友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

県会議員選挙が始まる

2007年03月30日 23時24分42秒 | Weblog
 明日で3月も終わりである。
 戸外に出てみると確かに景色は変っている。川の堤防はいつの間にか緑に包まれている。垣根の樹木も若芽が吹き出し、柔らかな緑に変っている。桜の花はまだ疎らだけれど、暖かな日が続けばすぐにでも満開になりそうだ。明日の夜は夜桜を愛でる宴会が予定されているが、お天気はどんなものかと心配である。朝6時には場所取りに出かけ、「午後5時まではご自由にお使いください」の張り紙をする。シートのない人に利用してもらうためである。

 今日は県会議員と政令指定都市の市会議員の選挙の告示日である。しかし、一般市議や町議の選挙と違ってとても静かだ。それに街宣車はできるだけたくさん回りたいと思うのか、どの車もかなりのスピードで走っていて、何を言っているのか聞き取りにくい。今日の段階では街頭演説をしていた候補者には出会わなかった。夕方のテレビニュースで、告示されたこの選挙を報じていたが、県会議員選挙ではかなりの無投票当選がある。本当にこの人以外に適任者がいないのか?疑問だ。

 県会議員選挙となるとかなり地域が広い、たとえ地域が狭い場合でも得票が1万とか2万とかなければ当選できない。私は既成政党ではダメだと思っていたので、無党派市民派を掲げて選挙をしてきたが、1万票以上獲得しなければならない大きな選挙となるとかなり難しいと感じた。長野県や宮崎県、滋賀県の知事選挙では無党派候補が勝利したが、それは特殊な状況にあったからだ。しかも今日のように2大政党化が進みつつある中では否応なしに政党の影響から逃れられない。2大政党などというけれども、民主党の小沢一郎さんのポスターを見ると、どうしても自民党の亜流としか私には見えない。

 安部総理は新保守主義路線をますます突き進むだろう。そのためには教育を支配するのが一番とばかりに教育基本法を改正し、教育の中身にまで踏み込む気配だ。私たち有権者がこれからの日本の将来、そんなに先のことではなくて、半年とか1年とか先の政治の仕組みをどうしていくか、決めなくてはならない。投票はその大事な意思表示である。投票が最初で最後であってはならない。とはいえ、じゃーどこで有権者の声は反映されるのかとなると現実的にはそういう仕組みはないあーというのも実感である。
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親が子に、大人が子どもに、伝えること

2007年03月29日 23時06分31秒 | Weblog
 先日のお昼は孫娘と私の二人きりだった。
 孫娘は私のパソコンを使ってなにやら調べていたが、そのうちにテレビドラマ『花より男子』に行き着き、ジッと食い入るように見ている。たまのことであるし今日は見せてやろうかと思い、一人で昼食の準備をする。正午になり、準備はできたのにいっこうに来る気配がない。彼女がどう言うか、見てみようと思い、声をかけずに黙って待った。待つこと45分、NHKのテレビドラマ『芋たこなんきん』が始まった。そこで彼女の耳まで聞こえるようにボリュームを上げてみた。

 「ごめんなさい。遅くなりました」と素直に謝ってきた。「もう、プンプン何だからね。罰を受けてもらいますよ」と私は怒って言った。何しろ一人っきりの孫なので、ジジババから怒られたことがないのだ。ここはしっかり怒らないと、人の痛みがわからない子になってしまっては困る。人はお互いに助け合って生きている。自分一人では何もできない。私は食事の用意はできるけれど、食材も食器も人が作ってくれたものだ。みんなで生きていくためには人のことを気にかけないといけない。そのことを4月からは中学生となる孫にもわからせる必要がある。

 「私はご飯を用意しましたが、あなたは何もしていません。ですから罰として、食べ終わったら、お茶碗を洗うか洗濯物を干すか、どちらかを選んでやりなさい」言う。孫は「ごめんなさい。私はお茶碗を洗う」と言い。二つともやらせた方がいいようにも思ったが、自分が悪かったと気付かせることの方が大切だと考えた。それでも結果としては、困難な方を選択してくれたので、この子の感性に間違いはなかったと思いホッとした。

 今日、大和塾の代表の山田さんからこんな話を聞いた。山田さんが奥さんと二人で電車に乗った時、いくつ目かの駅で幼い子どもを連れたお母さんが乗ってきた。山田さんの奥さんが席を譲ると遠慮してみえたが、子どもに「ありがとうといいなさい」と言ってお母さんは子どもを席に着かせた。降りる駅は一緒だった。先に降りたその家族は、山田さんたちが降りてくるのを待っていた。子どもは直立不動でしっかり前を向き、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。病院の検査を受けに行く途中であったが、とても清々しい気持ちにさせてもらったと山田さんは言う。

 人はいつも、一言で傷ついたり、一言で嬉しくなる。それは人が人とつながっているからだ。人のことを気遣うことのできる人間になってもらいたい。孫娘にそれを伝えていかなくてはならない。
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公務員の再就職

2007年03月28日 19時31分01秒 | Weblog
 公務員制度の改革に乗り出すという。
 落ち目の安部内閣が7月の参議院選挙を有利に戦うための目玉だそうだ。そういえば、担当は目玉がギョロッとしている渡辺喜美公務員制度担当相である。どんな内容かというと、これがさっぱりわからない。「新人材バンク」を立ち上げ「3年以内に一元化する」「実現できるところから進める」という。一体コレは何?「天下りによる官民癒着を背景とした事件は絶えない」(3月28日付け朝日新聞)のに、制度改革の中身は全くわからないのはどういうことなのだろう。
 
 私は、公務員も議員も「公僕」だと思っている。人々に代わって仕事をする人である。だから公務員も議員も清廉でなくてならないし、もっと言えば、清貧であることに甘んじられる人が勤めなくてはならないと思う。公務員が退職したなら、明日から食べていけないというのでは困るけれど、現在の公務員はむしろ恵まれすぎているくらいだ。確かに国家公務員の人々、中でも国家の中枢で働いている人々はその働きからすれば収入は少ないかもしれない。しかし、むしろ働き甲斐に意気を感じているはずだ。馬鹿馬鹿しいという気持ちになるのは、勉強もしないアホ議員が威張って指図するからだ。

 国家公務員も地方公務員も優秀な人は一杯いる。しかし、イヤな奴もいる。それはどこの職場でも同じだ。国家公務員も地方公務員も同じことで、高い地位にあればそれだけ人脈ができ、影響力も当然生まれる。この人に頼めば、あるいはこの人に頼まれれば、言うことを聞くのが日本の社会だ。公務員や議員はとかく自分に「力」があるような錯覚に陥りやすい。公務員や議員でありながら、業界のあるいは町の有力者と宴席やゴルフでお付き合いをすることに、ホコリすら感じている人までいる。

 私は、全ての公務員と議員は清貧に甘んじる人柄でなくてはならないと思っている。「公務員で課長職以上の地位にあった者は再就職してはならない」と決めるべきだろう。それで誰が一体困るというのか。
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病院に行ってきました

2007年03月27日 22時37分43秒 | Weblog
 病院に行ってきました。
 あまり体調を気にする方ではないのですが、何日か前から胸がムカムカするというか、両脇の付け根の辺りが締め付けられるというか、いやな咳がでて、そうすると心臓が煽られるような変な状態が続いていたので、思い切って病院に行ってきました。

 この病院に始めて行ったのは、人間ドッグが半額で受けられるというキャンペーンの時でした。意地汚い根性で受けた報いだったのか、結果を聞きに行くと、いきなり「こんな数値では大変でしょう」と言われてしまいました。見せていただいた数値は明らかに異常でした。普通の人の何倍だったか何十倍だったか、今は覚えていませんが、エッーという数字でした。

 でもこれまで、毎年健康診断を受けてきてもそんな数値は一度もありません。どうにも納得いかなくて、昨年までの健康診断の結果と見比べてみました。いくらなんでもこんなに急に数値が変わるものだろうか、悪くなるとすれば徐々になるのではないのかと思いました。そこでこれまでの健康診断票を持って病院に出かけ、「こんなに急に悪くなるものですか」と尋ねてみました。これには先生も驚かれた様子で、事務方に私の検査結果を問いただしてみえました。しばらくして、「申し訳ありません。データーの打ち込みミスでした」と謝られました。病院でもこういうミスがあるんだとその時思いました。先生が気付いてくれなければ私は重病人にされてしまうところでした。

 そんなことがあったので、ちょっと不安でしたが、診察の結果は「まあ、しばらく様子を見ましょう」というものでした。レントゲンも心電図も行ってくださいましたので、そう信じることに致しました。この言い方は少し間違っています。あくまでも診断を下すのは先生で、私はただの患者ですから、素直に先生の指示に従わなくてはなりません。でも先生、「昨日のレントゲンと心電図は間違っていた。あなたの心臓はあまり長く持ちませんよ。ご家族の方と一緒にお越しください」などと言わないでくださいね。心臓に悪いですから。
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「勝ち組」と「負け組」

2007年03月26日 19時55分11秒 | Weblog
 世界フェギア大会で安藤美姫選手が優勝した。
 絶対的に優勢だったはずの韓国のキム・ユナ選手がミスを犯した時点で、安藤選手は優勝へ一歩近づいた。浅田真央選手はショートでのミスがなければ必ず優勝していたはずだ。大会前の専門家ではない巷の人々のウワサでは、優勝は浅田、2位がキム、安藤は3位になれるかどうか、というものだった。我が家の娘たちは「ミキテイの時代は終わったのよ」などと淋しいことを言う。そんなことはない。少なくとも中高年の男性ファンは安藤選手のあの大きなお尻が好きだ。あの「助けて」と言っているような顔を見たら絶対に優勝はこの子にと思うはずだ。

 優勝候補がミスで沈んだ。安藤選手にチャンスが巡ってきた。4回転はしなくてもいい。無難にキチンとこなせば優勝できるかもしれない、などと消極的なことを考えた。もし、安藤選手が私と同じように消極的な思考に陥っていたなら、きっと優勝は無理だったと思う。取り返すことのできない一発勝負の世界では積極性に欠けたら負けだろう。安藤選手は私などよりはるかにスケールが大きかった。

 優勝するためにどんなに努力をしたのか、テレビで見るだけの側ではわからない。友人が「やりたいことがあったら努力しなさい。努力もせずにあきらめたら、それは自分が負け組であることを認めることよ」と、子どもに話したと言う。「やりたいことがやれれば勝ち組で、やれない人は負け組」というのである。私はどうしてもこの勝ち組とか負け組という言葉が好きになれない。創価学会の新聞にも「人生は戦いである。戦いには勝利しなくてはならない」とあった。この新聞には「勝利」という言葉がよく出てくる。

 本当に人生は戦いなのか。やりたいことができなければ「負け組」の人生なのか。もっと言えば、なぜ負けてはいけないのだろう、「負け組」ではどうしてダメなのだろう。確かに世の中には自分の目標をしっかり持って生きている人がいる。希望を成就した人もいる。事業に成功してお金持ちになった人もいる。「勝ち組」になった人たちは、「負け組」の人などが想像もつかない努力を払ったに違いない。だから「勝ち組」の人に敬意を払うし、非難する気は全くない。

 喫茶店でお年寄りの女性が7人、おしゃべりをしていた。嫁のことや孫のことや誰それがどうしたとか。そのうち健康のことが話題になり、あの人は病院に入っているがもうだめみたいだとか、話は尽きなかった。そんな中で「長生きしても健康でなければね」「平均寿命と健康寿命は違うんだから」などと話していた時、一人が「健康で長生きが一番」と言うと「そんでポックリ逝くのが一番」と付け加える人がいて、みんなどっと笑った。この人たちは、「勝ち組」「負け組」をどう考えているのだろう。最後に笑って死ねたならばそれは「勝ち組」という判定なら、ぜひそんな最期であって欲しいと思う。
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次女夫婦タイへ戻る

2007年03月25日 22時00分14秒 | Weblog
 15日に帰国した次女夫婦がタイに戻っていった。
 二人の日本での10日間は毎日がとても忙しいものだった。それでも会いたかった人に全て会えたわけではないと言う。そんなに気張らなくてもまた、今度でもいいじゃーないか。姪っ子の卒業式にも参列し、お世話になった先生方とも再会をして、目一杯に動き回り、帰って行った。ご苦労様でした。

 朝、みんなで二人を空港まで送り、帰って来て、文勤会館での『カルメン』を観た。オペラ『カルメン』のできそのものはさておき、私はむしろ男と女の愛について再び考えた。再びというのは名演での『オセロ』を思い出したからだ。オセロは愛するがゆえに女が不貞をしていると思い込まされて殺してしまう。ホセもまた愛するがゆえに自由に生きようとする女カルメンを殺してしまう。カルメンは確かに自由を求めた。しかし浅はかな女であった。カルメンは若く美しく妖艶な時はそれでもよかったであろうが、しかし、人はいつか老いる。ホセは愛だけでなく、老いた後の生活つまりは現実的な生活を考えていたはずだ。ところが美しいことにのぼせてしまっているカルメンは先が見えない。いや、カルメンにとっては先のことなどはどうでも良いことなのだ。今この時に自分を愛してくれない男は何の価値もない。愛だけに生きることは同時に何ものからも束縛されない自由でもあるのだ。

 舞台は演出の効果もあって面白かったが、オセロといいホセといい、そしてカルメンといい、私の友人や私自身も、愛することと生きていくことと、どのように整理していくのかと考えさせられた。そんなことを思いながら最終日となってしまった二科展を見るために県美術館へと急いだ。時間が午後4時を過ぎていたので、作者である画家や彫刻家や写真家などが会場に詰めていた。何人かの知り合いに合うことができたし、作品について解説している場面にも出会った。二科展に出品している私の知り合いの女性は80歳になるが、折りしも彼女の作品について高く評価しているのを聞いて、他人事なのに嬉しくなった。

 家に戻ると次女から「無事にタイに着きました。いま、家に帰るところです。お世話になりました。また連絡します」とルス電が入っていた。
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第2回シクラメンの会

2007年03月24日 22時32分48秒 | Weblog
 今晩は、「シクラメンの会」の第2回目の集まりがありました。「シクラメンの会」というのは、3年前に還暦を迎え第2の成人式を行った昭和19年生まれの人たちの同窓会です。この街で生まれ育った人たちはもちろん小学校や中学校の同窓会があります。小さな街ですから、学年で2クラスだったそうです。ですから結束力も強く、同窓会も頻繁に行ってきたと聞きました。その人たちが中心になって、この街以外の同じ歳にも呼びかけて、第2の成人式をやろうというので、私のようなヨソ者たちにも声をかけていただいたというわけです。

 初めは戸惑いもありました。この街の人たちは「ゲンちゃ」とか「アオ」とか「勝ちゃん」とか親しげに呼び合いますが、ヨソから来た人間にはそのように親しく呼ぶ合う人がいません。それでも女の人は子どもを通して、あるいは地域の活動を通して知り合いをつくっていくので、何人かの知り合いができています。男も定年退職して、地域の活動に入っていった人はやはり友だちもできている様子でした。私は幸いなことに、この地域でミニコミ新聞を作ってきたので、たくさんの知り合いができました。同じ歳とは知らずにいた人もいますが、この集いに参加し、同じ歳であることを知りより親しく感じています。

 閉会の挨拶をした人が「健康で長生きし、また来年もこうした楽しい会ができますようにと挨拶するような歳になってしまいました」と話されましたが、誠にそのとおりだと思いました。最後の締めをせよと私にご指名をいただきましたので、「シクラメンの会」がいつまでも長く続くことと皆さんのご健勝を祈念して一本締めをさせていただきました。ありがとうございました。
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議員の政務調査費は廃止せよ

2007年03月23日 23時54分37秒 | Weblog
 名古屋地裁は昨日、自民党名古屋市議団の政務調査費をめぐる訴訟で、「適正に支出されたかどうかの疑いが残る政務調査費は不当利益に当たる」とする判決を下した。至極当然の判決だが、市議団側は判決を不服として控訴するという。

 政務調査費は、議員が調査活動する目的のために各自治体が支給するもの。しかし、会派に所属する議員の人数分で支給されるので、議会によっては一人会派は会派として認めないため支給しないところもある。議員であれば全ての人が調査活動をしているはずなのに、このような差別をしている数の暴力を民主主義だという連中がわんさといるのだ。

 私が町議会議員だった時に受け取っていた政務調査費は年間で5万円であった。一泊二日で先進自治体への調査を年2回行うのが精一杯だった。もちろんもっと近場にして3回から4回行うこともできる。調査活動は必ずしも遠くに行く必要はない。本当に見聞きしたいところへ出かければよいのだから。ところが、名古屋市議の政務調査費は年間で660万円である。議員報酬を1,674万円も受け取っていながらこの数値には驚く。議員報酬で1,674万円ももらって一体何に遣うのか、私には想像もつかない。議員報酬は生活できる範囲でよいと考えるのはおかしいのだろうか。

 名古屋市議が受け取る年間660万円の政務調査費は非公開である。議員報酬は多すぎるが、生活費でもあるので、その中身まではとやかく言わないでおこう。しかし私は、高すぎる議員報酬は議員の特権化を生むので反対だ。さて、政務調査費にもどすが、年間660万円は普通のサラリーマンの収入よりも多い金額である。いくらなんでもこんなにたくさんもらっておいて、何に遣ったのか公開しなくても良いと決めた感覚がおかしい。

 もっと言えば、660万円の政務調査費はどうやったら遣えるか私にはわからない。普通のサラリーマンの年収よりも多い金額である。一体何にどのように遣ったらその金額になるというのだろう。私の知っているの名古屋市議は遣いこなせないので返還したいのに、政務調査費が会派に支給されているために返還もできないでいる。こんな馬鹿気ことがまかり通っていることをおかしいと思わない人の方がはるかに不思議だ。

 政務調査費は廃止すべきだ。議員報酬はそもそも議員としての活動を保障するものだ。生活費とともに議員としての活動費も当然含まれると考えるべきであろう。名古屋市議には1,674万円、愛知県議には1,626万円の議員報酬が支払われている。こんなにも高額な報酬が支払われているのに、さらに非公開の政務調査費が支払われていることがおかしいのだ。議員を甘やかしてきたのは、チェックを受ける側にある行政である。このもたれ合い構造を許してきたのは有権者だ。文句を言うならこんな議員や首長は全て辞めさせなければならない。
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韓国映画「八月のクリスマス」

2007年03月23日 00時00分01秒 | Weblog
 韓国映画『八月のクリスマス』をやっと観た。
 何しろ我が家にはDVDを見られるプレイヤーがない。たまたま孫娘が借りてきてくれたので、観ることができた。「『八月のクリスマス』はいいよ」と言って、DVDを持ってきてくれたのは中学高校と一緒だった友だちだ。映画を観て、彼が心惹かれたのがよくわかった。叶わない恋が淡々と描かれていた。私の友だちは叶わない恋をいつもそしていつまでも追い求めた。彼のことを少しばかり知っている私から見ると、彼は「恋」を恋するが故に、決して現実的なものであって欲しくないのだ。彼にとって、恋は崇高なものであり理想そのものである。恋は決して成就しない。まして恋は肉欲であってはならない。

 愛の形はやはり人様々だと思う。友だちの「恋」は、彼の希望なのだろう。崇高で理想そのものである「恋」は、成就しないものだ。そっと、手を触れる程度、それ以上に進むことはない。だからいつまでも淡い恋だ。美しい恋だ。決して傷つくことはない、いがみ合うことはない、肉体を求め合うことはない。彼は相手を傷つけることを恐れていた。でも、一番恐れていたのは、自分が傷つくことではなかったのかと私は思っている。彼が決して深入りしなかったのは、愛する人のことが忘れられなかっただけでなく、深入りすることで負う傷の深さを恐れたのだ。いや、初恋の人に対しても彼女の方が受け入れる気でいたのに、一歩踏み出せなかったのは彼の特有な「愛の形」にあった。
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普通ではなかったの?

2007年03月21日 18時36分58秒 | Weblog
 昨夜、孫娘の父親が撮った卒業式のビデオを見た。
 もっと感慨深いものかと思ったが意外にそうではなかった。実際に見ていないせいなのだろうが、娘や孫から卒業式の様子を聞いた時には涙が止め処もなく流れたのに、ビデオを見ていても泣けなかった。途中からお茶でも飲もうかと思って、席を立った。カミさんが「ウロウロして何をしているの」と詰問する。長女が「多動症だね」と畳み掛ける。

 その時、ふっと気が付いた。私は全く普通の平均的な人間だとズーッと思ってきたけれど、本当は普通ではなかったのかも知れないと。私は小さい時は無口でおとなしいだけの子どもだと自分では信じていたけれど、落ち着きに欠ける子どもだったのかも知れない。私は自分では人の意見に耳を傾ける方だと思ってきたが、人の意見を素直に聞き入れることができない人間だったのかも知れない。私は早くから、いろんなことを決め付けていたけれども、それは自分を正当化するための手段ではなかったかと思う。

 私は小学校の4年生くらいの時、この世の中の貧富の差をなくすためには政治家になろうと思った。祖母の葬儀がきっかけで、日本の習慣や風俗に染まらないためには日本人の小説は読まないようにしようと決めた。民主主義の国の人々が何を大切にしているのかを知ろうとした。中学で数学を勉強して、答えのあるものをなぜ学ぶのかと思った。数学や物理は自分の性に合わない、合わないものに努力する必要はないと考えた。好きな科目は勉強したが、あとはそこそこで良いと決めていた。

 今思えば、なんと物の考え方が偏っていたかとよくわかる。狭い自分の考えに陥っていたことか、恥ずかしい限りだが当時は頑固にそう思っていた。高校生になって、数学が論理学だと気が付いたが、もうその時は遅かった。受験勉強の数学に立ち向かえる力量の備蓄はなかった。勉強の方法は全て丸暗記だ。思考で論理立てて勉強することができればもっと楽しくやる気にもなったかも知れない。英語もなぜこういう組み立てになっているのか、考えもせずに暗記していた。社会人になって、英語の発音は例外はあるが、つづりのとおりなのだと気が付いた。

 50代になって、60代から韓国語を独学で勉強している人が「人間って不思議ですよね。物にはみんな言葉がありますし、キレイとか暗いとか形容詞を持っていますものね」と話され、目からウロコが落ちた。そうか言葉は伝えたいためにあるのだから、そう考えれば言葉を学ぶことは楽しい。教育テレビの深夜番組で遺伝子についてやっていて、遺伝子や染色体はそのように研究されてきたのかと思いながら見た。今さら過ぎ去った時間を取り戻そうという気持ちはないし、またできるものでもない。学ぶことはちょっと楽しいなと思えてきた。
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