平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 


時宗の開祖・一遍は、
河野七郎通広の次男、伊予国(愛媛県)の大豪族河野氏の一族です。
河野氏は平安末期から戦国時代にかけて、伊予水軍の中心となって活躍しました。
源平合戦では、ほとんどの瀬戸内水軍は忠盛以来の縁がある
平家軍の味方でしたが、河野通信(一遍の祖父)は、屋島の平氏が口説いても、
去就をはっきりさせませんでした。しかし、源義経が通信を
味方にひきいれることに成功し、河野水軍は150隻の軍船を率いて
壇ノ浦に現れ、熊野水軍とともに源氏軍を勝利に導きます。

一遍は10歳の時、出家し大宰府の聖達(法然の孫弟子)の弟子となり、
浄土教を身につけました。その後、長野の善光寺で
二河白道の図(浄土往生の図)を見て深く心を打たれ、
伊予の山中で三年間、称名念仏の修行に励みました。
一遍の教えは、阿弥陀仏を信じる信じないに関わらず「南無阿弥陀仏」という名号
そのものに絶対的な力があるとし、念仏さえ唱えれば誰でも救われると、
「南無阿弥陀仏」と書いた小さな札を配る賦算(ふさん)という方法で布教しました。
この札には絶対的な力があり、阿弥陀の仏像がなくても、どこででも
南無阿弥陀仏とさえ唱えれば往生するという都合の良い信仰形態です。
庶民には仏教の教義はとても理解できませんが、
一遍の教えは分かりやすく手っ取り早い方法でした。
踊り念仏も一遍がはじめたものです。名号を唱えながら鉦を叩き、
床を踏みならし踊ることによって往生すると信じ、
人々は我を忘れ有頂天になって踊り続けました。
賦算と踊り念仏によって時宗は、鎌倉末期から室町中期にかけて
庶民の仏教として熱狂的な広まりを見せました。

京都市新京極通りに面した染殿院に賦算遺跡の石碑がたっています。
かつて染殿院は、釈迦如来を祀っていたことから
四条京極の釈迦堂とよばれていました。
「一遍聖絵巻」によると、弘安七年(1284)閏四月、一遍は大津の関寺より
京都に入り、
四条京極の釈迦堂に7日間滞在しています。
賦算・踊り念仏はひろく人々に受け容れられ、一遍のもとに貴賎上下が
群れをなして集まり、「絵巻」は身動きできないほどの賑わいを描いています。

京都でも一番賑わう繁華街、新京極通
平日の早朝、まだ商店街のシャッターは閉まっています。

染殿院は四条通に面した京極派出所と甘栗和菓子・林万昌堂の間の
小路を入った突き当りにあります。



堂内に安置する本尊地蔵菩薩は秘仏です。
寺伝によれば、文徳天皇皇后藤原明子
染殿皇后)が本尊に祈願して
清和天皇を出産したといい、これに因んで安産守護の信仰が生まれました。

高野山から勧進のため諸国を廻った高野聖は、はじめは修行性の強い
道心ある(道を求める心を持っている)隠遁者でした。
平安時代中期に、熱心な阿弥陀仏信者の教懐が小田原谷に
住んだのが高野聖の祖といわれています。当時は末法思想を背景に、
南無阿弥陀仏と唱えることによって西方浄土から阿弥陀が迎えに来て
浄土へといざなってくれるという阿弥陀信仰・浄土信仰が隆盛を見せた時代で、
鎌倉初期に来山した明遍が蓮花谷聖を組織し、聖は高野山と極楽浄土との
結びつきを説いて廻りました。次いで五室(ごむろ)聖、萱堂(かやどう)聖とそれぞれ
性格を異にする聖集団が現れ、高野山における聖の勢力は強大なものとなり、
念仏が山上を覆い高野山本来の真言密教を圧倒する勢いでした。
高野山が北条政子を通して鎌倉幕府と密接な繋がりを持つようになると、
武家社会の新しい仏教、禅宗も入ってきました。こうして高野山は
寛容に他宗を受け入れ、宗派を超えた霊場となっていきました。
南北朝期の頃、一遍が高野山に登り、千手院谷で称名念仏を始め
念仏化をさらに進めました。一遍が山を下りた後も、一遍の教えを信仰する
千手院聖(時宗聖)が山に留まるとほかの聖集団の時宗化が進み、
高野聖はすべて時宗の聖となってしまいました。
そして高野聖はかつての道心と苦行と隠棲をすてて、遊行と勧進を中心に
賦算と踊念仏で諸国を廻り、高野山の信者を獲得していきました。
なぜそれぞれ特色のある聖集団が時宗の聖となったのでしょうか。
『高野聖』によると、時宗聖の勧進形態が進んでいたので、
他の高野聖は時宗の勧進方式を採用し、時宗の聖となったようです。

やがて娯楽的・芸能的色彩の強い踊り念仏は高野聖の俗悪化の要因ともなり、
信仰を隠れ蓑にして不正な商売をしたり、女性との噂を起こすものも現れ、
「高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな」などといわれ
厄介者あつかいされるようになりました。先の見えない混沌とした社会情勢の
戦国時代、勧進の成果を挙げにくくなったことから、高野聖の生活は困窮し、
商聖化して呉服聖とよばれたり、貼り薬や薬などを売る聖も現れます。
その頃、高野山では真言密教の二大学匠が現れ教学の充実が図られた結果、
聖の念仏や鉦の音に対して、
総本山金剛峯寺は高声念仏、踊念仏、鉦叩きなどを禁止しました。

高野聖の廃絶のきっかけとなったのが、戦国時代の信長高野攻めです。
摂津伊丹城主荒木村重は、織田信長に背き有岡城(伊丹市)に立て篭もり、
明智光秀や黒田官兵衛などの説得にも気持ちを変えることはなく、
一族や家来を置き去りにしたまま逃亡しました。
信長は裏切り者村重に対する報復に過酷な刑罰で臨みます。
女房衆を尼崎にて処刑、召使の女や子供、若衆など500人余を
4軒の家に閉じ込めて火をつけ、さらに村重の一族など
30余名を洛中引きまわしの後、六条河原で斬首しました。
この時、村重の家臣5名が高野山に逃れ、これを追ってきた信長勢30余人を
高野山は皆殺しにしました。これに激怒した信長は畿内近国を勧進していた
高野聖千数百人を捕え処刑し、織田信孝を総大将として高野山攻撃を
開始しましたが、その最中、信長は本能寺で明智光秀に討たれ、織田勢は
撤退を余儀なくされました。江戸期、徳川幕府の命令による真言帰入令で、
高野山創建時の空海の教え、真言密教にもどることや
聖の定住化が図られ、やがて時宗高野聖は姿を消していきました。
『アクセス』
「染殿院」
京都市中京区新京極通四条上ル西入ル中之町562
市バス「四条河原町」又は阪急電車「河原町」下車徒歩2,3分
『参考資料』
五来重「増補=高野聖」角川選書 山田耕二「高野山」保育社 
 高野澄「歴史を変えた水軍の謎」祥伝社黄金文庫 「平家物語」(下)角川ソフィア文庫
 「和歌山県の歴史散歩」山川出版社
 ひろさちや「仏教早わかり百科」主婦と生活社
竹村俊則「新版京のお地蔵さん」京都新聞出版センター
 竹村俊則「昭和京都名所図会(洛中)」駿々堂



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