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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「奥の細道」風流の初めやおくの田植歌  (福島県白河市)

2024年08月10日 | 旅と文学(奥の細道)

かつて福島県いわき市に住んでいた。
いつか地元紙に県内で一番多い句碑は
「松尾芭蕉の”風流の初めやおくの田植歌”で、その数は22~23碑である」
という記事が載ったことがある。

松尾芭蕉の句碑は、全国に約4.000碑あるそうだ。
笠岡への来歴はないが、もちろん笠岡市にも芭蕉の句碑はある。

この”風流の初めやおくの田植歌”は、さすがに福島県にしか建っていないだろうな。
しかも、福島県の関東寄りの地に限定だろう。

 

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旅の場所・福島県白河市白河城と阿武隈川(東北新幹線車窓)  
旅の日・2022.7.10                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


風流の初やおくの田植うた

白河の関址を越えて陸奥国にはいった芭蕉は、四月二十二日須賀川に相楽等躬を訪ねた。
「白河の関いかがこえつるや」と聞かれて芭蕉が示したのがこの発句で、
等躬・曽良と続けて三吟歌仙を巻いている。 

季語 は「田植歌」で夏五月。歌枕巡歴とい う風流行脚で、最初に聞くことのできた陸奥の田植歌は、
まことに興趣深く、風流なものであったよ、の意。

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「日本の古典11・奥の細道」 世界文化社 1975年発行

須賀川 

とかくして関を越えて行くうちに、阿武隈川を渡った。 
左に会津の鍵が高く、右に岩城・相馬・三春の庄があり、
この国と常陸・下野の国との境界を作って山が連なっている。
影沼というところを通ったが、今日は空が曇って ものの影が映らない。
須賀の駅に等鰯という者を尋ねて、四、五日留められた。
彼はまず「白河の関はどんなお気持で越えられましたか」と問うた。 
「長旅の辛労で、身心ともに疲れ、その上風景のよさに魂を取られ、懐旧の情に断腸の思いで、 
はきはきと心も思いめぐらしませんでした。


風流のはじめや奥の田植うた

(白河の関を越えて、みちのくに足を印した私たちにとって、
みちのくでの最初の風流は、鄙びた田植唄を聞くことであった。)

何も詠まずに越えるのもさすがに無念なので、こんな一句を作りました」


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「奥の細道」かさねとは八重撫子の名なるべし  (栃木県那須野)

2024年08月09日 | 旅と文学(奥の細道)

「奥の細道」にはときに、小さな物語りのような紀行文がある。
なかでも那須野で出会った小娘の話と、越後の宿で会った遊女の話はしみじみとした味わいがある。

那須野の少女はその情景が目に浮かぶようだ。

 

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旅の場所・栃木県那須塩原市 
旅の日・2018年8月4日(車窓)                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


那須野は北に那須岳、西に高原山、東に八溝山にかこまれた広野で、狩猟の地として知られていた。
道というほどのはっきりした道はなく、それも縦横にわかれているのですっかり途方に暮れてしまった。
そのうち草を刈る男を見つけた。
「この馬を貸してあげよう。
乗ってさえおればよい。馬がとまったら、そこでおりて、こちらに向けて尻っぺを一つぶってください。
馬はひとりでにここへ帰ってくるからな」

芭蕉を乗せた馬は、ぼくぼく歩いて行った。
いつのまにか子供がふたり現れて、芭蕉たちのあとについてきた。
ひとりは小娘で、かわいらしい顔をしていた。
曽良が名前を尋ねると「かさね」と答えた。


かさねとは八重撫子の名なるべし   曽良


広い野原を通りぬけて、馬はぴたりと足をとめた。
芭蕉は馬からおりた。
そして馬に向って、「御苦労だった。ほんとに助かりましたよ」
と、人にものをいうように、お礼をいった。
そして草刈男の好意に報いるために、馬の駄賃を鞍壺に結びつけて、その首を野原の方へ向けて、尻を二つ三つ叩いた。
馬は満足したような様子で、いま来た道を帰って行った。

小娘のかさねのことは、いつまでも芭蕉の印象に残っていた。
翌年たまたま知人から名付親を頼まれて、その子にかさねの名を与え、これに因んで一文を草した。


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「奥の細道」剃捨てて黒髪山に衣更 (栃木県日光市)

2024年08月08日 | 旅と文学(奥の細道)

曾良は本名を河合惣五郎という侍だったが、
出立の朝、髪を剃った。
旧暦では4月1日が衣替えの日で、
芭蕉と曾良が日光を訪れたのは旧4月1日だった。

 

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旅の場所・栃木県日光市
旅の日・2004年6月26日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

剃り捨てて黒髪山に衣更  曽良

黒髪山は男体山である。
古木が多くて黒々としているので、この名があるということだが、
山をふり仰いでみると、霞がかかってそろそろ夏の季節に入るというのに、ところどころに雪が残っている。

曽良は黒髪山という山の名から、剃り捨てた黒髪を思い起した。
黒髪を落し墨染の衣に着換えて、旅に出たのであるが、黒髪山の麓まで来たら、
ちょうど四月朔日で、夏物に衣更えすることになった。 
いまさらのように、俗衣を僧衣にかえた日の思い出がよみがえったというのである。
曽良は河合氏、名は惣五郎、芭蕉庵の近くに住んでいて、芭蕉のために薪水の労をとっていたが、 
今度の旅に同行を希望して、髪を剃り墨染に姿をかえ、名も宗悟と改めた。

その夜は日光上鉢石町の五左衛門という者の家に泊った。
鉢石は神橋に近く、宿屋や土産物店の多いところである。大へんむさくるしい宿であったが、
宿の亭主の五左衛門は親切な人で、夕飯でも風呂でも自分でなにくれと面倒をみてくれた。
そしていうことには、
「わたしのあだ名を仏五左衛門と申します。部屋は汚のうございますが、どうぞ安心してお泊りください」
芭蕉はいかにも正直そうな亭主の顔をながめながらうなずいた。

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かつて「奥日光パークマラソン」という人気のマラソン大会があった。
その大会に初出場で日光を訪れた。
コースは戦場ヶ原から小田代原、中禅寺湖の湖畔と日本を代表するハイキングコースを20km走る。
マラソン風景がきれいで嬉しくなるほど気持ちのいいマラソン大会だった。
それから3ヶ月ほどして「マラソン大会は今回で中止となりました」という知らせが届いた。

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「奥の細道」あらたうと青葉若葉の日の光 (栃木県日光市)

2024年08月08日 | 旅と文学(奥の細道)

高校の修学旅行は「東京」と「九州」の二つのコースがあり、自由選択だった。
東京は「東京・日光」が恒例だったが、どういう訳か自分の年は「東京・信州」で日光に行けなかった。
当時は、関西以西に住む人にとって、日光は旅行地として北限だった。
当時は、「日光見ずにけっこーゆうな」と言われていた。
自分も、はやく一度日光を見て、一人前に「けっこうじゃなあ」と言う事を言ってみたかった。

それから数十年を経て、やっと日光に行く機会があった。
日光は、感激するほどきれいな「けっこー」なところだったが、
腰を抜かすほど見物料が高かった。

 

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旅の場所・栃木県日光市二荒山神社・日光東照宮  
旅の日・2004年6月26日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行


あらたうと青葉若葉の日の光

『おくのほそ道』に出てくる一句であるが、これを作るにも苦労があった。
「日の光」は日光という場所を指すとともに、現実の太陽光ともとれる二重表現である。
これは日光東照宮への挨拶句でもある。
新緑の森を、青葉の新鮮な緑と若葉の黄金色に分かち書きにして、
天の与えた美景を十全に表現した俳句になった。
日本語の表現の美にうっとりとさせられる。

 

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行


あらたうと青葉若葉の日の光

四月一日東照宮に「詣拝」した時の吟である。
季語は「若葉」で初夏四月。 
ああ、まことに尊く感じられることよ。
この青葉若葉が降りそそぐ日の光に輝いている様子は、の意。
「日の光」は、初夏の太陽光線であるとともに、地名の日光を詠みこんだものであるが、
東照権現・徳川幕府の威徳に対する賛嘆の気持ちもこめられている。


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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

あらたふと青葉若葉の日の光


この句には東照宮を讃美する気持がふくまれている。
徳川家の御威光が八荒にあふれ輝いている。 
尊いことだ有難いことだと、偉人の恩沢を讃美しているのである。
それから東照宮の荘厳な建物を讃美する気持も含まれている。
青葉若葉につつまれた東照宮が金碧燦爛と輝き、その上に初夏の日がまぶしく降りそそいでいる。
りっぱなことだ、尊いことだといっているのである。

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「奥の細道」行春や鳥啼魚の目は泪  (東京都・千住大橋)  

2024年08月07日 | 旅と文学(奥の細道)

2022年7月、初めて千住大橋を渡った。
京成電鉄の「千住大橋駅」からJR「南千住駅」まで歩いた。
道中は至るところ芭蕉や日光街道や大名行列の絵図等があって、
千住に来たという実感がした。

 

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「奥の細道の旅」 講談社 1989年発行

千住大橋 

文禄三年(一五九四) 隅田川で最初に架けられた木橋。
当初は単に大橋と呼ばれたが、下流に両国橋ができたので、千住大橋と呼ばれた。
長さ91.7m、現在の鉄骨の橋は関東大震災の復興事業で昭和2年に架け替えられた。
芭蕉が送ってくれた人々と、涙の別れをしたのもここである。

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旅の場所・東京都足立区~荒川区  千住大橋        
旅の日・ 2022年7月13日                  
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行


舟が千住に着いたのは巳の下刻(午前十一時頃)であった。
ここは奥羽街道、日光街道の最初の宿駅で、江戸日本橋から陸上二里八丁のところである。
隅田川にかかっている千住大橋は文禄三年(一五九四) 五月伊奈備前守が奉行として普請したもので、
橋上は人馬が絡繹として絶間がない。
橋から一、二丁隔てたところに駅舎があった。
魚市や野菜市で賑わっていた。
芭蕉たちはここに暫く滞在して、 諸所の席に招かれたりして、江戸の名残を惜しんだ。

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

いよいよ千住を出発したのは、三月二十七日(陽暦五月十六日)の早朝であった。
芭蕉と曾良の扮装は、一蓋の菅笠、一本の杖、墨染の衣に頭陀袋、脚絆、草鞋というような道心者姿であった。
いよいよこれから前途程遠い旅に出るのだと思うと、さすがに芭蕉の心も動揺した。
どのみちこの世は夢幻のようなもので、今別れを惜しんでいる千住の町筋も、幻のにすぎないと思うと、
離別もそれほど悲しむべきことではないかも知れない。
だがいざ巷に立って別れようとすると、いまさらのように惜別の涙がこぼれおちるのであった。
芭蕉は、

行く春や鳥啼き魚の目は泪

という句を、矢立の筆でさらさらとしたためて見送りの人に渡した。
折から陰暦三月下旬で、春ももう暮れて逝こうとしている。
春が去り行くのを惜しんで、鳥は悲しげに啼き、魚の目は涙でうるおっているように見える、というのである。
魚の目を見ると、実際泣いたようにうるんでいるが、芭蕉は千住に上って店頭の魚を見て、そういう感じをうけた。
その印象がこういう表現をとらせたのである。
惜春の情をよんだ句であるが、それだけではなく、見送る人々に対する惜別の情がこめられている。 
見送る人を魚に、自分を鳥になぞらえるというような強い意味をもたせたわけではないが、
「行く春」という言葉に、旅に行くという気持を託し、旅に行く人もそれを見送る人も、一緒になって離別の涙を流して別れを惜しんでいる、
そういう情景を句にしてみたのである。
芭蕉は涙もろい詩人で、その心情は折にふれてはげしく昂揚することがあったが、その涙にはいぶし銀のような静けさがあった。
それは沈痛な人生観によって濾過された珠玉のような涙であった。

いつまで別れを惜しんでも、際限のないことなので、芭蕉は人々に向って、
「それでは行ってまいります」と挨拶した。
人々は涙をそっとかくすようにして、
「道中お気をつけて」
「どうぞ、御機嫌よう」
「お帰りをお待ちしております」
と口々に別れを惜しんだ。

芭蕉も曽良も後ろ髪を引かれるような思いで、みちのくの旅の第一歩を踏み出した。
日光街道は北へ北へとのびているが、東海道とは違って、なんとなくうらぶれた感じである。
道路も狭く、凹凸もあって、小鮒などを焼いている店さきには、草がぼちゃぽちゃ生えていた。
しばらくして後ろをふりかえってみると、見送る人々は帰ろうともせず、釘づけされたようにじっと立っていた。
自分たちの後ろ姿が見える限りは、いつまでも見送るつもりなのだろう。


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「街道をゆく・本所深川」  司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行

千住大橋

千住大橋がみえてきた。隅田川がまがっている両岸の低地を千住という。
江戸から奥州(あるいは日光や水戸)へゆく最初の宿があったところである。

江戸時代、幕府は隅田川に五橋を架けた。
千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋。

千住大橋は江戸時代を通じ、幾度か架け替えられたが、洪水で流出すということは一度もなかったといわれる。
家康が架けた千住大橋は、架けられてから二百七十四年後の慶応四年四月十一日、
最期の将軍慶喜がこの橋をわたって退隠の地である水戸にむかったとき、江戸がおわった。


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「奥の細道」草の戸も住替る代ぞひなの家  (東京都江東区・芭蕉記念館分館)

2024年08月07日 | 旅と文学(奥の細道)

(はじめに)

笠岡市竹喬美術館で、数年前に「奥の細道句抄絵」展があった。
作品や、その下書きの絵が展示され、絵画の迫力を堪能した。
小野竹喬画伯が全霊を込めて描く姿を、勝手に想像をさせてくれた。

その時、美術館で「奥の細道句抄絵」の冊子を購入した。
その本を家でひろげていると、自分もその世界に少し浸りたくなった。

 

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旅の場所・東京都江東区常盤   「江東区芭蕉記念館分館」  
旅の日・2022年7月13日                 
書名・奥の細道
原作者・松尾芭蕉


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「わたしの芭蕉」 加賀乙彦 講談社 2020年発行


『奥の細道』

芭蕉の散文が日本語の表現として、いかに優れて、いかに美しいかを体験していただきたいので、
『奥の細道』の冒頭の文章を示す。
みなさんに原文を何度か読み返し、その日本語の美を味わっていただきたいからである。


月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮べ、馬の口 とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を住みかとす。
古人も多く旅に死せるあり。 
予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず。 
海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘蛛の古巣を払ひて、やや年も暮れ、春立てる霞の空に、白河の関越えんと、
そぞろ神のものにつきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず。
股引の破れをつづり、笠の緒つけかへて、三里に灸すゆるより、松島の月まづ心にかかりて、住めるかたは人に譲り、杉風が別墅に移るに、
章の戸も住替る代ぞひなの家
表八句を庵の柱に掛けおく。

 

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「芭蕉物語」  麻生磯次 新潮社 昭和50年発行

草の戸も住み替る代ぞひなの家

住み荒した汚ない草庵であるから、もう住み替ることもあるまいと思っていたのに、時世時節でいつかその時が来るものだ。
新しい居住者は今までの世捨人とはちがって、妻も娘もある賑やかな家庭で、のぞいてみると、雛人形が飾られている。
これが世の中の転変の相なのだ、と感じたのである。 

 

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「声に出して読みたい日本語」 斎藤孝 草思社 2001年発行

「おくのほそ道」  松尾芭蕉

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
予もいづれの年よりか、 片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、・・・

 (おわりに)

いま、暗誦文化は絶滅の危機に瀕している。
かつては、暗誦文化は隆盛を誇っていた。
小学校の授業においても、暗誦や朗誦の比重は低くなってきているように思われる。
••••••歴史のなかで吟味され生き抜いてきた名文、名文句を私たちのスタンダードとして選んだ。
声に出して読み上げてみると、そのリズムやテンポのよさが身体に染み込んでくる。
そして身体に活力を与える。
それは、たとえしみじみしたものであっても、心の力につながってくる。


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