友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

孫娘の名前は?その3

2009年07月20日 21時32分05秒 | Weblog
 長女のダンナから長いメールが届いた。赤ちゃんの名前についてである。余り長いので、適当にカットしてここに勝手に掲載する。

 「まず春駒という言葉を知ったのは、かねてから伝えている通り、郡上踊りの春駒(はるごま)という曲名からです。まず歌を聴き、感銘を受け曲名を知り、春駒という単語に対する愛着が自然と備わりました。出張の際、カーステレオで繰り返し聴き、拍と合いの手の法則性を理解出来たとき、うれしさの余りMさんに電話をした事を覚えています。富山からの帰り道、まだ飛騨トンネルが開通しておらず、国道41号線を南下し高山へ向かう道中の事と記憶しています。(略)
 
 春駒という響きは、非常に古風であり伝統的であり、尚且つかわいらしく女性の名前にぴったりな言葉であると感じました。Mさんに、僕たちがもし結婚できて、もし女の子ができたならば名は春駒(はるこま)にしたい、と話しました。Mさんは快く賛同してくれました。

 こうして二人で口にすることで、春駒という架空の女の子は二人の中で生き始め、二人の目標となり、いつしか二人のその後の行方を示す座標となってゆきます。そしてMさんは本当に女児を身ごもり、僕たちは本当に結婚できました。二人で一つの夢を目指し、そしてその夢が現実のものとなったのです。『春駒に会えますように』。昨年の七夕様の短冊に書いた、二人のお願いです。

 これが簡単な経緯です。並々ならぬ強い思い入れが二人にあることが、稚拙な文章なりにご理解いただけましたでしょうか?「春駒」が居たからこそ今の自分たちがあると言っても過言ではありません。また一風変わった名前であることは承知していますし、ずいぶん時間がありましたから、悪い意味合いを持たない言葉であることももちろん確認しました。

 春駒という字面そのものは、どちらもごく一般的な漢字です。読み方も全く奇抜ではなく辞書にも載っている単語でありますから、最近多くみられる奇をてらっただけの奇妙な名前とは一線を画します。伝統的であり古典的です。伝統芸能にも使われるように古い言葉ですので、軽薄さを感じさせず、また重すぎず。その伝統的な部分が“粋”と感じさせるように思います。かわいらしく女性的です。ご指摘のとおり、芸者に使われるほどのネーミングですので、偶像的なイメージ名であり、かわいらしく思うのも当然と言えます。尚且つ偶像的でありながら、現代とは少し遠い時代のネーミングなので、直接的なギラギラしたステロタイプ感は感じさせません。つまり皆様の心配は杞憂に過ぎないと言ってしまっても過言ではないでしょう。この小さな子が自立し自分の人生を謳歌しだす頃には、この子を取り巻く社会の感性が、春駒という名前を純粋にステキな名前だなとうらやむ様になっているはずです。

 当然ですが、僕は生まれてきたこの子の幸せを願ってやみません。心からステキな名前だと信じています。」

 ここまで言われて、反対する親は阿呆であろう。再考した結果について意見を言ったなら泥沼になってしまう。そんな思い入れがあるのであれば、それはそれでよいと思う。これからが大変な毎日となるのだろうが、それもまた人生。自分が納得できるように生きればよい。23日からは次女が長女の見舞いのために帰国する。明るくなるが、騒がしくもなる。これも姉妹の絆なのだろう。
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松阪市議選挙に勝利を!

2009年07月19日 22時35分33秒 | Weblog
 今朝は5時20分に起きた。孫娘を6時30分までにプールに送っていかなくてはならなくなったので、そのまま車で松阪まで出かけた。何時に着けるのか心配だったけれど、午前8時には彼の事務所に着くことができた。今日は松阪市議選挙の告示だ。これまで2回、選挙を戦っているが、告示の出発式に出席してくれる人は驚くほど少なかった。「大丈夫、必ず勝てます」と言ってきた私としては、「出発式の参加者数などは気にすることはない」と言い聞かせる以外なかった。

 ところが、6年間の地道な努力は必ず実を結び、今日の出発式には60人を越える皆さんが集まってくれた。それが逆に候補者に必ず勝てるという意識を与えていないか、心配になる。私たち、「無党派・市民派自治体議員と市民のネットワーク」は無党派だから当然政党の支援はない。政党の支持母体のような団体からの応援もない。全く誰が支持し応援してくれているのかわからない。つまり票読みなどできない。

 無党派層といわれる人々は、組織や地域からのシバリがないだけに、誰に投票するかはその時々の雰囲気で決まっていく。私たちはこういう人々に対して、皆さんが新しい政治の形を作るのですと訴えてきた。しがらみのない人々こそがその地域のパイロットになる。民主主義の本来あるべき姿を形成できる人々である。私たちはこういう人々の支持と応援なくしては存在できない。

 私が無党派にこだわるのは、既成政党に信頼できる政党がないからだ。自民党はもはや自民党型政治の限界であるが故に自滅していくであろう。公明党は宗教政党であるがために初めから限界がある政党だ。民主党や社民党や国民新党がどれほどの政党であるかは、これからの楽しみであるけれど、限界がすでに見え隠れしている。けれども本当は、どのような政治を実現するかは主権者たる私たちである。

 選挙がどんな結果になるかは、候補者である本人がどれだけ努力をしてきたかに尽きる。地道な努力を積み重ねてきたなら必ず報われるであろう。ひとりよがりな行為であったなら、残念な結果となる。今、有権者は口先だけでいいことを言う人かどうかを見分けている。本当に自分たちのためになる人なのか、いやもっと言えばそんな小さな世界ではなく、自治体のためあるいはこれからの社会のために、考え行動しているか、見極めてようとしている。

 張ったりや金や力で政治を進める時代は終わったし、終わらせなくてはならない。張ったりが出来ない正直者の議員こそ、これから本当に必要な政治家である。口からのでまかせを言う人や、恐喝まがいが得意な人を当選させてはならない。私たちが「無党派」とともに掲げている「市民派」の規定は、市民の目線で見る政治ということだ。主権者たる市民が主役となる政治こそが私たちが目指すものだ。

 それにしても孫娘のために車で出かけてしまったけれど、土・日曜日や祝日は車で行くものではないと痛感した。往きはまだよかったけれど、帰りは35キロの大渋滞に巻き込まれ、電車なら1時間そこそこで帰れるところが2時間半もかかってしまった。九州や東北のナンバーの車も多かった。麻生首相のおかげかもしれないが、皮肉なものだ。
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孫娘の名前は?その2

2009年07月18日 21時54分37秒 | Weblog
 やっぱり、私だけの一方的な言い分では不公平だったかなと思っているところへ、長女が長いメールを送ってきた。ダンナの方は忙しいようで、メールも電話もないけれど、おそらく長女が「パパの方が頑固者よ!」と代弁して送ってきたのだろう。今朝の長女のメールは妻としての長女の言い分をよく表していると思ったので、勝手にもここに掲載することにした。

 「おはようございます。パパたちを無視して提出もできるのに、できたらみんなに納得してもらいたいと思った彼はひどく苦しんでるわ。父親である彼の「思い」はどこへ行けばいいんですかね‥。『芸者みたい』っていう理由は、何がそんなに悪い理由なのか、私にもわかりません。パパたちが考えてくれた名前「恋夏=れんか」の方がキャバクラ嬢の名前っぽいし、彼が常々言ってる『当て字』になると思います。この子の姉が一緒に考えたってことがポイントだけどね。でもね、父親が一生懸命考えた名前を否定し、自分たちが考える名前を付けることが解決と思えないけど、仕方ないのかな‥。私はとても苦しんでいる彼を見ていて、なんて優しいんだろうって思うくらいです。私なら、とっくに周囲を無視して、ろくに話もしなかったでしょう。どんな結果でも私は最後まで彼を支えますが、『芸者みたい』という理由で反対されることには、私も納得しかねるところです。この先『恋夏』が超大作の狂乱女の名前になることだってあるし、『キャバクラ嬢』みたいだしね。もともと彼は両親から一文字とるとか、愛とか美とかいう文字を入れたくないって話してたよ‥。」

 よくまあ、ベッドの上でこんなにも長いメールを打つことができたと感心した。同じ土俵で反論する点はいくつかあるけれど、別に議論をすることではないから止めた。間違いとか正しいとか、そういうレベルのことではないからだ。言ってみれば、好き嫌いの感性にかかわることだ。みんなが「いやだな」と思う(感じる)名前よりも、みんなが「いい名前だね」というものの方がいいよと私は思っている。名付けで相談を受けた義父としては、率直な自分の考えを彼に話し、よく考えた方がよいのではないかと進言した。それで彼が悩むのなら徹底的に悩み抜いて、結論を下せばいい。

 初めに思いついたことに執着することはない。他人の意見に揺れ、迷い、そして考えた末に辿り着くことは大事なことだ。そうすることで説得力が生まれてくる。初めに自分が思いついたことから一歩も出られない頑なな人にはなって欲しくない。他人はいろいろ言うけれど、なるほどそういう意見もあるかと認めた上で考えて欲しいのだ。長女は私に似て、他人と相談することは余りないが、夫婦揃ってそうなってしまうのは考えものだ。自分のことなら自分で決めてもかまわないけれど、名前は一生ついて回る。そのことを考えて欲しいと私は思う。

 長女のメールを読んで、夫婦というのは一心同体、これではきっと考え直す余地はないなと思った。それでも義父である私としては、「あなた方がよいと思う名前をいくつか挙げて、考えてみてはどうか」と言いたい。
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孫娘の名前は?

2009年07月17日 22時19分01秒 | Weblog
 第3金曜日は短歌教室である。今日、提出した4首。
1)周りから祝福されて生まれたる 孫の名前は「愛」としようか
2)中3の孫はあれこれ考えて 妹の名は「恋夏(れんか)」と付けり
3)我が婿は「春駒がいい」と言うけれど 「芸者みたい」とみな反対す
4)親戚がみな嫌という孫の名を その父だけが好きと言い切る

 7月6日の早朝に生まれたのに、どうして「春駒」なのか私には理解ができない。婿殿は「いい名前でしょう」と言うけれど、どこがよいのかわからない。郡上踊りで演奏される「春駒」は、生き生きと未来に向かって飛び跳ねていく元気と夢を与えてくれると言う。リズムもいいし、この子にはピッタリの名前だと言う。「春駒」は確かに軽やかな響きで暗いイメージの多い民謡の中では珍しく明るい。だからといって孫娘に「春駒」と付けようとは思わない。婿殿はどうして「春駒」に執着するのだろう。ぜひ、聞かせて欲しいものだ。

 名前は一生ついて回る。子どもが大きくなって、「私の名前はどういう意味で付けられたの?」と聞かれた時、「お父さんが好きな名前だ」と言うだけでは説得力がない。子どもが自分の名前に誇りが持てる、そんな名前を付けることは親の責任である。「お前は芸者になるのか」と友だちに冷やかされた時に、「いいえ、この名前は」と言い返せるだけの根拠があるのだろうか。父親が「他に無いから」と「悪魔」と名前を付けたケースがあった。その父親はしてやったりと大得意だったかもしれないが、付けられた子どもはどんなに悲しかったことだろう。

 「名は体を現す」という。知らず知らずのうちに名前のように生きようとするものだ。でなければ女の子には女らしい名前を、男の子には男らしい名前を付けたりはしないだろう。名前には親の期待が込められているけれど、何よりも一人前の個人として、子どもの人格を尊重してやらなくてはならない。親の趣味や趣向が反映されるのはいいけれど、ひとりの個人として誰が見てもいい名前であることも大切ではないだろうか。

 多くの人が「その名前は嫌だ」と感じているなら、それは配慮されてしかるべきだろう。皆さんが反対している名前をわざわざ付ける意味はどこにあるのか。名前はできるだけ多くの人が「いい名前ね」と言ってくれるようなものの方がいい。そこのところを婿殿にもう一度よく考えてとお願いしている。

 婿殿は優しいし賢い。それにかなり頑固だ。純粋な気持ちの持ち主だからこだわりが強い。純粋な人は打たれると極端にしょげてしまう。まるで全てがダメになってしまったかのように落ち込む。私はどちらか言えば打たれ強い。潰されてもどこかで芽を出そうとやってきた。前の首長が「あなたは聞き上手ですね。あなたと話しているともっと話したくなる」と言った。私はできる限り人の言うことを聞くように努めてきた。自分の考えと違っていても、とにかく聞く。それを仕事にしてきた。

 家庭では身勝手な人であったけれど、それでも子どもの人格を認めないような態度を取ったことはない。激論になってしまうことはあっても、相手の言い分も聞かずに否定することはなかったと思っている。婿殿が心の大きいところを見せてくれることを期待している。
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名演『ハーヴィーの贈り物』

2009年07月16日 21時30分04秒 | Weblog
 不思議な演劇だった。笑えるし、でも泣けるし、えっ結局なんだった?と尋ねたくなる演劇だった。家に帰って、名演の『たより』を読み返してみた。「これはちょっと不思議な、心あたたまるコメディーです」とある。名演7月例会は劇団NLTのよる『ハーヴィーからの贈り物』。「ハーヴィー」とは身長が1m80何cmかある巨大な白ウサギで、ヨーロッパでは「プーカ」と呼ばれるポピュラーな妖精だそうだ。

 主人公のエルウッドは名家に生まれた心優しい紳士だ。義兄が亡くなり、姉とその娘が彼の家で生活している。親の財産を受け継いだ彼は何不自由なく暮らしているが、ハーヴィーという名の不思議な親友ができた。裸の王様の話を思い出させるように、主人公のエルウッドには見えるハーヴィーは他の誰の目にも見えない。姉は弟のエルウッドを精神病院に入れようとする。その病院で診察した医師は姉こそが患者だと早合点する。病院長はエルウッドと話す内に、ハーヴィーの存在を信じるようになる。こんなストーリーだ。

 院長は信じるようになると書いたけれど、それは権威ある精神科の医者としてではなく、人間のあるいは男のエゴが働いたものだというところが、滑稽である。院長はハーヴィーを手に入れれば、避暑地で若い女性とのアバンチュールができると夢見ている。おそらくここがこの演劇の一番のコメディーな部分かもしれない。名演の『たより』には「心をオープンにして客席で座ってください。深く論理的に考えることをやめて、大人の世界を遊んで欲しいと思います」とある。

 「論理的に考えちゃいけません。訳がわからなくなります。芝居を観ながら後戻りをしないで。『あれは何だったんだろう?』などと思わず、先に進んでいってくださいね」ともある。確かに人はともすると理屈で物事を捉えようとしてしまう。そうしないと安心できないようなところがあるからだ。けれども私たちは理屈どおりには生きていない。恨んだり妬んだり、怒ったり羨ましく思ったり、愚かなことばかり繰り返している。

 主人公のエルウッドは誰とでもすぐに友だちになってしまう。彼は友だちを大事にする。一緒に飲みに行こうと誘い、家に遊びに来ないかと呼びかける。彼の死んだ母親は「この世で生きていくためには、賢くなるか優しくなるかのどちらかよ」と言い聞かせたそうだ。そこで彼はずっと「賢い人を目指してきたが、今は優しい人がいい」と言う。彼は決して怒ったり妬んだりしない。彼は誰をも愛してしまう。皆が彼を好きになるし、彼は皆を受け入れる。

 いかん、いかん。論理的に考えない方がいいのだ。エルウッドになろうとしない方がいいのだ。凡人である私はこのコメディーの登場人物のように、恋に恋したり、戸惑ったり間違ったり、怒ったり悲しんだり、不安と絶望と希望と安心と一喜一憂しながら、ああでもこうでもと生きていくのだろう。「ハーヴィーは見たことはあるかって?残念ながら見たことはない。強がりかも知れないけれど、見たいとも思わない」。じゃあね、ハーヴィー。
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古賀選対委員長の辞任

2009年07月15日 20時55分18秒 | Weblog
 今日も暑い。ひょっとしたら、昨日よりも暑いのかもしれない。こんなに滅茶苦茶暑い日は人恋しくなる。そう書いて、いや、滅茶苦茶寒い日も、青い空がどこまでも続く日も、雨の日も、いつも人恋しくなるじゃーないかと気が付いた。こんなに暑いと冷静な判断ができないのか、自民党の総務会は荒れたようだ。都議選の結果について責任は誰にあるのかとの追求を受けて、古賀選対委員長が「責任は自分にある」と委員長の辞任を申し出た。

 古賀さんは宮崎県の東国原知事に出馬を要請し、逆に東国原知事から「総裁候補とする」条件を突きつけられ、そのことが自民党内では「自民党を馬鹿にした行為」とか「誰にも相談せずに勝手にやった」とか、不満と不信が渦巻いていたようだ。総務会でこの点を質され、古賀さんは「東国原氏の件はよかれと思ってやった。自分の浅はかな知恵で迷惑をかけた。辞めさせてもらう」と感情を爆発させたと中日新聞は報じていた。

 今朝のテレビ報道では、そういう面は確かにあるけれど、麻生首相が表明した「8月18日告示、30日投開票」という案は古賀さんに相談がなかったことや、古賀さんが「(衆議選挙は)都議選との同日選挙の方が有利」という提案を麻生首相が受け入れなかったことなど、麻生首相とのズレから、「もうやってられない」となったと解説する評論家もいた。さらに、その評論家は「麻生自民党が壊滅した場合、『だからいち早く見切りをつけたのだ』と(古賀さんは)言える。そこまで考えている」と解説していた。

 何のために、どんな社会を目指すのか、政治の目的が全く欠落してしまっている。どう動くことが自分が生き残る方策か、そのことばかりが先に立っている。自民党内の反麻生の急先鋒といわれる中川さんや武部さんは「都議選の責任を明確にせよ」とか「人心を一新しなければ衆議選挙に勝てない」と発言するけれど、じゃあ、新しい首相に誰を据えるのか、具体的な人材を明らかにできない。麻生さんに代わってこの人なら勝てるという人物が実はいないのだ。いないのに吠えているものだから、説得力はない。

 私の友人も「今度の(衆議院の)選挙で、自民党は100議席に及ばないだろう」と言っている。私は週刊誌を読まないのでそうした予想を立てることができないが、そんなに民主党が躍進する気がしない。自民党政治はもうダメだと思っていても、その思いが即民主党への投票になることには懐疑的だ。まだ、自民党は郡部で議席を確保するだろう、そう思う。

 私が危惧するのは、政権を取った民主党が自民党化することだ。今でも思想的にはもちろん政策的にも民主と自民とにそんなに大きな差はない。民主が政権を取ることでどんどん自民党的な体質になっていくことはないだろうか。かつて社会党が村山さんを首相に担がれ、自衛隊や君が代・日の丸を認めていって社会党は消滅した。民主も同じ轍を踏むことはないか、心配している。

 自民や民主などの既成政党に代わる政党の誕生が求められるところだけれど、今はその動きはない。日本ではヨーロッパのように「緑の党」は生まれないのか。まだ先のことなのか。
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今日は暑かった

2009年07月14日 21時40分41秒 | Weblog
 暑い、ちょっと動くともう汗がにじみ出てくる。部屋の中でも33度もあった。外に出ると暑さがいっそう厳しい。マンションの通路にアブラゼミが1匹、じっとしていた。子どもたちがマンションの庭で虫かごを持って蝶やセミを追い回していた。見上げると、東の空に入道雲が見えた。夏がやってきた。

 夏は苦手だ。隠れるところがない。今でこそエアコンがありクーラーがあるけれど、子どもの頃はあっても扇風機くらいだった。表に出ればジワジワと夏の太陽が照り付けるけれど、家の中は比較的涼しかったように思っている。我が家は材木屋の倉庫が立ち並ぶ、そんな倉庫の一番北側を少し改造して住めるようにしたところだった。

 だから、夏は案外涼しかったが、冬は家の中においたバケツの水が凍ってしまうほど冷たかった。材木が立てかけてある倉庫は暗くてひんやりしていた。倉庫の中は子どもたちにとっては絶好の隠れ家であり秘密の遊び場であった。汗でベタベタになった肌をつき合わせてかくれんぼをしていたけれど、今の子どもたちなら「クッセイ!」といわれてしまうだろう。

 コンクリートの建物が増え、道路もすっかり舗装され、街中を吹き抜けてくる風は生暖かいというよりは熱いような風だ。こんな暑い日に思わぬ人に出会った。20年ほど前に見たその女性は、やはりこんな暑い日だったのか、車を運転していてあまりの暑さのためにスカートを捲り上げていたのだ。たまたま、助手席側のドアが開いて、ドキッとしてしまった。白い足が異様なほど艶かしかった。

 お茶の先生で、キレイな人であったけれど、そんなお茶目な格好をする人だとは思ってもみなかったので大変に印象深く残っている。今日出会った彼女は、当たり前だが20年の年月を重ねていた。真っ白な肌の人と思っていたけれど、普通の人であったし、お茶目なところは変わらないとしても益々茶道の先生の重みが増して、色っぽかった。「お久しぶり」と言われて「お久しぶりです」と答えただけであったが、私だけが一方的に知っていることなのに、ちょっと照れくさい思いがした。

 カミさんは午後から長女の見舞いに出かけていった。やはり入院となるといろんなものが必要となるようで、娘から要請のあった品々を揃えていそいそと出かけていった。したがって今晩は久しぶりに孫娘と二人だけの食事である。何を作ってやろうかと冷蔵庫を見るが、野菜室はいただいたキュウリばかりだ。さて、そろそろ準備にかからないと孫娘が水泳の練習から帰ってくる。「腹減った。ご飯まだ?!」と言うに違いない。
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東京都議会議員選挙で民主が第1党に

2009年07月13日 22時16分06秒 | Weblog
 東京都議会議員の選挙で民主党は第1党となった。ほとんどの選挙区で民主党候補がトップ当選を果たした。民主党の新人2人がトップで当選している選挙区では現職議員が2人落選しているから、新しい人に託したいという気持ちが有権者に強く働いたのだろう。口の悪い私の友人は「65歳以上の年寄りは選挙なんかに出ちゃーいかん。若い者に任せないとダメだ」と言う。

 地方都市の市長は実績のある中年以上の候補が当選するのが常だったけれど、奈良市長選では民主党推薦の33歳の新顔候補が自民党衆議院議員を破って当選している。千葉市でも三重県松阪市に続いて31歳の市長が誕生している。有権者は、若いから経験がないからとマイナスには考えなくなってきた。むしろ、若い人はしがらみや馴れ合いがなく、エネルギーに満ちていると判断している。変革を望むなら若い人の方がやってくれそうだというのだろう。

 麻生首相は「都議選と国政選挙は関係ない」と言っていた。自民党幹部すら「そんなことを言っていけない」と発言している。麻生さんは状況が見えないのか、見ようとしないのか、それとも見ているけれども本当に関係ないと思っているのか。麻生さんを「相当図太い人だね」と言えば、「鈍いんじゃないのかな」といった会話が聞こえてきた。「解散の時期については、しかるべき時に私が決める」と言い続けてきた麻生首相だが、とうとう今月21日に解散し、来月30日を投票日とすることを公表した。

 自民党内部からの麻生おろしや公明党や自民党長老たちの引き伸ばせ論からすればやむを得ない策だろう。都議選や解散時期ですっかり影が薄くなったけれど、「臓器移植法の改正案」が参議院でも可決され、子どもからの臓器提供にも道を開くことになった。政治の世界が大きく変わろうとしていることは確かだけれど、人間の本質的なあり方までもドタバタの中で軽く扱われているように思えてならない。

 私のまちにある真宗大谷派の寺で出している会報に面白い記事が載っていた。「AがBに暴力を加えたために人間関係が崩れた場合、多くはAが何をしたかを重視して、Aの責任を追及します。しかし、ポリネシアでは加害者Aと被害者Bだけでなく、周りの人たちもどういう態度だったのか、両方の家族、友人、近所の人も集まり、間の人望のある人が立会い、それぞれの責任について話し合い、解決を目指します」というもので、筆者は「現代のように何事も正義と悪に分けて、裁判や力で悪を屈服させようとする方法ではありません。むしろ原始仏教の『縁起』という考え方に似ています」と結んでいた。

 さて、都議選で躍進した民主党はいっきに衆議院選挙でも大勝利を収めたいのであろうけれど、どんな政策を掲げて選挙に臨むのか、内部でしっかりと議論を重ねて欲しいものだ。麻生首相が「政権交代は目的ではない。どんな政治を民主党は目指すのか」と発言していたが、的を射ていると思う。他人のことはよく見えるようだ。
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落胆は人生の糧?

2009年07月12日 17時51分39秒 | Weblog
 たとえば本当に神様がいて、天罰を与えるようなことがあるとするなら、天罰を与えられてもおかしくない人がいるのに、どうして幸せでなければならない人を不幸にするのだろう。神様は時々わからないことをする。おそらく神様の愛が罪人である私には理解できないのだろう。

 昨夜のNHKHVテレビでモナコ王国の王妃となったグレース・ケリーを特集していた。彼女が王妃となってからは一度も映画に出演していないと思っていたが、最後にモナコを舞台にケリーは王妃の役で出ていた映画があった。その映画の最後に「落胆することは人生の糧よ。悔やまずに前に進むことが大切よ」というセリフがあるが、それは彼女自身へのメッセージであったと解説していた。

 不自由なく暮らし幸せ一杯の人生のように思ったけれど、どんな人にも幸せと不幸はやってくるようだ。不幸ばかりが続くことはありえないのに、幸せは気がつきにくく不幸は目に付きやすいからか、どうも人は不幸には敏感な気がする。

 小林多喜二の『蟹工船』ではないけれど、嘆いてばかりいても状況は少しも変わらない。自分が何をしたいか、どうなりたいか、自分で考え自分で決めなくては結局は生きたといえないのではないだろうか。

 パソコンに向かっているそばを蚊が1匹飛び交っている。血を吸わせてあげるから、あっちに行って追い払うべきか、血を吸わせておいて叩きつぶすべきか、そんな馬鹿馬鹿しいことを考えている。蚊の方は何を考えながら身を隠し、私があきらめた頃になるとそっと飛んでくるのだろう。

 さて、今日は東京都議選挙の投票日だ。今晩遅くには当落が決まるから、勢力分布もハッキリするだろう。

 自民党の衰退はハッキリしていても、それに代わる民主党がどんな政策をどう実行してくれるのか、ここは有権者が「あきらめず、前に進むこと」だろう。決めていくのは自分たちなのだという気持ちを忘れないことだと思う。アメリカ国籍のドイツ人に言わせれば「ドウシテ、ニホンジンハ スグワスレテシマウノデスカ?」と不思議だと言う。

 昨日、私の古い友人でずっーと選挙で応援をしてくれた女性から電話をいただいた。いきなり「本当にあなたは水臭いわね」と言い出すから、またかと思って笑ってしまうと「やっぱり心当たりがあるのね」と怒り出す。前にも「市長選挙にもう一度出るんでしょう。そう聞いたわよ」と言った人だ。今回は「奥さんが出るのね。適任だとみんな言ってるわよ」と言うものだ。来年の春にはこの市の首長と市議の選挙が行われるから、もう誰かが探りを入れてきたのだろう。

 私は選挙に賭けたけれど、カミさんは何もそんなことをする必要がないと思っている。生き方が全く違う。だからやってこれたともいえる。孫娘は今朝4時半に起きて、5時半には水泳大会へ出かけていった。カミさんはゴルフの早朝練習から帰ると「病院へ行ってくるわね」と言って、長女のところへ出かけていった。「孫の面倒は見ない」と言ってはいたが、長女の生き方には賛同できなくてもやはり娘のことは気になるのだろう。

 さて、今夜は上下3軒両隣の第1回の酒宴である。
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人生は楽あれば苦もある

2009年07月11日 22時54分17秒 | Weblog
 「人生、楽ありゃ苦もあるさ」などと、水戸黄門の主題歌をテレビで見たこともない孫娘がよく歌っていたが、今日は文字通りそんな日であった。長女は娘を産んだけれど、やはり高齢出産のためなのか、大腿骨に異常があり、ずっと片足を引きずるような歩き方だった。生まれた赤ちゃんは小さかったけれど未熟児ではなく、生まれた翌日は体重がグンと減ったものの、今では2600gにまでなった。

 さて、今日はいよいよ退院の運びで、午後3時に退院予定だった。ところが長女は退院に備えて入った浴室で転んで、激痛に襲われてしまった。子どもを生んだ市民病院には整形外科がないため、もっと大きな病院に行くことになった。けれども、市民病院は救急車で搬送することは出来ないと言う。そこでベッド付のタクシーを呼んで運ぶことになった。そのタクシーでの移送中も痛さに耐えられずに泣き叫んでいたというから、想像を絶する痛さなのだろう。我慢強く、決して弱音を吐くような子ではないのに、そんなに泣き叫ばなくては限界を超えられなかったのだろう。

 特別な病気がなければ、時間を経ていけばいつかは回復できるようだけれど、絶対に健康な元の身体に戻れるとは医者も断言できない様子だった。それは仕方がないことだと思う。誰も好んで病気や不幸になりたいとは思わないけれど、幸せになるべき人が不幸せになることは往々にある。そんな馬鹿なと思うけれど、もしこの世に神様がいて全てを支配しているとしたなら、神様は人が考えられる以上のことをされるのだから、神様が考えた末のことだと私たちは受け取らざるを得ないだろう。

 その時、ふと友だちのブログを思い出した。明日は東京都議会議員の選挙の投票日である。マスコミの調査では、民主の躍進と自民の凋落が確実のように言われている。幸せの向こうに不幸があるように、本当に民主党の飛躍が実現されるのだろうか。いや、長女の事件のように幸せになるべきなのに転んでしまうということは何だろうか。そんなことを思った。多くの友だちが自民党の大敗と民主党の大勝利に期待しているけれど、都議選では仮に民主党が躍進したとしても、果たして衆議院選挙で政権交代は実現されるのだろうか。もっと言えば、政権交代が実現されれば、それで全てがうまくいくように思われているけれど、たとえ民主党が政権を取ったとしてそれで国民が望むような政治が実現されるのだろうか。

 かつて小泉純一郎さんが自民党総裁選挙に立候補し、「自民党をぶっ壊してでも改革を行なう」と言った時、多くの人が歓声をあげて小泉さんを支持した。それでどうなったのか。自民党は延命させられ、国民の血税をより多くの吸い取っただけであった。民主党政権が生まれればそれでよいわけではない。民主党政権が国民のためにどれだけ一生懸命で働くか、政府と主権者である国民との距離を埋めていく施策をいかに作り出していくのか、真価が問われている。

 長女は今頃どうしているのだろう。運命に逆らえない自分を思い、悔し涙を流していたけれど、自分の限界を知ることは大事なことだと思う。だからこそ人に優しくなれるし、人に愛される自分にならなくてはと思うのではないだろうか。
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