友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

誰が考えても当たり前のこと

2009年01月31日 22時08分25秒 | Weblog
 定額給付金を含む第2次補正予算案が、衆議院で再可決された。これで直ちに給付となるかと言うとそうではない。関連法案が成立しなければならないし、仮に法律に基づいて衆議院での可決が有効となっても、地方議会がそれぞれの議会での予算審議を経てからの支給となるはずだから随分時間がかかる。もともとの提案者である公明党は「手間取ってくれれば、国民のイライラが増して、反対した野党への反発になる」と見ているようだ。

 先日の中日新聞のコラム『中日春秋』は、「(定額給付金は)もっと困っている人のために、社会全体のために使われるべき」と考えている人々が7割もいることにふれ、「それだけの人が、単純な利己を拒否し、利他を考えた」「社会の健全さが確かめられた気がする」と書いていた。誰が考えても当たり前だと思うことがなぜ進められないのだろう。

 お金が欲しいですかと聞かれて「いらない」と答える人はまずいない。お金が生活の基盤だからだ。それでも、一人ひとりに渡すよりももっと有効な使い方を考えて欲しいと言えるのだから、人間としてのレベルは高い。学校で「みんなのことを考えて行動しなさい」と教えられてきた成果だ。自分だけの損得ではなく、全体のことに気配りができるのは立派な社会人である。

 アフリカのソマリア沖に海上自衛隊の護衛艦を派遣するという。公明党は戦争に反対する「平和」の政党ではなかったのか。政府は日本の船舶を海賊から守るためだと言う。いかにも理屈が通っているように思うかもしれないが、自衛隊の護衛艦を派遣する理由にはならないと私は思う。船舶を海賊から守るのであれば、ソマリア沖の沿岸諸国の警備力の強化の方が将来的にも有効ではないのか。

 そもそも海賊が発生するのは、テロが生まれる構造と似ていないだろうか。お金で何でも買っていく国がある一方で、お金もなければ生産もできない貧しい国がある。上等な服を着て上等な靴を履いた人間が土足で国の富を持って行ってしまう。着る服も履く靴もなく住む家もない。この貧富の差を縮める努力が先進国には必要だろう。軍艦ではなく、農業支援や教育支援こそが大事なのではないのか。

 民主党の鳩山幹事長が国会での代表質問の際に「定額給付金は悪質な選挙買収だ」と批判したことに対して、自民・公明の両党は鳩山議員の懲罰動議を提案している。お金を支給することで喜んで自民・公明に投票するだろうなどと考えての政策だったことは明らかだが、本音をつつかれてはいやなのだろう。

 本音と言えば名古屋市の市長選の候補者選びは全くどうかしている。「やりたい」と言う人が自分の政策を市民に訴えればいいのではないか。民主党名古屋市議団は、市議の報酬を下げるという政策になぜ反対なのか、パフォーマンスだと言うだけでは批判になっていない。本音で議論できない政治家は政治家ではないのではないか。人間としてのレベルの高さはどのように結実するのだろう。
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恋はいつも悲しいね

2009年01月30日 22時09分54秒 | Weblog
 家に帰るとカミさんが「これから反省会があるから出て」と言う。カミさんは今日、友だちとゴルフに出かけたが、その反省会を近くの中華料理店でするので、私に代わりに出ろと言うのである。「私はプレイヤーではないですが、反省会に出席させてもらってもいいですか」と今日のゴルフ仲間の長老に聞いてみた。もちろん冗談である。反省会という名の飲み会なのだから。「いいですよ。大歓迎ですよ」と言うので、孫娘を水泳教室に送っていって、反省会の中華料理店へ出かけた。

 既に二人はかなりお酒を飲んでいたようで、話は大いに盛り上がっていた。ゴルフの話ならば、ゴルフができない私は全くカヤの外だけれど、話の中心はいかに人生を過ごすかということにあった。「人はいつ死ぬかもわからないのだから、今生きていることに感謝し、与えられた命を精一杯生きていかなくちゃならない。自分が人様のお役に立つことができるならば、それは幸せというものだ」。「こうして話ができるのも、損得がない関係にあるからで、だから長続きしている。歳とってから心を許して話せる仲間がいることは最高の幸せと思わなぁーいかん」。

 早くからお酒を飲んでいたせいか、それともお酒に弱くなったのか、仲間の中でも一番若いこの日のゴルフの優勝者が眠そうな目になってきていた。実は彼は悩んでいる。恋の病だ。若い独身の女性に恋をしたというならば、何とかなりそうな気がするが、恋をした相手は人妻である。一番難しい相手である。「遊びなら早めにあきらめた方がいい」のだろうが、どうやら本人は真剣な様子だ。

 つかさず長老が言う。「私はそういうケースを何件も見てきたけれど、煽ることは簡単だけれど、別れさせるのは至難の業だ」。恋は盲目である。恋する二人には周りは何も見えない。「いや、そんなんじゃーないですよ。手をつないだこともないし、肉体関係はありません。ホントですよ。そんなことしたら、家庭を壊すことになるじゃないですか。だから悩んでいるんです」と真面目な答えが返ってきた。

 好きな女性ができて、手も握らない。それでも恋焦がれている。寝ても覚めても彼女のことを思っている。中年の一人前の男としては立派過ぎるくらい立派ではないかと思う。その時、私は中学高校からの友だちのことを思っていた。彼は10数年もの長きにわたって「友だち以上恋人未満」の女性と付き合っている。彼もまたこの日のゴルフの優勝者のように悩んでいるのだろうか。俗人の私には二人とも聖人に見えるが、同時に無理しているのではないのかと問いたくなる。

 でも、よくわかる。人は欲望を理性で抑えられるし、そうしなくてはならないのだ。でも、そんな風に理性が働くようなら、恋なんかしないのではないだろうか。ちょっと飲みすぎた。間違ったこと書いていないか心配だ。
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公務員の賃金カット

2009年01月29日 18時47分16秒 | Weblog
 愛知県は職員の給与を一律4%カットするという。税収が大きく落ち込んできたので、仕方がないというのだ。どういう給与のあり方が一番よいのかわからないが、自治体も税収に合わせて支出を連動するという方法はいかがだろう。そんなことをしたなら不安定で、働けないと言われるかもしれない。けれども、民間企業ならば業績によって社員の給与が決まるのだから、働けないと言うのは眉唾だと思う。

 私が教員になった時は民間企業の方がはるかに賃金は高かった。証券会社に勤めていた友人のボーナスは私のボーナスの3倍くらいあったように思う。人事院勧告が出されて、後追いで公務員の賃金が上がっていった。ストライキでも賃金値上げが真っ先に掲げられていたが、労働者なのだから当たり前だと思っていた。労働組合の戦いは、自分たちの賃上げ闘争に力点が置かれていたから、賃金が上がれば闘争は目標を失った。

 日本の労働運動が衰退していったのは、社会はどのようにあるべきなのかを課題にしないで、自己の要求の実現ばかりに走ったからだと思う。組合でやってきたことは、要求を突きつけることと懇親でしかない。しかも組合が出世の窓口になっている場合もある。社会全体が見られない労働運動は当然消滅していく運命だった。先鋭といわれた国鉄動労も組合員の利益は守ったが、他の労働者と連帯することも市民と共闘することもなかった。

 ある自治体の市民の平均年収は350万円ほどだが、その自治体職員の平均年収は700万円あるそうだ。公務員はそこに住む人々に代わって仕事をしている。それなのにこの差は余りにもおかしくないだろうか。私は低い方に賃金を合わせろと言うつもりはない。公務員の賃金を上げることで、国民全体の賃金を底上げする働きが確かにあった。けれども今、公務員の賃金は突出してしまっている。

 私は、社長だから市長だからというので何千万円もの年収を得る必要はないように思っている。みんなが生活できる最低の保障額を決めればよいと思っている。国の総収入を国民に平等に分けてもよいのではないか。多少の差があった方がよいのなら、たとえば500万円を平均とするなら前後に10%くらい差を設けるくらいに止めたらどうだろうか。「収入にほとんど差がない状態になどしたら、人は誰も本気で働かない」と言われたことがある。本当にそうだろうか。

 人はお金を稼ぐことに生き甲斐を持っているかもしれないが、みんながそうだとは思えない。仕事に誇りとかやり甲斐を感じている人を私はたくさん知っている。むしろ人は社会的な評価や使命感の方が強いのではないだろうか。賃金が同じなら働かないというなら、そういう人はみんなで食べさせてあげてもいいのではないか。働く意欲がある人が社会をリードしていけば、うまく収まっていくのではないだろうか。夢物語なのかな。

 ところで、愛知県議会議員は自分たちの報酬は職員と同じようにカットするのだろうか。愛知県議会議員には報酬とは別に高額の政務調査費も支給されている。報酬のカットとともに政務調査費を廃止すればいいと思うが、どうするだろうか。
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どうにもならないこと

2009年01月28日 22時28分22秒 | Weblog
 どうにもならないことはたくさんある。人間はいつも何かに向かって頑張る。頑張れば希望に近づけるからだ。どうにもならないことはたくさんあるが、頑張れば出来ることもたくさんある。はじめからどうにもならないと思ってしまうことの方が少ないのではないだろうか。人間は楽観的な動物だと思う。何とかなるさ、そのためには頑張らなくちゃーと前向きに生きている。

 孫娘は私の孫とは思えないくらい頑張る。今日もニコニコして「目標を決めた」と言う。「どんなことを決めたの?」と聞くと、「自分に勝つ!」と言う。「自分に甘えずに頑張る」と言うのだ。本当にどうしてこんなに頑張れるのだろうと感心してしまう。傍から見れば決して、全力で没頭しているわけではないし、好きな水泳は毎日最低1時間、日のよっては2時間は泳いでいる。だから体力の消耗がはなはだしいと思うけれど、それでも勉強しているようだ。実際にどんな風に勉強しているのか、その姿を見たことがないから、私としては勉強しているのだろうと推測しているに過ぎない。

 「日本ではどうして臓器移植が進まないのか」とテレビでこの問題を報じていた。「助かる命が助からないことは余りにも理不尽だ」と子どもを亡くした父親が嘆いていた。助かる命は助けたいと私も思う。でも、臓器移植は問題が違うように思う。私たちは病気をしたり怪我をしたりする。その都度何らかの手当てをして生き延びる。それと臓器移植は同じ延長線にあるのだろうか。医学が余りにも進歩したから、以前なら決して直らない病気でもかなりの可能性で回復できる。

 臓器移植もカミさんに言わせれば「できる技術があるから生まれた問題でしょう」となる。確かにそのとおりだが、臓器移植を行なえば命は助かるとしても、臓器は人の死それも脳死という状態の人から取り出したものだ。家族が同意すれば移植できるように法律を変えようという動きがある。私は納得できない。臓器は死んだ者あるいはまだその時は死んでいない脳死の状態にある者の身体の一部だ。人のものである臓器を「命を助ける」ためとはいえ、勝手に取り出していいのかと私は思ってしまう。

 そんなことよりも人には寿命というものがある。ある人は83歳であるかもしれないし、ある人は5歳かもしれない。5歳で死ぬのは不憫だからと言うのは人情としては理解できるけれど、83歳で死を迎えるのも5歳で死を迎えるのも、それは定めであり人間は素直に受け止める覚悟が必要だと思う。「助かる命」と言うかもしれないが、世の中には理不尽にも何の罪もないのに戦争に巻き込まれて死んでいく命だってある。難病に苦しむ人の命も戦争に巻き込まれてしまう命も、みな尊い命であることには変わりはない。

 わが子だけが助かればいいわけではない。命には定めがあることも知るべきだと私は思う。どうにもならないことがあることも受け入れなくてはならない。生きることは大事なことであるし、生きる命を尊ぶことも大事なことだ。けれども、死もまた平等にやってくることをしっかりと受け止める必要がある。人間は余りにも生に執着しすぎていないだろうか。死を恐れてはならない。今晩、通夜に行って来た。お棺の中の知人は幸せそうな笑みを浮かべていた。
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涙もろくなって

2009年01月27日 22時34分30秒 | Weblog
 二人で食事をしながら、NHKテレビ『歌謡コンサート』を見ていた。韓国ドラマの「冬のソナタ」の主題歌を聞いていたらどうしたわけか、涙が流れてきた。本当に近頃は涙腺が緩んでいる。ただ歌っているだけで、その背景にドラマの映像が流れていたとはいえ、そんなことで泣けるような場面ではなかったのに、恥ずかしい限りだ。

 続いての歌は今晩初めて聴いた曲であった。「鮨屋で」(?)とかいう曲名で歌詞は、娘が離婚した両親に送る歌であった。鮨屋で娘が父親から「何でも好きなものを食べていいよ」と言われたが、それが父親との最後の日だった。父と母とがどうして別れることになったのか、わからないけれど、どちらが悪いというものではないことが今の自分にはわかる。その娘が結婚するので、鮨屋で父親に話がしたいというものだった。

 歳を取ると涙もろくなると言うけれど、いろんな思いが頭の中を駆け巡るからなのかもしれない。そしてまた、意識してではないけれど自分の終末を感じるからだろう。「赤ちゃんを見ていると抱きたくなっちゃう。お年寄りに接していると何かしてあげたいと思う。人がこんなにもいとおしく思えるのは自分が歳を取ったからかしら」と言う人がいるが、そういう人は生まれながらに人に優しいのだろう。

 中学2年の孫娘が職場体験で特別養護老人ホームへ出かけた。「それでどうだった?」と聞くと「うん、面白かったけど、疲れた」と言う。「どうして?」とさらに聞いてみた。「だってさ、おんなじことばっかり言うんだよ」「うんうん、それで?」「中には全然話が出来ない人もいるの。スタッフの人もわかっているのか、ほったらかしにしてるんだけど、何か納得できないよね。あれでいいの?」と逆に聞き返してくる。「あなたはどうしたかったの?」と聞き返してみる。「何かさ、もう少し話してあげたかったけど、全然話ができないの」「そうか、まあそれも体験だな」と私。

 孫娘は「私はお年寄りと話すのは好き」と言う。「ヘンなおばあちゃんがね、あんたは勉強できるでしょう。私は女学校出ているのって、何度も何度も言うのよね。まいっちゃった」「昔の人で女学校を卒業している人は、今で言えば、女子大を出ているようなものだから、それがその人には誇りなのだろうね。『すごいですね』って言ってあげた?」「だってわからんし、何度も同じこと言ってくどいから、何にも言えんかった」と答える。

 その孫娘が小さな声で「今日、課題テストの結果もらった。3番だった」とさらりと言う。学年で3番なんて、我が家では誰も取ったことのない順位だ。けれども、決して得意気にならずに言うところがにくい。「すごいね。14歳の母」とチャカして言うと、「そんなものにはならん。それに今妊娠したら、出産する時は14歳じゃなくて15歳になっとる」と冷静な答え。

 そうか、そうか。人生はまだまだこれからだ。
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勝っちゃったね

2009年01月26日 21時47分27秒 | Weblog
 勝っちゃったね。あれだけいろいろ非難を受け、もう崖っぷちというより崖下に転がり落ちていくところだったのに、本当によく勝てたなと思う。横綱の朝青龍のことだ。何か相撲というより喧嘩のような取り口で、あんなヤツは相撲道に反すると嫌う人は多いが、私は朝青龍が優勝決定戦では勝ててよかったと思った。朝青龍がどんな人物なのかよく知らないが、あれだけの逆境にありながら、絶対に勝ってやるという闘志には感服した。勝てばいいという態度は、相撲の好きな人から見ると邪道だろうけれど、それでも私は「よくやった」と思ってしまう。

 気迫だけではもちろん勝てないだろう。選挙もどんなに闘志を燃やしても、それだけでは勝てないが、候補者に「絶対勝つ」という気迫がなければ勝てないことも事実だ。私たち「無党派・市民派自治体議員と市民のネットワーク」の代表を務める松阪市議の海住恒幸さんが、全力を揚げて応援した候補が市長に当選した。相手候補は現職の市長で、国会議員や県会議員、海住さんを除くほとんどの松阪市議が支持した。政党で言えば、自民・公明・民主が支持し、民主系の連合までもが支持したのだから、磐石だと思われた。

 ところが結果は8千票の大差をつけて、背が低くまるでネズミのようによく動き回る33歳の若い候補者が当選した。私も応援に行き、街頭で有権者と話していて、「ひょっとするかもしれないな」という感触を持った。若い人には出会わなかったけれど、出会ったお年寄りの多くの人が「松阪のためには変えてもらわないかん」と言う。市の財政が逼迫していること、にもかかわらず税金が無駄に使われていること、しかもそれが市長の独断で行なわれていることなど、市の現状をよく知っていた。これは海住さんの議会通信がかなり浸透しているなと思った。

 アメリカ大統領にオバマさんが就任したことの影響も大きい。「変えなきゃいかん」という空気がこの街にも漂っていた。普通のおじいさんやおばさんも「松阪は変わらなきゃだめだワ」と口々に言う。私たちの年代から上のお年寄りがそういうのだから、これは絶対に脈がある。33歳の若い候補者に対する抵抗感はないようだ。これまでの政治が生み出した閉塞感を誰もが持っている。それに不況が作用して、新しいものへの期待が渦巻いてきたのだろう。

 相撲では、朝青龍は自分で気合を入れてぶつかればいいが、選挙では、相手にどのように伝えるかが大事であるし、自分ばかりでなく一緒に選挙戦を戦ってくれる仲間が要るし、「風」がどう吹いているかも重要だ。それでも気迫が大事だなと、選挙戦を見ていてそう思った。「変えよう!」をスローガンに「風」を受けて当選したが、さてこれからが大変だ。

 かつて一緒に勉強会をやってきた仲間が、無党派・市民派では首長になれないからと脱会して、見事に市長に当選した。こちらは応援してもらった人々の「しがらみ」をどう断ち切ることができるか、彼の英断にかかっている。どちらも大変であるが、当選したからにはやるしかない。自分の言ってきたことを最後まで貫き通してやるしかない。私は頑張れと声援を送るしかできないが。
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男と女の不思議

2009年01月25日 22時28分17秒 | Weblog
 NHKスペシャルで「最新科学が読み解く性」という番組が組まれた。私が信頼する友だちである市議が、彼のブログで、この番組を紹介していたので見る機会を得た。彼がなぜ、「性」に関心を持ったのかはわからないが、彼のブログは「夫婦の4割がセックスレス」の書き出しで始まっている。厚生労働省の研究調査では「性行為経験者のこの1ヶ月間(いつのことかは判明しないが)の回数をたずねたところ、1回15%、2回12%、3回9%、4回7%だった。0回は40%に達し、前回に比べて5ポイントも増えた」と書き添えている。

 彼は「夫婦の4割近くが、1ヶ月以上交渉しない『セックスレス』の状態であることがわかった」と述べ、その理由として「仕事で疲れている」「面倒くさい」をあげる人が多いと解説している。そしてさらに、「大半の米国在住の成人にとってインターネット接続は生活に不可欠で、テレビや性生活よりもネットが大事という人も多い」という記事を紹介している。ブログは次に、NHKのスペシャル番組の紹介へとつながっている。

 昔、一緒に酒を飲んだ時、夫婦喧嘩が話題になり、どうやって仲直りするのかと問われて、彼は「SEX!」と答えた。これを聞いた時、私は何と素直なヤツかと思ったし、絶対に信頼できる男だと感じた。彼のパートナーはジェンダーの闘士であり、「ご主人は見えますか」と聞かれて、「いいえ、いません」と即答する人だ。その彼がそんなことを口にするとは思いもしなかった。けれども、夫婦あるいは男と女であるならば、自らの経験から「そうだよね」と同意する人は多いと思う。

 NHKスペシャルによれば、男はいわば女から偶然に生まれたものらしい。「聖書」は男から女が生まれたように書かれているが、それは書いた者が男だったからで、科学的には男は女から生まれ、そしていつしか喪失していく存在であるらしい。私は学生時代に、放出される何千万個の精子の中からたった1個の精子しか卵子にたどり着けないことを詩にうたい、イラストでも描いたことがあったけれど、最近の調査では精子の数が、どこの国の男性も少なくなっているそうだ。そればかりか、動きの悪い精子が多くなってきているともいう。

 近頃の若者たちは欲望がないという。車を欲しいとも思わないし、恋愛をしたいとも思わない。SEXも面倒くさいと関心がないようだ。子どもの頃から物質的には満たされていたから、物欲がないのだといわれている。けれども、異性に接したいとかSEXがしたいというのは本能的なものではなかったのか。それさえも否定しまうような状況なのだろうか。私は男だから女の人には特別に関心があった。女の人の身体にはドキドキした。美しいと思った。

 男が女に、あるいは女が男に、関心がない世の中が本当に来るのだろうか。私にはとても理解できない。男と女は苦しみであるけれど喜びでもある。求め合うことは神様がそのように創られたのだと思った。それは神秘であり歓喜であり悦楽であると私は思っている。
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市長選挙の応援

2009年01月24日 22時48分19秒 | Weblog
 市長選挙の応援に行ってきた。無党派・市民派の候補で、私たちの仲間が応援している。民主党の県議を辞しての立候補で、民主党は自民・公明とともに現職の相手候補を応援している。これまでの構図なら、圧倒的に現職有利という選挙だ。ところが、私たちの仲間である市議が「大逆転だよ。応援に来て!」というので出かけていった。これまでの市長選挙は無投票であったが、ここに来て大きく変わってきていると声を弾ませて言う。それならば、自分の目で確かめたいと思った。

 出かけてみてわかったが、全国からたくさんのバッヂをつけた皆さんが応援に駆けつけている。中でも時の人である渡辺喜美氏が応援に来た時は、さすがにたくさんの人々が集まってきた。渡辺氏の応援演説は誠にわかりやすい。多分この地のことはご存じないし、市長選挙で何が争点なのかも学習する余裕はなかったと思う。それでも難なく応援演説をこなしたのは、やはり経験というものだろう。力強く「ここから日本を変えよう!」と市民に呼びかけていた。

 若い人々がこんな風に、選挙を変えようとしていることに、私は自分を古い人間だなと思った。「変えよう!」のキャッチフレーズはいいけれど、何をどう変えるのかと私は思ってしまう。相手候補は60代の現職で、これまでは無投票でポストを得てきた。それが33歳の若造が立候補したために、選挙戦に突入することになった。どうせ泡沫候補だろうと思っていたのに、かなりの勢いで攻めてくる。「土下座してでも、とにかく勝てればいいのだ」と相手の幹部は言ってるそうだから、そのなりふりかまわぬ選挙戦術は注意する必要がある。

 結果は明日の夜にはわかることだが、確かに当選することが一番大事なことだろうけれど、私はその課程こそが大事だと思っている。日本に民主主義が根付くためには、地域エゴではなく、その自治体をこれからどうして行くのかを問うものでなくてはならない。そうしてみんなが、自分や地域のエゴから抜け出し、理想的な地域を造る視点に立てば、新しい政治の形が見えてくる。だから当選すればよいわけでは決してない。

 全国から応援に駆けつけてくれた市長や議員の中には「生き生きとした街づくり」とか「この地域のブランドを生かした政策」とかを口にされていた。そういうことも選挙では大事なことかもしれないが、私自身はそんなことはどうでもよいことではないかという気がしてならない。この街が全国一になろうとそんなことが問題ではないはずだ。ここに住む人々が気持ちよく暮らせることが一番大事なことで、そのための最低限な政策とその実施こそが求められる。そしてまた、これを実現する手段として、市民参加の政策が必要なのだと思う。

 明日は投票日である。私たちの仲間がかかわっている市長選挙でぜひとも当選の知らせを聞きたいものだと思う。
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名演『サウンドオブミュージック』

2009年01月23日 21時40分51秒 | Weblog
 ミュージカルなんてものはたいした物でないと思っていたのは間違いだった。私の勝手な思い込みだった。今日、名演で劇団スイセイ・ミュージカルの『サウンド オブ ミュージック』を観た。『サウンド オブ ミュージック』は子供のための作品で、映画ではアルプスの山々を背景に見応えがあったけれど、舞台であのスケールを出すのは無理だろう。そう勝手に思い込んでいた。幕が開いても睡魔に誘われるように眠りの世界にいた。

 ところが実に面白い。4枚(?)のスクリーンを巧みに使い分け、修道院であったり、アルプスの裾野であったり、ザルツブルグの街であったり、トラップ家の広間や庭であったり、その演出は実に見事なものだった。出演者も歌がうまいのは当然なのかもしれないが、本格的な歌い手ばかりだった。いやそればかりではなく、ミュージカルを盛り上げる踊りも素晴らしかった。

 映画は何度か観たから筋はわかっている。それなのに、どんどん見入ってしまった。見入っていたばかりでなく、涙が流れきて止まらないのだ。最近、冨に涙腺が緩んでいる。隣りで涙なんか流している人は一人もいないのに、老いた大人が涙を流しているなんてみっともない。そう思っているのに、どうしてなのか止められない。我ながら馬ッ鹿じゃないと思う。それでどういう場面で涙が出てきているのか、分析してみた。

 のど自慢を見ていても、落語を聴いていても、結局同じようなところで涙が出てくる。どういうところかというと、人と人との心が解け合うような場面だ。もちろんこの場面というものも、私の「思い込み」に過ぎないし、私の「勝手な解釈」に過ぎない。そんな場面ではないと、人は言うかもしれないけれど、私としては「泣ける」のである。

 科学が進歩して、人の分析も進んでいる。人を形造る遺伝子は同じものだそうだ。それでも60臆人の人が存在している。人がその生涯に出会う人の数は何人とかいった数字まであるそうだ。ところが人は、人によって感じ方は違う。人間は言葉を持ったから、空の色は青とか血の色は赤とか便宜的に決めてきたが、これも私の勝手な「思い込み」だけれど、同じ赤と言っても人によって本当は違うのではないかと思っている。

 具体的なものでさえ違いがあるのだから、抽象的なものはなおさらである。好きとか恋しいとか愛しているとかは、どう判断できるのだろう。『サウンド オブ ミュージック』の中で、マリアとトラップ大佐は恋に落ちるけれど、年齢の差は20前後はあるだろう。恋に年齢差は関係ないのか。ナチスドイツに占領され、進んで協力する者と拒否する者が生まれる。生き方の違いは愛し方の違いにもなった。でも、愛し方の違いが生き方の違いになったのかもしれない。
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オバマ効果に期待

2009年01月22日 20時06分24秒 | Weblog
 アメリカの新大統領オバマ効果が日本でも現れてきていると友だちが言う。友だちは市議だが、ただ一人でまだ32歳の若い市長候補者を応援している。すごく盛り上がってきていると言う。また、もう一人は市議を辞して、市長選挙に打って出ている。手応えは充分あると本人は言う。ともに「変えよう!」がスローガンだから、オバマ大統領と同じだ。何をどのように変えるのか、そして候補者はやり切る力を持っているのか、有権者の関心はそこにあるように思う。

 私自身、首長選挙に立候補して感じたことは、候補者の思いと関係なく地域を二分する選挙になるということだ。これが議員選挙と違うところで、私たちのような無党派・市民派は議員選挙ならば当選できるノウハウを身に着けてきたが、首長選挙となると「風」が大事になってくる。もちろん「風」そのものを起こすことができるならば、当選も可能だろう。自治体が抱える問題が大きければ「風」も吹くけれど、問題が小さいと有権者が思えば選挙への関心は薄い。

 有権者の関心を掻き立て、投票行為に結びつけるためには、最後は候補者の決意にあるとオバマさんを見ていて思った。絶対に大統領になるのだという思いが決して揺るがない。オバマさんと自分を比べるなどとは誠に不見識で不遜なことだが、私にあれだけの情熱と決意があっただろうかと自分の非力を痛感している。当選した人を見るとやはり不退転の強い意思の持ち主である。

 二人の投票日は今度の日曜日だ。ぜひとも当選して欲しいと願っている。「一度見に来て」と言うので出かけていって、自分の眼で確かめるつもりでいる。アメリカの新大統領の勢いが日本でも、この時期なら吹きそうな気もするから。国政が変わることは大事だけれど、地方が変わっていけば、それは民主主義が地に付いたことになるだろう。ただ問題なのはやはり「どう変わるか」にある。

 オバマ大統領の就任式で、福音派の牧師が「天国と同じことを地上に!」と祈っていた。そのとおりだ。キリストも地上に楽園を創造しなさいと述べていた。ところが牧師は「侵略するものと戦うことを許してください」と続けた。「侵略するもの」とは、オバマ大統領が求める理想に敵対するものという意味であれば受け入れられるけれど、文字どうりアメリカ合衆国に敵対するものと言う意味なのだろうか。牧師の祈りというよりも演説のようだったけれど、これもオバマ大統領のバランス感覚であるなら、ブッシュ前大統領と同じにならないかと危惧した。

 アメリカの大統領ほどではないとしても、市長はその自治体の最高責任者である。選挙中に候補者が発言してきたことにきちんと責任を持たないと、結局誰がやっても同じだということになる。こういう政治を変えるために私たちはやってきた。そのことを肝に銘じておいて欲しい。
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