友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

無駄な人生は絶対に無い

2011年08月31日 21時30分25秒 | Weblog
 とうとう今日で8月も終りである。なぜか、忙しかったばかりで夏らしいことがなかったような気がするのはどうしてなのだろう。いったい何をして過ごしてしまったのかと手帳を眺めてみると、「暑い、暑い」と言いながら9日間も井戸掘りに出かけている。昨年は信州にも出かけたし、ルーフバルコニーで何度か食事もした。今年は出かけることが少なかった。夏らしい日々を過ごせずに終わってしまったことが、何となく心残りな思いに襲われる原因なのかも知れない。

 それにしても井戸掘りに9日間も出かけて行って、全く無収入というのも情けない。今日も依頼主は「中間の支払いをしなくてもいいの?」と聞いてくれるけれど、目鼻が立たないのに「いくらください」とは言えない。水が出なくても9日間も出かけているのだから、適当な金額を請求してもよいのかも知れないが、それが出来ないでいる。NPOはボランティアではない。正当な報酬を受け取ってもよいのだが、完成もしていないのにという気持ちが会計担当の私に働いてしまう。

 「今日は水曜日か、早いな」と井戸掘り作業の手を休めて言う人がいる。「それを言うなら、もう9月かだ。正月までかかると覚悟を決めようぜ」と冗談が飛ぶ。後、2日か3日の作業で、パイプを打ち込むことができるような気がするが、それは出来てからにしようという空気が強くなった。何が何でも井戸掘りを成し遂げるぞという決意が固まって来たのだ。ちょっと土を掘れば石の層などクリアできるだろうなどと、甘く考えて来たことへの反省から、極めて慎重に現実的に仕事の進展を見るようになってきた。

 井戸掘りが順調だった時は、みんなが大口をたたいていた。依頼主さんが感心するような話や喜ぶような話をちょっと大袈裟に話していた。仲間のみなさんは、かつては商事会社の営業、自動車関連会社の社長、航空機関連の会社に勤めていた人、郵便局の職員、先生などいろんなキャリアの人がいる。営業の人はどうしても話が大きくなる傾向にあったけれど、最近では慎重で誠実な物言いに変わってきた。ホラを吹いても始まらない。「正直にありのままに伝えた方がいい」という認識にみんなが立つようになった。

 土木の関係者から削岩機を借りて来た。おかげで作業効率は上がった。その削岩機を「返して欲しいと言ってきたがどうする?」と言う。「壊れて使えなくなった」とか「借りていないのでは?と言ってごまかしたら」とか言ったらどうかということも、「ウソはダメだ。ウソを言えばもっとウソを重ねることになり、結局はウソだとわかる」とか、「正直に今はこれがないと仕事にならないので、何とか貸しておいて欲しいと言った方がいい」と頼んでみようということになった。

 この作業が完成したならば、みんなで一杯やろう。真っ直ぐに生きていこう。それでダメなら仕方ないじゃーないか。やって来たことに誇りを持っているし、人に喜ばれ満足してもらえるはずだ。生きていることは素晴らしいし、生きていることに価値がある。無駄な人生などは絶対に無いし、否定するような人生は決して無い。昼飯を食べながら、前向きな話に終始できた。
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NHKドラマ『胡桃の部屋』

2011年08月30日 23時48分51秒 | Weblog
 悪戦苦闘が続いている。今日こそは目途が立つはずだった。もう、4メートル近くも掘った。しかし、まだ「ゴロタ石」の層が続いている。自分たちにとって都合のよいようにはいかないものだ。すると先輩が木造2階建て銅葺の依頼主の家を指し、「この家は着工から完成まで5年かかったそうだ。ワシらはまだ始めて2ヶ月、実質的には10日余りだ。そう急いだら笑われる」と言う。10日以上も掘り続けてまだ目途が立たないのかと、少し苛立って来ていたところに何というタイミングのいい言葉かと思った。

 どうも人は自分に引き寄せて物事を見てしまう。こんなに会社のために働いているのに、なぜこんな目に遭うのか。ダンナのためにこんなに尽くして来たのに、なぜ他の女に目がいってしまうのか。また逆に、上司は自分を高く評価しているのだがそれに気が付かないとか、カミさんはこれ以上の女はいないというくらいなのにとか。それでも人はいつもなぜか何かを求めている。それはいったい何なのだろう。それはいったいどうしてなのだろう。人の幸せを描くのが上手いといわれた向田邦子さん原作のNHKドラマ『胡桃の部屋』の最終回を観た。

 途中が抜けているのでわからないところもあったけれど、どこにでもあるような普通の家庭のよくあるようなないようなことが誠に物語になっている。家族とは何かを、夫婦や親子や兄弟を縦糸に男と女の愛憎を横糸に織り込んでいく。「何のための家族なの?」という言葉が出てくるけれど、家族は一時の共同生活者だろう。いつまでも一緒に暮らせるわけではなく、ひとりまたひとりと巣立っていくものだ。どんなに仲のよい親子や兄弟姉妹も大人になればいつか別々に家庭を持つようになる。

 すると残るのは夫婦だけだ。夫婦は結婚し子どもを儲けた仲だから強い絆で結ばれていてもよさそうなものなのに、「男と女は理屈ではないのね」ということらしい。「男はいつもやりっぱなしで、女はいつも後片付け」「男はいばりん坊で弱虫で、逃げてばかりいる」。向田さんの男性評は厳しいが、確かに当たっていると思う。「自分の女房や子どもを守れないのに、よその女を守ろうとする」欲張りでもあるが、それもまた男の誠でもあるような気がする。家族を捨てて女のところに行ってしまった父親を子どもたちは許せないし、その父親とラブホテルへ行く母親も許せない。しかし、父親はカミさんを不憫に思い申し訳なく思っているのだろう。

 ドラマの男たちはみな優しい。もっと深みに嵌まるだろうと分っていながら、どうしようもなくずるずると決断できずにいる。それに比べると女は感情的であるのに冷静で決断が早い。決断したならばブレない。向田作品がそうなのか、現実の男と女がそうなのか、私にはわからないけれど周りを眺めてみるとそんな風にも言えそうな気がする。子どもが家族が「バラバラになっている」と嘆くと、「家に縛られることはないのよ」と母親は子どもに言う。子どもは「家族の幸せが自分の幸せだと思い込んでいた」と家族からの独立を示唆するが当然のことだろう。

 「自分の幸せが何か、わからない」。そうなのだ。きっと、人は幸せを求めて生きているのに、わからないのだ。だから困る。
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民主党の代表選挙

2011年08月29日 19時09分30秒 | Weblog
 民主党の代表選挙が行われ、どうしたことかカミさんは「5人の候補者の演説を聞きたい」と、テレビにクギ付けになっていた。私は「海江田万里さんと野田佳彦さんの一騎打ちになるのじゃーないの」と冷ややかに言ったものの、どんな風に選挙が行われるのかと興味もあったので一緒に見ていた。5人の候補者の演説を聞く限りでは、うまさでは馬渕、野田、鹿野、海江田、前原さんの順番かなと私は思った。馬淵さんは田中角栄さんのような政治家になりたいと政治を志したという話そのものは、面白かったし分り易かった。しかし、田中角栄さんのような政治手法を否定して民主党は支持を得て来たのではないのか。そのことに触れなかったのは残念だった。

 野田さんも馬淵さんと同じように政治家への出発点から話し始めたけれど、民主党の理念である中間層を引き上げることに焦点を置いていた。落選した経験やひとりで駅前に立ち何時間も何日間も演説した話には共感する議員も多かったであろう。他の人はみんな前を向いて演説していたのに、前原さんだけが原稿を読んでいてしかも何度か詰った。国の首相となる人は、原稿など見なくても演説が出来る人でありたいと思う。海江田さんは小沢・鳩山さんの支持を得たからか、一生懸命さに欠けていた。前原か野田との決戦になるだろうと余裕を持っていたけれど、それゆえに人の心をゆさぶるような演説にはならなかった。

 結果的には海江田さんと野田さんの一騎打ちで、野田さんが勝利した。海江田さんには馬淵さんを押した議員の票が上積みされただけだったのではないだろうか。民主党の国会議員は自らの選挙を考えれば、小沢さんが牛耳る民主党でない方が有利だと判断したのだろう。私は5人の誰が首相になってもそんなに期待できないと思っている。誰がなっても独自色が出せる事態ではなく、しかもしばらくは総選挙を行うだけの余裕はない。次の選挙までのつなぎの政府となるわけだから無難な人を首相に置いておきたいのだろう。次の選挙では、輿石さんや赤松さんのような旧社会党系でありながら小沢さん一辺倒の議員は落選するのは確実だろう。いやむしろ、当選させてはならないと私は思う。

 岩手県の肉牛の出荷停止が解除されることになった時、放射能に汚染された肉牛はどうなるのだろうということが話題になった。「基準値を超えた肉牛は当然処分されるでしょう」。「それはもったいない。60歳以上の希望する人にはタダでは気の毒だから半額で売るくらいの政策を立てて欲しいものだ。自己責任などと馬鹿なことを言っていたのに、国民が自己責任で食べてもよいと言うのを生かせないのは政治の貧困だ」。「放射能の影響は20年後とか30年後と言いますし、それはいい政策ですよ」。「ああ、上等な牛肉なんてそうは食べられないんだから、食べられたならこんな幸せなことはない。わしなら、もう何時死んでもいい」。年寄りの会話はふざけているようでも的を射ていると思った。

 野田新執行部はどんな提案をするのか、肉牛を無償で配ると提案して欲しいけれど、ないだろうな。
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言葉の中には品格がある

2011年08月28日 22時05分08秒 | Weblog
 案の定、昨夜は飲みすぎたのかも知れない。12時近くなって突然の雨でお開きとなったけれど、午後6時30分から5時間半近くもの間、よくまあ飲んで騒いだものだ。それでも早朝よりゴルフに出かける人、井戸掘りに出かける人、ソフトボール試合の審判に出かける人などもいたし、子どもたちも一緒になってゲームなどで遊んでいた。私は7時に起きて、昨夜の机や座布団や洗い物などの後片付けを行って自治会臨時総会に出席した。

 これまでの総会では、このところあまり意見の対立もなく終わることが多かった。自治会長の経験者である私はできる限り発言はしないようにしてきた。会長経験者がこれ見よがしに発言することは他の人の発言を封じかねないと思うからだ。今日は、かなり活発に意見が出た。いつも発言する人ばかりでなく、いつもは余り発言することのない人までも発言があった。感情的な意見もあったけれど、それでも何も発言がないままに終わるよりはいいと思った。

 感情的な発言は聞く側の人にとってはなぜか胸が痛くなる。なるべく冷静で建設的な発言を期待したいけれど、でも逆に、感情が表に出てこないような発言ばかりが続くようなら、きっとそれは形式的なものとなってしまうだろう。胸の中にくすぶり続ける何かが表に出ることなければ、人は意外に真剣な論議は出来ないものかも知れない。魂と魂がぶつかり合うとまでいかなくても、オブラートに包んだような言い方ばかりでは真実は見えてこないのだ。

 けれども今日の臨時総会は極めて不愉快な終わり方であった。「今日は意見を聞くだけだ」からと、さんざん意見を言わせておいて、最後に自治会長は「私は許せない」と発言したひとりの人を誹謗中傷した。毎日5時間も事務所に来て業務妨害だとも断言した。さらに「お茶を出せ」と事務所の職員に命じたことは「常識のある人のやることとは思えない」と避難した。事実がどうであれ、総会という公の場で特定の個人を非難するようなことはすべきではない。会長の人格を疑う卑劣な行為だと私は思う。

 たとえそれが感情的な対立であっても、意見が活発に噴出すること事態はいいと思うけれど、会長という立場にありながら、発言した本人を名指しで非難するとにはあきれ返る。会長にしても副会長にしても、今年のふたりはなぜこうも目立ちたがり屋なのか、いや、自分がどういう立場にあり、そのために何をしなければいけないのか、お分かりいただいているのだろうかと思ってしまう。

 副会長さんも総会が始まる前、エレバーターの前にいた住民の人たちに向かって、「今日は臨時総会ですので、ぜひご出席くださいね」とお願いするところを、「今日は臨時総会ですよ」と上から目線の命令口調で言ったそうだ。「私はあなたの部下ではありません」と言いたかったと憤慨していた人もいた。役員を長く続けると、自治会が自分の物のように思えてしまうのだろう。自治会は誰もが平等の社会なのに、まるで部下にでもものを言いつけるような言い方をする人がいる。言葉の中に、発言した人の品格が現れることを知らないのだろうか。
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我が家での会食

2011年08月27日 18時10分16秒 | Weblog
 8月最後の土曜日、今夜は我が家で誕生日会である。せっかくならルーフバルコニーでやりたいのだが、お天気が気になる。晴れオンナと晴れオトコがいるから大丈夫だと言うけれど、最近は神通力が効かなくなっている気がするが、私のこの疑いの気持ちがよくないぞと思った。そこで朝からルーフバルコニーを掃除して、植木鉢を少し並び替え、絶対にここでやるという気持ちで準備にかかった。散水してブラシで洗い、子どもたちが裸足で走り回ってもいいようにきれいにした。

 一時期、サルビアが元気をなくして葉が黄色くなったりしたことがあった。密集して植えすぎたために栄養不足なのかなと思って、油かすなどの肥料を与えたところ、新しい葉も出てきた。サルビアは葉の緑と花の赤のコントラストがいい。補色の組み合わせが強力でいい。この強すぎる色合いの中に、アメリカンブルーとアサガオの青が素朴で絶妙な味を演出している。アジサイやツユムラサキのような青も好きだけれど、夏のギラギラとした暑さの中ではサルビアやデイゴの赤が生きている。

 朝のNHKドラマ「おひさま」で、主人公の陽子が初恋の人のことをダンナに告白する場面があった。隠しておいてもいいはずなのに、陽子が話したのはダンナに隠し立てをしないという倫理感というよりも自分のことを知ってほしいと思ったからだ。話を聞いたダンナは自暴自棄になっているその男を助けたいと思っている陽子に「行っておいで」と言う。「結婚しているからと考える必要はないから、行っておいで」と。このダンナはなかなか度量の大きい人だ。妻や夫が初恋の人のところへ行くことを許すのはそれだけ信頼しているということなのだろうか。もしそれで、妻や夫が初恋の人のもとから帰らないとしても、それも運命だと私は思うけれど、実際にそんなことになったならどうなるのだろう。

 愛する人から初恋の話を聞いたなら、この人はこんな風に恋をしてきたのだと、相手が歩いて来た道を知ることができる。相手がどんな人をなぜ好きになったのか、より自分が相手を好きになるためのヒントを見つけることにもなるだろう。今夜の誕生日会でもそんな昔話に花が咲かも知れない。誰もが自分のことを知ってもらいたいと思うから、そんな昔話をするのだろう。聞くことも話すことも嫌という人もいるかも知れないが、笑って聞くことも大事なことだと私は思っている。

 お酒の席での話などたわいないことばかりだ。それでも話す人は聞いてもらいたいからで、話の中身からその人の考えや感じ方や大事に思っていることや、要するにその人そのものが見えてくるはずだ。大方は翌日になれば忘れてしまっているけれど、もちろんそれでいいと思う。真剣な問題であればこんな宴席で話さず、素面の時に言うであろう。宴席は楽しむことに尽きる。
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生まれたことに意味がある

2011年08月26日 21時36分07秒 | Weblog
 菅直人首相が夕方5時に記者会見して、退陣を表明した。首相として最後の演説なのか、思いのままを語っていた。「やるべきことをすべてやった」と力んでいたけれど、そう言わずには居られなかったことだろう。「政治家の家に生まれたわけでもなく、市民運動を行ってきた私」が首相の座にまで上り詰めたのだから、何も出来なかったでは情けないし恥ずかしい。男は誰もが見栄っ張りだから、せめて最後の花道を誰もが飾ってみたくなるのだろう。出来なかった恨み言を述べるのではなく、華やかな最後だったと思いたいものなのだ。

 民主党の代表選挙では、利権政治家の小沢一郎さんは原発推進派の経済産業大臣の海江田万里さんを押すと言う。反原発を主張する候補者はいないが、せめて脱原発を民主党の政策に掲げてくれる候補者はいないのか。理想を掲げて国を引っ張っていく候補者はいないのか。民主党は第2の自民党になってしまった。権力を持つということはそういうことなのだろうか。菅さんが「国家財政の危機」と言い、これを乗り切るためには税のあり方を含めて検討する必要があると言った。消費税についても論議していこうとも言った。

 確かにそれは正直な発言であったであろう。菅さんは自分が政治史上に名を残すような政治家と思い込んだのかも知れない。でも、一般の国民からすれば、少なくとも私は、それは違うだろうと思った。まず、やるべきことは膨らみすぎた行政のあり方を見直すべきだ。右肩上がりが続いて、行政はやたらと大きくなりすぎた。利権政治ではこの改革は出来なかったけれど、民主党なら出来るのではないかと思い込んだ国民が馬鹿だったのかも知れない。それでもこれからの社会を作っていくためには、膨らみすぎた行政のあり方を見直しスリムにする必要がある。

 それを実行しようとすれば、既得権を有している官僚たちをはじめとする現在の機構を維持している人々や諸団体から猛反発があることは当然だろう。国民の支持を背景に成し遂げる以外に手はないと思う。しかし、民主党政権はなし得なかった。地方で首長となった改革派の人たちもそのために苦しんでいる。自己保身だけならば長期政権の維持もできないわけではないが、政治家として、最後まで理想を追求しようとすれば、挫折するか頓挫するかである。リビアの猛獣、カダフィ大佐も王制を倒した時はヒーローだった。「どんな英雄も最後は鼻につく人物になる」という格言があるそうだけれど、42年も独裁政治を続けてくれば当然変わってしまう。

 恋愛もまた、長く続かない。長く続けようと思えば、それなりの努力が必要だろう。努力もせずに「愛し続けて欲しい」と願っても、出来ることではない。人生の最後を迎える人は、自分の人生は何の意味もなかったなどとは思いたくはない。誰かを愛し、誰かに愛され、とても充実した人生だったと思いたい。楽しかった幾つもの思い出が、いかにも充実した日々であったと受け止めたい。人は生まれ出たことに意味があった。だからこそ人は生きていけると思う。
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井戸は必ず役に立ちます

2011年08月25日 20時38分57秒 | Weblog
 今日も早朝から井戸掘りに行く予定だったのに、雨が降って来たので明日に延期することになった。私を知っている人は出会うと、「今は何をされているのですか?」と必ず聞かれる。「井戸掘りをしています」と答えるとビックリして、「どこでしているのですか?海外で?」とさらに聞かれる。その度に、「この尾張平野ならどこでも水は出ます。東北の震災の時もそうでしたが、水が無くてみんな困ったと言います。それなら井戸を掘っておけば、イザという時に役に立つはずです。学校などの避難所はもちろん、総ての公共施設に井戸を掘っておけば、何箇所か水が出なくなっても全部が出なくなることはないので役立つと思います」と説明している。

 「どんな風にして掘っているの?」ともよく聞かれる。今、掘っているところは敷地の場所が狭くて限られているので、昭和の初め頃まで行われていただろうと思われる手掘りでやっている。丸い大きな石がしっかり敷き詰められているような地層が2メートル以上あるようで、現在地表より2メートル70センチくらいまで掘り進んだが、まだ石が多い。これが砂に変わるまでは手で掘り続けなくてはならないだろう。そこを越せば、塩ビ管か鉄管に水を流し込んで掘り進めることが出来るはずだ。明日はこの作業まで進みたいと願っている。それで、「水脈はどうやって見つけるの?」と聞かれるわけだが、打ち込んだ水が地上に溢れてこない場所が水脈だと見ている。

 「その水をどうやって汲み上げるの?」と次に質問される。多くの場合は手押しポンプを取り付けている。中には電動ポンプを設置して欲しいと言う人もいる。庭の樹木や草花に水をやりたいのだ。一般の水道水は殺菌処理がされているので、コケ類は薬品で焼けてしまうことがある。地下水は夏でも冬でも常に15度から16度くらいだから、夏は冷たく冬は温かく感じる。草花にとっても気持ちがよいのか青々としてくる。しかし、場所によっては酸化鉄を多く含んでいる地下水があり、出てきたときは透明できれいな水なのに、太陽に当たると茶色くなってしまう。

 鉄分が多いというだけで、悪水ではないけれど、周りを茶色く染めるのでいい気分ではない。温泉へ行ったことのある人ならよく体験する鉄臭く茶色っぽい水はこんな風に鉄分が多い。飲み水に適しているか否かは保健所で調べてもらう必要があるが、それ以外に使うのであれば問題はない。津島のお寺さんは本堂の解体の際に、土埃を押さえるために使いたいと言っていた。また、別のお寺さんは池の水は絶えず流し続けるから水道水では料金がかかりすぎるので、井戸を掘って欲しいと言われた。

 私たちの井戸掘りは防災用が初期の目的であったけれど、いろんな注文が来ている。それでも依頼主には、「いざという災害の時には、井戸は必ず役に立ちますから、周りの方々から水がほしいと言われますよ」と話すようにしている。昔なら各家に井戸があった。少なくとも集落には幾箇所かに井戸が合ったはずだ。井戸端会議という名が残るほど日本では井戸はコミュニティの場でもあった。明日は作業が順調に進みますようにと祈って終わりにしよう。
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なぜ暴力団はダメなのか

2011年08月24日 22時45分56秒 | Weblog
 タレントの島田伸介さんが暴力団との交際を理由に引退を表明した。私は島田さんの番組を見たこともないが、昨日テレビニュースで会見していたのをチラッとだけ見た。彼はセーフと思っていたが、会社はアウトと言うので、ルールを守れと後輩にも厳しく言ってきた手前、潔く引退することにした。そんなことを話していた。よくわからないのは、島田さんが暴力団とどんな付き合いをして来たという内容だ。この程度までならセーフだろうと思っていたというが、その中身をを語ってもらわなくては言っている意味がわからない。

 相撲でも暴力団との付き合いが取り沙汰された。相撲も芸能も興行をヤクザが仕切って来た歴史がある。暴力団は芸能人との関係を深めることで、何を得て来たのだろう。また逆に芸能人は暴力団と付き合うことで何を得て来たのだろう。お互いにメリットがなければ関係は成立しないはずだ。相撲や芸能は暴力団と密接にかかわっていると国民のみんなが熟知していればそれでよいのではないという気もする。それで国民の多くが相撲が好きだとか、芸能人が好きだとか、それは個人の好き嫌いの問題になるだろう。

 政府も暴力団は排除しなければならない方針らしい。暴力団はどういうものなのか、私にはわからないけれど、そもそも何故暴力団は存在しているのだろう。暴力団はダメというその根拠は何だろう。暴力団はダメ、右翼はダメ、左翼はダメ、赤はダメ、ポルノはダメ、有害図書はダメ、性器を見せるのはダメ。人はいろいろとダメを挙げて来たけれど、どうしてダメなのかをキチンと言えるのだろうか。「ダメ!」と糾弾するけれど、何故ダメなのか言えないままに納得してしまっているのではないだろうか。

 今日も井戸掘りに出かけたけれど、その時も島田さんの事が話題になった。長老は「島田伸介は全部を語っていない」と指摘する。芸能人が暴力団とつながっていないわけはないというのが長老の見解である。具体的な証拠もなくそう断言することはよくないけれど、島田さんが暴力団との付き合いをまずかったと思っていても、悪かったとは思っていないように私は感じた。芸能人を多く抱えるテレビ局や劇場などは暴力団とは無縁なのだろうか。むしろ資本が暴力団的な働きをしていないのだろうか。

 「島田も悪い顔つきだが、そんなことを言ったら小沢の方がもっと悪人面をしている。民主党の代表選挙で、どうして党員権を停止になっている者が、ああも堂々と発言しているのか、小沢こそ暴力団だろう。いや暴力団以上だろうな」と長老の小沢批判は続く。確かに民主党は堕落し切っている。なぜ、小沢一郎さんの政治姿勢がダメなのか、わかっていない。あれはダメだ、これはダメだと切り捨てるのは簡単だが、その理由をキチンと説明しないと堂々巡りになってしまう。島田伸介さんに、なぜ暴力団はダメなのか、キチンと聞いてみたいと思う。
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どうなっていくのだろう

2011年08月23日 20時11分03秒 | Weblog
 昨日、今日と、もらい物が多い。信州の野菜をもらったり、フルーツトマトをいただいたり、東北の鰊の糠漬けは美味しかった。何より嬉しいのはあったかい心だろう。男は気の回らない性質かも知れないが、それは表現の手段を知らないからだと思う。それに比べて女は存在そのものが優しさと安堵に満ちている。女はたくさんの人に愛を与えることが出来るけれど、男は欲しがるばかりで情けない。そう思っていたけれど、女の中にも与えるよりも欲しがる人がいる。「私だけを見て」とか「私以外は見ないで」と平気で言うから不思議だ。

 久しぶりに役所へ行ったら、昔一緒にコーヒーを飲んだことのある女性と話すことが出来た。40代で地方新聞を始めた時、企画課にいた看板娘だ。「私、何していたんですかね。広報を作っていましたとは言えないし」と当時を語る。ご本人は気が付かないけれど、窓口にいるだけで花があり、だから「看板娘だったんだよ」と茶化すと、「これをやったというものがないのは寂しいですね」と言う。背は小さいけれど色白で、目が利発な輝きを持っていた。その姿は20年経つ今も変わっていないと思う。

 「そんなことないですよ。もうすぐおばあちゃんです」と意外なことを言う。嫁にいった娘さんの出産が間近なのだそうだ。可愛い子だなと思っていたけれど、おばあちゃんになるのか。ちょっと驚いて、感慨深いものがあってじっと顔を眺めてしまった。歳を取ることよりも、「新しく職員となってやってくる子たちは頭がよくって何でも出来るので、付いていけない自分が情けない」と仕事上の悩みの方が大きいと言う。「あの子たちには、お茶酌みのおばさんとしか見えないのでしょうね」。そこまで言うことはないと思うけれど、女が仕事を続けることは男とは違う面で重圧があるようだ。

 大学の女の先生と話していたら、どうして名古屋に来ることになったのかという話になった。先生は、大学を卒業して大学院まで進んだが、「だったら、次は結婚でしょうとしか考えなかった。それで、結婚相手が名古屋勤務だったので名古屋を選んだのよ」と言う。先生は私よりもはるかに若いけれど、昭和20年代の生まれならば、そう考えても不思議ではない。結婚したって何とか食べていけるだろう、みんなそんな風に思っていた。時代は高度経済成長になっていく時で、欲しかった家も車も手に入れていく。ステレオ、大型テレビ、大型冷蔵庫、そのうちに別荘まで買った人もいる。

 女子高校生ばかりか若い女性たちはミニスカートや短パンで美しい素足を見せている。どう見ても男を意識していると思ってしまうのだが、彼女たちに言わせれば「別に」ということのようだ。結婚願望も薄く、「背が高くて高給取りならいいじゃん」となるらしい。好きで一緒になって、共に苦労してでも生きていこうとはならないのだろうか。長女のダンナが「これから生き残れるのは顔のいい奴だけですよ」と言うけれど、「いい」の基準は人によって大きく違うから、みんながみんな結婚しないわけではないと思うけれど、でも本当にどうなっていくのだろう。
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救世主はキリストなのか、ヒットラーなのか

2011年08月22日 19時35分43秒 | Weblog
 「大阪維新の会」(代表は橋下大阪府知事)がまた動き出した。9月定例府議会に、教育基本条例と職員基本条例を提案するというのだ。首長は教育委員を任命し、議会の承認を得ていたけれど、教育行政は独立したもので、首長の関与を排除してきた。議会でも教育にかかわる質問に対しては教育長が答弁に当たっていて、首長は教育の中身にはかかわらないのが一般的であった。首長が代わる度に教育の中身が変わってはならないとしたためである。首長は、たとえば学校図書の充実を図るとか、先生を補助する人を設けるとか、学級の定員を30人にするとか、教育環境の整備などを進めることはあっても、教育の中身に踏み込むことは出来なかった。

 「大阪維新の会」は、知事や市長の役割として「教育委員会との協議を経て、学校が実現すべき教育目標を設定する」と規定している。教育委員が「目標を実現する責務を果さない場合は罷免できる」とも定めている。自らが任命した教育委員であっても、意に従わない者はクビにするという強固なものだ。そればかりか学校運営についても、校長に人事などの幅広い裁量権や予算要求権を認め、校長による学校運営の強化を目指していくようだ。これまでの教育現場は、教職員の協議で学校運営を決めてきたけれど、上からの命令に一本化しようというのだ。先に制定した「君が代起立斉唱条例」を念頭に、職務命令に違反した場合は1回目は警告と研修、2回目は実名公表、3回目で懲戒免職とする厳しいものである。

 教育は大雑把なものでよいと私は思っている。私が教員だった時、先生の中にもいろんな人がいて、全員が熱心とはいえなかったし、すぐに怒る人もいたし放任の人もいた。若い時は威圧的な先生が嫌いだったけれど、今から思えばいろんな先生がいていい。生徒との間であるいは先生同士の論議の中で、先生も変わっていくこともあるし、変わっていく先生が優れた教師なのかも知れないと思う。子どもの指導についても、厳しくすることで教育効果が大きいと考える人もいれば、優しく接する方がよい結果を生むと考える人もいる。子どもも千差万別でどの方法がよいかは様々だ。だからこそ、子どもにかかわる先生たちの真剣な論議が必要なのだ。

 校長と副校長によって上からの命令で学校を運営することは子どもたちにとっては不幸なことだと思う。学級担任が代わると、学級の雰囲気も変わる。いろんな人と出会うことで、人の良し悪しを子どもたちも見定めることが出来る。何もかも一律な社会に最もふさわしくないのが学校だと思う。「ひとつになろう日本」のスローガンではないけれど、ひとつになることを求める空気があることは私も感じている。政治の不信、経済は見通しが立たない、何となく先の無い社会にいる無力感、そんな中で人々は強力なリーダーの出現を待っている。面倒で時間のかかる民主主義を放棄しようとしている。救い主はキリストなのか、ヒットラーなのか。
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