぬ。
かれは富めるものなれども、志いやしからず。

都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知りたれば、
日比とどめて、長途のいたはりさまざまにもてなし侍る。

 

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「山形県の歴史」 昭和45年山川出版社発行


涼しさを 我宿にして ねまる也


松尾芭蕉が尾花沢で、”紅花大尽”の清風にもてなしを受けた際の気持ちが句によく出ている。
最上地方の名産「紅花」はなぜ衰退したのだろう?


養蚕・生糸業の発展

”最上紅花”として全国に名をはくした村山地方の紅花が衰退したのは、
幕末に支那紅が輸入され、さらに明治にはいり、
廉価な新紅と呼ばれた化学染料”洋粉アニリン”が、大量に京都に輸入されるようになってからである。

河北町の明治3年の記録に「畑方は紅花もよろしからず。百姓一同大いに困りいりそうろう」とある。
明治3年の山形県の産額は1万2千貫目、その翌年は半分、やがて統計書から姿を消した。

いっぽう製糸・絹織物は飛躍的な発展をみた。

 

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【花笠音頭】

花の山形 紅葉の天童
雪を眺むる 尾花沢

の「尾花沢」は民謡に歌われる町だが、意外に小さな町並みだった。

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「奥の細道」蚤虱馬の尿する枕もと  (山形県封人の家)

2024年08月16日 | 旅と文学(奥の細道)

句から想像すると、奥羽山脈の山中に「ポツンと一軒家」。
芭蕉が一宿を借りたのは、農具も家畜も麦藁もいっしょになった農家の片すみに寝た。

そんなイメージだが、
県道沿いの便利な場所。
農家ではあるが大きな庄屋さん。
一宿ではなく、雨のため三日間逗留した。

今は旧有路家住宅(封人の家)という山形県の観光地となっている。
住宅は江戸初期のもので、昭和40年代に解体復元された。
土間には木造の馬がいて、
囲炉裏には本物の火が燃え、芭蕉の時代を偲ぶことができる。
県道の向かい側が駐車場で、
土産店やそば店があり、ドライバーたちの休憩所となっている。

 


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旅の場所・山形県最上郡  
旅の日・2019年6月30日              
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

蚤虱馬の尿する枕もと

五月十五日(陽暦七月一日)芭蕉は
尿前の関を越えて出羽国に入り、堺田到着、
「封人の家を見かけて舎を求」めた。
「封人の家」とは、辺境を守る家のことで、
当地で代々庄屋を世襲してきた有路家のことである。 
この夜の感懐を託したのが、「蚤風..」 の一句である。
季語は「蚤」で夏六月。
馬小屋にでも泊めてもらったように思われる句であるが、そうではない。

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

●封人の家(旧有路家住宅)
芭蕉も深沢、大深沢という難所に苦しみながら中山越を果たし出羽街道を出羽国へと入ってきた。
そして、日が暮れたために宿を求めたのがこの封人の家である。
「封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。」と、
芭蕉は書いているから、二~三日、雨のために滞在したことがわかる。
その折の句が「蚤虱馬の尿する枕もと」。


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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行

 

蚤虱馬の尿する枕もと

『おくのほそ道』の旅は、すべて風雅というわけではなかった。
尿前の関をすぎて出羽の国へ越えようとすると、関所の番人に怪しまれて、ようやく関を越えることができた。
さらに山を登っていくうちに日が暮れて、国境の役人の家を見かけて泊めてもらった。

この家は堺田にある旧有路家住宅・封人の家で、一般公開されている。
堺田は馬の産地であり、大切な馬は母屋のなかで飼われていた。
芭蕉は奥の座敷に泊まったが、入り口の脇にいた馬が小便をする音が家中に響いてきた。 
さんざんなめにあった。
馬の排泄音が枕もとでした
おまけに蚤がいるわ虱はいるわで、さんざんなめにあった。

尿と書いてバリと読ませる。
ここに尿の句をもってき たのは、「尿前の関」という地名からの連想で、芭蕉のつくり話。
読者が思わず笑ってしまい、「いやはや、大変なめにあったんだなあ」と同情するシー ンは紀行や歌仙に欠かせない。
有路家は江戸時代初期の建築で、国境を守る役人をしていた庄屋である。
寄せ棟造り広間型民家で、役場と自宅と宿を兼ねており、入ってすぐの土間に馬小屋がある。
芭蕉の句から連想されるような貧家ではない。
『おくのほそ道』の旅で、芭蕉が泊まった宿がそのままの形で残っているのはここだけであり、
史跡「封人の家」として、観光スポットとなっている。
家の前は観光バスが止まり、土産物屋や食堂が並んでいる。

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書いていて気が付いたが、
ノミもシラミもすっかり見なくなった。

この句を若い人に教える先生は、
人間の身体にまとわりつく小生物の説明から始めなければならない。(難儀な時代だ?、それともいい時代?)

 

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「奥の細道」五月雨の降りのこしてや光堂  (岩手県平泉)

2024年08月13日 | 旅と文学(奥の細道)

この東北旅行の時は天気に恵まれなかった。
しかし、中尊寺の濡れた参道を歩いているとき薄日が差した。
この旅行中で、初めて光と地面に影ができた。

この日は6月30日で、
芭蕉と曾良が中尊寺を訪れた旧暦五月十二日と一日違い。

何か芭蕉が歩き見た中尊寺と同じように感じ、
幸運を感じながら光堂を拝観した。

 

 

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旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町 ” 世界遺産” 中尊寺   
旅の日・2019年6月30日           
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


兼て耳驚かしたる二堂開帳す。
経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、
三尊の仏を安置す。
七宝散りうせて、珠扉風にやぶれ、
金の柱霜雪に朽ちて、既に頽廃空虚の叢と成るべきを、
四面新に囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、暫時千歳の記念とはなれり。


五月雨の降りのこしてや光堂

 

 

 

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


五月雨の降のこしてや光堂


芭蕉は平泉で、二堂、中尊寺の光堂 (金色堂)と経堂(経蔵)へ参拝した。
「経堂は三将の像を残し、光堂は藤原三代の棺を納め、三尊仏を安置している」とあるが、
経堂には三将(清衡、基衡、秀衡)の像はなく、「三将の経」(藤原氏三代の奉納した一切経)がある。
文珠菩薩、優塡王、 善哉童子の像があるので、それを三将の像と思いちがえたか。
光堂の三尊の仏は阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)である。
なにぶん芭蕉の実地取材は二時間しかなかった。

「四面新に囲て」は光堂を覆う鞘堂のことで、鎌倉時代、南北朝末に作られた。
光堂は、柱から床まですべてが黄金である。
光堂は黄金装置であり、黄金の内面が死であることを思いあわせれば、光堂は無常の棺である。

 

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「奥の細道」卯の花に兼房みゆる白毛かな  (岩手県平泉)

2024年08月13日 | 旅と文学(奥の細道)

兼房は高館で、義経夫婦が自害したことを見届けた。
その後、館に火を放ち、壮烈な最期を遂げた人。

そのことは【義経記】に記されているが、
現在では架空の人とされている。

 

 

 

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旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町 ” 世界遺産” 毛越寺(もうつうじ)   
旅の日・2019年6月30日           
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


曽良は増尾十郎兼房の奮戦の有様を想像していた。
兼房は初め大納言久我時忠の臣であったが、時忠の娘が義経の正妻となったので乳人役であった兼房は義経の臣となった。
高館最後の日に、泣く泣く義経の妻子を刀にかけ、館に火を放ち、
長崎次郎を死出の道連れにして猛火に飛びこみ、壮烈な最後をとげた。
六十三歳の老齢であった。
折から咲き乱れる卯の花を見ると、白髪をふり乱して奮戦した兼房の姿が、髣髴と眼前に現われてくる。
そこでこういう句を作った。

卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良

卯の花を白毛に見立て、幻想的な趣向、芭蕉の句の余韻・・・をひびかせているといえるかも知れない。

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「奥の細道」夏草や兵どもが夢の跡  (岩手県平泉)    

2024年08月12日 | 旅と文学(奥の細道)

源義経は子どもの頃のヒーローだった。
大人になってくると、兄頼朝が義経を排除した理由もよくわかってくる。
それでも義経はヒーローでありつづける。
それが平均的な日本人の義経への思いであり、
そして今も、義経の死後800年とつづいている。

この句の「兵ども」とは、義経および藤原三代の栄華を指している。

・・・

 

三代の栄耀一睡の中にして、
大門の跡は一里こなたに有り。
秀衡が跡は田野に成りて、金鶏山のみ形を残す。
先づ高館にのほれば、北上川南部より流る々大河なり。
衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落人る。
康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。

さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」
と、笠打敷きて、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな  曾良


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旅の場所・岩手県西磐井郡平泉町「高館」  
旅の日・2019年6月30日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

夏草や兵どもが夢の跡


芭蕉は五月十三日、一関より平泉におもむき、
高舘・衣川・衣の関・中尊寺・光堂・和泉が城・桜川・桜山・秀衡屋敷跡などを見物しているが、
その際の高舘における感懐をまとめた作である。

・・・

 

・・・

「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


今高館にのぼってみると、夏草がのび放題にぼうぼうと茂っている。
それは修羅の巷を思わせるような乱雑な感じである。
ここは昔兵どもが功名を立てようと奮戦して、失敗に終った夢の跡である。
広く考えれば、この平泉に居を占めて、栄華を誇った藤原氏の夢の跡といえるかも知れない。
功名も栄華も結局一場の夢にすぎない。
悠久な自然に比べると人間のしわざはまことにはかないものである。
芭蕉はこういう感慨をこめて、

夏草や兵どもが夢の跡

という句を作った。 
杜甫の詩「春望」に、
国破 山河在
城春草木深
感時花濺涙
とうのがある。
全くその通りであると、時刻のうつるのも忘れていた。


・・・

・・・

「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行

夏草や兵共がゆめの跡

『おくのほそ道』としてまとまった「紀行」を論ずるのはあとにして、まずこの名句に触れてみたい。
 義経の一党も藤原家の人びとも、功名も栄華も今はなくなって、 一場の夢となった。
なつ草が茂るという現実の出来事は毎年繰り返されて続いているが、人事はすぐ消えてしまう。
人事、つまり義経や藤原家の夢である。

人びとの夢と、ひらがな漢字混用のなつ草とでは人間の栄華のあとのほうが強く表現されすぎていて、
つまり歴史の出来事が強すぎてなつ草が弱い。 
夏草や兵共が夢の跡
そこで、「なつ草」を漢字の「夏草」にしてみると釣り合いがとれる。
表現のすごさは、「夢」を「ゆめ」というひらがなにしたことにある。

 

・・・

 

「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


夏草や兵どもがゆめの跡


「夏草や」とくれば、多くの日本人がこの句を思いうかべるほど、広く知られている。
東北線の平泉駅で下車して、義経の居館があった北上川を見おろす高館という丘へ向かう。 
標高六七メートルの低い丘へ登ると、雑草が生えた広い河原をへだてて青い山々が見え、「夏草や」の句碑が建っている。

詩人杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」からの引用である。
最後の部分を「城春にして草青みたり」と変えた。
広い草原の河原は、かつては藤原一族の邸宅があ ったところだ。
丘をさらに登ると、義経堂があり、義経像が祀られている。
義経はこの高館を居館とし泰衡の軍勢に襲われて討ち死にした悲劇の武将で、芭蕉は義経をことのほか敬愛していた。

『ほそ道』の旅で圧巻となる平泉へは、五月十三日(陽暦で六月二十九日)の一日だけ、 一関からの日帰りであった。


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「奥の細道」松島や鶴に身をかれほとゝぎす   (宮城県・松島)

2024年08月12日 | 旅と文学(奥の細道)

”松島”は、はっきり言って瀬戸内海地方に住む人にとっては、景勝地ではない。
普通の景色。

だが日本では古くからの名勝地であり、
芭蕉もたいへん旅の楽しみにしていた場所。
しかも、眺めにあまりに感動して句を詠めなかった。
奥州の入口、白河の関でもそうだった。
感動して句が出ない。

そのへんに俳聖と称される芭蕉先生の、親近感のある人間性を感じる。

 

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旅の場所・宮城県松島町  「日本三景松島」
旅の日・2019年7月1日                
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


松島や鶴に身をかれほととぎす

「鶴に身をかれ」といったのは、あるいは曽良が自分に向って言い聞かせた言葉かも知れない。
鶴に身を借りて、この松島湾の上を飛び廻ったら、どんなに楽しいことだろうと、心ひそかに思ったかも知れないのである。
とにかく「鶴に身をかれ」という言葉からして、松島の大景がくっきりと浮びあがり、そこに鶴を点することによって、
塵界を遠く離れた仙境にまで想像の翼をひろげることができる。 
観念的な何といえばいえるだろう。
しかし芭蕉は曽良の句としてこれを高く評価した。
芭蕉も句を案じて見た。
何らしいものができないことはなかったが、それは自分で満足するようなものではなかった。
夜も更けてくるので、句は断念して床に就こうとしたが、すばらしい風景が目の前にちらちらしてなかなか寝つかれなかった。

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「超訳芭蕉百句」 嵐山光三郎  筑摩書房 2022年発行


仙台から塩竈へ行く途中の塩竈街道の奥に「おくのほそ道」という旧道があり、これは 三千風が調査して名づけた古道であった。 
仙台市岩切の東光寺から東への道が「おくのほそ道」だが、いまは泉区から通じるアスファルト道路になっている。
そのさきの多賀城は、 奈良時代に蝦夷鎮圧のためにおかれた国府跡で、朝廷の基地であった。
芭蕉が涙が落ちるばかりに感動したという壺の碑は、格子窓の覆堂に包まれて南門跡に建っている。
一説に は偽碑といわれる。
そのあと、塩竈神社、松島へ行き、瑞巌寺は「のこらず見物」した。

松島は『ほそ道』の序文で「松嶋の月先心にかゝりて」と書いている。芭蕉が一番行きたかった地である。
「旬が浮かばず眠ろうとしたが眠れない」と告白している。
あまりに絶景のために句が生まれない、という。
それで、曾良の句として、

松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす

を書き留めたが、芭蕉の吟である。
松島では、鶴の姿に身をかりて鳴き渡ってくれ、ほととぎすよ、というよびかけで、
松に鶴は付合いである。


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「奥の細道」あやめ草足に結ばん草鞋の緒   (宮城県多賀城市)

2024年08月11日 | 旅と文学(奥の細道)

仙台で出会った画家の加右衛門という人は、親切を絵に描いたような人で、風流心もある人だった。
仙台を発つとき、お金持ちでない加右衛門は、気持ちのこもった手土産を呉れた。
芭蕉にとって理想的とも言える想い出の町と人となった。

 

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旅の場所・宮城県多賀城跡  
旅の日・2019年7月1日          
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

名取川を渡って仙台に入る。
あやめふく日也。
旅宿をもとめて、四五日逗留す。
ここに画工加右衛門と云ふものあり。
聊か心ある者と聞きて知る人になる。
この者、「年比さだかならぬ名どころを考置き侍れば」とて、
一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるる。

あやめ草足に結ばん草鞋の緒

<中略>

壺碑(つぼのいしぶみ) 市川村多賀城に有り。
つぼの石ぶみは高サ六尺余、横三尺斗。苔を穿ちて文字幽也。

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


五月四日(陽暦六月二十日) 岩沼に武隈の二木の松を見て、夕方仙台にはいった芭蕉は、
画工加右衛門と知合いになり、宮城野の歌枕を案内してもらったが、
その上、仙台を立つ前夜には 「ほし飯一袋、わらぢ二足」をもらった。

折から端午の節旬なので、家々の軒には無病息災を祈ってあやめ草がかざしてある。
私は紺の染緒の草鞋をもらったので、この草鞋の緒を結んで、前途の無事を祈りながら旅立つことにしよう、の意。
「あやめ草」は、端午の節句に風呂に浮かべる菖蒲のことで、花菖蒲の類ではない。
「紺の染緒」はマムシがきらって寄りつかないという。いずれも無事を祈るという点で共通性がある。

 

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


あやめ草足に結ばん草鞋の緒

「あやめ」は花菖蒲やはなあやめではなく、端午の節句に軒端にふいたり、しょうぶ湯にしたりする菖蒲である。
花の色は黄緑色であって紺色ではない。
葉に芳香がある。
折から端午の節句なので、家々では軒端に菖蒲をふいている。
自分は住むに家もなく、行雲流水の身であるから、いただいた草鞋の紺の染緒に菖蒲を結んで、邪気を払い、
道中の平安を祈ることにしましょう、といって感謝の気持をあらわしたのである。

芭蕉は加右衛門に会えたのが何よりも嬉しかった。
芭蕉は日光の宿で仏五左衛門という無知無分別な人に接して感銘したが、この加右衛門も朴訥な人柄であった。
紺の染緒のついた草鞋だの干飯だの海苔だのを持参し、これから行く先々の名を絵にかいて贈ってくれたりした。
価にしたら何ほどの品物でもなかったが、真情がこもっているので有難かった。

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「奥の細道」笠島はいづこ五月のぬかり道   (宮城県笠島)

2024年08月11日 | 旅と文学(奥の細道)

西行法師も訪れ、一句を残している笠島。
雨とぬかり道で、ここまで来ながら、笠島を断念した芭蕉。
その芭蕉の残念さが、読むこちら側まで伝わってくる。

 

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


笠嶋やいづこ五月のぬかり道

中将実方の塚のある笠島はどの辺だろう。
ぜひ行って見たいと思うのだが、このぬかり道ではどうにもならない、
残念なことであるというのである。
「笠嶋や」は後になって「笠嶋は」と改めた。 
「や」 も「いづこ」も疑問の意があり、それが重なり過ぎて、旬が重くなる。
それに「笠嶋や」ではせせこましい感じであるが、
「は」とすると何となくおおらかで余韻があるように思われたのである。

この句にはさまざまな感慨がふくめられていた。
その一つは藤中将の塚をどうしても訪ねてみたいという懐古的な気持である。
もう一つはぬかり道をとぼとぼと歩いて疲れきった現実の気持である。 
この二つの入り乱れた気持をユーモラスな気持でかぶせているのである。 

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旅の場所・宮城県宮城郡  
旅の日・2019年6月29日              
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

笠嶋はいづこさ月のぬかり道

五月四日(陽暦六月二十日)陸奥国名取郡増田(いま宮城県名取市)のあたりで、
笠島を訪ねたかったけれども、
「此の比の五月雨に道いとあしく、身つかれ侍れば、よそながら眺めやりて過ぐる」
に際して詠んだ句。
「笠島」は藤原実方の塚や道祖神社、西行ゆかりのかたみの薄のある村里で、
芭蕉は是非とも行ってみたいと思っていた。
しかし、折から五月雨(梅雨) の季節で、ぬかる悪路、それに疲れてもいるので、
どの辺が笠島なのだろうかと、遙かに見やるだけで通り過ぎた。

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