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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学校の戦争末期の食糧増産運動 

2021年01月08日 | 城見小・他校
父が復員した時、村役場の裏畑に村民から供出の鉄のヤカンや火鉢が山積みされていたそうだ。
村では夜光虫は取ったが、何に使うのかも知らされなかった。
ヒマも栽培された割には使用された記録をみない。
大人から子供まで、そして兵士まで動員して採集した松根油も航空燃料として使わわれのか、または破棄されたのかよくわからない。

この記事↓には児童が木の実を集めて神島肥料に送ったとあるが、笠岡市史にはそれに関する記述はない。
児童が集めた実も、こっそり裏山に処分されたのだろうか?


・・・・・・・・・・・・・・・

戦争末期の食糧増産運動 


「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

戦争末期にいたると食糧不足は深刻となり、学校も総力をあげて増産運動に取り組むことになった。
児童生徒による樹実の採集出荷の努力を要請している。
椿の実をはじめとして、トチ、ナラ、クヌギ、アベマキ、ブナ、カシ、シイ、カシワ類等の植物いっさいにわたっており、
農山村の児童が中心になって採集に努力した。
発送先は小田郡神島外村神島人造肥料(株)となっていた。


(元・神島人造肥料)笠岡市神島外浦 2020.11.30


19年10月5日付けで、県は堆肥確保のための草刈り動員の文書を出した。
これは肥料事情の悪化にに伴い、自給肥料、特に堆肥の増産確保が緊急の要務となり、
政府が全国的に実施を呼びかけたもの。
国民学校は少年団、中等学校は報国団の運動として展開した。

岡山県の目標量は5.223万貫となっており、一人平均290貫で相当の負担であった。
農村の採草地をさけて採集する注意があったので困難であった。

初等科の児童は対象にならなかったが、それぞれ生産活動に協力した。
乾燥刈り、炭焼き、どんぐり集め、いも作り、豆作り、堆肥作り、
児童の力でできることは協力奉仕した。

運動場の周辺は掘り起こして畑にした。
いもや豆やヒマを栽培した。
ヒマは航空機の潤滑油にするというので、力をいれて栽培し供出した。
児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。


19年3月23日岡山県は次の事項を指示している。
学校敷地に関し、耕作しえる余地あるものは学校報国農場として利用する。
甘藷、馬鈴薯、大豆、蕎麦、玉葱、栗、黍。
昨年収穫の種子を活用。
肥料は配給なし。自給肥料の増産をなすこと。特に加里肥料は草木灰よりの他に方途なし、蒐集施用に務ること。
学徒は学校行事に支障ない限り勤労協力すること。

つづいて、11月7日。
「校地の高度利用に関する件」を指示し、
校地を高度に田園化することを至急実施されたい。

田園にすべき面積左の割合にて運動場を残し他を田園化す
中等学校
1.2年生徒の体操教練の最低面積
青年学校
中等学校に順ず
国民学校
初等科総数に対して1人当り0.8坪

食料農産物にを栽培する
至急作付けを行うこと





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笠岡高校沿革

2021年01月03日 | 城見小・他校
笠岡高等女学校沿革
 「笠岡高校70年史」 笠岡高等学校・編集部  凸版印刷  昭和47年発行



・・・・・

明治35年 笠岡町立笠岡女学校開校式(4.8)本科4ケ年160 技芸3ケ年60
明治44年 修学旅行、阪神地方へ行く


・・・・・・


大正7年 現在地大久保に校舎落成・移転
大正8年 笠岡高等女学校(・・・高等女学校令改正、就業は4年または5年)
    本科5ケ年750
大正11年 海水浴をはじめて行う(7.23)



(大正2年卒業)



(裁縫の授業・生徒は全員着物で頭は全員束髪)



(完成した校舎・昭和41年頃まで使用)




・・・・・・


昭和2年 屋内体操場落成
昭和3年 県立に移管 (4.1)
昭和4年 奉安殿落成
昭和11年 校歌制定
昭和19年 学徒動員により水島の航空機工場に出勤する(6.15)



(射撃訓練)



(ダンスの授業)




(昭和15年頃・勤労奉仕)




(神武天皇の高島の清掃)




(修学旅行は宮城、ずいぶん遠方まで行ったもの)




・・・・・・


昭和23年 岡山県立笠岡第二高等学校(4.1)
昭和24年 最後の旧制高等女学校の卒業式を行う(3.16)
     岡山県立笠岡高等学校千鳥校舎(9.1) 普通600 家庭300 定時制 160(←定時制35年廃止)
昭和28年 岡山県立笠岡高等学校(独立校となる)
昭和33年 運動場拡張事業はじまる 



(昭和25年度・笠岡高等女学校入学で笠岡高校卒業)



(昭和27年度・写真の左に男子生徒が見える)



(昭和42年度・新校舎での授業、窓の外に旧校舎が見える)


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戦中戦後の国民学校⑦大井国民学校

2021年01月02日 | 城見小・他校

(笠岡市立大井小学校)


大井国民学校
「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)



昭和10年 御真影奉安殿を建築す
昭和16年 小田郡大井国民学校
昭和20年 2個学級増加
昭和22年 高等科廃止
     大井村立大井小学校
昭和23年 1学級増加12学級(6.20)
昭和24年 本館2階西3教室壁造り完成(8.25)
     本館北側石垣工事完成、山ノ神奉仕(10.10)






・・・・

思い出  T子(旧職員)

昭和15年4月から昭和22年3月まで勤務でした。
然し勤務は大東亜戦争中であり、敗戦と続き、現在の児童には想像もつかない労苦と不自由を重ねて勉強をしていました。

私は勤務中7年間ずっと1年生を受け持ちしました。
その頃は幼稚園も保育園もなく団体生活は小学校が初めてでした。
親のそばを離れて泣く児童もいました。
2列に並ぶこともできず、最初は骨がおれました。



終戦前後の思い出  K男(旧職員)

勝つか負けるか、生きるか死ぬかの正念場、丁度昭和18年4月大東亜戦争の真最中、
新山校から大井校へ突然の転任、それから24年3月まで6ケ年勤務。

その間多数の勇士を村人とともに戦場へ送り出しました。
当時の村長、助役、収入役、農協組合長さん等の緊張された面影が次々と浮かんでまいります。

転任早々突き当たったことは、前年来受けていた県指定の戦時教育教育会場のことでした。
勝たねばならぬ戦争を、一方学問も道徳も芸術も尊い心を培う全人的教育理念のもとに国民教育を進めていかなければならぬ使命を背負っていたことで、
学校行事の取捨選択にも意を用いました。

戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び、
汗を流して国の方針に微力を尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。

昭和20年8月15日正午、
あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止め度もなく涙が流れ、職員室に入って何時間も机にかじりつき悲しくて動けなかった事が思い出されます。

戦後はマッカーサーの指令とかで、色々の命令が次々と達せられ今まで大切に使用していた掛け軸や図書は一纏めにして提出、どう処理されたか不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし、
国民の混乱は児童生活のうえにも反映して昭和21年22年は極度の動揺を来たし、学校経営の困難にも遭遇しました。

尚、在任中青年学校が吉田校へ組合立として参加したこと、戦後6.3制に当たって西中へ通うようになったこと、PTAを初めて作り多数の参加を戴いたこと等大きな出来事でした。




思い出 F男(昭和20年度卒業)

私たちの入学は昭和15年4月で、この年から学校の名前も国民学校と呼ばれるようになりました。
戦争、戦争の毎日が続き、勉強どころではなかった小学校時代でありました。

4年生の頃には、戦争も激しくなり、授業は午前中ぐらいで、午後は空襲にあった時の避難訓練をしたように思います。
土地の若いお父さんやお兄さん達が毎日のように戦争に狩りだされて行き、
その出征軍人さんを大井村の駅まで国防婦人の皆様と見送りに行くのが度々いや毎日のようにあったと思います。
全校生徒で先生につれられてお宮に参っていました。
そのうち、毎月8日はきまっていたように思います。

5年生の頃は戦況も悪化し、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生とともに六道の山へ開墾に行き、切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしたものです。
運動会もありませんでした。

6年生の時は、戦況は最悪でした。
初等科以外の学校では授業を1年間停止され、中学生、高等科の生徒は学徒動員として兵器を作る工場へつれていかれました。

卒業写真は私たちの学年だけありません、しかし71名全員健在で生活を送っています。




(初等科生徒)
戦時色濃く物資も乏しく女子は着物をたおして作ったモンペをはいて通学した




(高等科生徒)
男子は戦闘帽、ぞうりばきなどが印象に残る。後方に始業合図をした太鼓が見える



(青年学校女性徒)



・・・・



座談会

昭和中期生まれ

・開墾開墾で、小平井の分教場跡、六道、門田、鳴淵などへ鍬をかついでよくいった。
畑には芋やとうきびを植えて、学校でふかしたり、焼いて食べていた。
・運動場は大半が芋畑で、勉強も運動もなかった。炭焼きをして学校で使っていた。

・遊ぶことは少なかった。
・学校から帰れば、牛飼い、さなだ組み、子守、トラックや魚売りの押し子(才の神の坂を押してお金をもらう)
・出征兵士を吉浜まで送りに行った。大井出身の兵士は大井村駅まで旗をもってみんなで送ったものだ。



・・・・





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戦中戦後の国民学校⑥大島中国民学校

2021年01月01日 | 城見小・他校

(元・大島東小学校) 2019.4.12  笠岡市大島中



大島中国民学校 
「大島東小学校百年史」 昭和50年発行より



S11.11.1 二宮尊徳像を建てた

S15.11.10 紀元2600年記念式典を挙行

S16.4.1 大島中尋常小学校を大島中国民学校と改称した

S17.2.18 シンガポール島陥落戦捷祝賀式挙行
S17.-.- 二宮尊徳像を金属回収として供出した

S18.1.1 二宮尊徳像の石像を再建した
S18.4.- 運動場南側道路に面した境に築堤した

S19.-.- B29爆撃機が度々空襲し、授業を中断することが毎日のように続いた

S21.1.4 連合軍司令部の指令により、学校で神社参拝、神道による祭式儀式が禁止される

S21.4.- 電話加入(西大島13番)
S21.7.- 斜面流下式コンクリートの製塩施設を造った

S22.4.1 大島中国民学校を大島中小学校と改称した
S22.5.- 4大節の祝賀式が廃止された

S23.4.1 児童数が増加して7学級とした

S24.7.23 南校舎改築起工式---小烏・四軒家・農協正頭に分散して授業
     (昭和24年歴代最多の生徒数343人)

S25.1.- 新校舎できたので分散授業廃止した
S25.4.1 学級編成を8学級とした
S25.4.30 大島中小学校を大島東小学校と改称(新制大島中学校が設立で誤りやすいので)

S26.4.1 学級編成を9学級とした。(管理人記・以後は学級数減少。平成30年統合により廃校)





大島中校在職の思い出  N男(大島中国民学校校長)

大島中校に赴任したのは、昭和13年4月であった。
来てみれば南には広々とした海原を臨め、北には緑の山を背負って、風光明媚なところであった。

学校は6学級でこじんまりとしていて、首席訓導は温厚なA君が何かとよく事情を知らせてくれた。

在職中ほとんどが大東亜戦争中で、学校教育も戦時体制のもとに行われたので統制もあり、苦労も多かった。
すべての物資が不足で、食塩なども少なくて海水を代用した時代であった。
学校でも校庭の一部で製塩研究所を設けて、濃塩水を造っていたのを覚えている。

終戦後は、アメリカの進駐軍が、日本の軍国主義や国家主義などを根元から打ち壊すために、あらゆる方面ににらみをきかせて、
小学校にも米兵が視察に何時来るかも知れぬとの情報もあり、校内の整理を心掛けるなど、心配する日々があった。



大島東小の思い出   H男(元大島東小教諭)

一番なつかしいのは校庭の藤棚です。
美しい白い花房が風に揺れる頃、よくこの下で授業をしました。
木が大きかったので一学級の児童が入ることができました。

昭和20年になって疎開が激しくなり、この学区も疎開の児童が相当多くなって、私が受け持っていた4年生などは2人掛の腰掛に3人掛けさせても、まだ足らなくなり、
教壇に本やノートを置いて座って授業したこともあります。
習字の時間には2人掛でないと書けないので、廊下も使用していたほどです。
児童数は一学級80人くらいまでになっていたと思います。
机の間を通って巡視することなど出来ませんでした。

学校で一番困っていたのは台風で、台風が来るたびに海岸の通学路が流失しました。
児童の安全に帰宅させるために、上の農道や裏道を通らせました。
高波のしぶきが間の工場を越えて運動場へ来るのは台風の度ごとでした。

13年近くお世話になり、その上校歌まで私のものを採用していただいて感謝に堪えません。


・・・・・・・・・・・・・・・

下は大島中国民学校でなく”大島中尋常小学校”時代のもの







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戦中戦後の国民学校⑤神島内国民学校

2020年12月31日 | 城見小・他校

(神内小学校の坂道 2019.4.9) 笠岡市神島


神島内国民学校


「神島史誌」


昭和12年12月14日 南京陥落で旗行列

昭和13年10月28日 武漢陥落で旗行列

昭和14年1月10日 二宮尊徳の銅像を建つ
    4月4日 入学式 新入生=尋男19 女29 高男18 女25
    4月19日 尋5以上、金毘羅詣り

昭和15年8月 山林開墾
    10月13日 国民大会・大政翼賛・三国同盟で旗行列

昭和16年4月1日 神島内村第一国民学校と校名変更
    10月30日 神島内村実務女学校を廃止、生徒は青年学校に収容する

昭和18年9月1日 小田造船神島工場で短艇「かみしま」進水式行う
    9月9日 全児童ツベルクリン実施
    9月12日 神島内村青年学校は笠岡・今井・神島内村3ヶ村組合立で設置のため廃校となる

昭和19年5月16日 高の煉瓦工場へ奉仕
    5月17日 古江の煉瓦工場へ奉仕

昭和20年2月4~5日 松根油製造つくり奉仕
    4月18日 高等科生、東村の山林開墾に着手
    6月22日 米機空襲。機関銃弾、付近に数発落とす
    9月12日 在郷軍人会神島分会が解散式

昭和21年10月 教育勅語の廃止

昭和23年4月 6.3.3の新学制実施
    5月21日 女児に対しDDT散布
    7月15日 BCG接種

昭和24年12月16日 神島肥料従業員で内村出身者が寄付して二宮尊徳胸像再建

昭和25年4月6日 入学式、入学児は男37、女30。2学級。


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戦中戦後の国民学校④横江国民学校

2020年12月31日 | 城見小・他校

(元・横江小学校跡地 2019.12.15) 笠岡市横島

横江国民学校

「神島史誌」より


昭和14年2月12日 伊勢参宮旅行に出発。15日帰校。
    4月3日 6年生、高島宮に参拝
    7月31日 八幡巡り

昭和15年7月23日 母の会誕生

昭和16年3月8日 横江少年団(3年以上129人)
    3月12日 神島内村青年団結成に参加
    4月4日 入学式、男16、女15

昭和17年1月5日 6年生男女20名、伊勢神宮旅行、8日帰校。
        資源愛護のためドングリ収集を行い、出荷代金5円60銭を陸海軍に献金

昭和18年5月4日 4年以上の児童、笠岡町大和座でハワイマレー沖海戦映画を見学
    8月23日 4年以上勤労出動、野草刈り、堆肥の材料約二百貫
    9月6日 馬草供出
    11月27日 ヒマ繊維を採取、供出

昭和19年2月24日 女子挺身隊壮行式、本区より4名出発
    7月20日 海の記念日に片島海水浴場で少年団員、全員出席し手旗、水泳、音楽訓練

昭和20年4月4日 入学式。男15、女14.
    4月27日 5.6年生全員終日開墾
    5月5日と11日 敵飛行機、頭上通過
    5月27日 小体育会。午後、義勇隊の結成会。婦人会は竹槍訓練
    5月30日 3年生以上、前8時半より後3時まで大殿洲開墾作業を実施
    6月1日 開墾地約2畝完成。サツマ芋の植付け終わる。






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戦中戦後の国民学校③高島国民小学校

2020年12月30日 | 城見小・他校

(元・高島小学校) 2012.4.8 笠岡市高島


「学校誌~統合に寄せて~笠岡市立高島小学校」 昭和55年発行

高島国民学校


昭和11年5月 電灯が点ぜられた。ラジオの設置。
     8月 帝国大学名誉教授黒板博士神武天皇聖跡調査のため来校。
昭和13年7月 神武天皇聖跡調査のため文部省より保安課長来校。
昭和14年9月 毎月1日を興亜奉公日と定められた。
昭和15年4月 ご真影を奉戴した。
     6月 二宮金次郎の石像建設竣工、直ちに除幕式を挙行。
昭和16年4月 学生改革により「高島国民学校」と校名を変更した。
昭和19年4月 高等科を設置した。
昭和22年3月 学生改革により「国民学校」が廃止され、初等科6学年まで小学校に、
       高等科を中学校に改められた。
     4月 学生改革により「高島小学校」と校名を変更した。




おもいで
昭和21年度卒業生 Y男

昭和16年4月、男は黒土・高須・王泊から12人。女は1人、差出から1人。
計14人が国民学校1年生として入学した。

まもなく大東亜戦争がはじまり、先輩たちはどんどん戦地へ召集され、残されたものは、婦人と老人ばかり。
毎朝早く起こされ、先輩たちと神社参拝をし、武運長久を祈り、
冬は乾布摩擦をし、ズボン一枚でわっしょいわっしょいと走って帰った。
靴はなく素足か草履履きであった。
ならった歌は軍歌ばかり。
芋ほりをし、麦蒔きをし、麦刈りをして農繁期には学校は休みになり、お手伝いをしたものだった。
4.5年頃には開墾もどんどんやらされ、少しでも農産物をとみんなと一生けんめいだった。
そのため、野山から草刈り競争、堆肥をつくり、ドングリを広い、校庭で炭を焼き、防空壕堀りをし、ヒマシ油作り、思えば労働の連続だった。
百町の畑、末子の開墾畑、米子はことの他空しゅうの最中の開墾だった。
一列で下校中B29の飛来は、幼心にも戦争のきびしさを肌身に感じつつ精いっぱい働いたようだ。


複式授業だったので予復習はいつも夜学へ行ったものだ。
だれかが教えてくれた。
また、教育勅語を暗記させられたり、複式授業だから上級生の勉強も知らず知らずのうちに覚えた。
当時は正教員も少なく、代用教員が教えたりしており、質問をして困らせたこともあった。

学芸会や運動会、校庭での肉弾戦などさまざま楽しい思い出です。
5.6年生の頃は、全校生徒70名もいたと思う。そのころは本当に楽しかった。

当時は先生方は島に泊まって共に生活しておられた。
土曜日になると、神島まで船で送っていたものです。
4年生の頃から2.3人で櫓を漕いで、先輩に潮の流れを教えてもらって、風が吹いても平気で送っていったものです。
これも当時の生きた教育ではなかっただろうか。

5年生の8月15日に終戦。
6年生の時、私は進学を志し必死で勉強した。
でも本は焼かれ或いは墨で黒く塗られ、当時の恩師K先生の指導は大変だったと思う。
受験を目指して勉強している時、学校は6.3.3制になり、私たちは、この年から義務教育の新制中学で、神島外中学校に行くことになった。










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戦中戦後の国民学校②吉田国民学校

2020年12月30日 | 城見小・他校

(元・吉田小学校尾坂分校 2019.11.23) 笠岡市尾坂

吉田国民学校

「吉田小学校百年史」 平成12年発行より



昭和16年 学生改革、吉田国民学校と改称する 吉田国民学校尾坂分教場と改称する
昭和22年 新吉中学校創立に伴って高等科を廃止し、吉田小学校と改称する 吉田小学校尾坂分校と改称す
     ミルク給食を開始する


小学校の思い出 S子(昭和20年卒業)

昭和14年、私は尾坂分教場へ入学しました。
1.2.3年生全員50人が、1つの教室で1人の先生に受け持ってもらいました。
複複式学級です。
3年になると、1.2年生の勉強を半分聞きながら勉強をしました。

2年生の時、紀元2600年の式典がありました。この時の写真が1枚あります。
小学校の6年間で写真はこれ1枚だけです。

昭和16年小学校が吉田国民学校になりました。そして戦争がはじまりました。
当時電気製品は電球一個家の中にあっただけでなにもありません。

戦争が始まったのはラジオのある家におとなが集まって聞きました。
しばらくしてラジオを買いました。

そのうち尾坂から若いお父さんやお兄さんが戦争に出ていくようになりました。
私たちは氏神様にお参りして兵隊さんの武運をお祈りして関戸の切れ滝というところまで送っていきました。

服も食べる物も不足しそのうち配給になりました。
親が夜なべして藁草履を作っていくれて、それをはいて学校に行きました。

4年生になると本校に通います。
その頃になると吉田村から戦争に行った人が戦死され私たちは吉田駅から道へ並んでお迎えしました。
若い看護婦さんが戦死されてきれいな写真が遺骨とともに帰ってこられたときは涙がでました。
校庭で戦死者のお葬式を吉田中の人が集まってしました村葬といいました。

6年生の頃になると、この学校にもお友達が次々に疎開してきました。
都会からこられたお友達はきれいでよく勉強できて輝いてみえました。

昭和20年3月吉田国民学校を卒業しました。
修学旅行も卒業写真もありません。



”ロクな教師でなくてすみません” M子(元教員)

昭和7年4月から昭和21年3月まで勤務することなりました。
勤務していた当時は、満州事変が終わり、満州国の誕生。
5.15事件。
昭和12年支邦事変の勃発、国家総動員法の制定、隣組の制度化。
昭和16年大東亜戦争勃発。
軍事色一色の中での学校教育だったと思います。

先生と生徒は上下関係が厳然とし、終身という教科がしつけ・モラルが厳しく、
また操行という特別の人物採点基準があり、正直さ、真面目さなど生徒の生活態度を評価したものでした。
悪いことをする者にげんこつは当たり前のことでした。

私は6年の女子組を度々担当しましたが、きまって悩みの種は進学問題で、
笠女・淳和・鴨女などへ配分すること。
受験できない人の父兄と相談すること。教育として一番つらい苦い思い出です。









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戦中・戦後の国民学校①豊浦分校

2020年12月29日 | 城見小・他校

(元豊浦分校跡地)笠岡市北木島町豊浦


「北木小学校豊浦分校百年史」


北木国民学校豊浦分校

元職員 M男(昭和13~17まで勤務)

昭和13年9月、時あたかも日支事変勃発の翌年で、日本全体が戦争態勢になりつつあった年です。
5ヶ月間の死戦を越えての厳しい軍隊生活を終え、聖なる教壇に情熱ある若き教師として豊浦分校へ赴任したのであった。

校舎は、浜近くの小さな土手に面し、枇杷の木があり、片方は八幡様と小道一つ隔てていた。
校舎も窓枠は腐り、冬の授業は寒い季節風との戦であった。
10分間の休憩は楽しいひと時出であった。教師も生徒も輪をつくり大火鉢に枯葉を燃して暖をとったものです。
その間にいろいろな会話が生まれ、これが自然な教育かとも思ったものです。

春から秋にかけては、授業中も渚に打つ波の音、鳩の声、虫の音、のどかさがあって離島ならではの感もしばしばでした。

授業は二人の教師が各々二学級を持つ複式授業、
児童は純朴であり父兄側も協力的であった。


大潮の時は潮干狩り、陸釣り、沖釣り、漁火、砂浜での遊び、山登り、木の実取り、秋の貝ほり・・・。

村も戦火の拡大につれて応召者も多く石材の生産も減少し、
壮年、青年が一人、二人と減り親兄弟を亡くす家庭も増え、学徒動員、女子挺身隊の軍需工場に狩りだされ、召集兵の送還、送迎が忙しく、
学校教育も戦時色が強く、奉安殿の建設、二宮尊徳の勤勉力行、愛国戦士の崇拝となり、
音楽も、軍歌、愛国が巷にあふれ、のどかな平和教育はどこにもなかった。
通学もモンペ姿、困難耐乏の時代であった。




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阿部山の開墾

2020年12月29日 | 城見小・他校
阿部山の開墾


阿部山の開墾は、当時岡山県農業普及員をしていた父も作業指導で行っていた。

現在の浅口市・小田郡矢掛町・笠岡市の中等学校(観生女学校・生石女学校・金光中学・笠岡商業・笠岡女学校・淳和女学校)、
および一部の国民学校高等科。
それに当地の青年団が交替で出向いていたようだ。

父も交替で阿部山に出向いていた。新山に自転車を置いて、歩いて登っていたそうだ。

阿部山は高い山で、標高350~400mあり、開墾場所に行きつくだけで相当スタミナを消耗する。
笠岡女学校の生徒の話にあるように、2時間半かけて登り、開墾作業が40分というのもわかる。


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「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行

1941年(昭和16)阿部山開墾地鍬入式が横溝岡山県知事により行われる。
1942年(昭和17)阿部山の開墾始まる。


開拓事務所よりの戦線慰問文

伝説と史話に富んだ阿部山は今すべてを昔話として雨の日も風の日も開拓即食糧増産の敢闘が続けらていまうs。
ご承知の通り移住者戸数50、一百余名の鍬の戦士は意気高らかに振り絞る汗に唯一の感激と誇りを満喫しているのでごじます。
作付けは、葉煙草を筆頭に、小麦、馬鈴薯、甘藷、除虫菊、裸麦、果樹、百数十に及ぶの盛況にございます。
馬鈴薯の如きは処女地にて、反当り五百貫を超える収穫でございます。
去る3月末配電工事が完成、電力と電灯の恩恵を受けて文化都市にも劣らぬ動力の響きと煌々たる光が前途を祝福するかの如き輝いております。
天は努力する者に常に栄冠を與え給うの真理を体得して、益々皇国農民に徹すべく念願して止まぬものでございます。



観生高等女学校

昭和17年阿部山で大規模な開墾が始まり移住者が続々と入植した。
地元観生高女をはじめ岡山一中、高梁中、矢掛中、なども動員されて、山頂の荒地に開墾を挑んだ。

観生高女・学徒隊の阿部山勤労作業記録
昭和17.7.31 阿部山開拓勤労奉仕作業
昭和18.4.23 全職員生徒阿部山勤労奉仕作業
昭和18.8.21 阿部山奉仕作業
昭和20.4.21 阿部山開墾作業(全員)




鴨方西国民学校



高等科男子開墾






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「創立90周年記念誌」から

笠岡商業学校






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「もっと勉強したかった」---講演「水島航空機製作所へ学徒動員された女学生」
「岡山の記憶第18号」 岡山.15年戦争資料センター 2016年発行より転記


笠岡高等女学校


勤労奉仕は、わが家が人手不足でも出征されているお家に行きました。
開墾作業もしました。
阿部山というところに、2時間半かかって山の上まで行って、40分開墾してまた学校に戻ってくる。


 
コメント
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