平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



平安時代始め、空海は高野山を真言密教の根本道場として伽藍の造営に
取りかかりましたが、堂塔が整備されたのは、空海の弟子の代になってからです。
正暦五年(994)落雷によって伽藍が焼失するなどして荒廃し、
僧がみな山を下りるという存亡の危機にさらされた時期がありました。

高野山の復興は、祈親(きしん)上人定誉によるところが大きいのですが、
その背景には、摂関期の藤原道長・頼道の参詣、
さらに院政期になると、白河・鳥羽・後白河の各上皇が相次いで参詣し、
その度に莫大な布施、荘園の寄進、堂塔建立が行われたことなどがあげられます。
祈親上人は空海が生身のまま奥の院の御廟にあって衆生を救済していると宣伝し
朝野の広い信仰を集め、高野山は熊野と並ぶ寺社詣のメッカとなりました。

末法思想の広まりとともに浄土教が興隆し、高野山にもその影響が顕著に
現れるようになりました。11Cに入山した教懐(きょうかい)が浄土信仰を持ちこみ、
浄土往生と念仏信仰集団を作ったのが高野聖の始まりとされています。

教懐の教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした独特のものでした。
この頃、鳥羽上皇の帰依を得た覚鑁(かくばん)が高野山に登り、
密教と浄土教を融合させた独自の念仏を唱えていましたが、教義上の対立とともに、
覚鑁が本寺金剛峯寺と末院大伝法院の座主を兼ね、本寺に対し末院の僧を上席に
置いたことから、金剛峯寺勢力はこれに反発、覚鑁は根来に退くことになりました。

久安五年(1149)の落雷による大火を機に高野山に多くの勧進聖が集まり、
その群れの中に源平争乱や政争に敗れた者なども入り、
高野聖は多彩な集団となりました。鎌倉時代の始めには、
明遍(みょうへん)や重源が入山し高野聖の全盛期を迎えます。
当時は高野山の浄土信仰を担った高野聖たちの活動の盛んな時期であり、
「南無阿弥陀仏号」を用いるくらい専従念仏化する一方、空海の入定信仰や
弘法大師に仮託した念仏法語も作って唱導勧進活動を行っています。


蓮華谷の熊谷寺から花折谷(明遍通)へ

高野聖の祖ともいわれる明遍(みょうへん)は、
平治の乱で非業の死を遂げた藤原通憲(信西)の子です。
信西は藤原南家の祖・武智麻呂の孫・貞嗣(さだつぐ)の子孫で、
下級貴族の出身ですが、後妻に迎えた紀伊局が後白河院の乳母であったため、
保元の乱後、妻の権力を背景にして権勢を振い、
彼を中心にして当時の政治が動きました。
信西は抜群の才覚をもつ優れた政治家だっただけではなく、
歴史書『本朝世紀』などを著した当代無類の学者でしたが、
後白河院側近の藤原信頼と確執を強めていきます。
信頼は保元の乱後の恩賞をめぐって不満をつのらせていた
源義朝と結び、平治の乱で信西を滅ぼしました。

藤原成範・静憲・澄憲・覚憲・明遍・勝憲などの
信西の息子たちは、父の死によって流罪や僧にされましたが、
彼らはすべて才能豊かで、赦免後は出家しなかった子は高位高官につきました。
中でも藤原成範(しげのり)は、権中納言正二位にまでのぼりました。
成範は高倉院の寵愛を受けた小督の父にあたり、桜を愛でて邸に桜を植え並べ
「桜町中納言」と呼ばれたことが『平家物語(巻1)吾身の栄華の事』に見えます。

静憲法印は流罪が許されると後白河院の近臣となり、院にも清盛にも信頼され、
法勝寺・蓮華王院(三十三間堂)などの執行を務めています。鹿ケ谷の陰謀で
謀議が行われた山荘は、『平家物語』は俊寛のものと記していますが、
『愚管抄』では静憲の山荘が舞台になったとしています。

澄憲法印は説法唱導の名手として知られ、比叡山の東塔竹林院の里坊として
安居院(現・京都市大宮通鞍馬口西法寺)を建立し、ここを活動の拠点とし、
多くの法会の導師となり、安居院(あぐい)流唱導の祖となります。
澄憲・聖覚父子の見事な声は人々を惹きつけ、寺は多くの聴衆で賑わい、
安居院流の唱導が一世を風靡しました。

覚憲は興福寺別当、勝憲は醍醐座主、信西の孫で平治の乱の時、
5歳だった笠置寺の解脱上人貞憲は、ときの最高権力者、
後鳥羽天皇や関白九条兼実の帰依を受け、
その著書『愚迷発心集』は今も読み継がれています。同じく孫の成賢は
醍醐座主になるなど、僧となった者も各宗派の長となる者や有名な僧がでて、
信西一族は当時の仏教界をリードする存在であったことが窺われます。

明遍は越後国に流され、許された後は東大寺で三論宗を学び、
父譲りの聡明さで当代きっての学僧として頭角を現しますが、
本寺を離れ東大寺の念仏別所、光明山寺(南山城)に隠棲します。
隠棲したのは、家柄や学才からも当然座主・別当にのぼるはずの身であるのに、
出世が遅いからだと人々は噂しました。45歳の時に少僧都の宣下がありましたが
これを固辞し、54歳で光明山を出て高野山に篭ると、やがて貴族出身であることや
その学識と道心が聖の間で人気を高め偶像化されます。

明遍がどのようにして法然に出会ったのかはよく分かりませんが、『法然伝』は、
明遍が法然の『選択本願念仏集』を読んでその欠点を指摘したところ、
夢に四天王寺で法然が病人に粥をほどこす様子を見てさとるところがあり、
法然の信者となったという話を載せています。そして明遍は
三論宗の僧でありながら、法然の仏教を布教する重要な役割を果たします。

高野山内には、千手院谷、小田原谷、蓮華谷など多くの谷があり、谷にはそれぞれ
性格を異にする聖集団が住み、
彼らは根拠地とした谷の名前でよばれました。

蓮華谷は明遍が開いた別所(聖の庵や寺が集まっていた場所)で、
蓮華三昧院にちなむ名です。蓮華谷聖の特色は、宣教や勧進の廻国と
高野山への参詣・
納骨を勧める活動を行い、蓮華谷の枝谷、
花折谷(今の明遍通)には、蓮華谷聖の本寺、蓮華三昧院がありました。


 
蓮華谷の聖が御庵室または主君寺とよんだ蓮華三昧院は、
明治の大火で跡形もなく焼失し、辺りには
民家がひしめきあっているだけで
往時を偲ぶものは何もありません。

熊谷直実の他に蓮華谷で修行する鎌倉武士がいました。
頼朝から名馬生食(いけずき)を授かった佐々木高綱は、義経配下として上洛し、
宇治川で梶原景季と先陣を争い重代の太刀で川底に張られた綱を切って
先陣を遂げるなど、源平合戦で数々の功をたてました。
世が鎮まった後、頼朝から備前・安芸など七ヵ国の守護職を賜ったものの、かつての
約束と違うと腹を立てて出家し、高野山に登り、諸国を巡回したと伝えられています。
『金剛三昧院文書』には、蓮華三昧院は、
もとは佐々木高綱が建立した寺であり、それを明遍に譲ったとあります。

高綱の甥・佐々木信綱は承久の変でやはり宇治川の先陣を遂げた勇士です。
出家後高野山に入り、蓮華三昧院の阿弥陀堂を寄進しています。
『承久記』によると、北条義時の軍が京に迫り、宇治川で後鳥羽院方と対峙した時、
信綱は尼将軍政子から拝領した名馬に乗り芝田橘六兼吉と先陣争いをしました。
始めは差がなかったのですが、やがて劣っている
芝田橘六の馬は次第に水をあけられてしまいました。

蓮華谷の枝谷の宝憧院(ほうどういん)谷には、
八幡太郎義家の曾孫の義兼が足利入道鑁阿(ばんな)と称して高野聖となり、
宝憧院を建て十余年住んだといわれています。
義兼は尊氏から六代前の祖先にあたり、出家して上野国足利に鑁阿寺を
開いたので、鑁阿寺殿義称上人とも呼ばれました。
義兼の母は、頼朝の母由良御前の妹で、妻は北条政子の妹という名門です。
宝憧院は焼失し、今は谷の名を残すだけです。
『参考資料』
 五来重「増補=高野聖」角川選書 梅原猛「法然の哀しみ」(下)小学館文庫 
野口実「武門源氏の血脈」中央公論新社 「和歌山県の地名」平凡社
「検証・日本史の舞台」東京堂出版「和歌山県の歴史散歩」山川出版社 
県史「和歌山県の歴史」山川出版社 竹村俊則「昭和名所図会」(洛中)駿々堂
 村井康彦「平家物語の世界」東京堂出版「平家物語」()角川ソフィア文庫
 新潮日本古典集成「平家物語」()(下)新潮社

 



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