友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

民主党の代表選挙に期待する

2010年08月31日 22時30分17秒 | Weblog
 とうとう8月も最後の日となった。暑さは変わらない。むしろ今日は一段と暑くなったようにさえ感じる。民主党の代表選挙に小沢さんも立候補するという。菅総理が挙党体制を受け入れないことを不満として、小沢さんが立候補するとしたものの、鳩山さんがトロイカでと言い出し、選挙なしで代表が決まるような雰囲気だった。けれど、話し合いは不調となった。私はそれが妥当だと思う。菅さんの総理ではダメだと小沢さんは言うのだから、それならどういう風にダメなのか、キチンと選挙で争うべきだろう。

 それを、小沢さんと菅さんの一騎打ちになれば、民主党の分裂を招くことになるという声を上げた人々がいた。国会議員の中にも、「もし、敗北するようなことになれば、負けた方は党を出ざるを得ないだろう」などと平気で言う人までもいた。民主党はそんな程度の政党だったのか(実はそんな程度の政党だろうと私は思っている)。それを世間に露呈することになるが、それでは選挙に不利になるから、そんな馬鹿なことはしないだろう。

 選挙での当落を一番気にしている人たちである。菅さんと小沢さんが話し合いで代表を決めたとなれば、民主党の支持者は減るだろう。民主党に期待した人々は、もう自民党ではダメだと思い、それに民主党が代わって欲しかった。つまりはクリーンな政治を求めたのであって、高速道路の無料化とか子ども手当てはたまたま掲げられていた政策に過ぎないし、そうなってもいいかという程度の支持だと思う。

 私としては、代表選挙をキチンとやるべきだと思っている。鳩山さんのようなトンチンカンな人が出てきてやめるようなことになれば、「ああ、やっぱり民主党は自民党と同じだ。やはり密室で代表を決めている。派閥の論理とか、グループへのポストの配分でバランスをとろうとしている」ということになってしまう。つまりは、国民無視の党内の権力争いだということになってしまう。政治が不透明で、金の臭いが付きまとう。そういう政治に「NO!」を突きつけたはずなのに、やっぱりダメかとなってしまう。

 私は党内の権力争いは重要なことだと思っている。密室でやるからダメなのだが、堂々と公開でやればいい。誰が何を言い、誰と誰が誰を支持した、そういうことを克明に国民の前に明らかにしてやることが大事だと思う。すると、「そんなことをすれば党は分裂してしまう」とまたしても馬鹿なことを言う人がいる。もう一度言うけれど、そんな政党なら分裂した方がいい。

 先日の日曜日、理容店に行った。40代の店主とその中学校からの友だちが政治論議に花を咲かせていた。友だちは「民主党の代表選挙はいったいどうなっているのだ」と、マスコミの報道を「もう、うんざりだ」と非難と嘆きの声を上げていた。「鳩山さんという人はわからん。政界を引退すると言っていながら、どうして小沢と菅の仲を取り持とうなんて、しゃしゃり出てきたんだ。アホと違う!」と店主も手厳しかった。若い人たちも政治の現実をよく見ているなと頼もしく思った。こういう人たちによって、新しい時代が作り上げられていくのだろう。これからも頼むよ!応援するね!
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サンデル教授の6つの命題

2010年08月30日 18時48分06秒 | Weblog
 昨日、このブログで触れたハーバード大学の先生の授業が、今日の朝日新聞に1面を使って載っていた。東大で行なわれたこの特別授業は10月31日と11月7日の2回に分けて、NHK教育テレビで放送されるそうだ。先生の名前はマイケル・サンデルさん。1953年生まれだから、57歳の働き盛りだ。プロフィールを見ると、アメリカのブランダイス大学を卒業後、イギリスのオックスフォード大学で博士号を取得している。ブランダイス大学って、どこにあるどんな大学なのだろう?

 専門は政治哲学で、ハーバード大学では「Justice(正義)」の講座を担当しているが、毎回1千人もの学生で教室が埋まる人気授業だそうだ。対話型という授業の進め方に人気の秘密があるようだ。東大で行なわれた特別授業でも学生たちは、「すごかった」「もっと話したかった」と感想を述べている。新聞を読む限りではよくわからないところもあるが、時にはユーモアも交えて主題に突っ込んでいく展開は面白いと思った。テレビでは生の雰囲気は味合えないだろうけれど、ぜひ見てみたい。

 この日、サンデル教授が用意した命題は6つあった。1)漂流ボートでの殺人は許されるか 2)指名手配された兄を警察につきだすか 3)イチローは高額な年収に値するか 4)自国民と他国民、どちらを救う? 5)多額寄付者の入学を認めるか 6)オバマ大統領は原爆投下を謝罪すべきか。 すぐに答えが出せそうだけれど、考えてみると堂々巡りになりそうなものもある。私はこういう論議が好きで、高校2年のホームルームで「人生の意味について」を論議しようと提案して総スカンを食らったことがある。真面目な提案だったのに、賛成者は一人しかいなかった。

 漂流ボートも兄を警察にも、実際にあった事件のようだ。漂流ボートのような事件は他にもあったと思う。戦争で何も食べるものがなく、人肉を食べたという兵士はいたし、最近ではアンデスの山奥に飛行機が墜落し、人の肉を食べて生き残った話もあった。私は人の肉は食べられないが、私が死んだら食べていただいてもかまわないとは言える。兄を警察へという命題は、古代中国でも孔子が不正をした父親を訴えるべきかと弟子に問うていた記憶があるが、肉親愛か正義かと迷うところだ。コソ泥程度ならいいけれど、突き出せば必ず死刑になると分かっているとなおさら正義を持ち出すのが難しい。けれども逆に、それほどの重大な犯罪ならかばうこと事体が犯罪となるだろう。

 1)や2)は個人の道徳観の問題だけれど、3)から6)はどういう社会を求めるかという問題でもある。自分が他人を救うことのできる状態にあるのであれば、自国だとか他国だとかは関係ないし、目前の事態に集中して対処する以外にないと思う。先の世代が行なったことであっても、その責任を感じることは非難されることではないと思うし、謝罪を表明することで両者の関係が悪くなるとは思えない。けれども、国民の中には、私の友だちの中にも、「いつまでも謝る必要はない。つけあがるばかりだ」と言う人もいる。情けない人だなと私は思う。
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給与や報酬になぜ差があるのだろう

2010年08月29日 22時02分57秒 | Weblog
 8月最後の日曜日。それにしても今日も暑い。この暑さのせいではないだろうけれど、兄が弟を殺したり、父親が家族心中を図ろうとしたり、妻が夫の殺害を依頼したりと、悲しい事件が続いている。そうかと思うと、家族がその生死も知らないような高齢者がいる。いったい、この国の「家族」はどうなってしまったのか。けれどもその反面で、臓器移植法が変わり、本人の意思がどうだったか分からないままに、家族の意思で臓器の移植が5例も行なわれている。

 昨夜の誕生日会でも話題になったけれど、母親からすれば、この子のために誰かが臓器を提供してくれたならば、それはどんなにか嬉しいことだろうというものだった。また逆に、身内が脳死の状態になれば、その臓器が誰かの役に立ち、代わりのように生きていてくれたならば、それもまた嬉しいと思うのではないだろうかということだった。私はそうした当事者ではないから冷酷なのだろうけれど、臓器移植で目立つのは「生への執着」であって、「死」を受け入れる風潮が全くないことだ。

 人はいつか死ぬのに、なぜこうも「死」を受け入れようとしないのだろう。臓器移植を行い、まるでマンガに出てくるサイボークのようになって、「生」にしがみつかなくてはならないのだろう。「オマエに臓器移植で助かる身内がいないから、そんなのんきなことを言っておられるのだ」とお叱りを受けそうだ。確かに私も自分の娘たちが臓器移植でしか生きられないとなれば、何としてでも生きて欲しいと願っていたかもしれない。人間はそれほど強くないことは分かっているつもりだが、それでも本当にそれでいいのかと思ってしまう。

 「死」を素直に受け入れる考え方を私たちは持つべきではないだろうか。5歳とか6歳とかこんなにも若い命が、臓器さえ移植できれば助かるのに、移植できずに亡くなってもいいのか、そう考えてしまう。80歳や90歳ならば、それはもう寿命だというならば、5歳とか6歳もまた寿命と考えていいのではないだろうか。医術はとにかく長く生きさせることのために発展してきたのかもしれないが、ここでそろそろ「終わる命」のあり方を考えてもいいのではないかと思う。

 もう1つ、昨夜の誕生日会で話題になったことで覚えているのは、名古屋市の市議会議員の報酬が高いか低いかと言う問題だった。河村市長が市長の報酬を800万円にしたのは単なるパフォーマンスだと言い、市長ならそれくらいの報酬を受け取っていいし、議員の報酬だって決して高くないと言う人がいた。これはハーバード大学の有名な先生が唱える哲学の問題と同じだと思う。給与とか報酬はどうやって決まるのか、その客観的な基準はあるのだろうかと考えれば、答えは「無い」だろう。

 日産自動車のゴーン社長は年間8億円だったかの給与をもらっている。一方で、売り上げが伸びないからと労働者はたとえば400万円の給与しかない。パート労働者なら200万円なのかもしれない。同じように働いていて、どうしてこのような差が生まれるのか、誰か説明できるのだろうか。人間は生きていくために必要なものがあればいいはずだ。後はプラスアルファだけれど、その差が何千万円とか何億円とかになる必要がどこにあるのだろう。
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どうしても2点で一致しない

2010年08月28日 15時17分57秒 | Weblog
 超物知りな友だちとはいろんな面で一致する。「これからは成長経済はあり得ない。右肩上がりの経済社会からの転換が必要だ」「若者たちに農業の喜びを教える方がいい」「昔のような質素な生活に戻れと言っても無理がある。けれども、成長経済にはならないと分かれば自ずと生活様式も変わるはずだ」といった社会観はよく似ている。女性についても、「好きならば好きとはっきりさせければいい。金で女のご機嫌を取る奴は、金の切れ目が運の切れ目になるのは当然だ。ぶつけるだけのハートがない奴は恋などできん」と手厳しいことを言う。

 「スウェーデンは収入の75%の税金を払っている。それでも国民に不満がないのは、どんな些細なことも全て国民の前に公開されているからだ。税金がどのように使われているか、1円単位で分かる、情報公開こそが政治の基本だ」と説く。私が選挙で、「市民参加と情報公開」をスローガンにした時も、だから骨身を惜しまずに協力してくれた。「官僚が政治を私物化した」と主張する彼は、地方においては「多すぎる役人の数を減らし、やらなくてもいいことまでやっている行政のあり方を見直すべきだ」と言う。市民の直接参加で、行政の事業を見直そうとした私の主張と一致した。

 ところが2つの点で全く話が合わない。1つは教育で、子どものことは子どもが決めればいいという点では一致しているのに、彼は日本の教育をダメにしたのは日教組だと言い切る。日教組が全面的に正しいとは私も思わないけれど、日教組が教育をダメにしたとは思えない。教育は常に社会と密接に結びついていて、社会からの「要求」に屈してきた。本来は理想があり、その理想へ向かって教育は行なわれるように見られがちだけれど、実際は社会からの要求に押し曲げられてきた。そういう運命を背負っているのが教育といえる。

 2つ目は外国との関係だ。彼は「外国に屈するのはもっての他だ。軍事力の強化こそが外交の基本。韓国や中国にこのままではやられてしまう」と危機感を抱いている。「自国を守らずに、話し合いでなどと言うのはアホだ」とさえ言う。どうしてこうなってしまうのか私には理解できない。私よりも5つ年上だけれど、それだけでこうも国家に愛着があるのだろうか。まるで、幕末の志士のように、外国から日本を守るためには日本の官僚主義ではダメだと言っているみたいだ。

 これからは、成長経済は望めないのだから、それにあなたが言うように、このまま人類が増え続ければ地球は破滅するわけだから、ここは自国優先ではなくて、地球全体を視野に考えていくべき時なのではないですか。そう思うけれど、まだ超物知りとはまともに論戦をしたことがない。言い合っても一致点は見出せないだろうという思いと、今更議論などしても意味がないような気がするからだ。

 さて、今晩は我が家のルーフバルコニーで8月の誕生日会である。お天気はよさそうだけれど、風が強いと困る。5家族にかかわるそのまた家族まで含めると20人くらいか。早く用意にかからないとカミさんから「早くして!」って声がかかりそうだ。
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南の小さな島の人々

2010年08月27日 19時21分21秒 | Weblog
 私の友だちに超物知りの人がいる。「お父さんは本当に何でもよく知っているよね」と私が感心して言うと、彼の息子は「新聞やテレビの、つまり他人の受け売りですから」と冷ややかに答えてくれた。その言い方も父親にそっくりだった。数字にめっぽう強くて、何年とか何箇所とか何トンとか、どうしてこんな数字まで知っているのだろうということを言う。話の中で必ず具体的な数字を持ち出すので、その知識には感服するが、何時もいつもこうして数字を聞かされると、知識のバーゲンセールにあったようで、感心が嫌味に変わってしまう時もある。

 そんな彼が水田としては利用されなくなった農地を見て、「日本は世界中で一番贅沢に暮らしているのですよ」と言う。「今、フランスやイタリアから日本に来る観光客の目的は食事です」と断言するので、聞いていた私たちも「えっ!そうなの?」と半信半疑になる。「彼らは富士山や京都が見たくて来ているのではなく、日本の居酒屋へ行くんです。なぜなら、日本の居酒屋は世界中の食べ物が揃っているし、お酒も世界中のものが飲める。これだけ品揃えが豊富なのに安くて美味しい。メニューには写真が添付してあるから、『コレ!』と指差すだけでいい。フランスやイタリアでちょっと美味しいものを食べようとしてもコースしかなく、好きなものが好きなだけ食べられる店はない。日本の居酒屋は最高!というわけです」。

 そこからまだまだ話が続く。「日本は食糧の大半を輸入しているけれど、その半分は残飯として捨てている。CO2の消費でアメリカは世界1と言われているけれど、日本の食品が育て作られるまでをも換算すれば日本は世界1のCO2消費国だ。つまり、世界1贅沢な国、消費の最高点にある国というわけです」。「こんな国はおかしい。いつかしっぺ返しを食らうだろうね」と結論する。そうか、私たちは狭い家で小さな風呂に入り、庭も猫の額ほどしかないので、贅沢な暮らしをしているとは全く感じていなかったけれど、日本全体を世界の各国と比較したなら、そういう指摘も当たっているかもしれない。でも、それは誰かのせいというものではなく、資本主義社会の中で真面目に努力してきた結果である。

 太平洋の小さな島で人々は不自由なことは何もなく暮らしていた。手漕ぎの船で魚を捕り、狭い畑でイモを育てていた。大きな船に乗った人々が「最後の楽園」を見つけたと言って、近くの島にリゾートホテルを建てた。島の人々もホテルで働くようになり、海で魚を捕ることも畑でイモを育てることも、年寄りだけの仕事になった。家は西洋風に建て代わり、電気が引かれ、冷蔵庫やエアコンが置かれるようになった。みんなで魚を捕まえる作業は無くなり、境界線などなかった土地もいつの間にか売買されるようになった。みんなで暮らしていた時は差などなかったのに、今ではお金持ちと貧乏な人とにはっきりと分かれた。そんな様子がテレビで報道されていた。その小さな島の人たちは、みんなが集まって集会を開き、土地はみんなのもので個人のものではないと決め、みんなで再び魚を捕り畑を耕す生活を選ぶことになった。

 それから彼らがどうなったのか判らないけれど、どういう生活やどういう社会が幸せなのか、人間はその智恵で切り開いていかなくてはならないが、果たしていけるのだろうか?
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オクラが花をつけないのはどうして?

2010年08月26日 18時57分28秒 | Weblog
 オクラの花がつかないのはどうして?我が家にもらわれてきて、もう1ヶ月以上になる。一昨年は植木鉢が小さかったので、オクラは大きくなれず、花も3回か4回咲き、実をつけただけだった。オクラの苗を探していると話したら、友だちが2本も苗をくれた。今年は絶対に大きく育てようと思い、ルーフバルコニーではなく南側のバルコニーで育てた。もちろん鉢も大きくして肥料も与えた。すくすくと育ち、今では背丈が90センチにもなった。これまでのオクラとは大違いで、葉も大きく育ち見るからにたくさんの花を咲かせてくれそうに思った。

 それがどうしたことなのか、未だに花がつかない。花芽らしいものがいっこうに出てこない。ルーフバルコニーでは強風のために鉢がひっくり返ったり、幹が折れてしまうことがある。そうならないようにと南側のバルコニーで育てていて、順調に大きくなってきているのにどうして花が咲かないのだろう。オクラの花は芙蓉に似て、なかなか見事だ。オクラが好きでよく食べるのに、花を見たことがないと言う孫娘にぜひとも見せてあげたいのだが、このままでは秋になってしまう。どうして花をつけないのだろう。

 民主党の代表選挙が近づいてきて、小沢一郎さんが出馬する意向だとマスコミは報じている。小沢さんは党内に自分の力を残しておきたいだろうけれど、自ら出馬して総理になる気はないと思っていたのでビックリである。総理になれば、野党は「小沢さんの金の問題」を必ず追及するだろう。「自分は知らなかった」で逃げ切るつもりだとしても、選挙になればその影響は大きく、民主党の後退は必至となるだろう。それが分かっていながら自分が矢面に立つような人ではないと思ったからだ。だからどこまで小沢さんの影響力を温存できるか、その秘策を練っているに違いない。しかし、小沢さんは田中角栄の政治手法に受け継ぐ最後の人だ。日本の政治のために、小沢さんにはやはりここで引退していただく以外にないと思う。

 「これまでの人生で、自分は何ができたのだろう」と反省する人は真面目な人だ。家庭をつくり、子どもを育ててきた人は立派な人だ。世の中に生きている人は、必要とされているから生きている。それだけで充分に他人の役に立っている。人の出来ることには限界がある。自分からその範囲を決める必要はないけれど、無理やり何かをやろうとする必要はないだろう。求められるなら求められるままに、求める側なら誠実に、自然に任せていけばいいと思う。

 ところが自然に任せてきたのに、どうしてオクラの花は咲かないのかと不思議に思う。いや、咲かないことが自然なのかもしれない。小沢さんの総理は実現しないだろうけれど、小沢さんが存在したこと事態は自然なことだったのだろう。どのように歴史が動いていくのかは、自然な流れなのだろうけれど、それは私たちがどこかで選択した結果なのだろう。
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夏の夜はバルコニーで食事を

2010年08月25日 19時26分18秒 | Weblog
 もうすぐ9月だというのに、今日も暑い。月曜日に半田まで出かけていって、ボーイスカウトの活動拠点となる野原で井戸を掘った。先輩たちがこれまでの2日間で7メートルほど掘っているので、この日が最終日になる予定だった。ところが余りにも土が硬い。とうとう道具が壊れてしまい、それが穴の底に鎮座する結果になった。「ゆっくりやればいいのに、慌てるからだ」と最長老が指摘する。そのとおりだ。これでは場所を変えて初めから掘り直さなくてはならない。失敗の時はいつもそうだけれど、疲れがドッーと押し寄せてくる。

 体力が落ちたなと痛感する。身体は小型でも馬力がある方だったのに、月曜日の疲れがまだ残っている。両手首は痛いし、親指の付け根はいっそう痛い。もともと左足は骨折のためか、親指は常にしびれていて感覚が鈍いが、今は左足全体がしびれているような感じだ。腰も痛い。こんなになってはダメだなあーと思う。何が一番ダメかと言えば、こんな風に愚痴をこぼしてしまっていることだ。愚痴は言わず、ひたすら前に進むことを美徳としてきたのになんという情けなさだろう。

 昨夜は長女の一家がやってきて、一緒に食事をしていった。我が家は、夏の夜はルーフバルコニーで食事をするのだが、ダンナはまだこの屋外での食事をしたことがない。いつか都合のよい時においでと話していたけれど、それが急に来ることになった。1歳になった孫娘はよく歩く。家の中をあっちこっちと歩き回っては、興味深いものは引っ張り出し、口に入れるから危なくて目が離せない。食事の支度をカミさんに任せ、私がもっぱら孫娘の相手をしていた。ところがダンナも急に帰れるようになったと言う。このままでは食事作りが間に合わないので、私が食事作りに回り、孫娘の相手はカミさんがすることに交代した。

 夜になっても暑さは変わらない。それでもみんなでワイワイと食事をするのはいい。嬉しくなったのか、ワインのオンザロックの口当たりがよかったのか、つい飲みすぎてしまった。1歳の孫娘は、飛行機の音や電車の音、周りに置かれた草花の鉢やそこから聞こえてくる虫の音など、環境の違いに興味を抱きつつ、私たちと一緒に10時半頃まで起きていた。高校1年の孫娘の方は、夏休みが終わるとすぐに学園祭となるけれど、どんなに生徒会が頑張っても生徒たちは「のらないネ!」と言う。「生徒会をやる子は浮いてる」というのが、どうやら彼女の生徒会の見方のようだ。

 そうか、私が高校の生徒会の役員をしていた時も、一般の生徒からは「浮いている」と見られていたのだろうか。「生徒の 生徒自身による 生徒のための生徒会」を目指していたが、一般の生徒からすれば、「それがどうしたの!」ということであったのかもしれない。政治もまた生徒会と変わらないのだろうか。生徒会は全くのボランティアだったけれど、政治は一般の市民よりも高い報酬がつきまとう。それでも一般市民からすれば、「浮いている」のだろうか。まだまだ暑さが続くと言う。暑さのせいで何かおかしなことが起こっていないか。起こっているのは私だけなのか。
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地域エゴを代表する議員をなくす

2010年08月23日 21時07分00秒 | Weblog
 絶対的な権力者といえば、世襲だった王様や殿様だ。名古屋市の河村市長は「議会は王様だ。こんな馬鹿なことはあってはならない」と言う。これに対して市議会は「河村市長は絶対者になろうとしている」と批判している。一昨日、『地方議員の年金廃止へアクション』と題した集会を自治ネットの主催で開催した。河村市長をゲストに招き、議員年金の廃止論をぶってもらった。残念ながら私は受付役だったので、初めからキチンと聞けなかったけれど、河村市長の言う「市民並みでいいじゃーないですか。市長も議員も、市民と同じ生活をすべきでしょう」はストンと胸に落ちてきた。

 地方自治体の議会は、やはりその位置付けを見直すべきだと私は思う。河村市長が言うように、自分の言うことを聞く政党を立ち上げ、その政党が議会の過半数を取れば、提案した議案は全て議会の承認を得られる。「それを目指す河村市長はケシカラン!議会を大政翼賛会にしようとしている」と名古屋市議会は批判しているし、一昨日の自治ネットの集会でも、河村市長のやり方は翼賛会作りだという意見が多かった。けれどもよく考えて欲しいのは、河村市長以前の名古屋市議会はどうだったのか。多くの地方議会では与党も野党もないはずなのに、「私たちは与党だ」と言う議員たちによって首長の提案に対しては全て賛成してきたはずだ。これも大政翼賛会の議会だろう。

 これまでの多くの地方自治体の議会では、保守系の首長に対して保守系の議員は提案された議案に賛成することを務めとしてきた。今、保守系も革新系も無くなり、首長と議会は正しく対等な立場から、自分たちの住む地域のあるべき姿を求めて、様々な提案がなされている。特に、議会では多数派となることは難しくても、市民の意向を受けて首長に当選した人はままある。最たる人は長野県知事に当選した田中康夫さんで、また消費庁長官に就任した前我孫子市長の福島浩彦さんも、議会と常に対立していた。「革新」と言われた首長はことごとく議会と対立し、その多くは議会を納得させきれずに終わったと思う。

 議員が地域エゴを代表するような地方自治体議会では、住民全体の利益よりも、あるいは自治体の将来やあるべき姿よりも、現実的な地域の利益が最優先される。有権者はそれこそが議員選びの基準と考えている。国政では政権交代をさせても、地域ではまだまだ地域エゴが幅を利かせている。だから、どんなに河村市長が河村党の候補者を立てても、地域ではボスが暗躍し、既成政党がこれまでどおりの勝利を収めるのではないかと私は推測している。地域エゴを代表するような候補者を当選させないようになれば、確かに民主主義は地域に根付いたといえるだろう。

 そう考えると、一番悪いのは私たち有権者だ。名古屋市議会が主張するように、「選挙で選択(洗濯)すればいい」のだが、まだそのレベルに達していないことだ。私たち有権者は、首長も議会議員も選挙で選ぶことができる。こんな首長はダメだと思えば投票しなければいいし、こんな議員はダメだと思えばそうでない議員を選べばいい。ところが、首長の良し悪しは分かるけれど、議員はどのようなことをしているのか、その見極めが難しい。議員がいつどこでなにをしていたのか、有権者はどれだけ知っているのだろうか、知る努力をしているのだろうか。
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ほどほどでいいじゃあないか

2010年08月22日 18時48分37秒 | Weblog
 朝、セミの声が聞こえなくなった。先週辺りからだろうか。今日は、昼間もセミの声はわずかだ。けれども暑い。暑くて何もしたくない。こんなカンカン照りの運動場で、少年野球クラブが練習をしている。子どもたちの元気な声に混じって、大人の「バカヤロウ!どこを見てるんだ!」とか「ナニをやっとる!」と怒鳴り声が聞こえてくる。運動場を見ると、子どもたちがコーチのノックを受けていた。こんな暑い時に大丈夫かと思うくらいに子どもたちは必死に動いているけれど、完璧には出来ないので、つい、大人は激を飛ばしてしまうのだろう。

 こんな日はほどほどでいいじゃあないか、と私は思ってしまうが、熱心な大人ほどノタノタした動きは気に入らないのだ。「根性を入れてやれ!」。そうおっしゃってもこの暑さの中でもう2時間もやっているのですよ。キビキビは無理です。私ならそう言い返したくなるところだ。それでも、怒鳴られた仲間をかばうのか、大きな声で「ハーイ!」とも「オー」とも取れる声がして、すぐにそれを全員が声を揃えて言う。明らかに、監督なのかコーチなのかの機嫌を損なわないようにとする配慮のように思う。

 そういえば中学校の時にも、私の反抗心を抑えるような配慮をしてくれた友だちがいた。あるいは、友だち同士の中で気まずいことが起きたりすると、その場を収める配慮を欠かさない友だちがいた。そうかと思えば、「えっ、何があったの?どうしたの?」と自分のこと以外には気が回らない友だちもいた。炎天下での子どもたちの練習を眺めていて、そんな昔のことを思い出した。

 それにしても、大人は子どもにとって絶対的な権力者だ。反抗するとか言い返すとかできない存在だとつくづく思う。その一番の権力者はやはり親だろう。親に逆らうなどということはとてもできない。できるようになるのは、中学生になってからではないだろうか。先生も反抗などはできない存在だ。何しろ教えるだけでなく評価という権限を持っている。監督やコーチも同じだろう。逆らえば、ぶん殴られるか、逆に何も教えてもらえなくなる。子どもは自分が大人になるまでは我慢しなくてはならない。どんな理不尽なことも耐えなくてはならない。

 大人である親は、もちろん教師や監督やコーチも、その権限に胡坐をかいてはならない。決して自分に逆らわない弱い存在に対して、権力を行使するのは気分がいいだろう。そのうちに、怒鳴っている自分が絶対者だと思うようになるのかもしれない。どんなに無理難題を押し付けても相手はできないのだから、ますます大きな権力者になってしまうのだろう。とんでもないことだ。自分と子どもにどれほどの差があるだろう。むしろ、子どもは無限の可能性を秘めている。子どもから教えられるようになってこそ初めて本当の教育者だ。子どもの特性や能力を引き出し、伸ばすことができるように力を添えてやるのが大人の役割だ。

 怒鳴って当り散らして、それで子どもがこの人についていこうという気になると思っているのなら相当に基準がおかしい。「子どもは叱らなければ育たない」と思っている親もいるけれど、間違ったことを教える場合でも殴る必要は全くない。力を振るってしまうと、自分が絶対者になってしまう。世間では小さな存在なのに、家では絶対者であれば、どうしても暴力的な支配者になっていく。困ったものだ。
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明日、河村市長は何を話すだろう

2010年08月20日 21時59分22秒 | Weblog
 甲子園での高校野球大会の順決勝戦は、沖縄の興南高校と神奈川の東海大相模高校が勝ち進み、決勝戦で対決することになった。興南には決勝戦にぜひ進んでもらいたいと願っていたから、本当に苦しい試合をよく頑張ってくれたと思う。対戦相手は千葉の成田になるのではと予想していたけれど、東海大相模が成田を押さえた。高校野球は全く予想できない。多分それは、自分の期待と違ってしまったという単純なことなのかもしれない。いずれにしても、中京大中京が連続優勝できなかったのだから、ここは沖縄の興南に春夏連覇をやってもらう以外ない。

 明日は朝から、“無党派市民派・自治体議員と市民のネットワーク”が主催する「地方議員年金の廃止へアクション!」のために出かける。だから、沖縄の興南に対してテレビを見ながら応援するわけにはいかないが、最後の力を振り絞ってぜひとも優勝してもらいたいと願っている。それで、普天間基地問題に好転の兆しが生まれることはないかも知れないが、「おきなわ」を意識させることにはなるだろう。ガンバレ、コウナン!私は多分、帰りが遅くなって、パソコンに向かうことは出来ないと思うのでブログの読者に謝っておこう。

 明日の集会に、名古屋市長の河村たかしさんが来てくれる。議会解散の話に終始しないか、司会者は恐れずに整理してもらいたい。「ある課題について、議会がいちじるしく住民の意思を反映しなくなっている場合や、住民全体の意向を緊急に確かめる必要のある場合などに、あくまで代議制民主主義を補うものとして行なわれるのが、住民投票です」と前置きした上で、「河村市長の『議会解散・リコール』には参加しません」というビラをもらった。そこでは、議会解散は議員の汚職などで議会が正常な機能が果せなくなった時に行なうもので、議員の評価については選挙で審判を下せばいいのに、「議会解散・リコール」を行なうのは自らの強権体制をつくるものだという批判が展開されていた。

 優柔不断の私は、河村市長はもう少し議会がいかに理不尽かということをわかるように説明しないと一般市民の共感は得られないのではないかと危惧していた。議会の承認を得ないことには何もできないことは事実だけれど、それが二元代表制なのだから、どちらが住民の利益を守ろうとしているか、目先のことだけでなく自治のあるべき姿を見据えて、もっとキチンと論争して欲しいと思っている。その上で、選挙で審判を下すというのは正しいだろう。けれども、今日の名古屋市議会のように河村市長の提案にことごとく反対し、河村市長が掲げた市長選挙での約束が実現できないのであれば、「議会解散・リコール」もやむを得ないと思う。

 市長には河村さんを、でも市議は地元の人を、そんな意識がまだまだ残っている。河村市長が目指すような河村支持候補の当選は難しいように思う。仮に河村支持候補が議会の多数派となったとしても、大事なことは議会や行政の透明化であり、市民の直接参加の機会をどんどんと増やすことだと思う。明日、河村市長がどんな話をするのか楽しみにしている。
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