友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

宮柊二と齋藤茂吉

2009年07月31日 22時55分16秒 | Weblog
 短歌教室の先生から「これを読んでおきなさい」と言って、1冊の雑誌を手渡された。短歌雑誌『コスモス』である。確か、歌人の宮柊二が創刊したものだ。宮は中国大陸で5年間、兵士として過ごした。その体験をもとに作られた歌集『山西省』は、戦争を直視した戦争文学とまで言われている。

 『アララギ』派の重鎮として名を残した齋藤茂吉とはどこかで交流があったのだろうか。齋藤茂吉は明治15年の生まれに対し、宮柊二は大正元年の生まれだから年齢差は30年もある。二人に共通しているのは、田舎に生まれ育っていることだが、茂吉は東北の農民の3男で、柊二は書店の長男という違いがある。

 茂吉の方は小さな時から神童といわれたが、中学への進学の望みはかなわなかった。家が貧しかったからだ。ところが同郷出身で、東京で医院を開いていた齋藤紀一がその才能を聞き、学費を出し、養子にしてもよいと申し出てくれた。おかげで茂吉は東大医科へ入学するのだから、やはり相当な頭脳の持ち主である。やがて、齋藤紀一の次女輝子と結婚する。また、紀一が創設した青山脳病院の院長に就任。その一方で、伊藤左千夫に師事し、作歌の道に励み、日本歌壇の主流となっていく。

 茂吉は戦争中に戦意高揚の歌を作っていたことの批判はあったようだが、どちらかいえば恵まれた老後を送っている。文化勲章をはじめ数多くの賞を受け、歌聖とまで賞賛された。ところが茂吉の10周忌に、茂吉が女性に出した恋文122通が公表され、歌壇は騒然となった。『アララギ』は精神至上主義で、同人同士の恋愛はご法度であった。茂吉を神聖化する余り、恋文を公表した女性へ非難の声が集中したとある。

 茂吉が女性を知り合ったのは昭和9年の『アララギ』句会だった。茂吉は52歳、女性は24歳の時である。師弟の関係にあった二人が男女の仲になっていったのにさほど時間はかからなかったと後の研究者は述べている。茂吉は一途に女性を求めていたようだ。「こいしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸わましを」などと情熱的な歌を作っている。手紙には必ずこうした恋歌が添えられていた。茂吉は女性に読み終わったら必ず焼却するようにと指示していたのだ。

 絶対秘密のままに恋の逢瀬は続いたが、女性が結婚を期待したのに対し、茂吉は病院長の肩書きや『アララギ』の地位を捨てることは無かった。苦しい師の胸中を察し、女性は両親の進める縁談を受け入れ郷里へ帰っていく。ところが結婚の祝いにと茂吉は女性の郷里を訪れ、女性と3日間を過ごしていく。この神経に驚かされるとともに、そこまで好きであったならもう一歩踏み出しても良いものをと思う。

 踏み出したのは女性の方で、彼女は結納を破棄し、一生を独身で過ごした。恋文の公表は茂吉への憎悪というよりも一途で率直な女性が愛の達成を果たしたように思う。茂吉もまた、二人の愛が道徳的には間違いであっても、確かなものであったと安堵しているのではないだろうか。

 さて、明日と明後日は夏祭りのため、ブログを休ませていただきます。
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高校時代

2009年07月30日 22時21分31秒 | Weblog
 私の母校の高校が、夏の高校野球の県大会決勝戦に出場した。快挙である。母校はサッカーの名門校と言われ、私が生徒会長の時も中京を破って全国大会へ出場した。大会は確か1月4日から始まったが、その前の12月、私は地元の観光バス会社にバスを手配したり、応援団がなかったので団員を募集するなど忙しかった。西宮までバスを連ねて応援にでかけたが、残念ながら初戦敗退であった。

 今日の決勝戦は3回までしか見られなかったけれど、1回を見て、ああ勝てないなと思った。サッカーの決勝戦でもそうであったけれど、相手の中京の名前に金縛りになっていた。同じ高校生で、同じように練習を重ねてきた、勝負などというものは時の運だ。そう考えることが出来るならば、もっと溌剌としたプレーができるのだろうが、相手の名前に負けて、コチコチになっていた。サッカーの試合では、たまたま先に点が取れたことが大きかったのだと思う。

 それにしても、私たちが高校生の時は、野球部は1回戦負けが多かったのではないだろうか。野球部に在籍していた友だちを何人か覚えているが、そんなにスポーツ万能というタイプではなかったような気がする。サッカー部は体のがっちりした野武士タイプが多かったのに対して、野球部はスマートで品のいい奴が多かった。多分、学校の成績も野球部の方が高かったのではないだろうか。いつの間に野球部は、県大会の決勝戦に進めるほどの強いチームになったのだろう。

 32歳の監督がテレビ画面に映し出されることがあったけれど、まるで武士のような風格があって、そういえば我が母校の校風は「質実剛健」であったと思い出し、胸が熱くなった。私は高校生の時、未熟ながらも大人だと考えていた。自分を高めることが高校へ通う目的であるのに、学校は大学受験のためにあった。全共闘の後輩たちが掲げたスローガン「自己否定」と「造反有理」につながる気持ちが私にはあった。新聞部と生徒会が、私が高校へ通う目的となっていた。予備校のような学校への批判は、しかし大学進学が目的の生徒たちに絶対的な共感とはならなかった。

 高校は私にとって青春そのものだった。あの学校で私は人間として大きくなったと思う。受験のための勉強をすることは拒否して、文学や哲学や社会学に興味の大半を費やしていた。数学や物理は自分には無縁なものと決め付けていた。一生懸命で勉強し、成績を上げることは馬鹿のやることだと決め付けていた。それなのに、数学が論理学だと気付いて慌てた。英語なんて、文字のとおりに発音できないじゃないか、言語としては劣っていると決め付けていた。大人になって、英語のつづりは文字通りに発音すればいいのだと知って、高校の時の知識を恥ずかしく思った。

 高校時代の友だちは生涯の友となった。自分にとって、高校時代は原点であった気がする。何もかも、あれから出発している。それなのに、あれから少しも成長していない。それはひとえに自分の努力が足りないのかなと思う。いや、未だに自分の課題が整理し切れていないようにも思う。熱い時代だった。
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夏目漱石の『こころ』その2

2009年07月29日 21時43分03秒 | Weblog
 夏目漱石の『こころ』には3人の男が登場する。物語の中心となるのは「先生」で、先生は人嫌いで、凄い勉強家で思想家なのだが就職はせずに奥さんと女中さんと3人で暮らしている。先生を慕う学生が、先生の家に通うようになって、先生がどういう人物かが明らかになっていく。「(自分は)妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでやしない」と学生に告白するが、苦しんでいる様子がよくわからない。

 漱石が乃木大将の死に賞賛といかなくても、強い関心を持ったことは小説の中でも明らかだ。先生は「敵に旗を奪られて以来、申し訳のために死のう死のうと思ってついに今日まで生きてきたという意味の句を見た時、私は思わず指を折って、乃木さんが死ぬ覚悟をしながら生きながらえて来た年月を勘定して見ました。(略)乃木さんはこの35年の間死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしいのです。私はそういう人に取って、生きていた35年が苦しいか、また刀を腹へ突き立てた一刹那が苦しいか、何方が苦しいだろうと考えました」と言う。

 漱石は江戸牛込馬場下横町の名主の5男に生まれている。名主は士族ではないが、裁判の権限を持つ権力者であった。漱石はそんな江戸っ子の粋を感じながら育ったのだろう。だから武士が持っていた価値観や潔さを人の範としていたのではないだろうか。けれども、現実の人間は理想の鏡である武士のようには生きられない。それを漱石は西洋で見た近代で捉え返そうとしたのではないだろうか。エゴイズムと孤独な個人が『こころ』の中心課題といわれる所以だ。

 先生は親友から下宿先の娘さんが好きだと告白され、彼が相手に娘さんに告げる前に娘さんと結婚の手筈を整えてしまう。そして親友は自殺する。先の望みがなくなったことで自殺したことになっているが、もちろんそれは嘘ではないけれど、最大の原因は親友である先生に裏切られたことだろう。全くあこぎで卑怯な手口で盗られたのだから。親友の死は先生への見せ付けであろう。先生は憧れの娘さんと結婚したが、「自分も信じられない」人嫌いとなった。そしてとうとう最後に先生も自殺する。

 中学・高校時代からの友だちのブログに、私の初恋のことが書かれていた。「友だちから『あのコ、かわいいだろう?』と聞かれて、何と返事をしていいかわからず、曖昧な態度でいたが、友だちの嬉しそうな表情に、私は『コイツ、あのコが好きなんだな』と思い当たったのである」。へぇー、そんなことがあったのだと思った。彼や、今は疎遠になってしまった友だちから、好きな女の子の話を聞いたことはよくあったけれど、自分も同じように告白していたんだと知ったのだ。

 『こころ』のように、同じ人を好きになったこともあったけれど、私に何が何でも独占したい気持ちがなかったから何事にもならなかったけれど、独り占めにしたい、それが愛だ恋だと思い込んでいたなら、先生やその親友のような修羅場を迎えていたのかな?
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まだ梅雨空が続いている

2009年07月28日 22時16分29秒 | Weblog
 7月も終わろうとしているのに梅雨空が続いている。シトシト降っていたかと思うと、急に土砂降りになったり、晴れ間が覗いたりと落ち着かない。恋人を前にした時のようだとも言えるし、感情の起伏が激しい子どものようだとも言える。このまま、雨空が続くようだと、今週末の8月1日と2日に予定している夏祭りが心配になる。名物にもなった鮎の塩焼きのために、毎週鮎釣りに出かけている仲間に申し訳ないように思う。

 私の選挙の後、「このエネルギーを夏祭りに活用したら」と声をかけられたのが始まりだった。みんなで集まって何かをすることは大好きだ。夜桜見物だとか、花火見物だとか、紅葉見物だとか、名目はいろいろだが、つまるところは気の置けない仲間で飲むことが好きなのだ。そんなお祭り好きな仲間が集まって、自分たちばかりが楽しむのではなく、他の人にも楽しんでもらおうと夏祭りの屋台に挑戦した。

 鮎の塩焼きは、たまたま鮎釣りの好きな人が「鮎の塩焼きを売りましょう」と提案し、いつの間にか私たちの屋台の名物になった。「毎年、鮎の塩焼きを食べています」と買い求めてくれる人がいる。天然の鮎と養殖の鮎とを売っているけれど、しかも天然ものは小さくて値段も高いのに、大きくて値段の安い養殖ものより人気が高い。上手に焼くと、噛んだ瞬間に天然ものは養殖ものとは違うと言う。大人だけではなく子どもまでも、「天然鮎をください」と言うのだから、人間の感触というのは随分と鋭いものだと思う。

 ところが人間の感性が鋭いものだとわからない人もいる。その筆頭は麻生首相かも知れない。先日も古巣である青年会議所の集まりで、「皆さんはそうではないけれど、高齢者は働くしか才能がない」などと発言し、またしても謝罪するハメになった。「たらたら飲んで食べて、何もしない人の分(の医療費)を何で私が払うんだ」と言ったり、「(医師は)社会的常識に欠ける人が多い」とも言った。いずれも後から、誤解を招いたと謝罪している。

 麻生首相の言葉尻を捉えて批判するつもりはない。常識的な人は、「言葉の前後をよく考えれば、そう目くじらを立てるようなことではない」と言うが、そこが私の認識とは違うなと思う。確かに麻生首相は聴衆を喜ばせようと思って話すのだが、とても笑いを誘うような話ではないことがわかっていない。それよりも笑いのための話が、実はその人の価値観や思想を表しているのだから、麻生首相は危険な考え方の人だと思う。政治家が「つい、口から出た」という言葉は、たとえ舌足らずであっても、実は本音だ。「働くしか能がない」「医療費をみんなで負担するのは馬鹿げている」「医者は非常識」と本心から思っているのだ。

 心で何を思おうと勝手ではあるが、自分が考えていることと自分が実行しようとすることが全く違っていながら平気でいられるなら、そんな怖い人を政治家にさせておいてはいけないと私は思う。
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雷鳴、地震そして当選

2009年07月27日 20時40分00秒 | Weblog
 昨夜は凄い雷雨だった。夜中の何時ごろかはわからないけれど、稲妻と雷鳴が同時にやってきて、バーンという爆弾が炸裂するような地響きがした。大きな雷音はその時だけで、また小さな雷鳴がゴロゴロと続いていた。滝のような雨が降り注いだかと思えば、雷鳴が轟き、ひょっとするとまた、朝日に見える景色はまるで湖の中だろうかと思った。何年か前の東海豪雨の翌日はそんな景色だったが、今朝はいつもと変わらなった。

 ところが午前10時ごろだったか、マンションの建物がグラッと揺れた。地震だ。次の波が来るかと思ったけれど、その瞬間だけで終わった。「昨晩は凄い雷でしたね」と言っても、「そうですか、全く知りませんでした」とか、「地震がありましたね」と言っても、「いや、気が付きませんでした」と同じマンションに住む人が答える。ビックリしたなあと感じた人はより強く意識するのだろうけれど、熟睡していたり、仕事中だったりしていた人は意外に何も感じないのかもしれない。

 豪雨が続き、雷鳴が轟き、地震が襲い、このところの自然現象は異常ではないだろうかと感じるのも、そう思いたいためかも知れないなと思う。自然の受け止めは様々だけれど、人間のやることに対する受け止めはもっと様々である。千葉県での殺人事件の容疑者は沖縄で逮捕された。この男のことが報道され、拉致された女性はどうして助けを求めなかったのか、逃げようとしなかったのか、不思議に思った。思ったけれど、この男のような、そういうタイプの奴って確かにいるよなと思った。

 人は自分のことしか考えていないとよく言われるけれど、それでも周りの人のことや家族や友人や知り合いのことを全く無視しているわけではないし、気に留め、心配りもするものだ。けれども、この男のような奴もいる。執念深く、何をしてくるかわからない、だからこそ怖くなってご機嫌を取ってしまったのだろう。こういう男は、自分に限界がある、あるいは自分の弱点を見せ付けられると、意外に普通の人になってしまう。ところがギャフンと言わせてやらないとどんどん暴走してしまうのだ。

 嫌なことばかりが多いように見えるが、実は今日はとても嬉しい日だ。友人はきっと、私がブログのトップで書くだろうと期待していたかも知れない。松阪市議選で彼は見事に上位当選を果たした。自分でも「演説がうまくなりましたよ」と電話をかけてきたくらいだから、かなり自信をつけたのだと思う。出発式の時は私に「短く」と注文しておきながら、10分も演説して、カミさんから注意を受ける始末だった。彼の支持者も「ちょっと空気が読めないところがありますから」と心配していた。

 付き合ってみれば、人のよい真面目な人だとすぐにわかるだろうが、選挙は不特定の多数の人に支持されなくては当選できない。日頃から議会通信を自ら手配りし、市民との会話を重ねてきた成果がキチンと現れた。彼は自分がやってきたことが多くの人に評価され、投票というかたちで支持されたことに満足しているだろう。明日からまた彼の真面目な毎日が始まるし、始めなくてはならない。お疲れ様、そしておめでとう。
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次女の奮闘

2009年07月26日 18時16分11秒 | Weblog
 一昨日の夜は疲れてしまったのか、ブログを完成できたと思ったら、日付は土曜日に変わっていた。それで、昨日のことになってしまうけれど、2番目の孫娘が長女とともに退院してきたお祝いを長女らの家で行うことになった。次女がバンコクから23日に帰国し、かいがいしくそしてまた騒々しく姉と姪っ子のために働いてくれている。この日も朝から姉の家へ出かけ、姉のダンナと共にお祝いの準備をしていた。

 長女はベッドからほとんど動けない状態なので、誰かが側にいなくてはならない。赤ちゃんの世話はさすがに専門だから、たとえ動けない身体であっても授乳やオムツの交換などはできる。赤ちゃんは今のところおとなしく余り泣かないのでよいけれど、長女の回復が先か赤ちゃんの成長が早いか微妙なところだろう。猫が3匹もいて、水槽には亀も1匹、そして欲しいというので残してきたランタナの鉢がいくつかある。これらみんなに気を配ってやらなくてはならない。

 だから、長女のダンナはかなりお疲れ気味だ。長女が入院して以来、ずっと病院で付き添ってきた。長女のことも赤ちゃんも家も仕事も、全てを自分で背負い込まなくてはならない。それはまた、夢に見た家庭とは違うと思うかも知れないが、実は同じものだ。夢のような家庭などは存在しない。人と人とが暮らしているのだから当然のことだが、感情の食い違いが時には生まれる。それでも時々は夢のような家庭が生まれる時もあるから、そんな時間をいかに引き延ばすか、あるいは何度も作り出すか、いずれにしてもその手段は、相手に求めるよりも自分が努力した方が確実で手っ取り早いのだ。

 長女のダンナは長女に出会い、この人ならば夢の家庭を作ることができるとひらめいたそうだ。恋する時はそういう第6感が働くものだ。愛と怒りの世界こそが恋愛というものだろう。彼は長く続いた看護と介護の中で、いやこれからもまだしばらくは続く超過密な現実という生活の中で、何かを得ていくだろう。日に日に大きくなっていく赤ちゃんの動作のひとつ一つが可愛くて、いやなことの全てを忘れさせてくれるのかもしれない。長女の「ありがとうね」の一言が、その時の笑顔が、癒しになるのかも知れない。

 ダンナの父親と彼の姉夫婦がお祝いに来てくれた。彼の義兄はトランペットの演奏に長じているようで、父親は息子とその妻である長女と、娘夫婦と、要するに身内に近い人たちで「バンドが組みたい」と言う。それこそが素晴らしい「夢の家族」ではないだろうか。音楽好きなダンナの家族が集まって、ジャズでもニューミュージックでも、みんなで合奏を楽しめるなんて、夢のまた夢のような話だけれど、この家族ならそれはすぐにでも実現しそうな気がする。

 バンコクからひとりで帰国した次女は、姉の家での手伝いと共に、孫娘が一人で頑張り守っている我が家の隣の部屋もきれいにしようと奮闘している。次女は幼い時から家事が好きな子で、特に掃除は念入りに行い、ピカピカにしないと気がすまない性質だ。先ほど見てきたら見違えるほどきれいな部屋になっていた。長女が新年に貼った今年の目標『勉強ができる環境の整備!』がようやく実現できる運びとなった。
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自分の全てを注ぎ込んで

2009年07月25日 00時22分25秒 | Weblog
 疲れ果てた。何でもそうなのだろうけれど、どんなに疲れるほどやっても、それが実を結ぶようなら疲れなど吹っ飛んでしまう。ところが逆に、ものすごく力を入れてやったことなのに、全く報われないとなると、疲れは2倍3倍となってしまう。

 今日は朝8時から用意にかかわり、8時15分には作業に取り掛かった。今年に入って同じ、お宅の庭で、3度目の挑戦である。13日から始め、20日には自前の削岩機ともいえる手作りの穴掘り器を使って、粘土の固くなった層を突き破るために悪戦苦闘した。4メートルほどまではあっという間に掘り進むことができるのに、それから先がどうしても掘ることができない。調べてみると粘土の固まった層があるように思う。

 そこで、自動車の動力を伝えるトランクの心臓部を用いて、穴掘り器に転用する道具を仲間の一人が考案した。この人はトヨタ系列の会社で設計担当の重役をしていた人である。確かに彼の考案した道具で穴を掘り進めることはできたけれど、一番の難関は石の駆除だった。始めに先週掘った場所では、これは私たちの感だけれど、水を用いて穴を掘り進めた場合は、どうしても細かい砂のようなものは持ち上げて流してしまうことができるが、大きなコブシ大の石となるとそういかない。これが問題であった。

 私たちが打ち込んだ塩ビ管は石にぶち当たれば、それ以上先に掘り進めることが出来ない。今日も初めに空けた穴は、4メートルちょっとのところから全く掘り進めなくなった。管の先が見えないので、間違っているかもしれないが、コブシ大かそれ以上大きな石があって、ただ石の表面を擦っているだけに過ぎないような事態が続いた。諦めて別の場所で再度挑戦してみるが、結果は同じだった。

 やはり4メートル半くらいの地点から全く進めない。粘土質の層は私たちが考案した道具で掘り進めることができる。けれども水の力では浮き上がってこない石をどうやって取り除くことができるだろう。ここに来て悲しいかな、お手上げである。昨年の秋に取り組んで、この家の庭で3箇所掘ってみたけれど、いずれも粘土質の岩盤にぶち当たり、なんとも無残な敗北を帰したところだ。

 だからこそ、今回は自分たちで考案した器具まで用意して挑んだのに、またしても跳ね返された。情けないというか悔しいというか、自然の力の前に何とまあ自分たちは無力なのかと思い知らされた。一生懸命で、持てる力の全てを注ぎ込んで臨んだのに、散々な結果しでしかないことに悲しいというよりも腹が立ってくる。あんなに用意周到に準備をしてきたのに、一体あれは何だったのか悔やまれるのだ。決して手を抜いたわけではないし、準備を怠ったわけでもない。

 愛してしまって、自分の全てを注ぎ込んだのに、全く予期せぬNOを突きつけられると、人は動揺を隠し切れないようだ。こんなにも愛していたのにという感情は逆に相手への怒りに変わり易い。千葉県の事件が本当はどういうことであったかは、わからないけれど、こんな風に個々の人間の問題までも踏み込んできたのかもしれない。それくらい、人間は分からない動物である。
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皆既日食

2009年07月23日 19時13分20秒 | Weblog
 46年ぶりの皆既日食が見られるというので、各テレビ局が日食の様子を生中継していた。46年前といえば20歳の頃だが、全く覚えていない。おそらくそういうことに特別に関心がなかったのだろう。太陽の周りを地球が回り、地球の周りを月が回っているのだから、皆既日食という現象がいつか起きるのは当然のことだ。だからといってそれが何なのというくらいにしか受け止められない。

 たとえば、皆既日食の時に恋を告白すれば必ず永遠に結ばれるなどという言い伝えでもあれば、そんな努力もしたかも知れない。でも、日食と恋の成就は結びつかない。永久不滅の太陽が欠けていくのだ。そして全部欠けてしまうけれど、その時は不思議なリングが見える。いやまてよ、リングが見える時ばかりとは限らないから、たとえ真っ暗闇になっても、また少しずつ光を増していくが、それは元に戻ったというだけのことだ。実際にテレビ中継でその様子を見ていると、確かに神秘的で荘厳な気持ちになるし、美しいと思う。

 皆既日食と物語が重なるような小説はあるのだろうけれど、なんとなく推理小説っぽいような気がする。まあ、そんなことはどうでもいいけれど、それにしても昨日のテレビ各局の報道はすごかった。おかげでキレイな皆既日食を何度も見ることが出来た。太陽が欠け始めた時は、丁度友人が来ていて、カミさんはハシャギまくって「ホラ、見えるでしょう!」と雲の中の太陽を指差して何度も言う。確かに雲が厚いと太陽の欠けていく様子がよく見えた。

 「直接太陽を見てはいけません」とか「下敷きやサングラスは危険です」とか、テレビで言っていたけれど、小学生の頃にも日食があって、みんなで見たように思う。ガラスの破片を拾ってきて、ろうそくの炎の上に差し出し、ガラスに黒く煤がついたもので太陽を見た。あれ以来、日本人の目は悪くなったのかも知れないと勝手なことを思った。それから黒い下敷きで見た記憶もあるが、あれは何時のことだったのだろう。

 日食は太陽のような完全無欠と思われるものですら、(実際に欠けるわけではないが)力を失っていくように感じる。しかし強い太陽は自力で元の姿に回復する。それは私たちに、いつか失うことがあるかもしれないが、それは一時のことで必ず復活するという希望を与えてくれたのだろう。今は不幸でも何時か必ず幸せになれる時が来る。たとえ、今は実現できなくても何時か必ず実現できる。そんな夢を抱くことができたのではないだろうか。日食を悪いことの前触れと考えてきた人々もいるし、「蘇る」強烈なイメージと考えた人々もいる。

 多くの人たちはこの宇宙が作り出した偶然に一喜一憂したけれど、確かに人々を魅了する不思議な現象であった。もう一度見たいと思う人が多いこともうなずける。それでも冷ややかに、必ず元に戻ると知っているからそんな風に驚喜できるのではないのだろうかと思う。人はこの先どうなるかわからないことには意外に弱い。今はダメでも必ずよくなると思えるから生きていける。

 後5分我慢すれば、後1週間我慢すれば、後3年我慢すれば、そんな目標があれば人は耐えることができるものだ。
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昨日はどうかしていた

2009年07月22日 19時16分30秒 | Weblog
 昨日はどうかしていた。運が悪かった。3度も交通事故を起こしてしまいそうな目に遭った。1度目は全く気がつかなかったどころか注意もしていなかった。幸いスピードが出ていなかったから事故にならなかっただけのことだ。対向1車線の道路で、向こうもこちらも少し渋滞していたが、こちらは踏切が開いて、向こうは信号が変わって、車列が動き出した。私がスピードを上げた瞬間、長い髪の若い女性が目の前を銜えたタバコで歩いていた。

 「えっ!なんなの?」。ビックリして女性を見るが、彼女は全く動じることなく、ゆっくりと歩いていく。短パンツに露出度の高いブラウスを着て、長い手足が誇らしげに見せ付けていく。そのゆっくりとしたモーションにこちらが圧倒された。「あなたはもっと周囲に気を配って運転しなくてはならなかったのよ」、そんな風に言っているような歩き方であった。

 2度目は孫娘をプールへ送っていった帰り、街中の細い路地を右折する時だ。夏休みに入って子どもたちが路上で遊んでいることもあるので、左右の安全確認は欠かせない。しかし、狭いところだから車の頭を出さないと確認できない。右見て左見て、もう一度右を見ながら進もうとした瞬間にものすごく怖い顔をしたおじいさんが目の前にいた。通り過ぎるまで、じっと私をにらみつけたままだ。私の運転が横着であったわけではないのになあと思いながらも頭を下げた。

 3度目は駐車場から車を出す時だ。向かいの駐車場から車が出てきたので、車を出すのを止め、その車が走り出したことを見届けた後、左右を確認しながらバックを始めた。すると若い女性が乗った自転車が車の後を通り過ぎた。またしても、「えっ!なんなの?」の心境だった。夜になっていたけれど、確認した時点では自転車は見えなかった。逆に自転車の彼女からはライトを付けた私の車は確認できたはずだ。私はビックリしたけれど、自転車の若い女性は何事もないようにスイスイと通り過ぎていった。

 事故にはならなかったけれど、事故が起きる時はこんなものなのだろう。運転は慎重な方だと思っていたけれど、注意力が散漫になってきたのかな。月曜日はNPO『おたすけ』で井戸掘りを行なった。私は力仕事をした時の右腕が今も痛いが、私の友人はちょっと足先が何かにぶつかっただけだったのに、左足の薬指の爪が割れて、指先に折れた爪が刺さって圧迫していたそうだ。ぶつかった時は何も痛みがなかったので、「感覚が鈍くなっているのか」と言う。

 自分ではまだまだ若い時と少しも変わっていないように思っていたけれど、残念ながら肉体の衰えは必至でやってきているのだと知る。私の同年ほどの友人の多くは、とても健康に気をつけていて、毎日1万歩を早足で歩いたり、腕立て伏せや腹筋運動を行なっている。もちろんタバコは以前から吸っていない。あんなに酒を飲んでいたのに、週に2日しか酒は飲まない。自然食品や健康食品を摂取し、添加物は口にしない。そんなに健康に気を配って長生きがしたいのだろうか。

 私は今を充実して生きていきたい。贅沢をしようとは思わないけれど、健康のために何かを抑えようとは思わない。むしろ不健康でも楽しい方がいい。まことに勝手な人間であるが、自分では正直に生きていると思っている。
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衆議院の解散

2009年07月21日 21時29分54秒 | Weblog
 衆議院が解散した。4年任期なのだから、4年間勤めてもおかしくはないわけだけれど、この4年の間に、小泉さんから安倍さん、福田さん、そして麻生さんへと首相が交代した。選挙の洗礼を受けたのは小泉さんだけだ。それも「郵政民営化に賛成か反対か」に集約された選挙だった。今度の選挙では、政権交代が実現するかに注目されている。自民党政権に終止符を打てないようなら、いったい有権者は何を考えているのかということになる。

 昨日は友人がかかわっている『フォトジャーナリズム写真展in名古屋』を見ようと、国際センターへ出かけた。この日は名古屋港での花火大会が行なわれるとあって、電車は浴衣姿の若い女性が多かった。浴衣でなくても、はちきれそうな若い肌を露出させた短パンツ姿が目立った。名古屋駅前では、男女ともに浴衣姿の粋なカップルがいた。男性は大正時代に流行ったようなメッシュの帽子をかぶり、女性の方はリボンで髪を結んでいた。見ているだけでうらやましくなるふたりだった。

 地下街は買い物客や喫茶をする人たちでにぎわっていた。それに以前の地下街と様相が一変し、エステとかマッサージの店がある。国際センターに入ると若い機動隊員がひとり、長い警棒を持って巡回していた。機動隊を見るのは久しぶりだ。ここはそんなヤバイ所なのかと思った。4階の展示室へエレベーターで上がる。『DAYSJAPAN』に掲載された写真が、カメラマンの写真と説明書きとともに展示されている。ケニアで国家警察が家を訪ねてきた瞬間だろうか、子どもが「撃たないで!」と声を上げているような写真など、世界各国の悲惨な現実を目の前に見ていく。

 着飾って花火大会へ出かける若い人々。一方で、死の恐怖に震えている人々や生活苦、飢餓、環境汚染などの現実をどう考えていけばよいのだろう。人間はどうしてこんなにも愚かなのか。でも嘆くよりも、花火に大会へ出かける人々にも、こうした世界の悲惨な現実を見てもらう機会を作っていくことだろうと思う。

 ニュースを見ていたら、あんなにもめていた自民党の議員総会が、たいした議論もないままに終わっていた。「地方選挙の総括」を求めていた人たちはまったくダンマリだった。その後の代議士会では、反麻生の急先鋒だった中川秀直氏は麻生首相の演説を褒め、握手を求める茶番劇まで行った。午後6時からの麻生首相の記者会見では、記者もまた情けない存在だなとの印象を受けた。全く麻生首相のためのセレモニーだった。アメリカでもイギリスでもかなり手厳しい質問が記者から発せられるのに、全く当たり障りのない質問しかできない。

 『DAYSJAPAN』の記者たちは何時殺されるかわからないところで、報道することに文字通り命を賭けている。首相の記者会見に出席した記者たちは背広を着てネクタイを締め、かなりの人数がいたのにわずかな記者が馬鹿馬鹿しいような質問を行なっただけだ。あんなことで自分のオリジナルな記事が書けるのだろうかと疑問に思う。

 ところが私は何だか、だれちゃっている。どうでもいいやと投げてしまっている。活力がなくなってきている。ダメだな。
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