友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

AIが市長選挙に立候補する

2024年06月30日 17時52分15秒 | Weblog

 また夜中に、汗でびっしょりになりパジャマを着替えた。室温は28度あったから暑いはずだが、梅雨入りしたからか外から冷たい風が吹いてくる。湿度は70%近くある。それでも横になると、眠ってしまったから、神経が鈍いのか図太いのだろう。

 今日も曇り空で、時々雨も降っている。暑いのか、暑くないのか、自分で分からなくなっている。スカッと暑くなるよりも、グズグズと湿っぽい、この方が暮らしやすいのだろうか。どこかへ行くことも無く、部屋に閉じこもって本を読んでいるだけなのに。

 世界各地で選挙が行われているが、どうした訳か、どこも同じ傾向になっている。自国優先、自分たちの利益だけを守ろうとしている。ポピュリズムと呼ばれるこの傾向を、なぜ国や地域が違うのに、人々に支持されるのだろう。

 東京都知事選挙で掲示板を占拠した政治団体の主張も、既得権への抗議とも言われるが、選挙そのものをバカにしているように見える。誰が当選しても大して変わらないと、有権者は思っているから、投票は権利というより義務でしかない。

 今朝の『朝日新聞』の論説主幹の見出しは、「民主主義を信じて堂々と」だった。エッ、民主主義は信じるものなのかと疑問が湧いた。最後に「大事なのは極論にくみせぬ層が堂々と声を発すること」とまとめていたが、何かスッキリしなかった。

 人間に任せておくとロクなことにならないと、AIが市長選挙に立候補するという記事が新聞にあった。AIそのものが立候補する訳では無く、立案をAIに任せるというものだ。AIはデーターを分析する能力に優れているから、いつの日かそんな時が来るのかも知れない。

 AIの政策に従って、人間がそれを支える。私腹を肥やすことも裏切りも無い社会が到来するのだろうか。クスッと笑えてきた。

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クレマチスの紫が美しい

2024年06月29日 17時44分12秒 | Weblog

 朝、ベランダでクレマチスの2鉢が紫色の花を咲かせていた。カミさんが大事にしていた花だが、外壁工事に伴い隣りの部屋の中に避難させて置いた。冬の間は全く水遣りをしていなかったようで、枯れてしまったいた。

 「どうしよう。ダメかな」と言うので、「毎日、水遣りをしてみたら」と伝えた。ひょっとしたら、根はまだ生きているかも知れない。私は残っていた肥料を根の周りに置き、様子を見ることにした。春になって、新しい芽が出て来た。これなら絶対に大丈夫だ。

 カミさんが料理などに使うために育てていた、山椒とローズマリーは芽を出さなかった。冬の管理が出来なかったから仕方ないが、生命力に違いのあることを教えられた。「ベランダで野菜栽培をしようかな」とカミさんは呟くが、世話が出来るだろうかと心配する。

 テレビニュースで、民主党のバイデンさんと共和党のトランプさんの討論会を垣間見た。バイデンさんは81歳、トランプさんは78歳、どう見てもふたりともジジイである。年齢制限は差別という意見もあるが、私は80歳で線引きすべきだと思う。

 『ニューヨークタイムス』が社説で、バイデンさんは大統領選挙から撤退すべきだと主張しているという。このままではトランプさんを有利にするだけと指摘する。どちらにも肩入れしない日本の新聞と違って、さすがに伝統ある新聞だと感心した。

 気力も体力も充分だとしても、後輩に道を譲るのも先輩の気配りである。トランプさんの政策は過激で偏っているし、アメリカのためにはならない。大統領の任期は4年だから、80歳を超えてしまうから当選させてはならない人だ。

 冬を耐え忍び、春に花を咲かせる、自然の摂理は人間にも当てはまる。けれど、決して永遠に続くことは無い。新陳代謝の繰り返しが、人間を進化させてきた。クレマチスの紫が美しい。

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却って悪いことをしたのだろうか

2024年06月28日 17時08分11秒 | Weblog

 孫娘が昨日、ふたりの息子を連れてやって来た。夕方、ピアノを運ぶ業者が来ることになっていたので、その打ち合わせのためだ。10月に4歳になる長男は、「ブロックで家をつくる」と言う。我が家に来るたびに、造り方が細やかになっていて面白い。

 8ケ月の次男は、長男のやることに興味津々だ。移動手段はハイハイだが、随分スピードが増した。長男に何をされても、泣かずに纏わりついている。長男がルーフバルコニーで水を出して、裸になって遊び始めると、次男も水の中をハイハイして回っていた。

 3人は我が家で夕食を食べ、風呂に入って帰って行った。持ち物が多すぎるのに、どういう訳か長男は「抱っこ」とせがんで、母親にしがみつく。「男の子なんだから、荷物の1つでも持ちなさい」と言いかけて止めた。そういう決めつけが良くないと育児書にあったから。

 孫娘たちが駐車場を出発して、5分もしないうちに電話が鳴った。「(長男が)パパちゃんと、バイバイしていないと泣いている」と言う。車が出る時、カミさんは車の窓から手を入れて、タッチしてバイバイしていたが、私は安全確認のため、車よりも前にいた。

 私が長男に冷たい態度を取っていると、彼は察したのだろうか。その繊細な感情が上手く育ってくれるようにと祈る。子どもは無邪気に、そして自分勝手でいい。そのうち、好かれる行為と嫌われる行為を、自然に覚えていくだろう。

 その人のためだと思った行為が、逆に腹を立てさせることになったりもする。人間は難しい存在だ。自分を理解してもらうために、一生懸命に行ったことが逆目に出ることもある。昨日はそんなこんなで、ブログのUPが出来なかった。

 今朝、階段のところに1匹のバッタがいた。こんなところにいては可哀想だと思い、捕まえて放してやろうと、箒ですくいとったはずだったのに、見るとどこにもいない。却って悪いことをした気がした。

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著者を応援するために購入する

2024年06月26日 17時34分00秒 | Weblog

 中日新聞に見開きの2ページで、「生活」という特集がある。今日は、右側に「性加害報道 どう伝える?」の見出しで、読者のアドバイスと性教育に関する著書もある女医への取材記事が掲載されていた。

 読者のアドバイスは子育て中のお母さんで、「分かりやすく、簡潔に伝える」とか、「もし、あなただったらどうする」と、会話できるように心掛けているとあった。しかし、「親自身が性教育は受けておらず、雑誌や友人から情報を得て、知ってはいるけど、実は分かっていない」とも語っている。

 女医は「逃げない、ごまかさない、はぐらかさない」と言い、「性=悪と考えずに、性をポジティブに捉えるところかが出発点」と指摘する。報道されているニュースやインターネットから、男性による女性に対する支配的・暴力的な性描写が、現実だと混同してしまうことへの注意を促している。

 左側に『だだくさをひとさじ』というコラム欄があって、書き手は『余命一年 男をかう』(講談社文庫)の著者、吉川トリコさんだった。見た目で男性女性を判断することの難しを取り上げていた。「セクシュアリティは変わっていくものでもあるから、その表象だけとって他人が一方的に性別を判断するなんて不可能なのだ」と。

 それを、「窮屈な時代になってしまったと思う人もいるだろう」が、男は男らしく、女は女らしくといった「規範が強固だった性別二元論的な世界の方が今よりずっと窮屈だった」と述べ、「私も古い人間なので、抜け出すのはなかなか難しいが、少しずつでも意識を変えていきたい」と結んでいる。

 そうか、そういう視点で『余命一年 男をかう』は書かれているのかと思い、もう1冊読んでみたくなり、早速、書店で『あわのまにまに』(角川書店)を買ってきた。本は図書館で済ませる人がいるが、私は著者を応援するために購入するように努めている。

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実写映画を観に行った青春時代

2024年06月25日 18時16分04秒 | Weblog

 中学の時の友だちが、同級生の消息を知らないかと聞いてくる。その同級生は喉頭ガンで話が出来なかったが、クラス会に参加してくれた。一生懸命に話すけれど、何を言っているのか分からない。見ていて私は気の毒になってしまった。

 なのに、「どうしているのか、知らなくて友だちか。彼のところへ行って、聞いて来いよ」と言う。出かけて行くのも、電話かけるのも、その気になれなくて、結局、彼のカミさん宛てに手紙を書くことにした。書きながら、自分勝手だなと思った。

 友だちの様子を知って、どうしようというのだろう。見舞いに行くにしても、彼が受け入れるとは思えない。どんなに親しかった間柄であっても、むしろ間柄だったこそ、惨めさをさらけ出したくは無い。私が彼なら、放っておいてくれと言いたい。

 みんな高齢になった。それでもまだ、「最後の恋」しかも不倫の恋を続けている人もいるし、「最後の恋」ばかりか、常に恋しているのに、一向に実らない恋を追いかけている人もいる。不倫が悪いと私は思わない、むしろその情熱が羨ましい。

 先日も高齢の男性たちが喫茶店で、女子バレボールの話をしていた。アタックが凄いとか、レシーブが巧いとかの話だったのに、「コガちゃんのヘソはキレイだ」と話が変わっていた。女子ゴルフのプレイヤーは「ミニスカートしかダメと決めたらいい」とか、話題がどんどん下へと移って行った。

 「まあーよー、役に立たんで、見るばっかりだでぃ」「野球見てても観客席を歩く、売り子の女の子の脚ばかり見ている」「週刊誌も見るのはヌード写真だけ」。高齢の男性たちの会話は、悲哀が滲み出ていた。

 先日、NHKテレビでAIによるSEXが取り上げられていた。近未来はAIによるSEXが一般化していくのだろうか。何とも味気ない人間社会になってきたものだ。中学の友だちと、西浦温泉へ実写映画を観に行った青春時代を思い出す。

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欲望から卒業することは出来ない

2024年06月24日 17時31分49秒 | Weblog

 処罰すれば、その犯罪は無くなるのだろうか。塾の先生が、学校の教師が、医師が、盗撮したとか、セクハラしたとか、身体に触れたとか、ニュースになっている。大学2年の教育実習は、付属小学校だった。名門校と言われ、いいところの子が多かった。

 配属されたのは6年で、中にとても大人びたキレイな女の子がいた。放課になると近づいて来て、媚びを売るように身体を寄せて来る。あの時、私がその気になっていたら、きっと教師にはなれなかっただろう。

 何年か前、放課後学習の手伝いを頼まれて、子どもたちの面倒を見たことがある。その時、上司に当たる先生は、若い独身の男性だった。彼は女の子を膝に抱き、宿題をやらせたり、勉強を教えていたりした。これはマズイのではと思ったが、直接言えなくて、彼の上の人に話した。

 彼はゆくゆくは教師になりたいと言っていたから、まだ、教師としてのレクチャーを受けていなかったのかも知れない。私もよく頑張った子の頭をなでてやることはあるし、肩を抱くこともある。しかし、どんなに自分が善意で行ったとしても、相手が嫌ならアウトになってしまう。

 特に今は厳しい。「こども性暴力防止法」が成立し、子どもと接する仕事に就く人の性犯罪歴の確認が、学校や保育園などに義務付けられた。たとえ、善意からの行為であっても犯罪と認定された者は、学校や保育園では働かせてもらえない。教職を退いた人が、自分で塾を立ち上げた場合でも、保護者が問題にすれば辞めざるを得なくなる。冤罪をデッチ上げられる可能性もある。

 これって、本当に良い制度なのだろうか。確かに、子どもと二人っきりにしないことは犯罪抑止になるだろうが、その前に、教師になる人のレクチャーが必要なのではないか。女の子でも男の子でも、可愛い子に目が行ってしまうのが人だろう。そんな時、どうすればよいのか,学ぶ必要がある。

 80歳になった今でも、女性への関心は無くならない。そんな欲望から卒業することは出来ないのだろうか。

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指導者はいつも、己のことしか頭に無い

2024年06月23日 18時20分51秒 | Weblog

 NHKラジオから、沖縄県糸満市の摩文仁平和公園で行われていた、沖縄慰霊祭が聞こえて来た。沖縄戦では24万余の人々が命を落とした。私は1944年生まれなので、沖縄戦の時は1歳の赤子で何も知らない。子どもの頃、広島の原爆の話は聞いたことがあるが、沖縄のことは聞いた覚えが無い。

 映画にもなった「ひめゆり学徒隊」で、初めて沖縄戦を知った。敗戦が濃厚だったのに、国の指導者は「本土決戦」を唱えていた。沖縄も敵軍の上陸に備えて、島民を総動員していった。女と子どもまで戦争に駆り出され、穴倉に閉じ籠るゲリラ戦に備えた。

 戦争を始める時も、終結する時も、指導者は己のことしか頭に無く、決して責任を取らない。敗戦で自害した人もいたが、指導的立場の人ではない。天皇陛下はポツダム宣言を受け入れたが、責任を取って切腹することは無かった。

 イスラエルでもウクライナでも、戦争は続いているが終結しようとする動きは無い。自分たちに有利な状況に持って行き、そこで話し合いのテーブルに着こうというためだ。日本も大戦の末期に、神風特攻隊や上陸した敵と刺し違える作戦をとった。

 どうしてこんな愚かな作戦を立てたのかと思ったが、今日の「中日新聞」の日曜版を見てよく分かった。「一撃を加えて有利な立場を築き、和平交渉する一撃講和」と解説してあった。どこの国の指導者も、昔も今も、有利な状況を作ろうとして、国民を犠牲にする。なのに、自分たちは決して責任を取らない。

 じゃーなぜ、国民はそんな指導者を許してしまうのだろう。昔から指導者は、国と国民との一体感を強調してきた。だから、国民の側から、国のために身を捧げようと口にするようになった。今も名古屋の河村市長は、「国のために死ぬのは美徳」と言っている。

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「いいねぇー」と朗らかに返事をした

2024年06月22日 17時52分38秒 | Weblog

 昨日は夏至、太陽が沈むのが一番遅い日。西の山々の一番北、伊吹山の北側に太陽は沈んでいく。キレイな夕焼けだったので、ルーフバルコニーに出てその時を待った。午後7時になって、太陽の光がいっそう眩しくなった。

 私は長女から与えられたスマホを掲げて、西を見つめる。太陽が山にかかる直前で、スイッチを押そうと構える。ケイタイは慣れているけれど、スマホは分からないので、とにかく何枚か撮り、パソコンに送ってみた。

 先日、カミさんがauからの請求書を見せて、「こんなに使っているのは、あなたがケイタイで撮った写真をパソコンに送るからよ。娘にスマホで撮った写真の送り方を教えてもらったんだから、スマホに替えてください」と説教された。

 ムカッときた。「もういい、ケイタイで写真は撮らない。ブログも止める」と怒鳴りたくなったのを堪えて、「わかった。そうする」と従ったので、それを立証するために夏至の日没写真を撮った(写真)。夜、東の空に丸い月が輝いていたが、写真を撮る気はしなかった。

 「扇風機を出してね」とカミさんに言われ、倉庫から持って来て組み立てた。首振りが出来なくなっていたので、直せないかと挑戦してみた。しかし、私の知識と技術では直せなかった。「まだ動くんだから、買い替える必要は無いわよ」と、カミさんは言い放つ。

 電灯を消して回り、スパーのチラシを点検して少しでも安い物を買う、徹底して節約に努めているのに、私はボーと暮らしているので、何でも協力しようと努めている。冷凍庫の中が食品でいっぱいになっているが、賞味期限は大丈夫かと気が揉める。

 裏金問題が課題だった国会も、何やら分からないままに幕になった。カミさんが、「今晩は、父の日に食べる予定だったハンバーグにするから、赤ワインでも飲もうか」と優しい言葉をかけてくれた。「いいねぇー」と、私は朗らかに返事をした。

 

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投票率は上がるのだろうか?

2024年06月21日 17時41分40秒 | Weblog

 とうとう藤井聡太君が叡王冠を失う時がきた。そんな予感がしていたのに、テレビで先手と聞いて、勝てるかも知れないと期待していた。勝つ時もあれば負ける時もある、当の本人たちはそんな呑気なことを言っておれないだろうが、外野席だから平気で言える。

 東京都知事選挙に56人が立候補したという。誰でも政治団体を立ち上げ、選挙管理委員会に届ければ立候補出来るが、3百万円の供託金を納めなくてはならない。しかも、投票総数の10分の1以上の得票が無いと没収されてしまう。

 ふざけて選挙に出馬させないためだが、資金が無い者は立候補が出来ない制度でもある。実際、選挙にはお金が要る。選挙を手伝ってくれる人が要る。ポスターを貼る人、選挙カーに乗る人、演説の応援をしてくれる人、人手はいくらあっても足りない。

 選挙ポスターには、何を書いてもいい。子どもの時の写真でも構わない。都知事選のポスターで、女性の裸体写真をつかい、乳房と股間に候補者の写真を載せた「ワイセツ」なものまで現れた。「表現の自由」を訴えたと本人は言うが、どうみても常識を逸脱している。

 知事選の立候補者の一覧を見ると、ポーカー党とかゴルフ党とか覇王党とか、よく分からない政治団体の人が41人もいる。NHK党からは24人が立候補しているが、供託金だけでも7千2百万円必要である。全国からの寄付で賄うというが、そんな人が本当にいるのだろうか。掲示板の半分近くを占拠しているから、宣伝効果はあるだろうが、いったい何がしたいのだろう。

 「掲示板にポスターを貼る選挙は止めてしまえ」という主張なのかも知れないが、年寄りは掲示板と公報しか見ることの出来ない。どんな形の選挙になろうとも、有権者の意思が現れるものでなければダメだ。それに、投票率が上がらないと何も変わらないだろう。

 国政とは違う首長選挙だから、無所属で立候補するのは理解できるが、30代40代のまだ現役で働いてるだろう人もいるからビックリする。失礼だが、得票はとても10分の1を超えそうに無いが、どういうつもりなのだろう。

 いろんな人がいろんな意見を言う、それが選挙だとは思うけれど、こんなに立候補者が多いと、なぜか釈然としない。これで投票率が上がるのであればいいが、とても上がる気もしない。

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軌跡となり、奇跡が生まれる

2024年06月20日 17時43分26秒 | Weblog

 夜中に目が覚めた。パジャマの胸の辺りが、汗でビッショリと濡れている。最近こんなことが多い。部屋の温度計を見てみたが26度だった。そろそろタオルケットに替えないといけないかなと思いながら、まだ寒い日があるかも知れないしと迷う。

 明日は夏至だというが、今日は曇っていて暑くは無い。梅雨入りは来週になるらしいが、農業に従事したことのない私には、その大切さが分からない。ゴルフに出かけるカミさんは、天気予報に注目しているが、行くところの無い私は、雨でも晴れでも関心が薄い。

 先週、最終号となった地域新聞に、私と現編集長の対談が掲載された。それを読んだ知り合いが、「ご苦労様でした。記事を読ませていただいて泣けてきました。懐かしいです」など、電話やメールをいただいた。皆さんのおかげでやって来られたと痛感する。

 苦労話はあんなものでは無いけれど、さらっと読める記事にしてもらってよかった。誰にでも大変な時はあったはずだが、強調すれば自慢話になってしまう。誰もが皆、必死だったことに変わりは無い。振り返ってみれば、楽しい思い出しかない。

 昨日のブログに、県立美術館や映画館に行ったことを書いたが、孫娘がカミさんに「素敵ね、そんな夫婦になりたいです」とメールしてきた。「返事してやらないと」とカミさんに促すと、「娘や孫娘がよい子だから」と言う。

 ちょっとゴマすりみたいなので、私は「長い月日と我慢かな」と呟く。今朝、スマホを見るとカミさんは、「50年以上も一緒に暮らしてるから」と返信していた。テレビコマーシャルに「君に出逢えたのは8億分の1の奇跡」というものあったが、それほどのドラマでは無くても、見合いでも行きずりでも、結婚し暮らしを共にしている。

 意味を創り出すのはふたりであり、それはふたりにしか出来ない。気負い過ぎず、淡々と暮らし続けて行けば、軌跡となり奇跡が生まれる。人生はそんなものと思えるのも、歳を重ねてきたおかげである。

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