平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平家が栄華を極めようとしている頃、ますます強大になっていく平氏一門に対し、
後白河院の近臣たちは反発を強め、俊寛の鹿ケ谷の山荘に
集まっては平家打倒計画を練っていました。
時には密議に後白河院も加わることもありました。
メンバーは清盛のために大将職をはばまれた藤原成親をはじめ、
西光・俊寛・平康頼などです。多田行綱の寝返りで発覚し、
西光は即座に斬られ、首謀者成親は一旦備前へ配流後暗殺され、
成親の嫡男藤原成経や俊寛・平康頼は鬼界ヶ島に流罪と決まりました。

鬼界ヶ島は鹿児島県南方海上にある現在の硫黄島と見られています。
住民は色が黒く、言葉も通じません。着物もまとわず
鳥や魚を捕え、貝や海草を拾って生活していました。
昔から成経と康頼は熊野権現の熱心な信者だったので、島に着くとすぐに
島内に熊野の地形と似た所を探し、そこを熊野三山に見たて毎日参詣し、
都へ帰れるよう祈願しましたが、俊寛だけは僧でありながら無信心で、
二人の熊野詣に同行することはありませんでした。
やがて建礼門院の懐妊に伴い大赦が行われ、赦免状を持った
使者が都から島にやってきました。成経、康頼は許されましたが、
どうしたことか赦免状には俊寛の名前がありません。

二人を乗せた船が今にも出発しようとするのを見て、俊寛はとも綱にとりつき
「せめて九州の地まで」と泣きすがりますが、無情にも都の使いは俊寛の手を
振り払って漕ぎ出しました。高い所に上り「これ乗せ行け、
連れ行け」と叫びますが、やがて船は見えなくなってしまいました。
俊寛のみが赦されなかった理由を「清盛の取り立てで出世した身、
その恩を忘れ密議の場所を提供したため」とし、また成経には舅・教盛(清盛の弟)の
助けがあり、康頼には島から流した卒塔婆に書かれた和歌に同情する世論がありました。
さらに当時盛んになった熊野信仰を背景にして、
二人の恩赦を熱心な熊野信仰によると平家物語は語っています。

幼い頃から召使っていた有王という童は、俊寛だけが帰京しないので、
その身を案じ苦労を重ねながらようやく島に辿りつきました。
何日もかかって探し歩き、やっと磯のほうからふらふらと歩いてくる
変わり果てた俊寛にめぐり逢いました。漁師に魚をもらい、
貝や海草を拾って生き長らえてきた辛い日々を俊寛は語り始めます。
その住まいはといえば、雨露も凌げそうにないあばら家でした。
有王は俊寛の語る話に耳を傾けながらも、大寺院・法勝寺の執行として、
八十余ヵ国の荘園の事務をつかさどり、立派な邸で4、5百人の従者親族に
とり囲まれていた人が、このような憂き目にあうのは何と不思議なことであろう。
これは主が信者の布施を受けながらそれにこたえる功徳もせず、恥ずることなく
罪をつくり続けたことにより、報いを受けているのだと有王には思われました。

有王から息子と妻は死に、残された娘は叔母に引取られたという事を聞くと
「妻子に会いたいがために恥を忍んで生き延びてきたのに…」と
娘のことを気遣いながらも、生きる気力を失くしてしまい食事を絶ち、
有王に念仏を勧められ南無阿弥陀仏を唱えながら三十七歳の命を終えました。
それは有王が島に渡ってきて二十三日目のことでした。
主の最期を見届けた有王は、遺骨を首にかけて都に戻り娘に報告すると、
娘は嘆き悲しみ十二歳で出家、奈良の尼寺法華寺に入り父母の後生を弔いました。

有王は高野山に登り奥の院に納骨し、蓮華谷で高野聖となって
諸国を行脚し主の後世を弔ったと『平家物語』は語っています。
ところで鹿ケ谷の陰謀の舞台となった山荘の持ち主を平家物語は、俊寛と
記していますが、『愚管抄』では、実は後白河院の近臣の静賢(じょうけん)とし、
さらに赦免の話がある前に俊寛は病死していたとしています。
すると鬼界ヶ島俊寛の物語は虚構ということになり、
俊寛だけが許されない理由づけを俊寛山荘での謀議としたようです。

静賢は平治の乱で殺された信西の息子で、法勝寺・蓮華王院の執行を務め、
院からも清盛からも信頼されていた人物です。平家物語の中には彼が関係し提供した
話題が多くあり、この一族が物語成立に関わったのではないかと見る説もあります。

奥の院の西一画には、明遍(信西の息子)の開いた蓮華谷があり、
聖が隠棲する寺や庵が並んでいました。



明遍の頃、高野聖の全盛期をむかえ、彼らの活動によって
大師信仰が一気に広まりました。
父親ゆずりの明遍の才能が花ひらいた時代です。


熊谷寺
現在、蓮華谷には熊谷寺、清浄心院、赤松(せきしょう)院、丹生院、
恵光院、光明院、遍明院、大明王院、宝善院などがありますが、
平家物語ゆかりの寺は、熊谷直実の熊谷寺と滝口入道の清浄心院を残すだけです。


清浄心院

民俗学者柳田國男氏の『有王と俊寛僧都』という有名な論文があります。
それによると九州地方を中心に、長門・四国・北陸などに
俊寛の墓と称する遺跡が数多くあり、伝説の内容は少しずつ異なりますが
鬼界が島の俊寛の話が各地に伝えられているという。
それは一人ではとても残しきれない数なので、
有王と名のる語り手が複数存在したと述べられています。
有王は、俊寛に安らかな死を導くための登場人物であると同時に
鬼界が島俊寛を語り広める高野聖であったとし、平家物語の作者は、
高野聖のこの話を作品の一節に採りこんだという見解を示されました。

佐々木高綱・熊谷直実が合戦譚を斎藤滝口入道が横笛との
せつない恋を語ったのが蓮華谷であったように、
平家物語の中の多くの話材がこの谷から発生して広まりました。
それと同じように俊寛だけが都に帰って来なかったという事実をもとにして、
鬼界が島俊寛の説話は、蓮華谷の聖と思われる作者によって創作され、
有王と称する高野聖が広め、肥前嘉瀬庄(佐賀市)法勝寺の盲目の僧が
この物語を琵琶にあわせて語ったのであろうと氏は推定されています。

肥前は琵琶法師が活躍していた赤間が関に近く、
古くから盲目の僧たちの活動の拠点でした。
鬼界が島俊寛の物語は語り歩くうちにしだいに練り上げられ、
俊寛の霊を慰める大念仏会の説教のレパートリーとして語られ、
これに仏縁を結ぶ人々から賽銭や塔婆料を集め、大念仏会の跡には
俊寛にまつわる遺跡が残ったと思われます。
そして俊寛の哀話は事実談でなく、高野聖や語り集団が脚色した語りと
見ることができ、
各地に分布する俊寛有王伝説や俊寛塚・有王塚からは、
これを語り歩いた高野聖の足跡をたどることができます。

高野聖は半僧半俗の生活を営みながら、諸国を行脚して宗教色の濃い
絵解きや仏教説話を語りながら、人々を仏道に導きいれて寄付を集める
唱導説教、また高野信仰と高野山への参詣・納骨を勧め
宿坊を提供することによって高野山の台所を支える役割を担っていました。
唱導説教の際に語られた物語が『平家物語』成立に
様々な形で関わったことは、これまでにも指摘されています。
平家物語の作者は、高野聖が語った鬼界ヶ島の俊寛の話をうまいぐあいに
平家打倒の謀議につなぎ合わせて、構築していったと考えられます。
『アクセス』
「蓮華谷」高野山駅から南海りんかんバス「一の橋」下車
『参考資料』
「柳田國男全集(9)」(物語と語り物)ちくま文庫 五来重「増補=高野聖」角川選書
福田晃「軍記物語と民間伝承」岩崎美術社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫 
新潮日本古典集成「平家物語」(上)新潮社

 

 



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