友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

次女の奮闘

2009年07月26日 18時16分11秒 | Weblog
 一昨日の夜は疲れてしまったのか、ブログを完成できたと思ったら、日付は土曜日に変わっていた。それで、昨日のことになってしまうけれど、2番目の孫娘が長女とともに退院してきたお祝いを長女らの家で行うことになった。次女がバンコクから23日に帰国し、かいがいしくそしてまた騒々しく姉と姪っ子のために働いてくれている。この日も朝から姉の家へ出かけ、姉のダンナと共にお祝いの準備をしていた。

 長女はベッドからほとんど動けない状態なので、誰かが側にいなくてはならない。赤ちゃんの世話はさすがに専門だから、たとえ動けない身体であっても授乳やオムツの交換などはできる。赤ちゃんは今のところおとなしく余り泣かないのでよいけれど、長女の回復が先か赤ちゃんの成長が早いか微妙なところだろう。猫が3匹もいて、水槽には亀も1匹、そして欲しいというので残してきたランタナの鉢がいくつかある。これらみんなに気を配ってやらなくてはならない。

 だから、長女のダンナはかなりお疲れ気味だ。長女が入院して以来、ずっと病院で付き添ってきた。長女のことも赤ちゃんも家も仕事も、全てを自分で背負い込まなくてはならない。それはまた、夢に見た家庭とは違うと思うかも知れないが、実は同じものだ。夢のような家庭などは存在しない。人と人とが暮らしているのだから当然のことだが、感情の食い違いが時には生まれる。それでも時々は夢のような家庭が生まれる時もあるから、そんな時間をいかに引き延ばすか、あるいは何度も作り出すか、いずれにしてもその手段は、相手に求めるよりも自分が努力した方が確実で手っ取り早いのだ。

 長女のダンナは長女に出会い、この人ならば夢の家庭を作ることができるとひらめいたそうだ。恋する時はそういう第6感が働くものだ。愛と怒りの世界こそが恋愛というものだろう。彼は長く続いた看護と介護の中で、いやこれからもまだしばらくは続く超過密な現実という生活の中で、何かを得ていくだろう。日に日に大きくなっていく赤ちゃんの動作のひとつ一つが可愛くて、いやなことの全てを忘れさせてくれるのかもしれない。長女の「ありがとうね」の一言が、その時の笑顔が、癒しになるのかも知れない。

 ダンナの父親と彼の姉夫婦がお祝いに来てくれた。彼の義兄はトランペットの演奏に長じているようで、父親は息子とその妻である長女と、娘夫婦と、要するに身内に近い人たちで「バンドが組みたい」と言う。それこそが素晴らしい「夢の家族」ではないだろうか。音楽好きなダンナの家族が集まって、ジャズでもニューミュージックでも、みんなで合奏を楽しめるなんて、夢のまた夢のような話だけれど、この家族ならそれはすぐにでも実現しそうな気がする。

 バンコクからひとりで帰国した次女は、姉の家での手伝いと共に、孫娘が一人で頑張り守っている我が家の隣の部屋もきれいにしようと奮闘している。次女は幼い時から家事が好きな子で、特に掃除は念入りに行い、ピカピカにしないと気がすまない性質だ。先ほど見てきたら見違えるほどきれいな部屋になっていた。長女が新年に貼った今年の目標『勉強ができる環境の整備!』がようやく実現できる運びとなった。
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