「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
(笠岡商業90年史)
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲に備えて待避壕がほられた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童の保護が最重点だった。
20年の4月ごろからは、連日昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、登・下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空頭巾を頭いっぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。
工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。
阪神地区で被災したりして、岡山県内へ縁故疎開をしてくる児童・生徒は日を追って増加した。
生徒が学徒総員で出動してあいた校舎が工場や軍の施設として使用されることになった。
井原高等女学校は呉の海軍病院が、勝間田農林学校には熊本陸軍予備士官学校が再疎開したのをはじめ、全県にわたり20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、まるで学校が校舎を借用しているかのようであった。
昭和10年代になると、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校、海軍経理学校などを志願する中学生がしだいに増加した。
管費で陸海軍将校になれる学校は、学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力でもあった。
12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、中等学校4年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、学校にその出願者の割り当てまでする状況となった。
18年8月1日から行われた甲種飛行予科練習生徴募試験において、願書は2.312通であった。
その内訳は
矢掛中 251
勝山中 120
岡山一商 114
岡山市商 104
吉備商 98
津山商 90
津山中 82
興譲館中 79
高梁中 76
天城中 70
岡山二中 69
金光中 68
興譲館商 63
閑谷中 54
笠岡商 51
(50名以下は略)
(笠岡商業90年史)
海軍に対抗して、陸軍も18年から特別幹部候補生制度を設け、
戦車、通信、高射砲、鉄道、船舶、航空の中堅幹部を養成した。
18年兵役法の改正により、徴兵年齢が1年引き下げられ19歳となり、
大学、高等学校等の生徒に適用されていた徴兵猶予の特権が文科系にはなくなり、現役兵として入営する生徒もでてきた。
18年12月のいわゆる学徒出陣がこれにあたる。
教練と配属将校
大正14年4月、陸軍現役将校配属令が制定せられ、教練教授要目ができ、
男子の中等学校、高等学校、専門学校、大学等に体操とは別に教練が課せられた。
学校における教練の実施状況を査問するため、査問規定が定められた。
この査問は、教練成績の評定だけなく、学校全体に対する評価と考えられていたので、
各学校では査問成績を競った。
教練の行事として、
野外練習、県下中等学校連合演習、軍隊兵営宿泊訓練、実包射撃、狭窄射撃(きょうさくしゃげき)、軍事講話などが行われた。
配属将校は軍直属で学校の教職員との間に、生徒指導の面で各県ともトラブルが起き、学校運営上難渋したことが多かった。
学校長の理想と、未熟で一徹な配属将校の要請との間にしばしば食い違いが起こった。
しかし、校長が配属将校に命令する権限はなかった。
軍隊的規律
15.16年頃から児童生徒は2列縦隊にならび、上級生のもとに通学するようになった。
教師に対してはいっせいに挙手の礼を行い、職員室に入るときは氏名を名乗り、命令を受けたら必ず復唱していた。
女子の学校でも体育に武道(薙刀)が採用され、体操も教練式で閲兵。
16年の中等学校入学生から、男子の制服はスフ地の国防色、制帽は戦闘帽で、ゲートル着用となった。
教師の長髪も少なくなり、国防色の国民服が制服化した。
国民学校も中等学校と変わらないようになった。
学校報国団
15年9月、文部大臣は校内を報国精神に基づく心身一体の修練施設として団体たらしむことを指示した。
16年3月、文部次官は報国団組織を結成し、団長(校長)のもとに総務、鍛錬、国防訓練、学芸、生活その他の部がおかれ、
各部にはいくつかの班がおかれた。
多くの中等学校では、学年で中隊を組織し、学級は小隊となった。
岡山2中では1.2年生で第一大隊、3.4年生で第二大隊を編成した。
こうして報国の名を冠した団体は、産業界からマスコミに至るまで各界にひろく及んだ。
社長以下工員に至るまで全体を隊編成するありさまであった。
軍需工場における集団勤労作業は、18年から断続的に行われた。
津島の陸軍兵器補給廠(岡山医大、六高、二中、一商など)、上井福海軍衣料廠(真備女)、倉敷絹織岡山(六高、市内中等学校)、三菱重工業水島航空機製作所(興譲館中、倉敷工)
倉敷絹織倉敷(生石女)三井造船、九州耐火煉瓦、品川白煉瓦、岡山駅などに出勤。
空襲化の御真影
空襲化の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には
市内公私立中等学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡馬屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし、準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。
焼失した学校の生徒の多くは、郡部の縁故を頼って行った。
残った通学可能な生徒を集めて分散授業や青空授業をしたが、出席したのは1~2割だった。
もっとも災害のひどかった深柢国民学校は、午前6時最後に校庭の一隅に立つ相撲場が引火類焼して僅かに奉安殿
を只一つ残したのみである。
児童の死亡49名、行方不明11名計60名の小さい魂を失った。
(笠岡商業90年史)
児童や女学校生徒は防空頭巾を携帯して登校した。
女子は活動の便からモンペをはくようになった。
学校では空襲に備えて待避壕がほられた。
学校の建物は敵機の目標になりやすいので少しでも分散させるのが安全であり、家庭へ避難する訓練もたびたび行われた。
しかし、学校の防空訓練は御真影の奉護と児童の保護が最重点だった。
20年の4月ごろからは、連日昼夜の別なく警戒警報、空襲警報が発令され、登・下校中も油断できなくなった。
夏に綿入れの防空頭巾を頭いっぱいかぶり氏名、血液型を記した布を胸に縫いつけたスフの洋服を着て学校に通った。
工場に動員中の生徒も、警戒警報のたびに避難するので、実働時間は半減していた。
阪神地区で被災したりして、岡山県内へ縁故疎開をしてくる児童・生徒は日を追って増加した。
生徒が学徒総員で出動してあいた校舎が工場や軍の施設として使用されることになった。
井原高等女学校は呉の海軍病院が、勝間田農林学校には熊本陸軍予備士官学校が再疎開したのをはじめ、全県にわたり20年4月以降の学校は軍隊か工場に使用され、まるで学校が校舎を借用しているかのようであった。
昭和10年代になると、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍経理学校、海軍経理学校などを志願する中学生がしだいに増加した。
管費で陸海軍将校になれる学校は、学資にめぐまれない優秀な中学生には大きな魅力でもあった。
12年9月から海軍甲種飛行予科練習生制度が設けられ、中等学校4年修了者を入隊させ、多数の中堅幹部を養成することとなった。
太平洋戦争の拡大により、ますます航空戦力が必要となり、海軍の勧誘もいよいよ急となり、学校にその出願者の割り当てまでする状況となった。
18年8月1日から行われた甲種飛行予科練習生徴募試験において、願書は2.312通であった。
その内訳は
矢掛中 251
勝山中 120
岡山一商 114
岡山市商 104
吉備商 98
津山商 90
津山中 82
興譲館中 79
高梁中 76
天城中 70
岡山二中 69
金光中 68
興譲館商 63
閑谷中 54
笠岡商 51
(50名以下は略)
(笠岡商業90年史)
海軍に対抗して、陸軍も18年から特別幹部候補生制度を設け、
戦車、通信、高射砲、鉄道、船舶、航空の中堅幹部を養成した。
18年兵役法の改正により、徴兵年齢が1年引き下げられ19歳となり、
大学、高等学校等の生徒に適用されていた徴兵猶予の特権が文科系にはなくなり、現役兵として入営する生徒もでてきた。
18年12月のいわゆる学徒出陣がこれにあたる。
教練と配属将校
大正14年4月、陸軍現役将校配属令が制定せられ、教練教授要目ができ、
男子の中等学校、高等学校、専門学校、大学等に体操とは別に教練が課せられた。
学校における教練の実施状況を査問するため、査問規定が定められた。
この査問は、教練成績の評定だけなく、学校全体に対する評価と考えられていたので、
各学校では査問成績を競った。
教練の行事として、
野外練習、県下中等学校連合演習、軍隊兵営宿泊訓練、実包射撃、狭窄射撃(きょうさくしゃげき)、軍事講話などが行われた。
配属将校は軍直属で学校の教職員との間に、生徒指導の面で各県ともトラブルが起き、学校運営上難渋したことが多かった。
学校長の理想と、未熟で一徹な配属将校の要請との間にしばしば食い違いが起こった。
しかし、校長が配属将校に命令する権限はなかった。
軍隊的規律
15.16年頃から児童生徒は2列縦隊にならび、上級生のもとに通学するようになった。
教師に対してはいっせいに挙手の礼を行い、職員室に入るときは氏名を名乗り、命令を受けたら必ず復唱していた。
女子の学校でも体育に武道(薙刀)が採用され、体操も教練式で閲兵。
16年の中等学校入学生から、男子の制服はスフ地の国防色、制帽は戦闘帽で、ゲートル着用となった。
教師の長髪も少なくなり、国防色の国民服が制服化した。
国民学校も中等学校と変わらないようになった。
学校報国団
15年9月、文部大臣は校内を報国精神に基づく心身一体の修練施設として団体たらしむことを指示した。
16年3月、文部次官は報国団組織を結成し、団長(校長)のもとに総務、鍛錬、国防訓練、学芸、生活その他の部がおかれ、
各部にはいくつかの班がおかれた。
多くの中等学校では、学年で中隊を組織し、学級は小隊となった。
岡山2中では1.2年生で第一大隊、3.4年生で第二大隊を編成した。
こうして報国の名を冠した団体は、産業界からマスコミに至るまで各界にひろく及んだ。
社長以下工員に至るまで全体を隊編成するありさまであった。
軍需工場における集団勤労作業は、18年から断続的に行われた。
津島の陸軍兵器補給廠(岡山医大、六高、二中、一商など)、上井福海軍衣料廠(真備女)、倉敷絹織岡山(六高、市内中等学校)、三菱重工業水島航空機製作所(興譲館中、倉敷工)
倉敷絹織倉敷(生石女)三井造船、九州耐火煉瓦、品川白煉瓦、岡山駅などに出勤。
空襲化の御真影
空襲化の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には
市内公私立中等学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡馬屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし、準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。
焼失した学校の生徒の多くは、郡部の縁故を頼って行った。
残った通学可能な生徒を集めて分散授業や青空授業をしたが、出席したのは1~2割だった。
もっとも災害のひどかった深柢国民学校は、午前6時最後に校庭の一隅に立つ相撲場が引火類焼して僅かに奉安殿
を只一つ残したのみである。
児童の死亡49名、行方不明11名計60名の小さい魂を失った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます