友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

夢を追う人

2008年05月31日 21時16分45秒 | Weblog
 孫娘は中学2年だが背丈も小さいから、祖父の私にすればまだまだ子どもに思えてしまう。ところが中学2年生になって、少し雰囲気が変わってきた。あんなに尊敬してやまない母親に対し、直接口には出さないけれど、不信の念をチラリと見せる時がある。それに入学当初は成績もよかったが、周りも勉強をするようになってきたから、今回の中間試験はこれまでの最低となったようだ。

 それでも彼女は根が明るいし、誠実だし、正義感の強いところは少しも変わらない。「あなたには嫌なことは何もないよね」と、少々からかいも込めて言うと、「嫌なことの方が多いかな」と真面目な答えが返ってくる。これはまずいとカミさんに「あなたは嫌なことは何もないよね」と振る。するとカミさんは「嫌なことを探すより、いいことが何かあるかと探す方が難しいわね」と答える。まったく、ギャフンである。

 今の私は嫌なことはないね。いいことばかりで、こんなに幸せでいいのかなと思うくらいだ。何をもって嫌なことだと思うのか、人それぞれだからどうこう言うことはできないが、不満を持てばきりがないのではないか。友だちが「夢をもてなくなった」と言っていたが、確かに年齢を重ねると夢を追うことが子ども染みているように思ってしまう。いつまでも夢を追っても良いはずなのに、夢はなかなか実現できないものだと、年の功でわかってきたからだろう。

 いつも一緒にお酒を飲む仲間に、68歳になる後家さんがいる。ご主人を亡くされて10年以上になるが、「そろそろ新しい恋をしてもいいじゃーないですか」と冗談半分にけしかけても、「今さら男の人の世話になるのも世話をするのも真っ平ね」と受け付けない。ラジオやテレビで韓国語を学び、今ではひとりで韓国へ旅行だってしている。イタリア語まで勉強していて、「イタリアへもう一度行きたいわね」と夢を抱いている。

 実現しそうにない夢は確かに「もてなくなった」のかもしれないが、少し努力すれば可能性があるならば、「夢を追う」ことも生きていく力になる。リタイアした男たちが酒の席で話していたことを、「酒の肴に終わらせないで、やってみようよ」とNPOの設立に向けて動き出した。恋することもそうだけれど、自分が何かの役に立っているのではないか、たとえそれが独りよがりであったとしても、少なくとも生き甲斐であるなら、それはそれで「夢を追う」意味になると思う。
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潔癖症の女たち

2008年05月30日 22時53分08秒 | Weblog
 バンコクへ帰った次女から義弟にマンゴーが送られてきた。お礼の電話を家族みんなで回した。私の番になったら、次女が孫娘のことを話し出した。それは「いつもパパのブログを読んでいるよ」という彼女なりのメッセージだった。「ありがとう。何かコメントは?」と聞くと、「姪っ子の話は読むけれど、パパの友だちの恋愛の話は読まないから」と言う。どれもこれもあなたのパパの話なのだから、そんなこと言わずに読んで欲しいといいたかったが言えなかった。

 私が始めて担任をした時の女の子から、「先生のブログ毎日読ませていただいています」とメールをもらった。いや失礼、彼女だってもう50歳にはなっているのだろうから女の子は適切でない。彼女の言い分は以下のとおりだ。

 「さて、ちょっとだけ言わせて下さい。先生のブログ人気ナンバー2らしい『恋人未満』の話は嫌いです。先生は中学生の時からの友達として彼を見ているから、とても真面目な性格の彼を知っているから称賛してらっしゃるし、事実でしょう。でも、彼の奥様は?一人の生身の人間ですよ。セラピストの様なしっかりした奥様も心のある女性です。別れたというブログの時は正直ホッとしました。これで奥様にも心の安泰が訪れると。セックスして無いから裏切って無いと思っているの?夫婦の繋がりは婚姻届だけ?お互いが支えあい、側に居るだけで安らげるのが夫婦でしょ。甘えるのもいい加減にしろと言いたい。自分のブログに書き連ねてらっしゃるって事は奥様公認?セラピストと祭り上げてそれで良しと思っているならホントにおめでたい方ですね。立場を逆に考えてみたら?男だから許されるなんて思っているなら紀元前の話。周囲に充分迷惑かけているのに12年も気が付いてないの?まあ、ある意味諦められているのかも。何故先生はこの件に関しては片方からしか見てないの?先生の周りの方からも意見が出ていますよね。半人前が生意気な事言ってごめんなさい。先生に嫌われちゃったかな………。」

 彼女も私の下の娘も非常によく似ている。潔癖症である。おそらく、道を外れた恋だの愛だのという小説は1行も読まなかっただろう。初めから人の道に反しているようなものに興味を抱くこと自体が道に外れていると考えているのだ。そういう彼女たちを私は立派だと思っている。そうした倫理観は彼女たち自らが教育して作り上げてきたもので、そこには強固な意志があり、価値観がある。

 私は高校生の時に大好きな女の子がいた。にもかかわらず、その子のほかに好きな女の子ができて、自分の罪深さを知った。もっと正直に言えば、プラトニックに好きになった女の子が二人もいたのに、SEXしたい女性もいた。もちろんそんなことはただの夢で、その頃読んでいたスタンダールの『赤と黒』の世界に自分を置いていたに過ぎない。けれども、ただひとりの人を愛さなくてはならないのに、他の人にも恋したことの罪深さにわが身を疑った。

 自分はなぜ完璧になれないのかと、以来ズーと自分を疑っている。確かに、彼女たちのような人間になることが一番よい道であろう。けれども、人はなかなか完璧に生きられないことも事実ではないだろうか。許しを請うしかない。
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男言葉の女の子たち

2008年05月29日 20時30分02秒 | Weblog
 中学2年の孫娘が友だち3人とやってきて、我が家でビデオを見るという。「何を見るの?ドラマ?」と尋ねると、「カンジャニを観る」と言う。どこかの忍者かと思うような名前だが、若い男の子たちのコンサートだった。余りにやかましいので、「どうぞ、ごゆっくり」と言って失礼させてもらったが、彼女たちのやり取りを聞いているとまったく男言葉になっている。

 そういえば、最初にやってきた子が玄関に立っているから、「上がってくれてもいいんだよ」と言うと、「イイッス」と答える。「こちらにどうぞ」と声をかけても、「結構ッス」と言う。まるでお相撲さんのようだなと思うけれど、孫娘もそんな言い方をするから、彼女たちの仲間では語尾に「ス」をつけることが流行っているのだろう。

 語学のことはよく知らないが、外国語では尊敬語とか謙譲語という表現は稀だと聞いた。だから日本語を学ぶ外国人は「日本語は難しいね」と言っていた。日本語はさらに、男言葉と女言葉がある。男女平等の世の中で、男言葉や女言葉があることがおかしいと意識して男言葉を使っているのなら、逆にたいしたものだと思う。日本の伝統的な言葉遣いがなくなっていくことは寂しいけれども仕方のないことだ。言葉は時代とともに変化するものだから。

 若い女の子たち、高校生の彼女たちがスカートを極端に短くして、下着が見えそうな格好をするのは、「性」しか見せるものがなくなってきた時代を反映しているのだろう。「私は女」と意識してそんなスタイルに固執しているのは、かつての女子高校生が超ロングのスカートを穿いていたのと同じことなのだと思う。若い男の子はズボンを極端に下げて足の短さを強調しているように見えるけれど、アレは何を見せたがっているのだろう。

 私の友人が、「若い女性の憧れの職業はキャバクラ嬢というのには驚いたね」と言う。「どういうことなの?」と聞くと、「新聞に出ていた」と言う。「楽して儲けたいと思っているのだ」「接客業はそんな甘いものじゃーないよ」「キャバクラなら接客のための知識も必要ないから、まあ短いスカート穿いてチラチラ見せてりゃーすむから」「それにしてもキャバクラ嬢になりたいと親は聞いたら、親はどう思うかね」「今の親なら、金になるからとやらせるんじゃないか」「職業に貴賤はないからキャバクラがいかんとは言えないが‥」。

 それはまた問題が違うように思う。そもそもキャバクラ嬢という職業があっていいのかということではないだろうか。かつて援助交際が問題になった時、「好きでやっているのだからいい」と言っていた女の子がいたが、SEXをお金で買うことは人身売買と同じことだ。人が愛し合うことにルールを設けることは難しいことだけれど、少なくとも愛をお金で買うことは卑劣なことだという意識は持った方がいいのではないかと思う。

 男言葉を使うことで、男女平等を実現したいなら、それはそれでいいと私は思う。男女平等は、男と女が違うからこそお互いを尊重し求め合うところから生まれると私は思っている。
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バラが好きです

2008年05月28日 22時50分30秒 | Weblog
 可児市の花フェスタに行ってきました。ここのバラ園は世界一とパンフでは謳っています。世界一かどうか、誰がそう決めたのか私は知りませんが、私自身はここのバラ園が好きです。バラに取り付かれてバラ園を造ろうとしたしたことがあったことを以前ここで書いたことがあります。私は少しませた子どもでしたから、日本的なことを忌み嫌い、西洋的なものにあこがれていた少年時代があります。

 バラが好きになったのも、そうした日本的なものを忌み嫌うことの裏返しだったと思います。大人になるに従い、日本的なものの典型である桜に惹かれるようになりました。いいや、桜のような華々しい花ばかりでなく、野に咲く露草や竜胆といった草花に心引かれるようになりました。西洋にかぶれていたのに、日本的な趣向から結局は抜け出せないこともよくわかりました。

 西洋人がどのように感じるのかわかりませんが、一瞬そっと吹く風や、雨の匂いや、木々の芽吹き、枯葉や雪の舞い散る姿に心がときめきます。もちろん、バラは美しいし、その香りも甘く、バラ園をさまよい歩くことができる幸せを感じています。そんな時、ふと思うのです。これらのバラの花びらを浴槽に一杯浮べ、美しい女性がバラのお風呂に入るなら、それはまさに優雅の極みではないだろうか。そんな馬鹿げた妄想に取り付かれたりします。

 この感覚は西洋人にはない日本人の感覚なのかといえば、多分そうではないと思います。西洋人とか日本人とかの問題ではなく、趣味とか趣向の領域ではないかと思います。旅行が好きだという人でも、一人旅の好きな人もいればグループのたびを好む人もいます。車で行く人もいれば列車でいく人もいます。バラの湯船に自分ではなく、美しい女性が入っている姿の方がいいと感じるのはやはり感性というか美意識ではないでしょうか。

 好きになった人から「私のどこが好きですか」と問われたら、どう答えますか。好きな人の各部分のそれぞれが好きなのでしょうか。目が好きです。その小さな鼻が好きです。とがった唇が好きです。そんな風に部分をあげていけば、結局はトータルで好きだということだと思います。昔から、(好きになれば)あばたもえくぼというではありませんか。

 「そんな外見ではなく」と再度問われたとします。かわいらしさとか素直なところとか、上げていけばきりがないでしょう。そんなことよりも外見と内面は分離できるのでしょうか。バラを見ていても、このバラは色がいい、このバラは香りがいい、このバラは‥というようにあげていくこともできますが、結局はトータルで「好き」ということではないかと思います。

 バラにはトゲがる。バラにはトゲがあるからよいのかもしれません。我が家にも新しいバラを一鉢増やしたいなと思っています。
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歴史は繰り返す

2008年05月27日 20時28分08秒 | Weblog
 真夏のように暑い日になった。異常なのか、中国四川省の地震は当初よりもはるかに大きく、被害も桁違いなものになっている。中国は地震のない国だと聞いていたけれど、それは大きな間違いであったようだ。火山はないけれど、いやあるのかな?ヒマラヤ山脈は地殻が収縮して出来たものだから、地球を覆うプレートがぶつかり合う場所でもあるのだから、地震の発生は当然考えられる。

 死者は6万人を超え、7万人になろうとしている。未だに多くの行方不明者がいるから、死者の数はもっと増えるだろう。私は、中国には重慶と三国志で有名な諸葛孔明の成都にしか行ったことがないので、中国全般を論じることはできないが、この2つの都市はとにかく人が多かった。そしてまた、中国は共産党政権ではあっても、自由主義経済の国と全く変わらないことを知った。

 若者たちの服装は日本の若者たちの服装と大差はなかったし、夜の重慶はまるで日本の大都市並みの明るさと華やかさに満ちていた。2つの都市の道路はかなり広いものだった。その広い道路をものすごい数の車が走る。ものすごい数の車が走っているのに、またものすごい数の自転車も走る。信号など無視して、あちらからこちらから人が車や自転車を縫うように渡ってくる。

 これだけ人口が多くては“他人のことを思いやる気持ちを”というのは無理なことだと思った。だから地震で被害にあった人々が、「水がない!」「食料がない!」「援助が来ない!」と怒鳴る姿がテレビに映し出されても、当然だろうなと思っていた。しかし、そんな地震の被害者たちがわずかな食料を持ち寄り分け合ったり、みんなが救助をボランティアでやっていることが報道されると、中国人の人間としてのレベルの高さを改めて思い知らされた。

 日本人も中国人も、四季の自然に恵まれた温帯気候の中で暮らしてきた。農業に適したこの地域で、さらに改良を重ねて生産高をあげ、豊かな生活を作り出してきた。詩歌や物語の文学、絵画や彫刻の美術、生活用品の工芸など、繊細で哲学的な思惟に富んだものが多く生まれた。自然に学び、自然を愛し、自然を恐れた同じ東洋人の優しさを共有できると私は思っている。

 重慶と成都との間で、昔なつかしい農村風景を見た。都市が現代そのものなら農村は昭和一桁の世界と思うほどの落差がある。それに山々に大きな樹木は見当たらなかった。中国がこの災難を乗り越えるには莫大な資金が要る。防衛予算はうなぎのぼりに膨れていき、北京オリンピックそして上海万博と続くから、お金はいくらあっても足りないだろう。

 古い中国は宮殿や神殿の建築、外敵との戦争、運河や道路工事、天災の後始末と、財政が疲弊する度に政権が交代した。また、繰り返すことになるのだろうか。
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中学2年社会科の問題

2008年05月26日 23時49分08秒 | Weblog
 中学2年の孫娘は中間試験が終わって、「もうだめだ!」とうなり声を上げている。中間試験は主要5教科しかないから、彼女の得意範囲のはずである。不得意の理科もまあまあだったが、もっとも不得意の社会が「完璧に悪い!」と言う。まだ、ハッキリしたことはわからないようだが、「平均点は50点を割ると思う」と言うので、「あなたはどうだったの?」と聞くと、「70点台しかない」と応える。

 「どんな問題だったの?」と重ねて聞くと、「パパちゃんだってできない!」とハッキリと言う。社会をもっとも得意とした私としては興味が湧いた。しかし、問題を見せてもらって、これでは平均点が50点を割るという孫娘の見解は正しいと思った。中学2年生の社会は、歴史もあれば地理もあったのに、それさえも知らなかった。なによりもびっくりしたのは、問題がB4で3ページもあり、解答欄が70マスもあることだった。しかもその多くが回答を記号から選ぶのではなく、記述するものなのだ。

 さすがの私も時間がなくて焦った。じっくり考える余裕はなかった。試験の視点としては、なかなかおもしろいと思うものもあった。たとえば、第5代将軍、徳川綱吉の生類憐みの令(1685年)はイギリスの名誉革命(1688年)と、老中の松平定信が行なった寛政の改革(1787年 )はアメリカの独立宣言(1776年)と、ほぼ同時期であるという「見方」だった。ただ、そのように歴史を横で見ることの質問なら、寛政の改革とアメリカ合衆国憲法の制定が同年であったとする方が良いように思う。また、伊能忠敬が測量の旅に出たのは1800年、ナポレオンがフランス皇帝の地位に着くのが1804年なので、同時期といえると思うが、試験問題では「ナポレオンがイタリアの皇帝になる」とあるのが私にはわからない。

 やってみると確かに孫娘が言うように「難しい」。出題した先生も子どもたちの出来を見て、今頃は反省しているのではないかと思う。それにしても、ナポレオンはイタリアでも皇帝の地位に着いたの?誰か知っている人はいないかな。
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嫌な人には近寄らない

2008年05月25日 21時52分39秒 | Weblog
 昨日、広島からはるばる友人が訪ねて来てくれた。約半年ぶりの再会である。友人は昭和2年生まれだけれど、すこぶる元気だ。「お一人での長旅は、不安じゃーなかったですか?」と、つい尋ねてしまったが、そんなことを聞く方が野暮だった。今流行の滑車のついた中型の旅行カバンを引いていた。「荷物は私が持ちましょう」と言うと、ちょっとはにかんで「悪いですね」と言い、「これ5百円で買ったのよ」とも言う。

 81歳になっても彼女は少しも変わらない。彼女はこの町に長く住んでいた。子どもの手がかからなくなってから油絵を描き始めた。初めは写実的な具象画だったけれど、次第に大胆な抽象画へと変わっていった。大胆というのは私の勝手な推測で、彼女にしてみれば繊細で必然な進化だったのかもしれない。物よりも心を描きたかったのだから。

 絵だけでなく、体操や社交ダンス、コーラスもやっていた。文学や演劇、音楽にも造詣が深かった。一緒に演劇鑑賞や音楽会に行くと、たいてい初めから終りまで、いろんな角度から演劇や演奏について、自分の思いや感想を話された。時には私の全く知らない作家や演奏家あるいは作曲家の話が出てきて、私は自分の無知を恥じた。

 そうかと思うと自分の思いや感想に対する私の意見を求められたりして、まるで学生の頃のような新鮮さがあった。そしていつも最後に「あら、いやだわ。私って本当におしゃべりでごめんなさい」とはにかんでおっしゃる。私は、むしろ教えられることが多いし、意見のやり取りがおもしろいかったから楽しみでもあった。

 そんないつも若々しい彼女も一人暮らしだったから、子どもたちが配して、昨年の秋、住み慣れたこの地を去って、娘さんの一人がいる広島の施設へ移っていった。彼女が「ホーム」と呼んでいる施設は、もともとは原爆で孤児となった子どもたちのために建てられたもので、カトリックの信者たちが運営していると話してくれた。「でも、宗教色は全くないの。強制もされないけれど、働いている人たちはとてもキチントしているから、そういう人たちなのでしょうね」と、施設の話を聞かせてくれた。

 「15人の入居者がいるけれど、外出するのは私だけなのよ」と言う。彼女は施設から1時間かけて絵を習いに出かけているばかりか、これも外部にある60人もの大所帯の女性コーラスに参加していると言う。「ホームではあまり突っ込んだ話ができる人がいないの」と言うが、なぜか寂しいというよりもウキウキしているように見える。

 「嫌な人には近寄らないの。だからいつも幸せに、毎日楽しく暮らしています」。これを伝えたくて彼女はわざわざ広島から来てくれたのだろうか。「また、たくさんしゃべっちゃった。ごめんなさいね。おしゃべりしたら、薬が効いたみたいに元気になっちゃったわ」と、またはにかんで言う。好奇心が旺盛で、誰とでもおしゃべりするのかと思えばそうではなくて、自分がしゃべり尽くすことのできる場所を求めていたのではないかと思った。また、いつでも遊びに来てください。
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シートベルト着装違反

2008年05月24日 21時55分56秒 | Weblog
 変な夢を見た。私は車を運転していた。T字路で左折しようとしたけれど、向かうの道幅が狭い。カーブミラーがないから安全を確認するために、そっと前に出たけれど、左右が見えない。車を少し前に出し、シートベルトをはずして身体を乗り出すようにして左右を確認する。大丈夫だ。車のハンドルを左に切り、まっすぐになったところで、シートベルトを探り当て身に着ける。

 その時だ。右側の塀の向こうで、こちらを観察している目があった。次の瞬間、「ピー」という笛の音とともに旗が振られ、警察官が飛び出してきて、停車を命じられる。「シートベルト着装義務違反です」と警察官は言う。私は冷静だったが、「またか!」という気持ちだった。警察官とケンカするほど反体制的ではないが、理不尽はイヤだ。

 「あの、ズーとその陰で見ておられたのですよね。それならお分かりだと思うのですが、あの角を曲がるには身を乗り出さないと安全確認はできないですよ。そのためにシートベルトをはずしましたが、それで違反といわれては、納得できません」。

 若い警察官はお気の毒という顔をしたが、「私たちは規則に基づいて取り締まっていますので」と言う。そこへ上司らしい警察官が来て、「文句は裁判で言ってください」と言う。冗談じゃないよ。この国では自分の行為に釈明も許されないのか。シートベルト着装義務に違反すると言うから、シートベルトをしていたら安全確認ができないと説明しているのに、全く、聞く耳は持たないということなのか。

 「交通事故をなくすことが皆さんの仕事なら、どうして隠れているのですか。隠れてやるのは、取り締まることが目的だからではないのですか。だいたい、シートベルトを着装しないことと交通事故をなくすこととどんな関連があるのです?交通事故をなくすことに重点があるなら、ケイタイを使用しながらの運転の方がはるかに危険でしょう。シートベルトを着装しない人が事故にあった場合、死亡するケースが多いことは知っていますよ。けれど、それは自業自得であって、シートベルトをしないために危険運転をしたわけではないでしょう」。

 なんだか、私はだんだん理屈っぽくなってきていた。警察官はイライラして「我々は法に従って取締りをしている。文句は裁判所で言いなさい」と言う。私は絶句した。そこで目が覚めた。夢だったのか。それにしてもシートベルト着装義務違反で取締りを受けて以来、どうも素直になれない。SEXの夢を見たという人がいるが、ホントうらやましいね。
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便利な社会でいいのかな

2008年05月23日 22時07分34秒 | Weblog
 街中の小売店がなくなっていく。400所帯ほどの中にあったスパーマーケットがなくなった。そういえば、駅前にあって、野菜から魚まで売っていた小売店もなくなった。薬屋も靴屋も洋装店もなくなった。電器屋はまだ残っているが、店に品物は並んでいない。昔からのお得意さんの注文に応じるためにパンフが置いてある。

 「それで、買い物はどうしているの?」と尋ねると、車で大きなスパーマーケットに買出しに行くことが多いそうだ。「だけどね。車がある人はいいけど、車がない人は買出しに行くこともできないのよ」と言う。郊外型の大型店がどんどんできて、街中の小売店がなくなっていくと、車を持たないお年よりは不便な思いをしなくてはならない。

 先日、近くの大型店へ買い物に出かけた。お昼時だったので、ラーメンやうどんやハンバーガーが並ぶ食堂は結構混んでいた。見ると圧倒的にこの近所で働く人たちが多いけれど、お年寄り夫婦も何組かいた。5百円程度で昼食が食べられるからなのか、そんなことを思って見ていた。すると、カミさんはその5百円程度のうどんを二人で分けて食べると言う。「大盛りでも値段は同じだから」と子どもが食べる小鉢を持って来る。

 いくらなんでもそんな夫婦はいないと思ったが、言い出したら聞かないから、これはもう食べるしかない。それにしても、朝は喫茶店でモーニングを食べ、昼はこうした食堂ですませ、できる限り食費を増やさないようにしているのだろうか。わずか5百円程度のうどんを分けて食べる。私は恥ずかしくって仕方なかった。若い時なら怒って、「そんなみっともないことはしない」と言うところだが、「じゃーお金を稼げるの?」と言われそうで、黙ってしまう。

 街中の小売店がなくなっていく代わりに、24時間営業のコンビニストアができて、便利だと言う。確かにどうしても必要となった時、コンビニに行けば何とか買うことができる。コンビニは少々高いと思うが、必要なものなら仕方ない。たとえば電池、卵、糊、などというものでも、明日にまで待てないものもある。私が一番よく利用するのはコピーだ。そしてその次が振り込みかな。郵便局や銀行ではかなり時間をとられるのに、コンビニはすぐできる。

 いろんなことが便利になった。でも、これって本当によい世の中になったのだろうか。高速道路や新幹線ができ、時間は大いに短縮された。時間を金で買うわけだが、利用してみると確かにありがたいと思う。時間を短くすることと手軽に能率よくできることを最大の目的に社会を変えてきた。けれども、限界はないのか。いや、便利さだけで本当にいいのか。満たされた者の勝手な言い分だと指摘されそうだけれど、それでもやはり、これでいい社会なのかと思ってしまう。
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夕食にワインを飲んで

2008年05月22日 23時09分47秒 | Weblog
 どういうわけか、今日のテーマがなかなか決まりません。自分の思いと関心が一致しないからだと思います。今、夕食にワインを飲んで、酔っ払っています。お酒に強い方ではないけれど、いつも一緒に飲む友だちが「強くなった方だ」と言うので、そうなれたのかもしれません。

 若い時は二日酔いやひどい時は三日酔いという時もありました。結婚して、子どもができてからはそんなに深酒をしたことはありません。教員を辞めて、自分で仕事をするようになってからは、お客である相手に飲まれないようにと、お酒を殺して飲んでいました。

 今、自由になり、駆け引きや競争で飲むことはなくなったので、気持ちよくお酒をいただけるようになったと思います。酒宴で一番覚えているのは、義理の弟とから非難された時です。具体的な内容は忘れてしまいましたが、私の妹のダンナである彼は「兄さんは自分勝手なことばかりしている」というようなことを言ったことがありました。

 中学校を卒業して、集団就職で名古屋に来た彼からすれば、大学を卒業して高校の先生になりながら、自分勝手なことばかりして、先生を辞めてしまい、義姉であるカミさんを困らせている私は許されない存在だったのだと思います。また、カミさんの実弟は同じ大学の卒業ですが、彼も口には出さないけれどそうした思いを抱いていることでしょう。

 我ながら情けない人生だったと思っています。彼らからすれば、私は年上の手本となるべき存在ですから、彼らがそうなりたいと思いような存在になっていかなくてはならなかったと思っています。私がそうできなかったのは、世間一般の常識というか、義弟たちが望むような価値観を持てなかったことにあるように思います。

 私がもう少し長生きできれば、私が何をいつも考えていたのか、何を求めて生きてきたのか、口ではうまく言えなくても、文章という魔術で書き残すことはできるのではないかと思っています。そんなわけで、今日はこれでおしまいです。おやすみなさい。
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