友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

明日からは普通の生活になる

2024年01月31日 17時09分51秒 | Weblog

 朝は曇っていた。昼前から雨が降ってきたが、降っているのか分からないような小粒の雨だ。部屋からそっと眺めているだけだから、外の様子はよく分からない。退院しても私の行動範囲は、北と南の部屋の往復でしかない。時々、思い出して身体を動かしているがたかが知れている。

 カミさんはインフルエンザに感染した時に、クリニックで貰った薬を全部飲み終えたので、今日から普通の生活に戻る気でいた。ところが昨夜、「ねえ、ちょっと来て」と呼ばれ、「これってヘンじゃーない」と、裸の背中を見せる。赤い湿疹が広がっている。「明日、クリニックで診てもらった方がいいよ」と言うと、「そうする」と素直だ。

 私が車で送りたかったが、「自分で運転していくからいい」と断られた。5日間も車に乗っていないから、運転ミスを犯すのではないかと気が揉める。病気のことより交通事故が心配だ。1時間ほどで無事に帰って来た。「注射打って、薬もらった」と言うだけで、湿疹の原因は分からないようだ。

 確かに私の退院直後は、気が抜けた様に眠り込んでいたが、昨日から新聞の数独に取り組んでいる。数独以外にやることがないの?と、喉から声が出そうになるがぐっと堪えた。カミさんが元気になると、ますますふたりの性格の違いというか、関心することの違いが顕在化する。

 生まれも育ちも違うのだから仕方の無いことで、同じ方向を向かせようとすれば軋轢が生まれる。黙っていれば何事も無く過ぎていく。80歳を迎える年齢になって、少しだけれど夫婦の在り様が理解できるようになった。などと言えばカミさんから、「あなたは何も理解していない」と叱られそうだ。

 さてさて、明日からは普通の生活になるのだろうか。私の薬が切れるのがバレンタインあたりだから、もう少しの辛抱か。これではまるで中毒患者みたいだが、何の中毒になるのだろう。

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選択は自分がしている

2024年01月30日 17時20分36秒 | Weblog

 玄関で、退院祝いに頂いた2束のユリの花が甘い香りを放っている。ひとつは白いユリと赤いと薄いピンクのバラ、もうひとつは鮮やかなピンクと白の組み合わせで、カスミソウが周りを囲んでいる。ユリはカサブランカという種類のようで、雄しべに花粉が無い。花粉が服に着かないように、人間によって改良された種だろう。

 人は自分に都合の良いように、周りを変えていく。人は皆、平等だ。同じ太陽の陽を受け、同じ雨風に晒される。地震が起きるし、戦争にだって巻き込まれる。けれど、結果は不平等だ。インフルエンザに感染しやすい人もいればそうでない人もいる。爆撃を受けて、多くの人が死ぬが、中には生き残る人もいる。

 能登半島地震のニュースを見ても、死んだ人もいれば生き残った人もいる。どうしてこうなるのか、誰も説明出来ない。この不平等が、人の心に信仰を生むのかも知れない。信仰心が薄くなった、現代の日本人が求める物は何だろう。私が小説を読んで関心を抱くのはいつもそれだ。

 凪良ゆうの『汝、星のごとく』は語る。人生はその人のもので、その人が選択した軌跡であると。17歳で出会った男の子と女の子の物語だが、その生き様はとても重い。男の子の母親は何度も男に捨てられたのに、男を捨てられない。女の子の父親は家族を捨てて出て行ったので、母親と暮らし支え続ける。

 男の子は現実から逃れるために漫画のストーリーを書き、知り合った年上のマンガの絵描きとペアを組み、出版社のコンクールに応募して、漫画家となっていく。男の子と女の子が惹かれ合い、身体を重ねたのは高校3年の花火大会の夜だった。男の子は東京に行くのに、女の子は母親の面倒を見るため進学を諦め、会社勤めをしながら、父親の愛人である刺繡作家の下で刺繍に邁進する。

 男の子は有名人となり、大金も手に入れる。出会った女と平気でセックスをするが、それでも故郷に残った女の子が頭から離れない。幾組かの男女が出て来るが、なぜ、思い留まらないのか不思議だ。人は損得か好き嫌いか、いろんなことを考えて、選択している。選択は自由だが、結果として自分がしている。

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雪だるまの作り方

2024年01月29日 17時01分31秒 | Weblog

 退院して3日目、カミさんはインフルエンザを私に感染させてはいけないと、寝室に籠っていて、「食事の用意が出来たよ」と声をかけて待っていると、しばらくしてのっそりと起きて来る。でも、一緒のテーブルで食べる訳にはいかないので、別々に食事をしているから誠に味気ない。

 友だちが「自宅で極楽生活如何!?」とメールしてきた。彼も入院したことがあり、病室での生活に閉口した経験があるようだが、私のブログは見ていない。私に3冊の小説を貸してくれた卒業生も、自身が脳出血で入院し、今もリハビリに通っている。卒業生といっても、私と年齢差は8歳ほどしか違わない同じ70代だ。

 話が戻るが、入院していた時、「血圧、検温の時間です」と言う看護師の名札を見てビックリした。ひらがなで「まひろ」とあったからだ。日曜日のNHK大河ドラマは、「源氏物語」を書いた紫式部を題材にしたものだが、その紫式部の幼名が「まひろ」だった。

 「ご両親はすごいね。紫式部は知っていても幼名までは知らなかった」と話すと、「小学校の時、自分の名前について発表する授業があって、両親に名前のいわれを聞いたんです。そうしたら、その頃流行っていたマンガからつけたと言うので、恥ずかしくって、脚色して発表してしまいました」と、笑って話す。

 看護師さんにはいろいろな女性がいて、私を自分のおじいちゃんと思っているのかというほど世話を焼いてくれる子もいた。雪が降っていた時、病室から外を一緒に見ていた看護師は、「名古屋の人はみんな傘をさすのですね」と言う。怪訝な顔をしていると、「私、秋田の出身なんですけど、秋田の人は傘をささないんです」と言う。

 確かに、横からの強い風に煽られる雪に傘は役に立たない。年に1・2回しか雪が降らない地方と、秋田のような雪深い地方では違って当然だろう。病室に掃除に来るおばさんが小学生の孫に、「雪だるまは、ボールを転がすようにして、大きくするんだよ」と教えると、孫は「両手で丸めて、雪だるまにするの」と言ったと話す。

 最近、大雪になることは無いから、雪だるまの作り方も私たちの子どもの頃とは違っているようだ。

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なぜか忙しい

2024年01月28日 15時52分26秒 | Weblog

 カミさんは、私に感染させてはいけないと、寝室に籠って、ひたすら眠り込んでいる。私は食事の用意をしたり、食器を食洗器に入れたり、洗濯物を干したりと家事をこなす。退院してから髭が剃ってなかったことに気付き、洗面所の鏡に向かった。鏡の中の自分を見て、以前と同じジジイだなとは思う。

 昼ご飯は長女が、今流行りの宅配サービスを頼んでくれた。さて、今晩はどうしようかと冷蔵庫を見る。野菜室にホウレンソウや小松菜、キノコ類がいっぱいある。カミさんはこれらをどうするつもりだったのだろう。昼に友だちが、彼女の故郷の伊予ミカンを1箱持って来てくれた。こんな重い物をよく我が家まで運んでくれたと感心する。

 私の入院を知って、卒業生の浅野定志君が本を3冊我が家へ持って来てくれた。カミさんが病室に届けてくれたので、入院中に2冊は読み終えた。ビートたけしの『アナログ』、東野圭吾の『クスノキの番人』、昨年度に本屋大賞を受賞した凪良ゆうの『汝、星のごとく』で、「どれから読むかは先生次第」と手紙が添えられていた。

 それで、一番薄い『アナログ』から読み始めた。ビートたけしが映画を作っていることは知っていたが、小説まで書くとは知らなかった。テレビで喋っているような調子の小説だった。題名通り、今日の何でもコンピューターの時代の中で、ひたすら手作りにこだわる男の、手作りの恋愛が最後には花開くというか、実を結ぶ、ハッピーエンドストーリーだった。

 次に手にしたのは一番分厚い『汝、星のごとく』だった。東野圭吾の小説は我が家にも何冊かあり、ストーリーの面白さには感心したし、彼が私の生まれ育った刈谷市のデンソーで働いていたことも知って、親近感があった。けれど、凪良ゆうは全く知らない。女性だと思うが、男性かも知れない。どういう小説を書く人なのかと興味が湧いた。

 けれど、読み始めて、重いなと感じた。17歳で出会った高校生の男女が辿る、数々の遍歴というか、生涯の巡りあわせは、確かにどの人も同じようなものなのに、こうして書かれると重い。逃げ出すことも、そのままもがき受け止めることも、本人の自由であり、誰も非難出来ないし、責任を取ることも出来ない。

 またいつかの機会に、読書感想に触れてみたい。今日は大相撲の最終日、誰が優勝するのだろう。大阪女子マラソンで日本新記録が出たし、なぜか忙しい。カミさんが寝ている間に晩御飯の準備もしておきたい。

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自分の意志で眠り続けている

2024年01月27日 16時40分38秒 | Weblog

 カミさんは退院する時、病室でも軽く咳をしていたが、気になるような激しさも頻度もなかった。しかし、病院から帰る頃からよく咳をするようになった。長女とカミさんと3人で昼食を取っていると、「コンコン」と咳をする。長女が「何時から?」と訊くと、「一昨日くらいかな。でも、熱は無いし、大したことないわ。明日、土曜日だから午前中にクリニックに行くわ」と、のんびりしたことを言っている。

 午後の診察がある日からだから、今日でもいいはずだ。「予約したら」と私が言うと、長女は母親の表情が時間を追うごとに疲れていると判断し、「私が送ってあげるから、今日行こう」と促す。診察は5時からで、電話受付は4時40分からと電信音が答える。4時40分に電話を入れると看護師が出て、予約が取れたので時間前に長女がクリニックへ連れて行ってくれた。

 退院して来たばっかりだというのになんてことだと思いながら台所に立つ。鍋を洗い、食器を食洗器に並べていく。私の入院でカミさんは、相当に緊張した毎日を送っていたのだろう。その緊張から逃れるために、ジムへ行ったり、友だちとおしゃべりしていたのだろうが、退院となって疲れが一気に現れたようだ。台所をきれいにして、ヤレヤレとんだ退院日になったものだと思っていると、長女が母親を連れて帰って来た。

 「どうだった?」と聞くと、「インフルエンザだって。いい、パパとママは一緒に居たらダメだから、パパは北の部屋で、ママはこちらの部屋。必ずマスクしていてね。食事も別々の方がいいけど、食べる物はあるの?」と聞くので、「ウン、冷蔵庫を見て、今晩の献立は考えてある」と答える。長女のダンナも来てくれて、北の部屋に布団を敷いてくれた。また、パソコンのインターネットの接続を改善し、iPadの使い方も教えてくれた。

 退院して、ゆっくり湯船に浸かり、今晩からカミさんの隣りで寝られると思ったのに、入院生活よりも過酷な生活を強いられることになってしまった。誰が悪い訳では無く、避けられない運命なんだろう。能登半島の人々も、起きてしまった地震を恨むことはあっても、だからと言って今更どうしようも無い。現実は黙って受け止めるしかない。

 私は年賀状を出すことを止めた時から、「充分に生きて来た。いつ旅立ってもいい」と思って生きて来た。生き返ってしまった今も、いつでも旅立てる気持ちに変わりは無い。まだ、退院祝いのワインを飲んでいないので、早くワインを飲みたいと望んでいるが、血液をサラサラにする薬を飲んでいる間はダメだろう。2月のバレンタイン辺りが解禁日なのだろうか。カミさんはまだ昏々と眠り続けている。自分の意志で眠っているようだから大丈夫だ。

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退院して来ました

2024年01月26日 17時11分55秒 | Weblog

 今朝、退院して来ました。長い間、ブログを休んでいたためご心配をいただき申し訳ありませんでした。1月8日のブログを読んで、脳梗塞か脳出血かのどちらかだろうと察してくださった方の診たてどうり、脳梗塞でした。9日が定期の診察日だったのでクリニックの医師に手紙を書いて持って行きました。

 「1月5・6・7日、茨城県を旅行して来ました。7日の夜、みぞれ交じりの中を徳重駅から帰って来ました。寒さのせいか、血圧が210―123 脈拍が99もあり、足を温水に付け、身体を温めてから眠りました。8日の朝の血圧は128-69 脈拍は74でした。今朝は血圧が140-88 脈拍が83でした。

 気になる点は、

 ① ろれつが回らない

 ② 左足を引きずる

 ③ 左手の動きが悪い

 ④ 時々ふらつく           以上です」

 医師は診察の後、「すぐ大きい病院へ行ってください」と言う。それで、この辺りでは一番大きな病院へ紹介状を持って行きました。診断・検査して、医師が「入院してください」と言う。えっ、入院、なぜ?と思いましたが、入院するなら長女が勤めている日赤病院がいいというカミさんの主張を受けて、診断と検査結果の紹介状を携え、日赤病院へ救急車で送られることになりました。

 日赤でも検査を受け、病室に入ったことまでは覚えていますが、「ホントに大変だったんだから」とカミさんは言いますが、私にはこの後の記憶がありません。それからはベッドでただじっとしているだけの苦悶の毎日で、長女が気を利かせてiPadも持って来てくれたので、1月19日からは病室での日々を打ち込むことが出来るようになりました。これで、ブログの材料が整ったと思ったのに、iPadから私のメールアドレスに送っても開くことが出来ません。昨年末からメールの環境が悪いのか、時間がかかります。でも今日は、メールは届くのに開くことが出来ません。そこでいつも通りに書き進めることにしました。

 まあ、とにかく退院して来ましたので、これまで通りブログを続けます。よろしくお願いします。

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3日間とも天候に恵まれた

2024年01月08日 17時30分45秒 | Weblog

 2泊3日で茨城県つくば市に住む次女とその小3の娘も連れて、4家族10人で成田空港から千葉県の佐原市そして犬吠埼まで旅してきた。計画は全て長女とダンナのふたりが立て、つくば市でレンタカーを借りてダンナが運転してくれたので、私は乗っているだけで良かった。

 ダンナに言わせると全行程の走行距離は3百キロらしい。成田空港では反対運動の記念会館と、今も反対を貫いているという空港の中にあるペンションも見学した。記念会館の方は学生たちのヘルメットや旗、反対運動を伝えた地方新聞を見ることが出来た。

 会館の人に、「反対運動は今も続いているのですか?」と聞くと、「そういう人もいらっしゃいますよ」と言う。けれど、ペンションには人が住んでいなくて、Facebookから連絡すると1泊1千円で利用できるらしい。反対運動に参加していた夫が亡くなり、遺産があるというので受け取りに来た母子が手にしたのは、僅か1千円札程度の土地だったと会館の人から聞いた。

 反対のための1坪運動だったのだろ。成田空港はまだ2本の滑走路しかない。周りは雑木林と農地が点在していたから、滑走路を増やすのは容易なことでは無いようだ。ここから佐原市に向かったが、行ってみると古い町並みの残る観光地だった。

 伊能忠敬の屋敷跡もあり、水郷を利用した交易で栄えた町だった。外国人観光客も多くいて、賑わっていた。土蔵造りの酒蔵や古民家を改修したホテルに宿泊したが、外国人は日本の古き文化に喜んだだろうが、そんな家で育ってきた私には寒く感じた。

 翌日は市内観光の目玉、用水路から街並みを見学する船乗りにみんなは出かけたが、私はブラブラ癖が出て、別れて町中を歩き回った。昼ご飯を食べた後、2つ目の見学地の犬吠埼へと向かった。犬吠埼の海岸から太平洋に沈む夕陽を見る(写真)。

 3日間とも天候に恵まれ、子どもや孫、曾孫と楽しい時間を過ごすことが出来た。昨夜、帰宅した時はみぞれが降っていて寒かった。血圧が上がり、体温は下がってとても寒かった。長女の指示で足を温めて眠りについた。今朝、血圧も体温も平常値になっていた。

 ただ、左手の動きが鈍い。左足が上がらないのか引きずってしまう。バランスも上手く取れないから脳に異常があるかも知れない。明日は丁度、診察日なので先生に訊いてみようと思ってる。

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