友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

こだわり

2011年09月30日 19時39分07秒 | Weblog
 最近は楽しいと思うことがなくなった。季節の変わり目のせいなのか、皆さんが「気持ちの良い季節になりましたね」と言うけれど、私はなんとなく憂鬱に近い。大和塾の5周年記念事業が成功できるかと心配な点もある。井戸掘りがうまくいかないことの焦りもある。仲間とのバス旅行や八重山4島めぐりの旅行も計画されている。先に楽しいことが無いわけではないけれど、「さあーやるぞ」という気持ちになってこない。人生の終末に向かっているのに、これでいいのだと思えない、焦りがどこかにあるのだろう。「あのなあー、老人はみんなそんなもんだよ」と先輩は笑う。

 先日、お世話になったご夫婦と話す機会があった。私が地域新聞を作っていた時、子のご夫婦にはいろんなところへ連れて行ってもらった。遠いところでは瀬戸内海の平山郁夫美術館から、手づるが無ければ体験できないような京都の桂川での平家琵琶の演奏会などに参加させてもらった。「美味しいものを食べに行こう」と誘われたこともある。小さな洋裁教室からデパート相手の事業家へ大きく変身した。「今はこんな景気だから、みんな大変よ」と経済の動向から話が始まった。それから60歳の女性が80歳の男性と結婚して、1億円近いマンションを買い、ふたりで世界1周の船の旅に出ているご夫婦の話へと移っていった。

 「あのね、結局はお金よ。お金があれば幸せも買えるのよ」と言われる。私はただ「なるほどねえー」と相槌を打つ。お金があれば絶対に幸せになれると思っている人に、「そうでしょうか?」と異議を唱えても仕方ない。子どもの頃から苦労をして、とにかく働き、人並み以上の収入を得るようになった。夜も昼も無く働けたのはきっと、お金が幸せにしてくれると信じたからこそ出来たのだ。私の母もそんなことをよく口にしていた。お金に苦労した人は皆きっとそう思うのだろう。

 知らない土地を旅するとなぜか気持ちが高ぶる。まだ見たことのない風景なり遺産なり、見知らぬ人々の生活なり、日常とは違う世界へ踏み出すことは興奮する。私は路地が好きで、ブラブラと歩き回るだけでも大いに満足する。それでもどんな素晴らしい観光地を見てきても、家に帰ればなぜか落ち着くと人は言う。非日常に憧れながら日常に戻って安心できるのだ。私は意外なほどそうした感覚が少ないようだ。娘夫婦がいたタイのバンコクの路地を歩いていて、明日からここに住めと言われたら案外素直に出来るような気がした。住む所とか食べる物とか、そうしたものへのこだわりが私にはない。

 幸せはこだわりなのかも知れないなと思う。お金が幸せを運んで来てくれると思う人は一生懸命に働き、お金を大事にする。何が一番自分を幸せにしてくれるか、人はそれを大事にするのだろう。それが何か、私の旅は続くようだ。
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修学旅行

2011年09月29日 18時16分08秒 | Weblog
 高校2年の孫娘が修学旅行から帰ってくる。迎えに行くことになっているので、電話を待っていると先ほど電話があり、「今、駅にいる。後で電話する」と言う。周りで子どもたちの声がするから、まだきっとみんなでおしゃべりしてから帰るということだろう。あの子にはまだロマンスはないのだろうか。私たちの頃も確か修学旅行は2年の秋だった。私は中学の時から好きな女の子がいた。中学3年の時だと思うけれど、女の子の誕生日に街の花屋さんから花束を続けてもらった。私のませた行為に店の人が怪訝な顔をしていた。

 私は小さな時に観たフランス映画のような物語を勝手に作り上げていた。どういうタイトルでどういうストリーか全く覚えていないけれど、森の中でみんなとはぐれてしまった男の子と女の子が、二人だけになって好きであることを確認し、口付けをする。その場面だけはしっかりと覚えている。二人だけで話したいと思ってはいたけれど、中学・高校の6年間で2回しかなかった。1回目は偶然に出会った。道の端で立ったまま、1時間くらい話したと思う。アフリカのコンゴー(今のザイール)の革命家ルムンバが殺されたことを悲しいと彼女は言った。

 いつもキャーキャーうるさい女の子と思っていたけれど、それでもどこか寂しそうなところがあり、この子は自分の賢さを隠していると思っていた。その彼女がルムンバの死を悲しいと言う。私の観察眼は正しいと思った。軽い男の子たちには人気があったし、彼女が他の学校の男の子と文通をしていることも聞いて知っていた。友だちは「なんであんなのがいいんだ」と言うけれど、私は彼女の本当に価値を知っていたので聞く耳を持たなかった。学校の帰りに一緒に帰る人たちもいた。私はそうしたいと願いながらも一度も実現しなかった。私がクラブや生徒会にのめりこんでいて、帰るのは遅かったからだ。

 生徒会長に立候補することになった時、「止めて」と手紙をもらったのに無視してしまった。修学旅行では話が出来る機会があったはずなのに、彼女はいつも女の子の友だちと一緒にいて、ひとりでいることは無かった。そんな悶々とした修学旅行の思い出を文芸部の機関誌に書いたこともある。私が好きなら相手も好きでいてくれるというのは幻想に過ぎなかった。3年生の冬、友だちの家に招かれた帰り、2回目のふたりだけの機会があった。「あなたが思っている私はあなたが作り上げた私なのよ」と言われ、「きっともっと私よりもいい人に出会うわよ」と言って、彼女は走り去って行った。

 卒業アルバムの修学旅行のページを見ると、彼女が写っている。誰かが彼女を狙って撮ったのだろう。けたたましいほどに騒がしいおしゃべりする女の子なのに、その横顔はやはりちょっと寂しそうだった。ほとんど話もしないのに、「恋」などと言えないのか、そんなことにようやく気付いた。
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党議拘束を超えることは

2011年09月28日 21時39分44秒 | Weblog
 空は青く、風は爽やかで、「過ごし易い季節になりましたね」と挨拶される。寒暖の差が10度もあり、朝晩は寒いくらいなのに、日中は汗ばむほどの陽気だ。ところがこの季節は私にとっては辛い。私の身体はこの急激な寒さを敏感に受け止めるようで、眠っていても急にハクションを連発するようになる。夜中と朝方は繰り返しクシャミが出る。情けないことに、鼻水が止まらなくなり、ティッシュで鼻をかむ回数が増え、鼻の周りは真っ赤だ。クシャミをすることで身体が温かくなるから、冷たい空気で冷える身体を温めるための自己防衛本能なのだろう。過敏性の鼻炎は若いときからで、治まって来た方だと思う。以前はアレルギー性眼炎も発症していたから、秋の爽やかさは苦難の時期でもあった。

 身体的の苦難とは別に心を病んでいる人もいる。今年、新人で市議会議員になった若い人から相談を受けた。9月は決算議会であるが、決算に反対する意見を述べたいと議会事務局に申し出たところ、「予算はあなたが議員になる前に決まったもので、あなたには反対する権利はない」と言われた。「これは将来のあるあなたのためを思って言うのであって、決してあなたを黙らせようなどということではない」ともったいぶった説明をする。さらに市の幹部まで出てきて、「委員会で反対意見を述べることが出来たのだから、本会議場で言うのは議会の秩序を乱すことになる」。「反対することは市長に敵対することになる」などなど、いかなる法的な根拠があってそんな馬鹿なことが言えるのかと思うようなことが行われている。当局に逆らう新人を今のうちに飼いならしておこうとする意図が見え見えだ。

 議員は議員となった時から、市政全体に責任がある。だからこそ新人議員にも議案が配られる。要は議員の賛否が求められているのに、「反対することはできない」とはよく図々しく言えるものだ。けれどもこれが地方自治体の職員の実体なのだ。また議員の中にも、「余計な事を言うな」と心底から思っている連中もいる。みんなで仲良くやっていれば、そこそこにおこぼれをいただける。つまり議員が望むこと、道路を直せとか遊園地を作れとか、議員の要望が実現し地元の票を確保できる。当局はその手配をしてくれるのに、協力できないのかと難癖をつけてくる。当局と議員の癒着は、何も国会議員だけの特権ではなく、政治の世界全体の構図なのだ。

 そうした議会のあり方に、名古屋市議会の減税日本はNOを突きつけることができるのかと、注目していたけれど、やはり先の若い新人議員ではないけれど、百戦錬磨の古参議員には勝てそうも無いようだ。自分たちの弱いところを突っつかれて、四分五裂になりそうだ。減税日本そのものが河村市長の個人的人気に頼った選挙で生まれた政党だから、そこに集まった人も千差万別で考え方も価値観も違う。けれど、当選して議員となった人たちは余りにもお粗末な人が多かった。税金を使っての海外視察は誰が考えてもおかしいのに、出かけたいと表明し、挙句に河村市長からダメだと言われて取り消す失態までやらかしている。

 減税日本が党議拘束をしないことは評価するけれど、だから議案に対する対応がそれぞれあってもいいけれど、河村市長に呼び出されて態度を変えることが度々あると、議員個人の考えはあるのかと疑問に思ってしまう。季節は爽やかになったけれど、政治の世界は相変わらずだ。
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逃げるのかともうひとりの自分が言う

2011年09月27日 19時15分15秒 | Weblog
 今日で完成だと思っていた。石の層を6メートルまで掘り下げ、汲み上げる吸管を下ろし、これを保護する100ミリの塩ビ管を入れて埋め戻した。その埋め戻し方でもめたけれど、私は口を挟まなかった。不安はあった。この井戸は水道が完備されるまで各地の家庭に見られた手掘りの井戸だが、滾々と湧き出してくるほどの水量はなかった。それでも穴の大きさから水の体積は3から4立方メートルあるだろうから、3トンほど溜めることが出来るはずだ。家庭で庭の水撒きに使うのであれば十分な量だろう。

 けれどもそれは、空洞ならばの計算である。だから、埋め戻す時に中の空洞を大きくしておきたかったけれど、「そんなものは大丈夫だ」と押し切られてしまった。今更遅いけれど、絶対に空洞を作るように主張すべきだった。しかも、出来るだけ掘り出した石で空間部分が大きくなるように、手間をかけてでも並べようという意見も却下されてしまった。水が溜まっているのだから石を投げ入れても周りの石壁を崩すことはないと逆に言い返されてしまった。手間をかけても同じ結果なら、手軽く出来る方法でいいのではないか、みんながそう考えてしまった。

 ガソリンエンジンのポンプで、汲み出して周りからの水脈を確保したらどうかという提案も、「同じことだと」と否定された。後は、水が充分出てくれることを祈るだけだった。けれども、少しでも疑問や不安があるということはひょっとしたら不完全ではないかという事でもある。電動ポンプを取り付け、試運転をした。水は豊富に出てくる。何も心配することはなかったのか、あの不安は杞憂に過ぎなかったのか。30分ほど水を出し続けると吸管に空気が入って来た。ダメだ。水はここまでしかない。

 仲間は「水脈がまだ出来ていないからだ」と主張するけれど、私はここの井戸は溜まった水を汲み上げるもので、これまでのような水脈はないと感じていた。「出しっ放しにしなければ充分に使えるから、正直にそのことを依頼主に伝えた方がいい」と提案したけれど、「そんなことはない。そんな井戸なら完成とは言えない」と怒鳴られてしまった。「吸管を一度抜いて、もう一度鉄管を打ち込み、できる限り下げてみる」と言われる。鉄管はもう下がらないと思うけれど、やってみなければ納得できないだろう。

 最初のつまずきが大きかった。対等のみんなで作業をするのだから、誰の意見も平等なはずだけれど、やはり年上の人や経験のある人の意見を優先せざるを得ない。分裂だけは避けなくてはと思う気持ちが働いて、しかし、そのための結果は惨めな気持ちしか残らない。「もうそろそろ井戸掘りは止めてもいいじゃないか」という気持ちが頭を持ち上げてくる。また、逃げるのかともうひとりの自分が冷たく言い放す。
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ふたりの青年の会話から

2011年09月26日 21時18分05秒 | Weblog
 喫茶店で私の後に座っていた20代の男の子ふたりが、「過剰に反応してどうするんや」と話していた。何のことや思っていたら、「放射能なんてものは太陽を浴びていてもあるのに、あんまり神経質になり過ぎていると違うか」と言う。「そうそう、だいたい脱原発なんて言うけれど、廃炉にすることの方がもっと難しいんだぜ」「放射能除洗だとか言うけれど、結局は税金を使うことになるんだろう。税金を払っている身になって欲しいよ」などと続いていた。「今度あの子も結婚するんだって?」と話していたから、まだふたりとも独身なのかも知れない。「仕事?大丈夫、ここでサボっていても会社にいても大して変わりないよ。そっちはどう?」「ああ、そろそろ転職しようかなと思ってる」。

 原発事故について、それなりによく知っているし関心もあるけれど、必要悪であってみんながダメだダメだと言うほどではないと考えているようだ。福島原発の事故による放射能汚染は広島の原爆の何千倍という報道もあるようだけれど、実のところ私はよく知らない。原子爆弾よりも原子力発電所の事故の方が遥かに被害が大きいのであれば、それはキチンと数字で示した方がいいだろう。原発事故で直接亡くなった人がいない(?)とはいえ、原発事故でどのような被害が出たのかは明らかに出来るはずだ。私が知らないだけで、そういう報道もされているのだろうか。

 若いお母さんたちが国の厚生労働大臣に子どもの被爆基準は大人よりも下げた数字を出すべきだと請願していた。喫茶店の青年らは冷ややかな目でその報道を見ていることだろう。彼らは、「何でもいいけれど、ナンだカンだと言っては税金を上げるのは許せん」と言う。「あいつらは(政治家のことだと思う)直に死ぬだろうけれど、オレたちはまだ30年以上も税金を払っていかなくちゃならんのだから、思っただけでもぞっとするね」。そうか、そんな風に自分たちの未来社会について考えていたのか。実際に働く世代には行き先不透明で腹が立つのだろう。私たちは年金暮らしを気楽な者と思うかも知れないが、実は私たちの年金支給額は減らされている。

 小沢一郎さんの秘書だった3人に今日、有罪判決がでた。ただ、取調べでの供述書は信用できないとして、状況証拠だけで有罪が下されたことには疑問も残る。ジャーナリストの江川紹子さんが「裁判長が作り上げた物語で判決が下されるのは怖いことだ」と述べていたが、その通りだと思う。手っ取り早く、国民が期待するような判決を下せばそれで良いとすることには魔女裁判のような恐怖を感じる。いったい何が事実なのか、どうあることが正しいのか、何が出来て何は出来ないのか、感じ方や考え方も違う人も交えて、意見を交換していくことが、これからの社会を考える手立てになっていくのではないだろうか。
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弱肉強食の社会だからこそ

2011年09月25日 21時15分24秒 | Weblog
 マンションの草取り。毎日、清掃会社の人が建物の内外を掃除してくれている。住民は自分の部屋だけを掃除していればいい。それでも年に3回の草取りの日を決めている。建前としては全員参加であるが、全員が揃うことはまず無いだろう。それに、100%完璧に仕上げするまでやる必要はないと私は思っている。日頃から掃除はよくされているけれど、樹木の下の雑草までは手が回らないので、みんなで草取りをしようというものだ。同じマンションに住む人たちが顔を会わせて、言葉を交わして草取りをする。そのこと事態が大事なのだ。

 マンションという住居は、プライバシーが優先されるから住民が親しく声を掛け合う機会は少ない。そこで、夏祭りや運動会を行うことでコミュニケーションを図って来た。もちろん全く参加しない人もいる。それはそれで仕方がないが、全員が参加できる行事だけはなんとしても続けていく必要がある。気心がわかれば以外に仲良くなれるものだ。だから、完璧でなくてもみんなで自分たちの住まいである建物とその周囲をきれいにしようとする気持ちが大事だと思っている。

 85歳と言う婦人が「腰が痛いので、なかなか出来ない」と言いながら、引き抜いた雑草を持って来てくれた。「ええ、いいですよ。後は私が袋に詰めておきますから、少し休んでください」と声をかけると、「悪いねえ、お兄ちゃん」と言う。確かに私の方が若いけれど、お兄ちゃんと言われるほど若くはないので、ちょっと照れてしまった。年寄りでも自分の出来る範囲でせっせと働く人もいれば、子どもなら大いに働いて欲しいのに友だち同士でふざけあっている子もいる。私はその子らに「この箒でこの前の落ち葉を集めてくれない」と声をかける。子どもたちはすぐに箒で落ち葉を集めてくれた。何をしていいのかわからないのだ。大人が命令ではなく家庭の中のように、指示をすることが必要なのだと思う。

 困っていても見ない振りをしたり、ふざけたりイタズラをしたり、大人であっても常識に欠けることを平気でする人がいるが、そういう時、私は「あの、すいません」と優しく声をかけるようにしている。「本当におせっかいなのだから」と言われるけれど、それは性分なのだから仕方がない。いや、誰かがおせっかい役を引き受けないと荒れた街になってしまうだろう。誰かが平気でタバコの吸殻を捨てたり、空き缶を放り投げたりしたら、どんどんゴミが増えていくが、きれいにしてあれば捨てる人は自己嫌悪を抱くだろう。

 この世は弱肉強食だと言う。現実社会は強い者にますます力が集まる。だから、何もしないと考えるならそれでいいだろう。けれども、たとえ現実はそうであっても、自分が手を出せる範囲に過ぎないかも知れないが、困っている人や助けを求めている人に何かをしたいと思う人もいる。災害復興に向けて巨額のお金が必要だと言う。税金を値上げしなければならないとも言う。それで、困っている人や助けを求めている人の願いが叶うなら増税も仕方がないだろう。ただ、巨額のお金がかかると言うが、その根拠となる計算を知らせて欲しい。また、責任者である国会議員や官僚は自らの身を削って欲しい。弱肉強食の社会であっても出来ることがあるはずだ。
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夏祭り慰労会

2011年09月24日 19時20分11秒 | Weblog
 見事なまでの秋晴れだった。空は青く澄み渡り、吹いてくる風は冷たいほど爽やかだった。しかし、太陽は容赦なく照りつけて暑かった。各地で運動会が行われた。我が家の隣りの小学校も今日は運動会で、運動場の周りの樹木の下には色とりどりのシートが朝早くから敷かれていた。入場行進の始まった午前9時の時はまだ、それほど観客席は埋まっていなかったけれど、学校へ向かう人々の姿は多く、次第に児童の数を越えると思われる人の数で埋まっていった。両親はもちろん両家のジジババがやってくるのだから当然なのかも知れない。

 昨夜、「夏祭り慰労会」に出席していた人たちの大半も今日は運動会を見に行くと話していた。私たちの子どもの頃のような運動会になってきたのかも知れない。ご近所の人や知り合いが子どもを囲んで大きな輪を作って食事を共にしていることだろう。昨夜の慰労会は午後9時まで時間延長させてもらい、マンションに帰って来たのは10時少し前だった。大いに話し、大いに歌い、そして騒いで「楽しかった」と言い合っていた。マンションのエレベーターの前で、「これから2次会ですから」と言う。「えっ?そうなの?」と思っていたら、みんなで我が家へ集まるという算段らしい。

 我が家が一番集まり易いのだから仕方ない。そうこうしているうちにそれぞれが家からお酒やおつまみを持ってきて、瞬く間に宴会の準備が完了した。飲み放題であれだけ飲んだのに、気分がいい時はもっと一緒に飲んでいたいものなのだ。そこで子どもたちを家に帰し、大人ばかりになってまたしても大いに話し、大いに飲むことになった。何を話したのかよく覚えていないが、勝手なもので、先輩が「お前はエライ。凄いヤツだ」と何度も言ってくれたことは覚えている。そんなこと、もっと前に言って欲しかった。今更もう何の役にもたたない。そうは思ったけれど、「そう言ってくださって、私の方こそ感謝ですよ」と言った。

 仲間の内の一人にもうすぐ誕生日の人がいたので、誕生日のお祝いをしようということになった。その人が「アイスワインがあるから持ってくる」と家に取りに帰った。大学院生なのにワインバーの店を持ったという子がアイスワインを講釈し、コルクを抜いてくれた。みんなで1杯ずつ飲んだけれど、断然おいしい。ほんの一口しか飲めなかったことが悔しいくらいだ。我が家のワインをこの後で飲んでみたけれど、なんとまあ粗雑な味かと思った。とても飲めたものではない。やはり高いワインはそれだけの味わいを有しているのかと思い知らされた。

 結局、みんなが帰っていったのは午前0時を越えていた。片付けも出来ずにバタンキューと眠ってしまったので、今日の午前中は宴会の後片付けに追われた。午後に人が来ることになっていたから、こぼしたお酒をふき取るために雑巾がけを行ったり、酒臭さを消すために香炉を焚いたりと忙しかった。運動会に出かけていった仲間たちは「お酒臭い」と孫たちに叱られていないだろうか。強い日差しを浴びて、バテテはいないだろうか。いやいや、みんな元気だ。いきいきしている。きっと大声で応援していたことだろう。
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「暑さ寒さも彼岸まで」

2011年09月23日 10時13分27秒 | Weblog
 朝方、水遣りのためにルーフバルコニーに出たところ、寒くて思わず長袖シャツを羽織った。30分ほど外にいたけれど、身体は芯から冷え切った。空は高く、青く澄んでいた。セスナ機が青い空を旋回している。秋らしい空気になった。今日は秋分の日だ。「暑さ寒さも彼岸まで」というけれど、それを実感する。今年も残り3ヶ月しかない。歳を取ると時間の流れを早く感じるようになるというが、その通りだと思うようになってきた。

 今日は夏祭りの慰労会の日で、夕方から近くのスーパー銭湯へ出かける。子どもたちも含めて30人ほどになる。お風呂に入り、その後は会食で、ご馳走をいただきお酒を飲みカラオケに興じる。汗を流して働いた2日間の成果をこの6時間でパッと使ってしまう。逆に言えば、この日を楽しみに汗を流してきたとも言える。それでも毎年、平均年齢は高くなるばかりだから、この先どこまで続けられるのかと思う時がある。「その時は、その時」と言う人が多いからこそ続いているのかも知れない。

 アユ釣りはともかくアユ焼きは名人と私が勝手に思っている男も来るし、大学院生になった子もワザワザ京都から帰ってくる。また、アユ焼き名人の「恋愛話」を聞くことになるのだろう。それはそれでいい。彼は彼なりに真剣なのだが、「彼なり」というところが人と少しずれているだけのことだ。秋にはこの仲間でバス旅行へ出かけることにもなっているけれど、さて今年はどこへ行くのだろう。

 午前10時半には長女が2歳の孫娘を預かって欲しいと連れてくると言う。お茶目な孫娘はまた飾り棚の中の10センチほどのピエロがブランコに乗っている人形を持って来ては揺らし、そのうちにピエロをどかして、「かーわって」と言い出すだろう。ピエロが乗っていた小さなブランコに自分のお尻を置こうとするのだから驚いた。順番を守ること、お願いの言葉をかけること、そうした基本的なことを保育園でしっかり教えられていることがよくわかる。

 保育園はまだ、看護師をしている長女の病院内の保育園に通っている。2年目の今では、園児は10人近くなったそうだけれど、最初から預けられているので、先輩として後輩の面倒をみているようだ。保母を後輩に取られてしまっても駄々をこねることもなく我慢しているらしい。それがいつも一番最後まで居残ることになるので、みんなが帰ってしまうと途端に保母に甘えるようになるとも聞いた。家では相当なわがままらしいけれど、我が家ではそんな素振りは見せない。大人の世界で育った子どもによくある傾向をちゃんと備えている。

 私は急に友だちに呼び出され、この後出かけなくてはならない。2歳の孫娘のお茶目ぶりに付き合うことが出来ないのが残念だ。赤ん坊は赤ん坊なりに、子どもは子どもなりに、そして大人も大人なりに、それぞれ悩みや苦労を抱えて生きているのだろうけれど、大人になるとその悩みや苦労を盛んに口に出すのは、人はやはり理解されたいという思いが強いからだろう。話すことで和らぐのであれば、もっともっと話せばいい。聞くこともまた話すことと同じくらい和らぐものだと思う。
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花は咲きそして枯れていく

2011年09月22日 21時11分25秒 | Weblog
 中日ドラゴンズの落合監督が今季限りで退団となった。ああ、やっぱりなと思った。私のようなプロ野球知らずが偉そうなことは言えないが、テレビでプロ野球中継を時たま見ても、ドラゴンズの不振は監督の采配と選手との乖離にあるように思われた。今日の報道では落合監督は8年間もその職にあるという。これは私の全くの偏見でしかないけれど、テレビ画面に映されるドラゴンズのベンチは、監督と選手の一体感がないと見えた。そんなことはどこのチームでも同じで、監督というものは孤独なものなのかも知れない。それでも落合監督はなぜオレの言うとおりに動かないのだと思い、選手らはなぜそんな指示を出すのかと思っているような気がした。

 監督は戦況を見極め、作戦を考えて指示を出す。選手と監督の気持ちが一体の時はそれですべてがうまく動くのだろう。しかし、そこにちょっとした不安や不信があると途端にうまく作動しなくなる。そればかりか、両者の間に深い溝が生まれてしまい、この修復はますます困難になる。ドラゴンズはそんな状態ではないかと思う。私たちはある種の使命感から、そしてまた「面白い」という思いから、井戸掘りを続けている。全員がすでに定年を過ぎた年金生活者だ。だから、この仕事が出来なかったなら明日から生活が出来なくなるという危機感がない。そのため、和気藹々と仲良しこよしで仕事をしている。

 それは逆に、切迫感がないのでつい仕事を舐めてかかることになる。その結果は目に見えていて、仕事の前の器材や材料の点検、あるいは作業の確認など、当然行わなくてはならないことを怠ってしまい、そのために段取りが悪くて余計な時間がかかったり、もっと悪い時は怪我をしたりすることになる。私たちは仲間だから、上下の関係がない。あるのは経験の多い人からの指示を待つことだ。それがまた、頼り過ぎたり逆に自分勝手な行動に走ったりしてしまって、チームワークに欠けることもある。みんなで仕事をするためには、お互いの信頼と何よりも共通認識を持つことが必要だと思う。

 戦国時代の映画などを見て、英雄となる武将はひとりで決断していたように思ってしまうけれど、日本はいやきっとどこの世界でも、合議をしていた。最終的な結論をひとりの総大将が下したとしても、そこに至るまでは大いに議論を戦わせていたであろう。明治以後の日本も、いかにも天皇がすべてを決していたように装っているけれど、天皇を交えて意見のやり取りが行われていた。それを天皇の命であるとしたのは、より命令に重みを与えることと評議に参加した者の責任逃れではないかと思う。そんな風にして、最高責任者に全てを預けて、自らの責任を曖昧にしてきたのだろう。

 ドラゴンズの後任の監督には高木さんがなるようだけれど、この人も以前の采配を見た限りでは監督の器ではないように思う。もっと若く、選手と一体になれる人物への一時的な橋渡しではないだろうか。今年はヒガンバナの開花が遅いように思ったけれど、今、ニュースで開花が取り上げられていた。花は咲きそして枯れていく。波は満ちそして引いていく。人の思いも同じなのかも知れない。
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付き合いのいい男だった

2011年09月21日 19時06分40秒 | Weblog
 台風一過、まだ、風は強いが青い空が広がっている。この地方は台風の左側になったために風も雨も思ったほどではなかった。東京は暴風雨に襲われているのだろうか。中学3年の時、伊勢湾台風が襲来し、大きな被害を与えた。私たちの学校の体育館は屋根はめくりあがり、その破片が近くの田んぼに落ちていた。我が家は材木屋であったので、いろんなところに木材が立てかけてあったけれど、その立てかけてあった木材がバラバラに倒れていたが、家屋が倒れるとか水に浸かるといった被害は無かった。近所でも家や樹木が倒れることはなかったように思う。

 学校へ行ってもしばらくは台風の後片付けばかりだった。そんな時、友だちが「名古屋へ行かないか。死体が一杯並べてあるそうだぞ」と言う。名古屋にいる姉のこともあったので、「ああ、いいよ」と約束した。ふたりで自転車を走らせて名古屋へ向かったが、笠寺辺りで進むことが出来ずに帰って来たように記憶している。死体を見ることはなかったけれど、思えばどうして死体を見ようなどと思ったのだろう。誘われたら断ることが出来ない性格のようで、高校1年の時も郷土資料研究会の友だちに「豊橋に鍾乳洞があるが、長野の善光寺までつながっているらしい。調べに行かないか」と言われて、一緒に出かけた。万が一のことも考えて、入り口に縄を巻きつけて、奥へと進んだが、余りにも深くて途中で断念した。

 付き合いがいいと言えばそうなのだろうけれど、イヤと言えない弱さを持っていたのだと思う。中学3年の時だと思うけれど、やはり友だちが夜になると呼びに来て、一緒に自転車で出かけていた時期があった。友だちが好きだという女の子の家を見に行くのだが、それは外から家の中を覗くもので、刑事罰に値する行為だった。いくら覗いたところで、その女の子が見られるわけではないし、ましてや着替えをするような場面などあるはずもない。夜の徘徊を誘ってきた友だちは、高校も同じだったけれど、親しく話すこともなくなり、彼は東京の私立大学に進学し、それから10年か20年か経て、自殺したと聞いた。

 誘われれば断れない優柔不断な性格であったのに、自分から友だちを誘うこともあった。私は中学1年の時からキリスト教の教会へ通っていたけれど、中学3年の時にはクラスの男子の多くを教会に連れてきていた。また、教会で聖書の話をもとに自分で脚本を書いて、演劇もしていた。高校に入ってからは、一人前の大人だと思っていたから、新聞作りも生徒会活動も、企画から全部ひとりで背負い込んだ。それを苦労とか嫌だとか思うことは一度もなかったし、校長室に呼び出されて説教されても、悪いことをしたとは思わなかった。立場が違うから理解できないのだと校長と同じ位置で考えていた。

 台風が過ぎ去った後、空気は少しひんやりとして来た。まだ風は強い。異常気象と言われながらもまだ夏から秋への変化はある。異常さが頂点に達したなら、収束へと向かうだろう。人類が生存しているか否かに関係なく、地球が存在する限り繰り返されていくことなのかも知れない。
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