友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

下ネタ話から世界経済の話へ

2011年03月31日 18時45分14秒 | Weblog
 一昨日に続いて、今日も井戸掘りをする。一昨日は5メートルほど掘り進めたところで作業を終えたので、今日こそは水脈に当たりますようにと祈る思いで作業した。しかし、5メートルの塩ビ管にさらに3メートルほど継ぎ足して一気に掘ろうと欲張ったのがいけなかった。水の重さが加わって塩ビ管は倒れて割れた。おかげで重い先端が頭に当たるところだった。ヘルメットを用意していたのに、横着をして被っていなかったが、やはりキチンと保護をして作業をしなくてはならない。この教訓に踏まえて、以後は1メートルずつ足していくことにした。それで今日は10メートルまで掘り進めたけれど、まだ水脈には当たっていない。

 この土地は濃尾平野にある。掘り進めて行くと、木片なのか植物の何か小さなものが混じった黒っぽい砂がかなり出てくる。木曽川が氾濫して樹木をなぎ倒して、それが砕けて砂の中に沈殿したのだろう。塩ビ管はこの柔らかな土壌を掘り進んでいくが、まさかどこまでもというわけではないだろう。あと一息のところまで来ているのだと、作業する私たちは思い込もうとしている。先の見通しが無ければ不安になるからだ。いつものことだけれど、こういう肉体労働が主力になってくると下ネタ話が飛び交うようになる。

 明日は統一地方選挙の県議選の告示である。「県議の誰それはヨソに女が出来て子どもまで作ったので、カミさんは選挙事務所に顔も出さんそうだ」とか、「どこそこの病院長も看護師といい仲になって子どもが出来てしまった」とか、どこで情報を仕入れてくるのか、まことしやかに噂話を始める。「男は金と権力と体力があると、みんな女をつくるがどういうわけだ」。「ここにいる連中は金も力も体力もない連中ばかりでよかったな」。「そりゃーまた違うぞ。体力なんかなくても金があれば何とでもなる」。「体力がなければ何ともならんだろう」。「その時はその時でやり方はいくらでもある」。「それじゃー、金も権力も体力もなくても、男はみんなそんなものか」。「まあ、そんなもんだ」。

 年長のかつては金も権力も体力もあった人が言うのだから説得力がある。続いて、「小泉内閣が経済成長のためだと規制緩和を行なったことが一番悪い」と話が飛ぶ。「地震災害で働く場所をなくした人を雇用して災害復興に取り組めばいい。失業者をこれ以上増したら経済はますます落ち込むことになる」。「賃金を上げすぎたから企業は安い賃金で働く中国やベトナムへ工場を移転させざるを得ないのだ」。「そうやってどんどんグローバル化が進めば、結局はどこでも同じということになり、儲けも均等化されていくだろう」。ああ、なるほどそうなりつつあるけれど、下ネタの話から世界経済の話までよくつながるものだと感心する。

 男たちはそういう話が好きだ。下ネタ話は自慢話のようなものであり、世界経済の話も一面では知識自慢のところがあるが、これからの社会を見据えようとする面が確かにあると思う。そんな風にして男たちは自分が生きてきた道を確かめ、子どもたちの範になろうとしているのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原発の設計者はなぜテレビに出ないのか

2011年03月30日 19時50分04秒 | Weblog
 東京電力の会長が記者会見して、「福島原発の1号機から4号機は客観的な状況から廃炉しかない」と述べていた。それは誰が見ても当然だと思う。原発は建設にお金がかかるだけでなく、こうして事故が起これば莫大な被害を与える。補償ですむような問題の域を超えている。これは原発に代わるエネルギーの開発に真剣に取り組むよい機会だ。そして、何度も言うけれど、私たちの生活スタイルを変えるには、観念からではなかなか進まなくても、具体的な事実を突きつけられれば意外に変えられることもわかった。

 テレビでの原発関連のニュースを見ていて不思議だなあーと思うことがある。1番つまらないのは経済産業省の機関である原子力安全保安院の記者発表だ。データーが全て東京電力のものなら、別に会見する必要がないし、原子力行政の頂点に立ち、国民の安全を守る立場から事故を監督しているのであれば、独自に配下の者を現地に置いて調査したもので行なうべきだろう。そうなれば「私たちの調査では‥」となり、信頼度がウンと高まる。「東電からの情報では」あるいは「東電に聞いてみないとわからない」というような発表は聞きたくもない。

 それにしても私が1番不思議に思うことは、なぜこの原発の設計者が出てこないのかということだ。原発の設計者なら、どこをどうすれば原発事故を最小限に食い止められるか、絶対に他の人よりもよく知っているはずだ。なぜ、設計者を呼ばないのだろう。設計者が亡くなっているなら、それは仕方のないことかも知れないが、でもひとりで設計したわけではないだろう。会社であれば、一緒に働いた人がいるだろうし、一緒に智恵を出し合った人が複数いるはずだ。

 万が一の事故のことを考えず、どうカバーするかを考えず、それこそ万が一にも建設していたとしたなら、これを認めてきた電気業界や政府そして大学や研究機関の学者の皆さんの責任は大きい。原子力発電ほどエコなエネルギーはないと発言してきた大学教授や評論家は責任を取って職を辞すべきだろう。福島原発から遠く離れた関西の工業製品や農産物にまで外国からの注文がキャンセルになっているそうだ。福島県で農業や酪農を営む人々は全く見通しが立たないと嘆いていた。

 被災地の復興に向かって動き出しているところもあるけれど、原発事故から30キロ圏は立ち入りも出来ないのだから、何も進まない。原発が廃炉となっても、放射能は地表に残るといわれている以上、農業はできない。海は拡散されて濃度は薄まったとしても、放射能を浴びた漁港の魚を食べたいと言う人はいない。原発事故が早急に終息し、莫大なお金をかけて廃炉にしても、もうそこに住む人はいないだろう。

 私の次女夫婦は茨城県で暮らしているけれど、ガス関連の会社で働くダンナは多忙な日々を送っているようで、「休むヒマがないのよ」と次女はダンナを心配している。そうやって徐々に復興へと向かうのだろうけれど、責任ある立場の人たちは本当にその責任を感じているのだろうか。感じているとしたら、どうするつもりなのか聞きたいと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これも勝手な解釈なのかな?

2011年03月29日 19時31分31秒 | Weblog
 暖かくなって、久しぶりに井戸掘りに挑戦である。前から頼まれていた井戸掘りだったけれど、掘り進める器具とその方法が確立できず、試し掘りをして器具作りを行なってきた。まだ、本当は自信があるところまで到達したわけではないけれど、暖かくなってきたのに「出来ません」と言い続けることも具合が悪い。今日の場所は濃尾平野の平らな地だから、水で充分掘れるだろうとの予測で始めた。結果的にはその通りで、初めは埋め立てた山土が大きな石ばかりで苦労したけれど、2時間半かけて1メートルほど掘ると黒い田の土が出てきた。そこから4メートルほど、つまり地表から5メートルほど掘って、今日の作業を終了した。

 それで続いて明日も作業をする手筈だったけれど、都合の悪い人がいて、明後日になった。私は木曜日に約束があったからはずして欲しいと願ったけれど、ひとりでも作業人数は多い方がいいと押し切られてしまった。メンバーの中では一番若い私がいないと困ることは目に見えているのに、自分の都合を優先することは出来なかった。大げさに言えば運命の巡り合わせである。神様がそう言うのであれば仕方ないと思った。いずれどこかで、神様はこのことの見返りをくださるだろうと勝手に解釈した。

 こうした私のご都合主義、良いことも悪いこともみんな神様のせいにして、自分の都合のいいように考えるのはどうも子どもの頃からのような気がする。映画を見に行こうとしていて、硬貨を飛ばして表か裏かで判断するのだが、普通の人なら表が出れば行くが裏なら行かないのに、私は飛ばす前にどちらと決めていなかったからと、表が出れば行くが裏が出ても行く。そんなら硬貨で決めなくてもいいのにと思うのだけれど、いやこれは神様が決めたことだからと、自分に納得させるためである。

 もっと突き詰めて考えれば、本当は自分がどちらを欲しているのかを知りたかったともいえる。なぜなら、表が出れば堂々と行ける、しかし、裏が出ると嫌だという気持ちが働く、つまり、行きたいのが自分の本音というわけだ。そんな風にして自分の気持ちを確かめるために硬貨占いをしていたような気がするが、いつの間にか、良いことがあれば神様が与えてくれたご褒美、嫌なことがあれば神様が与えてくれた試練、そんな風に考え、だからきっと明日は今日よりもいいことがあるだろうと、誠に都合良く考えるようになった。

 でもそれは自己中心主義とはちょっと違うと思っている。自分勝手という点では同じだけれど、世界は自分を中心に回っているというほどの身勝手さではなく、あくまでも自分を戒めたり励ましたりする方便として、神様を持ち出しているのだ。それはまた、自分に自信がないためかも知れない。そしてまた、自信過剰で傲慢な人間にならないようにとの自己規制でもある。これも勝手な解釈なのかな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

短くわかりやすい文章は記者の使命です

2011年03月28日 19時42分37秒 | Weblog
 昨日までとは大きく変わって、今日は暖かかった。午後6時、私の部屋の真向かいに真っ赤な太陽が養老山脈の稜線に届きそうな位置にあった。いつも寒いと思って見もしなかったけれど、あまりに大きく美しかったので、ブログに載せようとルーフバルコニーへ出て、ケイタイを向けた。ところが肉眼では素晴らしく大きく美しく見えるのに、私のケイタイでは小さな点に過ぎない。それから5分も経ていないのに、太陽はすっかり消えてしまった。するとまた冷たさが徐々に広がってくる。

 いつの間にか3月も終わろうとしている。3・11大地震、9・11ニューヨーク無差別テロ、どうも11というのは魔の金曜日のように嫌われそうだ。いつの間にか、私のブログの閲覧数が500をそして訪問者が200人を超えている日がある。私の知っている人への勝手な手紙のつもりで書いてきたのに、時々私の思いとは真反対なコメントが寄せられたり、よくわからない内容のコメントがあったりする。ブログを行なっている先輩諸氏に聞けば、「公開している限り当たり前のこと。どう対処するかはあなたが決めること」と言われてしまった。

 全くその通りだと思う。時々グサッと心をえぐられるようなコメントもあるけれど、できる限り削除しないで置くようにしている。反論を求められることもあるけれど、出来れば論争は避けたいので、投稿者同士でやってもらいたいと虫のいいことを願っている。ブログでの吐露は私の勝手な思いであって、それを間違っていると言われても困ってしまう。気に入らない人は無視してくださればいいし、もちろんそれでもご自分の思いを寄せてくださるなら拒否はしないつもりだ。

 それでも、私のブログを楽しみにしているとか言われると、休むわけにはいかない。さて、今日のように何を書こうかと思ってもネタが見つからない日もある。そういう時は、今日くらいは休んでもいいかと怠け者の声がするのだが、いや何か書けよという声がそれを打ち消す。フランス人の女流作家マルグリット・デュランの『愛人』を読んでいるけれど、この文体がとても面白い。訳されたのは清水徹さんという方だが、英語もフランス語も実は日本の古文も不得意な私が言うのもヘンだけれど、きっとフランス語もこんな風な書き方なのだろうなと思いながら読んでいる。

 私は学生時代に、高橋和巳の『憂鬱なる党派』を読んで虜になった。続いて『邪宗門』や『我が心は石にあらず』を読みふけって、高橋さんの難解な文章に憧れた。1ぺージに句点が1つしか無いか全く無い。デュランの『愛人』も読点ばかりで句点が少ない。高橋さんの文章は長々と続き、どこで終わるのかわからない。デュランの方はブツブツと切れるのだが、その切れ方が面白い。私は高橋さんの文体に憧れながら、しかし、新聞を作っていたので自分が書く文章は出来るだけ短くした。短くわかりやすい文章を書くことが記者の使命だと後輩にも言ってきた。

 ※コメントをくださる皆さん。本名でなくて結構ですが、あの人かなと私がわかるようなコメント名だと嬉しいです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「心づかい」や「思いやり」は幻想なのだろうか

2011年03月27日 18時38分37秒 | Weblog
 今日も昨日と同じように寒い。朝、ルーフバルコニーに出て、大きく伸びてきたチューリップに水をやったけれど、寒さで震え上がった。それに風が強く、しかも一定方向ではなくて、マンションのこの辺りでぶつかり合うのか、散水の水が舞い上がって私に降りかかってくる。被災地の皆さんはもっと寒い思いをされていることだろう。避難所の生活も2週間を超え、かなり限界に近づいている。それも本当は人によりけりで、絶望的な思いの人もいれば、楽しく思っている気楽な人もいる。何が大変なのかと言えば、「この先が見えないことだ」と言っていたが、その通りだろう。

 先がわかっていれば我慢も出来るが、どうなるのかわからなくては耐えられない。拷問と同じだ。先が見えなければ音を上げる以外ない。こんなに豊かで穏やかな時代に、まさか故郷を捨てて新しい土地に移らなくてはならないと誰が想像できただろう。人は生活し始めると、「住めば都」になるものだ。若い人なら新しい土地でも働く場所があるから生活できる。蓄えが無くても働けばまた豊かな生活を取り戻せる。しかし、年寄りは働くことも出来ず、収入の道がないのだからいったいどうすればいいのかと思う。土地を離れられないのは、土地に対する愛着ばかりでなく、これからどうやって生きていくのかという不安が大きいからだ。

 若い人は命を懸けてベルリンの壁を東から西へと越えた。ベトナムでもアフガニスタンでもリビアでも、若い人は命を懸けて自由を求める。北極のようなとても生活できないだろうと思うところでも人は生きているし、エレベストの落ちれば絶対に命がないような崖の奥で生活している人もいる。どうしてもっと楽に生活できそうな場所へ移らないのかと思うけれど、生活してきた人にとってはそこが安住の地なのだろう。人には耐えられることと耐えられないこととがあるようだ。どうやらそれは豊かさではなく、自分がどう扱われるかということにある。

 テレビでは災害以後、商品コマーシャルに代わって公共広告が流され、いつの間にか言葉や歌までも覚えてしまった。金子みすずの詩もいいが、「心は誰にも見えないけれど 心づかいは見える。思いは見えないけれど 思いやりは誰にでも見える」というコピーもズシンと来るものがある。「ひとつになろう 日本」には異端を許さない雰囲気があるけれど、金子みすずやこのコピーには優しさがある。飛躍してしまうけれど、フランス映画『突然炎のように』や三島由紀夫の『三原色』は、確かに自分勝手な生き方ではあるけれど、完全にはなれない人の、たとえ部分であるとはいえ、真実があると思う。

 三島由紀夫の『三原色』は演劇のシナリオで、ひとりの女をふたりの男が愛するのだが、美しいものを愛するのに心は要らないという誠に勝手な価値観をテーマにしている。地震直後のこの時期ならとても受け入れられないだろう。日本人は冷静で慎みと思いやりに溢れていると外国人から絶賛されていたけれど、放置された車のガソリンを盗むばかりかガラスを割って金品を持って行く者がいるそうだ。もっと悪いのは、会社のために人々の危険を無視してしまう人だろう。「心づかい」や「思いやり」は幻想なのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神様はそっと微笑まれた

2011年03月26日 19時00分08秒 | Weblog
 寒い。日差しは強いのに風は凍るように冷たい。原発事故は作業に当たっている人が被爆したり、放射能に汚染された野菜や現乳を放棄したり、水道水は幼児に飲ませないようにとか、原発の近くの海も放射能の濃度が高いとか、沈静化するよりも不安ばかりが広がっている。原子力発電所そのものをコンクリートで覆ってしまうことはできないのだろうか。そのためにも冷却が必要なのだろうか。いずれにしても、原発は何かあればとても高くつくことがハッキリした。原発に頼らない発電を考えるか、エネルギーそのものを検討する必要があるだろう。そこで、子どものためのお話を考えた。

 人がこの地球に生まれてしばらくした時、各地で火山が爆発し大雨が降り、大洪水となった。助かったのは箱舟に乗せた牛や馬や羊、犬や猫やニワトリなど、わずかな動物と人だけだった。流れ着いたその地で、せっせと土を耕し残っていた種をまいて大事に育てた。人は必死で働き、人も動物も収穫も増えた。豊かで穏やかな日々が続き、さらに人も動物も収穫も増えた。それでも人は働き続けた。やがて、蓄えができるようになると、働く人と治める人とに分かれ、土地に境界ができた。治める人はもっと領土を増やして富を蓄えようとした。

 人の力では限界があるが、機械が生まれるとその限界は見えなくなった。人は機械をどんどん造った。これで必死になって働かなくても、生活は楽になるはずだった。時間は短縮され、収穫は増えた。働く時間は短くなるように思ったが、相変わらず人は必死で働かなければ生きていけなかった。機械は複雑になり、人よりも正確な判断ができると重宝された。それでも、人はもっと必死で働かなくてはならなくなった。人が食べてエネルギーを補給するように、機械もエネルギーを欲しがった。人はわずかなものを食べて満足したが、機械の欲求はどんどん膨らんでいった。

 機械が求めるエネルギーを満たすために、人はさらに必死で働いた。遠いところからエネルギーを運ぶ大型船を造り、地球上にパイプを巡らした。地下にあるあらゆるエネルギーを取り出して与えたけれど、機械はもっとたくさんのエネルギーを欲しがった。だから人は持っている智恵の全てを使い、機械にエネルギーを与え続けてきた。けれども、機械の欲求は高まるばかりだ。人は箱舟で漂着した時よりもっと必死で働いているが、時間は短縮できたのに、働く時間は少しも縮まらない。

 人は素晴らしい世界を創ってきたと子どもたちに話して聞かせた。真面目に働けばこんなにも豊かな生活を手に入れることが出来ると何度も言い聞かせた。その時ひとりの子どもが「でも、お父ちゃんは原発事故で死んじゃった。どうして?」と聞いた。子どもの父親は原子力発電所が事故を起こした時、爆発を抑えるために必死で働いたのだ。するともうひとりの子どもが「豊かにならなくても、死なない方がいいよ」と言った。神様はそっと微笑まれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本当に、明けない夜はないのだろうか

2011年03月25日 20時13分48秒 | Weblog
 街路樹のハクモクレンが咲き始めた。梅が春を告げる花なら、ハクモクレンや桜は春そのものを象徴している。すっかり春めいてきたのに、地震と原発事故で何だかすっかり落ち込んでいる。地震自粛という新語まで生まれている。買占めよりは控えめでいいけれど、やはり気が重い。高1の、いやもうすぐ高2になる孫娘が「晩御飯、そっちへ食べに行ってもいい?」とメールしてきた。今晩はカミさんもいないから、孫娘が来てくれるのはありがたい。何か、美味しいものでも作ってやろう。あの子は何でも「ウマイ!」と言ってくれるから、作り甲斐がある。今晩も9時近くまで泳いでくるから、お腹はペコペコで何でも美味いはずだ。

 長女が夜勤や早出の時など食事はどうしているのだろうと気になるが、だからと言っておせっかい過ぎると嫌われる。前のダンナは毎朝コーヒーを飲む人だったので、長女がいない時は困っているだろうと思って、コーヒーを沸かして届けていた。「パパちゃんはいいと思ってやっていたんだけど、パパはそういうところが苦痛だったんだよ」と孫娘に言われたことがある。長女がいないのだから、我が家へ来て食事をすれば彼も助かるだろうと思っての行為だが、そういつもいつもカミさんの両親に世話になると、まるで監視されているような不自由さを感じさせたのだ。同じ過ちを繰り返してはならないと思うけれど、やっぱり気になってしまう。

 NHKテレビの連続小説『てっぱん』がもうすぐ終わりそうだ。結局、主人公の女の子はマラソン選手が好きだけれど、だからと言って彼を結婚するということはないようだ。昨日(?)20歳になったばかりなのだから、結婚は早すぎるとも言えるので、まだしばらくはおばあちゃんとお好み焼屋を続けていくというNHKらしい終わり方だ。それにしても、主人公の女の子の兄は、子どもの父親とは結婚しなかった女性と結婚し、その子の父親になるというストーリーもまた、考えてみればNHKらしいとも言える。女性が「ひとりで産んでひとりで育てる」と宣言していたのに、「自分が面倒をみる。いや自分はあなたとその子を幸せにしたい」と兄は言う。

 兄は自分の父親が主人公の女の子を自分の子として育てたように、自分もまた子どもの父親になりたいと言うのである。家族の血とは何かの問いに、NHKはハッキリと、血が流れていれば家族というこれまでの価値観にノーを突きつけた。家族の絆は血ではなく、思いやりと愛情でしかないという結論だ。それでもまだ、家族という単位は維持し堅固なものにしようとしているが、そのうちに家族の形はもっと違うものになっていくだろうと私は思う。下宿の小学生が生まれてくる赤ちゃんを「みんなで育てたらいい」と言っていたように、子どもは父親と母親の者だけでなく、社会全体のものというように変わるかも知れない。

 でも、これって、昔の姿じゃーないだろうか。原発事故で節約型社会に戻ろうとしているのによく似ていないだろうか。成長経済の社会から停滞経済の社会へと移っていくのだろうか。地震自粛はいつまで続くのだろう。明けない夜はないと言うけれど、明けない夜が続くのかも知れないなあー。でもそれも、夜が長いというだけのことなのかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カンディンスキーとその時代

2011年03月24日 22時16分04秒 | Weblog
 友だちが誘ってくれたので昨日、『カンディンスキーと青い騎士』を見てきた。カンディンスキーはロシア人で、ドイツで活躍したことや抽象絵画の先駆者であることは知っているが、抽象画には興味がない私の知識は絵画史の枠でしかない。カンディンスキーがモスクワ大学で法律と政治学を学んでいたことは知らなかった。彼は学生時代からロシアの地方を視察し伝統を調査している。そこでロシアの民族的な色彩や工芸品に関心を持ったようだ。おそらく結婚もしていたであろうのに、どうしてドイツで絵の勉強をしたいと思ったかわからないが、30歳の時にミュンヘンにやってくる。

 古典的な絵画に満足できなかったのか6年を経て新しい芸術家集団を結成する。法律や政治学を学んできた人だからこそ、美術に論理を持ち込めたのではないだろうか。時代は急激に変化しつつあり、科学の急速な発展は文学や心理学にも大きな影響を与えていたし、美術もまた例外ではなかった。印象派の出現以来、画家たちは絵画に理論を与えるようになった。2次元の絵画に3次元を持ち込んだ立体派、深層心理を絵にしようとしたシュールリアリズム、20世紀はこれまでの絵画の理念を超えるものが生まれた時代である。学問が前の説を否定して新しい説を打ち立てるように、絵画も同じ道を歩んできた。

 カンディンスキーが活躍した20世紀前半はそういうめまぐるしい時代であり、全く新しい時代の始まりだった。この展覧会はカンディンスキーとその仲間たちの作品とともに、彼らの写真が何枚も掲示されていた。私は絵画よりも写真を見ていて、どうしたわけか20代の頃に観たフランス映画の『突然炎のごとく』が浮んできた。多分、時代は同じ頃ではないだろうか。カンディンスキーはミュンヘンの絵画教室に来ていた女性と恋仲となり、一緒に旅行する。ミュンヘン郊外のムルナウの美しさに惹かれて、友だちのヤウレンスキーらを呼ぶ。ここで2組の男女が生活していた時があった。

 その光景がきっと、『突然炎のごとく』を思い起こさせたのだろう。2組の男女は恋人同士であっても結婚はしていないと思う。既存の道徳に縛られない男と女を演じていたのだろうか。映画のストーリーは忘れてしまったが、ひとりの奔放な女性にふたりの男性が恋してしまう物語だった。主演のジャンヌモローが魅力的であったし、映写の美しさが際立っていた。3人が自転車で林の中を走る場面だけは今も覚えている。三角関係そして不倫なのだが、恋はこんなにも悲しいものなのかと思った。

 カンディンスキーがそうだったとは言えないけれど、この頃の画家たちはある意味で、既成の価値観に逆らうことを自らの価値にしていたと思う。作り出すものが既成に逆らうものであるならば、生き方そのものも既成に逆らわなくてはならないと考えたのかも知れない。セピア色した写真は、彼らの人生のホンの一部を見せてくれているに過ぎない。そこに何を見出すか、見る者の想像力が作り上げていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

避難所でも、袖ふれ合うも何かの縁にならないか

2011年03月23日 20時54分26秒 | Weblog
 茨城県の次女のところに、水と食料品、紙の皿やコップなど様々な日用品を送った。地震直後はどこの宅配業者も受付出来なかったが、何日か前から送られるようになった。受付の女性から「お届けできるのに多少日数がかかるかも知れません」と言われたけれど、通常と変わりなく届いた。次女からのお礼の電話でホッとした様子が伺えた。まだ、スーパーに商品がなく、困難な生活が続いているようだ。

 日本人はこんな大災害の中でもお互いを思いやり、助け合って生活している。素晴らしい国民だと外国メディアが賞賛してくれていると、友だちと話していたら、義援金が金庫から盗まれたと新聞載っていた。正義感が強く私から見ると道徳の塊のようなその友だちが、「そりゃー仕方がないよ。働く場もなく、お金もない。食べることも出来ないし、先も見えない。ないない尽くしなんだから思わず手が出たんじゃないの」と意外に寛容なことを言う。確かにそうだろうけれど、みんな苦しいのに自分だけ助かりたいという心根が嫌だ。

 私は思わず、「避難所生活の中で、袖ふれ合うも何かの縁というから、恋が芽生えることもあるかも」とふざけたことを言おうと思ったけれど、止めた。「あなたはそこが軽いのよ」とカミさんに叱られる。でもなあー、避難所での生活は大変で、私なんかすぐ逃げ出すだろうけれど、それでも何かいいことがあって欲しい。きれいな奥さんがダンナの無事を祈っている、励ましているうちに恋に落ちることだってないのかな。「そんなバカなことを考えているのはあなたくらいのものよ」とまた怒られそうだ。

 東京都の浄水場で規定以上の放射能が検知され、幼児に水を飲ませないようにとテレビは報じている。随分前に幼児と一緒に東京を離れた母子がいるけれど、彼女はこうなることを知っていたのだろうか。SF小説『日本沈没』は日本列島が海に沈んでいくのだそうだが、地震が津波を呼び、原子力発電所が爆発し、放射能が空気を汚染する、そんなシナリオになっていくのだろうか。最後は人間の智恵と連帯感が日本を救う結末になるのだろうか。

 テレビを見ていると、人は結構たくましく生きている。避難所には医薬品がないと報じられていたが、その医薬品を病院などへ届ける業者がこまめに避難所を回り、医者に何が足りないか聞いて回っていた。これで、彼は他に先駆けて注文をとることができるだろう。建設業の人が東北に営業所を設けると言っていた。どんな災難にあっても、次に何をしたら儲かるのかを考える人がいるのにはビックリする。

 トヨタ自動車は操業を停止しているけれど、あれだけの車が使い物にならないのだから、需要は必ず起きるだろう。災害は戦争と同じで完全消費だから、次には大きな需要が生まれる。江戸時代に大火事があって、人々は大変な思いをしたけれど、その次には好景気が訪れた。大工は賃金が倍になり、遊郭は大繁盛したそうだ。不幸に見舞われて人々の心は重いけれど、復興となれば建設業界を初め様々な業界が活気づくだろう。人間はそんな風にして過去を忘れていくようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平凡な人生だからこそここまで生きてこられた

2011年03月22日 21時47分11秒 | Weblog
 昨日のブログで気になっていたテレビでの呼びかけは『ひとつになろう 日本』だった。「私たち国民は心をひとつにして、この難局を乗り越えましょう」というのはアナウンサーの言葉だったのかなと思う。だいたい、あなたは思い込みが激しいのよと叱られそうだ。でも、「ひとつになろう 日本」も趣旨としては変わらないのではないだろうか。そんなことに目くじらを立てる神経がおかしいとまた指摘されそうだ。私としては目くじらを立てているつもりはないけれど、感覚的に嫌だと感じてしまうのだ。多分、こうした感覚は少数派だろうと思う。健全な精神の人ならこの難局にみんなが力を合わせるのは当然だと、私も思うからだ。

 私は子どもの頃は人形のように可愛い男の子だった。可愛いだけでなく、おとなしくておっとりした坊ちゃんと思われていた。こうした他人の評価とは別に、私自身は全く違う自分が育っていることに抗し切れなかった。絶対的なものや権力に対して反抗的な気持ちがいつもあった。けれどもそれを表すことはなかった。おそらく、我が家が材木屋で家長制度が残っていたことが要因だろう。私には祖父の存在が大きかった。祖父は絶対的な権力者でどんな理不尽と思われることでもまかり通った。

 祖父はみんなよりも先に食卓に着き、お酒を飲んだ。今から思えば当然なことなのだが、お酒の肴が用意される。どうして祖父だけがおかずが1品多いのか、私には納得できなかった。たまにすき焼きなどあると、私が嬉しくなって肉を食べようと箸を出すなら、「子どもはそんなに食べなくてもいい」と叱られた。それで無性に腹が立ったけれど、家族みんなの量を考えてみなさいということだったのかも知れないが、私は祖父を自分勝手な人だと思っていた。平等とか博愛とかの西洋的な言葉に魅力を感じたのは祖父の反面教師のせいだと思う。

 高校生の時、映画の評論を書いたら同じ新聞部の仲間に、「お前は政治よりも芸術向きだ」とも言われた。率先して生徒会活動に取り組み、高校の予備校化に反逆していたつもりでいたし、将来は新聞記者になって社会悪をたたき出すつもりでいたので、その言葉は衝撃的だった。大学3年の時に、教育実習で行った中学校の先生に可愛がられてよく飲みに連れて行ってもらった。その時、先輩の美術教師に「カミソリのような感性の人」と言われた。これはきっと母譲りだと思った。母は父のために全てを犠牲にして生きてきたけれど、本当は岡本かな子のような気性の激しい人ではなかっただろうか。

 昨夜、歌手の尾崎豊のドラマを観て「ああ、芸術家でなくてよかった」と言ってしまった。中学から高校にかけて、自転車に乗って走っていると次々と言葉が溢れてきて、歌っていた。自分に楽器を奏でる才能があったり、歌がうまかったりしたら、歌手になろうとしたかも知れない。何にでも成れる、そんな気がしていた。社会から貧富の差を無くすことで人々が幸福になれると考えていたので、社会悪と戦う新聞記者か人を救う牧師になりたいと思っていた。牧師を志すにはあまりにも自分は罪が大きい。残る道は新聞記者であったけれど、合格しなかった。

 芸術家を目指していたなら、きっと尾崎のように自ら命を断っていただろう。平凡な人生だったからこそここまで生きてこられたのだと思う。それでも最後まで多数派にはなれそうにない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする