友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

ちょっとわがままな孫娘

2013年06月30日 18時28分32秒 | Weblog

 土曜日の午後、7月で4歳になる孫娘を半日ばかり預かった。預かったといっても、大学生になった上の孫娘も一緒だったから、ジジババだけで孫の面倒をみたわけではない。お昼だったから、とりあえず孫娘が好きだと言うスパゲティの店に入った。4歳の孫娘は食べ物についてはとても警戒心が強い。「お腹空いたでしょう!」と言うと、「空いていない」と言う。「お昼はまだ食べてないんでしょう?」と訊ねると、「食べた」と言う。

 まあ、いつものことだ。そこで私はこの孫娘が好きなカルボナーラを注文する。上の孫娘もオムライスを頼んでくれた。お店の人もよくしたもので、孫娘用にプラスチックの器と子供のスプーンとホークを持ってきてくれた。最初にカルボナーラが来たので、孫娘の器に分けてやるのだが、「いらない。食べない」と頑固に拒否する。上の孫娘が、「美味しいから食べなさい」と言うと、「食べない!」と言って泣き出す。「食べなきゃーダメ。遊んであげない」ときつく言われて、シブシブ食べ始めた。

 美味しかったのだろう、私のお皿の半分近くを食べて、「お代わりする」とまで言った。上の孫娘が「じゃー、オムライス食べようか」と誘うけれど、「いらない。こっちがいい」とまた泣き出す。いつの間にか泣きじゃくり戦術をしっかり身につけてしまっている。共働き夫婦で、しかも長女は看護士だから、時間に余裕がないことは分かるけれど、これはちょっと甘やかしすぎではないのか。でも、自分の子どもの時には気が付かなかったことが、孫だから分かったのかも知れない。

 私は子育てでは、怒らない、手を上げない、を守ってきた。だから長女は自由奔放過ぎて、小学校の低学年の担任は苦労したらしい。カミさんは「親の意見が違っていてはいい子が育たない」と私を非難したが、「そんなことはない。子どもだって自分で学んでいく」と反論し、子育てについてはいつも対立していた。4歳の孫娘も長女と同じように自我が強い。わがままだが、保育園の様子を聞けば、友だちとトラブルを起こすことはないようだ。

 女の子は社会性が発達している。我が家にいた間、孫娘はずぅーと一人遊びをしていたけれど、たくさんの名前が出てきて、みんなで仲良く遊んでいる「ゴッコ」をしていた。友だちへの優しさや思いやりも「ゴッコ」に出ている。大きくなるに従って、次第に「わがまま」ではみんなに嫌われることを学ぶだろう。人から愛されるには、人を愛さなければならないことを知るだろう。人のために尽くすことが自分の喜びになることも体験するはずだ。ちょっとわがままな孫娘を見ていてそう思った。

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ディゴの花が咲き始めた

2013年06月29日 20時31分16秒 | Weblog

 ディゴの花が咲き始めた。春先には新しい芽が出てくるのに、今年はいっこうに芽が出てこない。ディゴは亜熱帯の木、冬の寒さで枯れてしまったのかと思った。昨年までよく芽が吹き出していた部分を見ると枯れている。思い切って鋸で切り落として、たっぷりの水を与え、これで芽吹きがなければこの木は諦めよう、そう思っていた。いつだったかハッキリしないが、真夏のような暑さが続いた頃ではなかったか、根元の方に幾つか緑のニキビのような芽が出てきた。それが今ではこんなにも大きくなった。

 沖縄に行った時、そして八重山諸島へ行った時にも、ディゴの花に出会った。いかにも南国の花らしく赤やオレンジが見事だった。我が家のディゴはどこで買ったものなのか、覚えていないけれど、沖縄に行った時に見たディゴの印象が、私に衝動的に買わせたのだと思う。我が家の一番大きな鉢で育ててきたけれど、今、写真を見ると沖縄のものとは違う気がする。我が家のディゴと同じ種類のものは、名古屋の街路樹でも見たし、近くの学校の校庭でも見かけた。つまり、我が家のディゴは路地でも生きられるはず、でも鉢を置いた場所が悪かったのかと思ったが、今年の気候のせいだったようだ。

 沖縄は暖かい。寒さで震えることも、飢えることもないのかも知れない。隣近所のつながりも深いから、人も温かい。のんびりと暮らしてこられたから長寿だったのだろう。清国にも薩摩にも敬意を示し、独立を保ってきた。明治以後、日本の領土とされたために、先の大戦では島民の4人に1人が亡くなる残酷な目に遭っている。本土の人々の防波堤となったばかりか、戦後もアメリカ軍の最前戦基地が置かれている。以前のようにのんびりと暮らせないばかりか、食生活が変わって、長寿ではなくなってしまった。

 人の運命には計り知れないものがある。沖縄で生まれていなかったなら、広島で生まれていなかったなら、そうではなくても、あの時、ああしなかったなら、そんな思いをすることはいくらでもある。けれどもよく考えてみればそれが人生だ。遺伝子検査でガンになる可能性が分かるという。知りたい人には知る権利があると言うけれど、そんな風に知って、治療をすることが果たしていいのかと私は思う。人には人の運命があるはずだ。運命を受け入れることも人の生き方だと思う。

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雨はまだか

2013年06月28日 18時05分20秒 | Weblog

 空はどんよりと曇り、湿った風が吹き抜けているのに、まだ雨が降ってこない。植木鉢を見ると、土が乾いている。今にも雨が降りそうなのに、風はこんなにも湿っぽいのに、雨水はまだだ。このもどかしさはどこかで味わった気がする。私は犬ではないが、餌をもらえる充分な条件が整っているのに、一向にもらえない気分に似ている。そうか、もう少しで欲しいものが得られるのに、その条件は整っているのに、いつの間にか忘れられて、とうとう霧散してしまったその直前の気分だ。

 私の友人は、年金だけでは暮らしていけないからと、銀行が斡旋してくれた投資信託に退職金をつぎ込んだ。その投資先が新興国で、暴動が発生し株価が暴落してきたので、毎日新聞を眺めて思案に暮れている。私は経済がどのように動くのか勉強したことはないが、「需要と供給のバランスで価格が決まる」のは正しいと思っている。しかし、お金があればバランスを一時的に変えることも不可能ではないだろうと思う。世界的にお金がダブついてきていて、投資家はそのため、世界中で株価を上げたり下げたりして、その差額で利益を得ようとしているという。

 新興国のブラジル、中国、インド、トルコでは各地で暴動が起きている。暴動が起きるのは、若い人たちが多い国だそうだ。そういえば、わが国も1960年、70年は若者たちが暴れまわったが、今では若い人たちの方が覚めている。社会の不正や不満に身体ごと立ち向かっていくエネルギーが今の若者にはないのか、それとも私たちよりクリーンな目で先を見ているのかも知れない。経済の仕組みが分かっていても、経済は結果として法則どおりであったとしても、現実社会ではコントロールできない怪物のようだ。

 一人ひとりの思いが違うし、生き方も価値観も違う。欲望を消し去ることは出来ないし、思想を統一することはできない。それが人間で、だからこそ、ここまで発展してきたとも言える。高校時代の友だちが、「緑の党」のチラシを送ってきた。「古希を前にして、若い人たちの政治的挑戦を応援したいと思っています」と添えられてあった。高校生の頃、「俺たちが日本を変える。お前が首相で俺が官房長官」と意気込んでいた。あれから50年以上の年月が流れた。当たり前だけれど政権の座に就くことはなかった。社会は変わったのか、それも定かではない。もどかしい。

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同級生の写真展

2013年06月27日 19時18分40秒 | Weblog

 中学3年の時の同級生から写真展の案内ハガキを貰った。ひとりで出かけるのもつまらないし、そうかと言って、先日みたいにみんなに呼びかける気にもならなかったので、友だちをひとり誘った。彼のケイタイに電話しても、家に電話しても、留守電になってしまう。カミさんと2人だけだから旅行にでも行っているのかと思い、彼が毎日更新しているブログを見ると、三ヶ根山へアジサイを観に行っている。連絡がつかないと諦めていたら、電話があり、駅で待ち合わせて写真展を観て来た。

 ギャラリーは午前10時よりとなっていたが、私たちが着いたのはその前だったのか、人もいないし明かりもついていない。おやおやと思っていたら電灯がついて、ギャラリーのママらしき品格のある女性が出てきて、「どなたかのお知り合いですか?」と声をかけてくれた。「ええ、彼女の中学の同級生です。連絡はしてあります」と話していると、案内をくれた同級生がもうひとりの同級生と一緒に入ってきた。写真展は5人のグループで、女性が3人男性が2人だった。

 男性のひとりは山歩きが好きで、おそらく山が好きだからこそ撮れる材料・構図・角度が工夫されていた。もうひとりの男性は80歳を超えているそうで、どれも自衛隊機を写したものだが、シャッターチャンスを執拗に追った作品だった。女性の3人の中では同級生が一番若いのか、花火ばかりを7枚並べた組写真だが、「これって、どうやって撮ったの?」と思うような凝ったものだった。そのテクニックは「秘密!」と言いながらも教えてくれたけれど、おそらく真似が出来る人はいないだろう。

 中学時代の彼女はソフトボール部で、ポチャッと可愛かったからファンもたくさんいたけれど、彼女がソフトボール部に入ったのは、小学校から好きだった男の子が野球部だったからといった昔話も始めて聞いた。彼女は結婚して、私たちの担任の家の傍に住んでいる。担任も奥さんも亡くなってしまい、先生の子どもたちは東京と名古屋にいて、私たちが遊びに行った家には誰も住んでいないと言う。先生のお通夜に参列した友だちが、「棺の横には先生が担任をしたクラスのアルバムが置いてあった。オレたちのアルバムを見たら、(クラスでトップの女の子)の写真ばかりだった」と言う。

 先生の家ではもう不要なもの、「アルバムを貰ってくればよかったのに」と私。私たちの写真もそのうち不要になるだろうけれど、せっかくだからと記念に1枚、4人で並んで撮ってもらった。

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ボストン美術館

2013年06月26日 19時35分06秒 | Weblog

 5つ年上の友人が、アメリカのボストンへ一人旅してきた。アメリカの大学で研究している娘さんが、「ボストンを見たい」と言う彼のために組んでくれたのだ。1週間ほど滞在したけれど、ホテルではなくコンドミニアム。「自炊生活だったから食事には困らなかった」と言う。ボストンを見たかったのは、アメリカの歴史と文化が凝縮されているから。アメリカへ渡った最初の人々はイギリスの清教徒だった。やがてヨーロッパから様々な思いを描いて人々がやって来た。

 イギリスは植民地アメリカから課税を重くして支配を強めた。これがアメリカの独立戦争へと発展し、ボストンはその拠点となった。イギリス軍がどこから攻めてくるか、見張り台となった楼閣は観光名所となり、友人が行った時も大勢の中高生で賑わっていたと言う。結局、タワーに上ることが出来なかったけれど、そこにいたアメリカ人が申し訳ないと言って、その人の家に案内してくれたそうだ。どこでもアメリカ人は親切で、行きたいところのメモを見せると、手取り足取りというくらい、ゆっくりと丁寧に教えてくれたそうだ。

 ところが、ボストン美術館へ行こうとして、その地下鉄の駅を出たところで中年の男性に、「Boston Museum」を尋ねたところ、「知らない」と言う。老人なら知っているだろうと思ってもうひとりに聞いても「知らない」と言う。ボストンでは「Museum of Fine Arts」と呼ばれている。「Fine」は美しいの意味もあるけれど、立派なとか申し分のないという意味で使っているようだ。なるほどと私は思った。国家が収集したような美術館とは違い、ボストン美術館はアメリカの独立百年を記念して地元の有志が開館させたものだ。ボストンの市民はそれだけに誇りを持っているのだろう。

 独立戦争後、ボストンは貿易港として栄えたので、美術館を創る財力が市民にはあったのだ。先日、ロシアのプーシキン美術館展を観た。最期の1週間だったので、平日でも凄く混んでいた。プーシキン美術館はロシアの貴族やブルジョアのコレクションを革命政府が没収したものだ。ロシアはヨーロッパからは田舎と見られていたし、ロシアの貴族もフランスを最も進んだ国と見ていた。そこで、フランスの絵画を集めた。工業を興して金を儲けた者は「値切りなし」で、新しい絵画を買い集めた。トルストイやドストエフスキーもフランスへの憧れが強くある。

 絵画や音楽は、それを手に入れることで同じ水準にあるように思うのだろう。アメリカのボストンには美術・音楽・大学など、文化施設が集中している。

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寛容と忍耐あるいは愛と誠

2013年06月25日 19時11分26秒 | Weblog

 梅雨の晴れ間。マンションの工事に立会い、その後の会議で1日が潰れてしまった。集会所の改修工事の追加見積書が届けられたけれど、何がどのように追加されているのか、見積書を見ただけでは分からない。勝手に推測するよりは、やはり設計・管理を担当しているコンサルタントから説明をしてもらった方がいい。コンサルタントもなぜ、「追加の見積書です」とだけ言って渡して帰ったのだろう。不親切なのか、気が利かないのか。

 自治会の会長は元行政にいた人だけに、細かいところに目が行くし、「業者はふっかけてきているので値切らなければいい顔される」と厳しい。それも大切なことだとは思うけれど、弱い業者をさらに叩くのもどうかと思う。会長の手法で私が一番気になるのは、形式を整えることに重点を置き過ぎることだ。いいかげんというのはよくないが、形式に走るのも気になってしまう。できるだけ素直に全てを見せて、役員のみんなとあるいは議員に当たる組長の皆さんと、相談しながら進めて欲しいと思う。

 全日本柔道連盟の上村会長は、「改革の目途がついたら会長職を辞する」と言う。不祥事が続き、連盟の体質が問われたのに、そのトップにいる人が改革をするというのは隠蔽をするというのと同じだ。不祥事が発覚した時点で、組織の再建は他の人に委ねるのが潔い態度だろう。そうでなければ、本当の改革など出来ない。自分で自分を裁けるほど人は冷静ではない。アメリカ政府が極秘に情報収集活動をしていると、CIA職員がイギリスの新聞に暴露した。アメリカ政府はこの職員を国家の秘密を漏洩したとして逮捕する意向だが、身の危険を感じた職員は既にアメリカを出国していた。

 国家が個人の情報を収集するのは正当な行為だとアメリカ政府は主張する。おそらくどこの国家も程度の差はあっても同じことをしているだろう。国家転覆に関わりそうな人物と断定されれば、その身辺は容赦なく洗われてしまう。国家とは実に恐ろしい機関である。国家間の対立、あるいは権力を握った側と握ろうとしている側の対立、どこまでいっても人間ほど恐ろしいものはないかも知れない。たかがマンションの小さな世界でもいろんなことが起きる。寛容と忍耐、あるいは愛と誠、溢れることはないのだろうか。

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やっぱりの都議選だった

2013年06月24日 19時05分18秒 | Weblog

 馴染みの書店にいたら、「鈴木さんですよね」と声をかけられた。「いつもブログを読ませていただいています」と。『あまちゃん』風に言えば、「じぇじぇじぇ」である。私が地域新聞を作っていた時の投稿者で、なかなか「いい文」を書く人だった。話していたら、「昨日のブログは富士山でしたね」とか、井戸掘りの話や大和塾の話、映画や本の話など確かに毎日読んでくださっている。「お酒の話もよく出てきますね。『明日は休みます』とあるのもお酒ですか?」と、まるで毎日をともに過ごしている人のようだ。

 思いがけない人から、こんな風に「読んでいます」と言われると、休まずに書かなくちゃーと思う。嬉しい気持ちとつまらないことは書けないぞという緊張感に包まれる。愛している人に、愛していると伝える時も緊張したけれど、何気ない日常の1コマを通して自分を語ることも難しい。手紙を書くことは苦にならないし、文章を書くのは昔から好きだ。「あなたはブログをやらないの?」と尋ねると、「読む方が好きなので」と言われてしまった。顔を知っている人が書いたものは、いろいろと想像が具体的になって面白いのになあと思う。

 昨日は東京都議員選挙。NHKテレビを見ていたら、投票が終了する午後8時に、「自民が第1党に」とテロップが流れた。もうテレビを見る気がしなかった。今朝の新聞を見ると、自民・公明は全員当選とある。やはりそうかと思った。民主党は余りにも投票者の気持ちを裏切った。自民党と違う政治を期待したのに、「消費税を上げる」なら自民党と変わらない。党首は次々と変わり、信用は失墜した。「ぶれない」ことを旗印とした共産党とみんなの党が議席を伸ばした。でも、ぶれなければいいのか、そんなことで有権者は納得するのか、私は疑問だ。

 反自民の少数政党は議席を確保できなった。投票率が43%ではどうしようもない。自民党政権への反発から民主党政権に期待し、裏切られ、投票意欲を失ってしまったのだ。公明党の山口代表が言うように、「この流れは参議選でも続く」だろう。反自民の少数政党が、何を訴えて選挙をするのか、大きな分かれ道になると思う。自民党のどこがいけないのか、その点をはっきりさせられない政党は、結局は自民党と変わらなくなる。世界中が大きな政治的な転換期にある。新しい道をどう示すか、この1点にかかっている。

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富士山と沖縄

2013年06月23日 18時17分42秒 | Weblog

 富士山が世界文化遺産に登録された。富士山を初めて見たのは中学校の修学旅行だった。雄大で美しかった。それで、誰でも富士山を見れば感動すると思い込んでいた。新婚旅行は富士五湖巡りの2日間で、旅行社にそう話すと、「1日で回れるのにもったいない」と言われた。私としては自分が感動した富士山をゆったり堪能して欲しかった。それで、子どもが生まれてからも夏休みは富士山巡りだった。富士山麓のホテルか旅館に泊まった。忍野八海の民宿に宿泊したこともある。

 カミさんも子どもたちも、当然、私と同じように身近に見える富士山に感動していると思っていた。ところが、長女が「ねえ、どうして富士山ばっかりなの?」と言う。それで私の勝手な思い込みだったと気付いた。いつか、富士山の裾野で暮らしたいとの思いもいつの間にか消えた。昭和5年生まれの姉が「富士山へ行きたい」と言うので、車で冨士スバルラインを登ったけれど、余りにも近すぎて大き過ぎた。やはり富士山は少し離れて見た方がいい。三保の松原から見る表冨士もいいが、太宰治が泊まった御坂峠の天下茶屋から見る富士もいい。

 太宰の故郷、津軽半島からは南に岩木山がぽつんと見える。岩木山は富士山ほど高くはないが形状はよく似ている。子どもの頃、岩木山を見ていた太宰は富士山を見て、岩木山を思い出していたのかも知れない。日本には冨士と名の付く山がたくさんある。私の知り合いは、全国の冨士と名の付く山に登る計画を立て、北の利尻富士から登り始めたが、全てを登り尽くしたのだろうか。富士山に私も登ってみたいと思っていたけれど、御来光を拝むために行列となって登っていくのをテレビで見て止めた。姉を連れて行った時もそう思ったけれど、富士山はまるで都会の一角のような賑わいになっている。

 今日は沖縄慰霊の日。追悼式で安倍首相は沖縄の負担軽減を誓ったけれど、具体的な言葉は何ひとつ無かった。安倍さんの前に、小学校1年の男の子が「へいわっていいね」という詩を読んだが、この時は自然に涙が流れた。私が沖縄へ行ったのは議員になっての「視察」が始めてで、その時以来行ったことがない。沖縄の海は美しい。けれど、アメリカ軍の凄まじい砲撃や集団自決を思うと、胸が痛くて「観光」が重くなる。富士山に感動したように、沖縄の海や花や遺産にためらうこともなく感動したい。そういう日が来ることを願う。

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市民協働とは何か

2013年06月22日 19時10分47秒 | Weblog

 「市民が2人以上集まって何かをすれば、協働になるのですか?」と、会場から質問が飛んだ。コメンテーターの岩崎恭典・四日市大学教授は、「ええ、それでよいと思います。そしてその輪が広がり、地域の役に立つようになればもっとよいでしょう」と言う。今日の市民協働フォーラムでの1場面だ。質問者は早朝の広場に集まってラジオ体操を行なっている、レクリエーション協会、太鼓クラブ、演劇クラブなど、実に多様な市民活動を行なっている。

 質問者が聞きたかったことは、市民協働を行なっている団体に対して、市が補助金などの支援をしているが、その基準は何か、ということにあったようだ。補助金を受けられた団体とカットされた団体や申請できなかった団体で、この辺りの受け止め方が違っているようだ。市民協働について市の担当者が、「協働には2つある。1つはみんなでやる。もう1つは市役所が市民にお願いしてやっていただく。市の方からやっていただこうとすると、市民は市にやらされていると受け止めるので、NPOやボランティアをつくり、その人たちが市民に呼びかけるのがいいと思う」とまとめた。

 しかし、そもそも協働とは何だろう。今日の岩崎先生は随分力が入っていた。私たち無党派・市民派の議員の勉強会で話していただいた時よりも、明確で力強かった。市民自治が将来を決めると確信していた。岩崎先生の基調講演は、人口問題から始まった。2005年をピークに日本の人口は減少している。1995年に生産年齢人口はピークを迎え、以降、税収は減少となった。つまり右肩上がり型の行政では行き詰まることが明白になった。行政の施策の中で維持するものとしないものを選択する必要が生まれてきた。市民主権による新たなまちづくりの時代に入ったというのである。

 行政が担わなければならないのはセーフティーネットだと岩崎先生は言う。それ以外の部分、地域住民の自己決定権を拡充し、「地域のことは地域に任せる」仕組みが必要で、協働はその新しい仕組みへと向かう道と考えているようだ。しかしまだ、行政にも市民にも「協働」はよく理解されていない。とりあえずは市民が立ち上げた団体に行政は物心両面で支援して欲しいと思うけれど、お金は無いわけだからまず行政が持っている施設や用具を提供して欲しい。真摯に相談にのってくれることもお願いしたい。

 ボチボチやっていくことが大事だろう。その過程で出てくる問題に、行政は市民の側に身を置いて、解決に協力して欲しいと思う。

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夏至

2013年06月21日 17時09分19秒 | Weblog

 今日は夏至。昼間が最も長く、したがって夜間は最も短い。私の部屋の西側はルーフバルコニーになっていて、夏は西日が差し込むので午後はとても暑い。しかし、午前中は逆に建物の陰なので涼しく快適な時間である。日の出は見えないが、日の入りは年中見られる。冬至の頃には養老山脈の南に沈んでいた太陽が、今日当たりは伊吹山の北側に沈んでいくはずだが、雨が降っていて山の稜線も見えない。

  冬至はカボチャを食べるとか、柚子風呂に入るとか、そんな風習があるけれど、夏至の習わしは何なのだろう。北欧では夏至を祝う祭りがあったように思う。北国ではこれから始まる本格的な夏は、命を育む喜びに満ちているから祭りになるのだろう。ヨーロッパの人々が夏の海岸でヌードになるのも、太陽をいっぱい浴びたい気持ちの表れなのだろう。確かに冬よりも夏は、人々を開放的な気分にさせてくれる。

 だったら、人類は全て、暖かな所に住めばいいのにと思うけれど、アフリカで生まれながらどんどん北へと移動したようだ。ヨーロッパの人々が力を持ち始めた時も、十字軍やその後の大航海時代も、住んでいたヨーロッパを捨てて移住した訳ではない。香辛料や絹や金銀を求めたけれど、冬は厳しい地に留まった。人間は不思議だなあーと思う。温暖な地が必ずしも生活の地とは思わないのはどういう遺伝子なのだろう。

 スペイン・ポルトガルがアメリカ大陸へ侵略した時、スペイン王室はコンキスタドール(征服者)に次のような「催告」をするように命じた。「あなた方がこれを行なわないなら、神の加護のもと、わたしはあなた方に権力を振るい、四方八方からあらゆる手段をもって攻撃し、教会と国王に服従させる。また、あなた方の妻子を連れ去って奴隷にし、あなた方の所有物を奪い、なし得る限りの危害を加える。結果としてもたらされる死や損害はすべてあなた方のせいであり、国王およびわたしたちの責任ではない」。

 この宣告を上陸する船の上で、あるいは上陸した地で行なった。しかもスペイン語あるいはラテン語で行なわれたというから、たとえ先住民が聞いたとしても何も分からなかった筈だ。アメリカ軍がアフガンやイラクで行なっていることと、少しも変わらないと思うのは私だけだろうか。妻子を奪い奴隷にすることはなくても、自分たちの勝手な価値観で、「神からの使命」のように振舞うのは全く同じだ。

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