友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

生きていたアゲハチョウ

2014年04月30日 18時36分33秒 | Weblog

                                                        3日前に羽化したアゲハチョウは、羽化した場所が悪かったのか、サナギの時に何かに襲われた後遺症なのか、しっかり羽を伸ばすことができなかった。このままではすぐ死んでしまうのではないかと心配で、しばらくしてから見に行くと、羽化した場所にはもういなかった。あれからゆっくりでも羽が伸びて、大空へと飛んでいったのだろうか。あの日から雨が続いたから、どこかで雨宿りはできたのだろうか。そんなことを思っていた。

 午後、雨が止んだ。アミ戸を洗うためにルーフバルコニーに出た。床で何かが動いていた。近づいても逃げずにパタパタしている。3日前に羽化したが、羽が伸び切れなかったアゲハチョウだ。よく生きていたと感心し、そっと捕まえてチューリップの花の中に入れてやった。アゲハチョウは花の蜜や樹液を吸って生きているが、その生命はわずか1週間だという。このアゲハチョウは交尾する相手もなく、息絶えることになるだろう。せめてチューリップの花を棺にしてやりたかった。

 私は32歳の時、重体で病院のベッドにいた。意識は回復したが身体を動かすことはできなかった。病室の窓際に1羽のハトがよく来た。そのハトは片方の足が萎縮していた。生まれながらと言うより事故に遭ったためのように思った。片足でピョンピョンと跳び本当に危なげだった。飛んで来る時もうまく着地できず、壁にぶつかるようだった。このままでは決して長生きできないだろうが、出来ることなら生き延びよと祈る気持ちで眺めていた。障害のあるハトがまるで自分のように思えてならなかった。

 アゲハチョウもハトも、シリアやウクライナの子どもたちも、不幸な生涯を送りたいわけではない。たまたま何かの偶然に過ぎない。恨んだり嘆いたりしたところで何も変わらない。生まれた場所で、生かされた場所で、生きていく以外ない。卒業生からメールで訃報が届いた。そうかと思えば友だちが、「ゆっくり観られなかったのでしょう」と言って、『シャガール展』の入場券をくれた。どちらにも感謝である。

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自治会総会とシャガール展

2014年04月29日 19時27分01秒 | Weblog

 午前中はマンション自治会の総会で、私は委員のひとりだから準備から参加した。事業報告、決算報告、監査報告と続き、まとめて質疑を受けることになった。管理事務所の職員と自治会長との間で亀裂が生まれ退職者が続いた。3月末からは自治会役員が管理業務を肩代わりしている。案の定、その点に質問が集中した。自治会長が管理事務所長を兼任し、時間800円の報酬を受け取っていることを問題にした。

 批判する側の人たちは、自治会の役員はボランティアで行なうのが原則なのに、職員並みの報酬を受け取るのはおかしい。自治会の役員が管理事務所の職員を兼任していいという規則はない。この2点を追及した。ところが追及した人は以前に自治会長を務め、「職員が少なくなる年末年始に、役員が肩代わりして1日5千円を支払った」と言う。職員の代わりに働くのだから報酬は当然支払うべきだと、自ら言ったようなものになった。

 自治会の役員が管理事務所の職員を兼任できるという規則はないが、できないという規則もない。そのような事態を想定しなかった。けれども、自治会長が管理事務所長を兼任するとなると、マンションの金の動きに不祥事が生じやすくなる。自治会役員は行事や工事を決めていくが、実際の金の支払いは管理事務所が行なっている。兼任するとなると、自治会の財産である3億円近い金を持ち逃げしてしまう可能を与えることになる。

 役員側は、職員の欠員という想定外の事態となったので、役員はその責任を果たしただけのこと、それがなぜ問題なのかと反論する。追及する側の中に、途中で辞めてしまった管理事務所長がいるから、そのゴタゴタは公にしたくないようで、職員の欠員がなぜ生じたのか、その責任がどこにあるのか、言及することはなかった。議会での議員と行政とのやり取りと同じで、追及をのらりくらりとかわしていれば、権力を持っている方に軍配が上がる。

 午後から、7月で5歳になる孫娘を連れて、県美術館に『シャガール展』を見に行った。孫娘はシャガールの絵本が好きで、我が家に来ると必ず書棚から出して来る。『シャガール展』へ行けば興味深く見て回るだろうと思ったのは間違いだった。会場に着くやあまりの人出に圧倒されたのか、「見た。知ってる」と言って急ぎ足で会場をすり抜け、「出口はどこ?」と向かった。人間の関心とその現実には大きな落差があると痛感した一日だった。

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騒ぎ立てる問題ではない

2014年04月28日 18時21分34秒 | Weblog

 いじめ問題で教育行政に批判的な発言をしていた教育評論家の尾木直樹さんとは思えない言葉だった。埼玉県の高校の先生が入学式を欠勤し、自分の子どもの入学式に出席した。これを尾木ママは、「職業教師としての自覚と責任に疑問が残る」と批判した。何をもって職業教師というのか分からないが、先生は警察官と同じように高い倫理観を持つ職業ということなのだろう。そのとおりであるし、多くの教師が高い倫理観を持っていると思う。

 尾木ママは「入学式は単なる儀式ではない。子どもたち一人ひとりがどんな表情をしているかを把握する大事な日」と言う。そのとおりだと思うけれど、入学式はこれから始る長い月日のホンのわずかな時間に過ぎない。「私が担任です。これから1年間よろしく」の挨拶で終ってしまう。挨拶もせずに「今日はこれで終ります」と言う先生もいる。副担任もいるから新入生が不安になることはないし、高校生なのだから翌日からの接し方で十分回復できるはずだ。

 「忙しい親が入学式に出席しているのに、担任が休むとは何事だ」と言った人がいたが、親は我が子の晴れ姿を見たいためだ。担任がどんな人物かを見定めたい気持ちはあるだろうが、すぐに懇談会があり、小中学校なら担任による家庭訪問が行なわれる。担任は校長に相談し、届けを出して入学式を休んだ。新入生には「ゴメンナサイ」と文書も用意している。ワイワイ騒ぎ立てるような問題ではないように思う。

 生徒が問題を抱えて困っているのに、「先生は休むから」というわけではない。この先生も教育には熱心で子どもたちへの思いやりが深いと思う。騒ぎ立てたのは、この高校の卒業生で来賓として出席していた県議だ。インターネットに、「簡単に職場を放棄する態度には憤りを感じる。権利ばかり言う教師はいらない」と書き込んだ。県議は母校が軽んじられたと感じたのかも知れないが、私には思いやりのない浅薄な議員としか思えない。

 大学の入学式や卒業式に、父母だけでなく祖父母までが参列する社会である。いや、入社式にも父母が付き添うという。子離れが出来ていないと批判するけれど、我が子の姿を見ておきたいと思う親の「欲」であり「愛情」でもある。「夫がいるのに、仕事をするな」とか、「子どもを預けてまで働くのは、子どもがかわいそうだ」と、批判する人たちには理解できない社会になってきたのだ。

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なんて素敵だろう

2014年04月27日 18時55分00秒 | Weblog

 小学校の運動場に次々と車が集まり、将棋の駒のように整然と配置に着いた。今日は、子ども会の廃品回収の日で、それぞれの子供会が集めた廃品を自家用車で運び込んで来る。車は東門から入り、荷物を降ろすと西門から出て行く。東門から入って来る車に、「右に行って」とか、「左に行って」とか、テキパキと指示している女性がいる。おそらく子ども会の責任者だろう。彼女の適切な指示のおかげで、作業は実にスムーズに進んでいた。

 午前11時近くになって運動場の喧騒が止んだ。既に業者の車は1台もなく、子ども会の役員の皆さんが竹ホウキで運動場をならしていた。こんなに効率的に作業ができたのも、入り口で皆さんに指示を飛ばしていた女性のおかげだろう。会社でもどこでも、正確な指示が出せる人がいると効率よく作業が進むが、あの人の指示なら間違いないという信頼感があるからなのだろう。これは年齢には関係ないようで、人柄が最重要だと思う。

 会社でもどこでも、上に立つ人に信頼がなければ決してスムーズにいかない。間違った作業は誰もしたくないし、二重手間になるような仕事はしたくない。どんな会社が、どんな組織が伸びるかと言えば、みんなが一体感を持って仕事をしているところだ。しかもその仕事が理想に燃えるようなものなら、さらに効率は上がり成績がよくなるだろう。心の一体感を作り出すのはコミュニケーションである。どんなに立派な人であっても、働く人の気持ちを察することができなければ、思いは伝わらない。

 名古屋市立北高等学校の合唱部OBのコンサートに行って来た。Ⅰ部、Ⅱ部、Ⅲ部と分かれていて、Ⅰ部とⅢ部が合唱曲で、Ⅱ部が黒人霊歌だった。Ⅰ部を聴いた時、声は出ていないし膨らみもない、今年の出来は悪いと思った。Ⅱ部で持ち直し、Ⅲ部は盛り上がった。Ⅲ部の指揮者は北高合唱部を全国優勝に導いた先生で、今年で80歳と聞いた。出てみえた時も足取りはおぼつかなく、左手が小刻みに震えていた。こんな状態で指揮できるのだろうかと不安だったけれど、素晴しい合唱だった。なぜか涙が止まらなかった。こんな風に人生の終わりを迎えられる、なんて素敵だろう。そう思った。

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ありがたいこと

2014年04月26日 19時07分02秒 | Weblog

 「今週の土曜日に『音楽療法の集い』があるので、その準備に追われていて、今年の『チューリップを観る会』には残念ながら参加できません。もし、都合がよければ集いにおいでになりませんか」と友だちがメールをくれた。どんなことをするのだろうと思いながら出かけてみた。クリスチャンの彼女らしく、初めは賛美歌に合わせて首の、そして腕を回す運動へと続く。「口を大きく開けて、パ、タ、カ、ラと言ってみましょう。次はラテンのリズムに合わせて歌いましょう」。

 音楽療法とは「音楽を聴く、歌う、楽器を鳴らす、身体を動かすことで、心身を刺激、活性化することにより、健康の維持増進を図り、生活をより楽しく、心豊かにする音の利用法」という。今日は花のシリーズということで、『おぼろ月夜』『ミカンの花の咲く丘』『バラが咲いた』『隅田川』などを全員で歌った。また、シンバル・しゃもじ・マラカスの3班に分かれてモーツワルトの曲を合奏した。彼女の心地よいおしゃべりもあって、あっという間に過ぎてしまった。

 身体を動かす体操も、口を動かす運動も、私には懐かしかった。教え子に頼まれて通った介護施設のことが思い出される。私を「将校さんだったですよね」と言う女性がいたり、Hな話になると元気になる男性がいたり、話をしているとその人の人生を知ることができる。誰もが一生懸命に生きてきて、幸せだった人も、大変な苦労を重ねてきた人も、歳を取れば大差はないように思った。今日の集いには80人ほどが来ていたけれど、歌ったり奏でたり聴いたりすることは人を幸せにするようで、皆さんニコニコしていた。

 人は食べることや欲しいものを手に入れることに幸せを感じる。そしてまた、人は抱き合えることが一番の幸せなのだろうけれど、それはきっと心が触れ合うからだろう。物資的な喜びとともに精神的な喜びを求める欲深さが、人間の人間としての存在なのだろう。暑いくらいの日差しの中で花たちを眺め、心地よい音を聴き、さらに今晩は孫娘ふたりが来るという。ありがたいことだと思う。

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幸せな顔

2014年04月25日 18時49分05秒 | Weblog

 楽天の松井裕樹投手が2軍に降格となった。高校野球であんなに活躍していた選手だったのに、プロでは通用しなかった。先輩の田中投手も、アメリカでの初試合でいきなり長打を浴び、やはり無理だったかと思われたが、そこから彼は踏ん張った。“まだまだ”と頑張れる何かを田中投手は持っている。松井投手は打たれてコントロールが乱れると、ますます力んでさらに事態を悪くしてしまう。心の持ちようなのだろうが、結局そういう素質の問題なのだろう。

 テレビの安倍首相は以前とは見違えるようだ。私は安倍首相の考えに危険な面を感じるけれど、堂々とした振舞いに、しばらく首相の座に留まるのも仕方ないと思えてくる。自信というか余裕というか、人に与えるものが大きい。何かがひとつ、うまくいかなくなると次々と連鎖的にうまくいかなくなるが、逆もまた真なりである。うまくいかない時は、他人のやることが全て間違っているように見えるのに、うまくいくようになると些細なことには腹も立たなくなる。

 人間の感情がどのような機能からできているのか、分泌物がどのように働くのか、研究が進んでいるという。ガン細胞を見つけ出して攻撃する物質の実用化も夢ではないらしい。iPS細胞とかSTAP細胞とか、何にでも成りうる細胞が実用化されるのも時間の問題と言われている。けれども、人を好きになったり嫌いになったり、愛したり愛されたりが、どうして起こるのかは解明できない。それがいいと私は思う。何もかも科学で解明するようになった時は、人の世が存在しなくなる時だ。

 バケツ一杯のチューリップを持って、以前手伝わせてもらったことのある介護施設へ行って来た。利用者さんもスタッフも知らない顔に変わっていたが、飼われている犬は尻尾を振って甘えてきた。理想的な施設に向かって努力しているが、それだけに気苦労も多いだろう。久しぶりに会い、変わらない姿に安堵する。せっかく来たのだからと、帰りは港区のブルーボネット・フラワー公園に寄ってみた。平日の午後なのに人がたくさんいた。幸せな顔だった。

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PTAや町内会の役員

2014年04月24日 20時47分54秒 | Weblog

 小学校に大勢のお母さんたちが集まっていた。授業参観と学級懇談会があったようだ。学校から帰るお母さんたちが、「役が回ってこなくてよかった」「なかなか決まらなくて往生したわ」とか話している。近頃はPTAの役員になり手がなく、決まるまで長い沈黙が続くと聞いた。下手に発言すれば、「じゃー、役員をお願いします」と押しつけられるからだ。町内会の総会など、いろんな総会の人事の季節だけれど、とにかく日本人はダンマリを決め込んでいる。役員にならないようにと願っている。

 アメリカのオバマ大統領が来日し、昨夜は安倍首相と銀座の寿司店で和やかな会食だったそうだ。そして今日は朝から、日米首脳会談が行なわれたが共同声明を出すには至らなかった。外交交渉はお互いの国益がぶつかり合うから、妥協点を見つけるにはかなりの時間がかかるだろう。ここでダンマリなどしていたなら、たちまち相手の都合に押し切られてしまう。なぜ、PTAや町内会などのような役員人事になると、みんな後ろ向きになるのだろう。

 無償か無償に近いボランティアだから、そんなことに時間と労力を費やせないというのだろう。しかしまた、そういう人の上に立つ地位だからやりたがる人もいる。PTAや町内会の役員になり、次に区長とか議員とかを狙う人だ。そういう人でも、真面目に子どもたちのことや町内のことなどを考えてくれるならいいではないかと思うけれど、積極的に手を挙げる人がいると、あれはダメだと言い出す人がいる。いったいどういう人が本当に役立つのか、分からなくなる。

 オバマ大統領は、尖閣諸島は日本の領土で日米安全保障の範囲だと言った。中国がこれに反発するのは必至だろう。ウクライナからクリミアは独立するという。ロシアはこれを歓迎するが、中国は積極的に支持していない。世界中でそれぞれの民族が独立を唱え出せば、中国は分裂する。ロシアも同じだから、連邦制を主張している。世界中がそれぞれに、民族や宗教や思想で分離独立すればいいのにと思う。

 既にアメリカでは、お金持ちが税金だけを釣られるのは嫌だと、お金持ちが集まってシティを独立させたという。これが近い将来の姿なのかも知れない。そういう民主主義を経なければ次の民主主義へは移れないのではないか、そんな気がする。

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江南市の曼荼羅寺

2014年04月23日 19時27分07秒 | Weblog

 昨日に引き続き、今日はマンションの友だちがチューリップを見に来てくれた。昨年の手帳を見ると、4月12日に弟たちが、翌日に友だちが来ているから今年はやはり遅い。我が家のチューリップは咲き揃わなかったけれど、街路樹のハナミズキは今が盛りだ。ツツジも咲き始めている。今日の新聞には満開のシバザクラの写真が載っていた。先日、江南市の曼荼羅寺のフジを観て来たけれど、まだ満開には至っていなかった。やはり4月末から5月初めが見ごろだろう。

 江南市へは別の用事で出かけたのだが、フジ祭りの看板を見かけ、ちょっと寄ってみるかという気になった。まだ、子どもが小さな時、私たちは江南団地に住んでいたから、曼荼羅寺へはよく遊びに出かけていた。その頃は、フジ棚はあったけれど、それほど有名になっていなかった。江南市の公園として整備され、フジの名所になったようだ。私は昭和46年発行の『工研あいち』(愛知県高等学校工業教育研究会)に「飛保の曼荼羅寺の寺宝」と題した研究論文を書いた。

 曼荼羅寺を見た時、随分立派な寺院だが、どこかで見たような造りだと思った。それで調べてみたくなり、まとめたものを寄稿した。曼荼羅寺の中心をなす正堂は後醍醐天皇の命により、朝廷を象徴する紫宸殿風の大寺として建立された。火災で焼失した後もおそらく当初のものと同様に建てられただろう。本尊の阿弥陀三尊像はとても美しく気品に満ちている。私はまだ若く全国各地の仏像を調べるだけの力がなかったので、確かではないけれど、阿弥陀仏の衣の文様から作られた時代や作者が分かるように思った。私のわずかな知識では鎌倉時代の仏像に共通するような気がした。

 曼荼羅寺はフジばかりが観光の売りになっているけれど、本尊はそれ以上に歴史的な価値があるように思う。阿弥陀像を近くで見せてもらうために、ご住職にお願いしたが、こんな若造に何ができるのかと思われたかも知れないし、私自身も何か過ちがあってもという思いから、写真も撮らず、わずかにスケッチしてきただけだった。あれから45年が経ち、きっと誰かが本格的な調査をしていることだろう。

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たのしみは‥

2014年04月22日 18時59分57秒 | Weblog

 今年は天候不順でチューリップが不揃いだ。今朝、カミさんの弟妹と叔母が来てくれたけれど、ルーフバルコニーは風が強く、部屋の中から眺めてもらった。既に一番鮮やかな赤いチューリップは色褪せてしまい、次ぎに咲き出した白いチューリップは無残にも風に煽られて花弁が無くなっている。紫色とピンク色のチューリップは次第に大きくなり、明日にも咲きそうだ。

 次回の大和塾の講師は造園の先生で、そのチラシに歌人の橘観覧(たちばなあけみ)の歌が引用してある。「楽しみは 朝起きいでて 昨日まで 無かりし花の 咲ける見るとき」。橘観覧は江戸時代末期の歌人で国学者とある。調べてみると、福井の商家に生まれたけれど商売が嫌で、家督を弟に譲り、高山に移って国学を学び、独学で歌をつくったりした人のようだ。先の歌は「楽しみは」で初まる歌集『獨楽吟』に収められた1首である。

 歌の意味は正に文字通りだ。昨日までは咲いていなかった、花が今朝咲いているのを見るのは楽しいというだけのこと。「楽しみは 庭にうえたる 春秋の 花さかりに あえる時々」の他にも日常の何ともないことを歌にしている。「楽しみは 妻子むつまじく うちつどい 頭ならべて ものをくふとき」「楽しみは 三人のこども すくすくと 大きくなれる 姿みるとき」「楽しみは 物識人に 稀にあひて 古しへ今を 語りあふとき」など。

 カミさんの弟妹や叔母とその息子が、そんなに見てもらうほどではないチューリップでも、こうして来てくれればまた話もできる。血のつながりを今更深めるつもりではないが、次女が言うように、「昔話ができるのはいいこと」だと思う。橘観覧が日常の何気ないことを楽しみと表現したように、喜びも悲しみも日常の中のひょっとしたところにある。会いたいと思っていた人にあえたり、来なかった連絡が来たり、そんな些細なことが楽しい。

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責任と無責任と

2014年04月21日 18時29分52秒 | Weblog

 韓国の珍島沖でのフェリー沈没事故は驚くことばかりだ。運航業務を任されていたのは25歳の女性三等航海士で、事故海域では初めて操舵の指揮という。何よりも驚いたのは、運航の責任者である船長、航海士、操舵長の3人が真っ先に脱出したことだ。しかも船長はカーディガン姿になり、「一般市民」とウソまでついている。呆れたとしか言いようもない。なんとまあ無責任な男だ。

 STAP細胞論文の共同著者であり、小保方さんを抜擢し指導してきた理研の上司、笹井さんの記者会見をテレビニュースで見たが、これが日本を代表する知能の人なのかと呆れた。ニュースだから発言のほんの一部でしかないが、その限りでは、責任は全て他人にあると弁明していて、ご自身の責任には一切触れていない。共著者として名前を連ね、記者会見にも同席し、iPS細胞に対する優位性を強調した報道資料を作成したことに、何の責任も感じていないのかと思った。

 昨日の開票結果、私が投票した人は落選だった。やっぱりそうだったかと思った。彼は4年前の選挙も今回の選挙も、自転車で辻々に立ち、演説をして回った。当選して議員になってからも、毎週土曜日には街頭で演説を行なってきた。けれど、そういう選挙運動をした候補者が他にも何人もいた。今回の選挙を見る限り、演説をしない候補者は少ないように思う。若い人の演説は彼よりもうまく、分かりやすく、歯切れがよかった。

 彼は「脱原発」を訴えた。「耳を傾けてくれる人は多い」と言っていたが、市政の具体的な課題を明確に示すことが不足していた。市民が市政に何を感じているかよりも、自分が言いたいことが先に立ってしまい、人のつながりを広げることが出来なかった。多くの候補者は、「障害者や高齢者の目線に立った福祉の充実」とか「子育て支援と子どもの健全育成」とか、具体性のない言葉を連発していたが、議員になったらどう責任を果たすのだろう。

 落選した彼は、投票してくれた人への責任を果たすため、「4年後を目指す」と言う。政治を志した男として、初心を貫きたいとも言う。最近、余り見ることのなくなった強い責任感を持つ人のようだ。議員になるためにはどうするべきか、もう一度考えてみることだろう。自分が納得できないことをすることはできない。頑張って欲しいと無責任なことを私は思う。

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