友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

明日からは4月です

2016年03月31日 17時31分51秒 | Weblog

 高校野球の決勝戦、またしても息詰まる展開で、胃が痛くなった。そんな馬鹿なこと、たかが他人の試合ではないか、胃が痛むことなどあり得ない。そう言い聞かせたのにおかしいことに治らない。今年になって、時々胃が痛むことがある。いつも行く医者にそのことを話すと、「便に血が混じっていないか、検査しましょう」と言われ、結果は「大丈夫ですよ」だった。

 そうなるとストレス性胃炎なのだろうか。もうとっくの昔に卒業したと思ったのに、10年経ってぶり返すなんてあるのだろうか。どうも季節の変わり目は体調に異変が起きる。のんびりだらりと生活しているはずなのに、どこかでストレスをため込んでいるようだ。もう、お金を貯め込む手段がないからといって、ストレスを貯める必要はないのに、困ったものだ。

 安保関連法が施行された。私が小学校に入学した頃、式典では日の丸が掲げられ、君が代を歌った。それは新しい国家の建設に向けた歌声だったように感じた。もう2度と戦争はしないと固く決めたが、どのような国を創るのかは何もなかったと思う。戦争をしたことを深く反省するなら、戦争を進めた人が政治家にいるのはダメなのに、なぜその反省はしないのだろうと子どもながらに思っていた。

 自衛隊が生まれた時も、初めは警察予備隊であったが戦争に備える軍隊に変わった。それでも、災害時に出動する軍隊であった。慣れるということは恐ろしい。いつの間にか、外国から攻撃されたらどうすると何度も繰り返されているうちに、日本を守ってくれているアメリカ軍が攻撃されたら同盟国として役割を果たせるようにしようと、安保関連法が成立し、憲法9条「戦争の放棄」は完全に死骸となった。

 子どもの頃、世界で唯一戦争をしない国家であることが誇りだった。世界中に日本のような国が出来ていくようにと願った。けれども自民党政権は一度も倒れず、ますます強化されて現実的な対応に拍車がかかった。「理想論なんてただの空論」と言われ続けた。それでもまだ、子どもの頃のまま私は生きている。明日から4月、春である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

少女誘拐

2016年03月30日 18時02分47秒 | Weblog

 街で見かけた女の子が初恋の女性に似ていたので、略奪し養女として育てる。『源氏物語』の主人公、光源氏は11歳の女の子を奪い、そして理想の女性に育てていったことを、中学1年の女生徒を誘拐し監禁した事件で思い出した。高校生の私は、受験教育への反発から課外授業に出なかったので、『源氏物語』の研究者だった先生の授業を受けなかったが、こういう話だけは知っている。

 「君の両親が離婚するのでこれから弁護士のところへ連れていく」と言って女の子を車に連れ込んだというから、かなり用意周到だ。男がアメリカに留学していた時、そんな同類の事件を耳にしたのだろうか。大阪教育大付属池田中・高を卒業というから頭のいい男である。難関の千葉大学工学部に入学し、成績もよく授業をサボることもなかった。大学の関係者の話では、「真面目で礼儀正しい学生」であった。

 「両親が離婚」「君は両親に捨てられた」と言い、「逃げたらとんでもないことになる」と言う。絶望と恐怖で支配していったところは光源氏とは大違いだ。それでも男は、身長155センチの少女が160センチにまで成長していく様を「美しい」と思い、愛おしくなっていったに違いない。彼女への思慕が強まるほど、彼女に「絶望と恐怖」を与えることが薄らでしまったのだろう。

 女の子はひたすら逃げ出す機会を待っていた。それなのに男は女の子が逃げたいと思っているとは考えず、ひょっとすると、後何年かすれば光源氏がしたように結婚できるとまで夢想していたのかも知れない。誘拐してしまった当初は、少女が逃げたら警察に捕まると恐怖を抱いていたはずだが、結婚できれば誘拐ではなくなると夢見ていたのだろう。

 確か、好きになった女性を閉じ込めて自分のものにしようとした洋画があった。日本でも長期にわたって女性を監禁していた例がある。男はどこまでも女を自分だけのものにしたい動物のようだ。これを純粋というのか、阿保というのか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白鵬の涙と乙武さんの妻の謝罪

2016年03月29日 19時02分12秒 | Weblog

 横綱の白鵬が36度目の優勝を果たし、自身がもつ最多優勝記録を更新した。相撲史に残る快挙なのに、涙の記者会見だった。日馬富士との勝負で、白鵬は右手を相手の顔に当て、左へかわして突き落とした。4秒と言われる、余りにもあっけない勝負だった。横綱が変化するのはみっともないと以前から言われてきたが、おそらく無意識に身体が動いてしまったのだろう。

 大記録なのに、ヤジが飛び、席を立つ人までいた。白鵬は悔しさが涙となった。昔、大鵬が優勝した時も、「ロシア人の血が流れている」と揶揄する人がいた。モンゴル人も朝鮮人も中国人も、日本人とどこが違うのかと私は思うけど、なぜか忌み嫌う人たちがいる。歴史的に見れば日本人にはこれらの人々の血が流れているはずなのに、なぜ日本人ということに執着するのだろう。

 日本人らしいという意味で、乙武洋匡さんのカミさんがそう。乙武さんの行為について、「責任は私のもある」と謝罪文をツイッターに掲載した。ふたりで話し合った結果というのだから他人が口にすることではない。乙武さんはこの夏の参議院議員選挙で自民党が擁立する候補者だった。障害がありながら学校の先生を勤め、教育委員にもなって、幅広く活躍している。頑張っている乙武さんは絶対多くの票を集めるだろうし、自民党としてもよいイメージになったはずだ。

 乙武さんが無所属で立候補するとしても、カミさんが応援すると否では大違いだ。ふたりで話し合って決めたというのはそういうことだろう。次女も乙武さんの『五体不満足』を読んで彼のファンになった。誠実でひたすら頑張る姿は人々の涙を誘ったはずだ。その著書のおかげで有名人となり人柄が変わってしまったのかもしれない。金と地位は人を変えると昔から言う。

 先日、電車に赤子を抱いた若い夫婦が乗り込んできた。しばらくすると赤子が大きな声で泣き出した。すると私の席の前でスマホをいじっていた若い男が立ち上がり、その夫婦の前まで行き、「泣かさないで」と強い口調で言った。「あのね、赤ん坊が泣くのは自然なこと、夫婦も困っているでしょう。大目に見てあげなさい」と私は怒鳴りたかったがその勇気がなかった。何か世知辛くなっていないかと思うのは私だけなのか。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逆転勝ちとはならないが‥

2016年03月28日 17時34分49秒 | Weblog

 高校野球は準々決勝が見応えがあると言う。まさにその通りの試合で、観客としては少々疲れた。平日だから働いている人が多いのに、何をのんきなことを言っているかと叱られそうだが、毎日が日曜日の身としては実はやることがない。今朝は、役所から「児童公園の手押しポンプのプラステックカバーが壊れてしまったので、取り換えて欲しい」と要請を受けて、作業をしてきた。

 「朝飯を食べていない」と言う先輩のために喫茶店に入ったが、ほぼ満席だった。それも私たちのような年寄りばかりだ。先輩が「この前も、子どもたちが誕生日祝いをしてくれて焼肉屋へ行ったけど、席が空くのを待つ人が30人くらいはいた。夜の8時だよ。この街の人は外食が好きなのかねえ」と言う。先輩のところは家族が多く、人の集まる機会も多い。それだけ家族から慕われる年寄りなのだ。

 先輩は熊本の出身なので、やはり熊本の秀岳館を応援している。昨日は18本ヒットを打ち、16点と大量得点だった。勝ち進んできた第2回目にしては珍しい試合だったが、相手チームが気の毒だった。こんなに打たれたのに、ピッチャーは最後まで投げさせられた。きっと夏に向けての試練なのだろう。その秀岳館が今日は打てない。「大量得点の次の試合は打てない」と先輩が言っていた通りになった。

 千葉の木更津総合のピッチャーを打ち崩すことが出来ないまま9回のウラになった。これまでかと思っていたら、ツーアウトからヒットが出て逆転、2対1で秀岳館が勝った。その前の明石商と平安の試合も息詰まる展開だった。明石は愛知の東邦を破ったチーム、6回に1点を先制したのでこのまま勝つのかも知れないと期待したが、7回に追い付かれた。なかなか決着がつかない投手戦となり、延長12回ウラ、平安はツーアウト満塁と攻め、サヨナラヒットで勝ち進んだ。

 「ダメかと思ったらイカン」と先輩は口癖のように言うが、きっとそう自分に言い聞かせてきたのだろう。いつも逆転サヨナラヒットを打てるわけではではないが、諦めないことが逆転につながることは確かである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9転び10起き

2016年03月27日 18時46分46秒 | Weblog

 陽は差しているのに、空気は冷たい。午前中はまだそれほどでもなかったので、乾燥させておいた昨年咲いたサルビアをもみほぐし、種まきをした。農業をしている友だちは「発芽率が悪い」と教えてくれたが、毎年100株は必要なので、多少でも購入株を減らすことが出来たらと願って種まきをした。

 我が家のツツジはもうすっかり満開となった。チューリップはまだ開花はしていないが、咲きそうなところまで成長している。やはり今年は花の咲くのが早い。NHKの朝のドラマ『あさが来た』の主人公は「9転び10起き」と口にしていた。人生は7転び8起きどころではないという訳だ。

 日本の8は最大を意味するから、7転び8起きは何度くじけそうになっても立ち直ることを意味しているから、「9転び10起き」と言う必要がないのだが、そこはドラマが強調したいところなのだろう。ドラマの主人公はそんなに何度も挫折しそうになった印象がない。彼女の明るさがマイナスイメージをふっ飛ばしているのだ。

 経済は常に右肩上がりではない。この明治においても、戦争で景気がよくなったと思えばまた落ち込んでいる。経済は縛りの効かない生き物なのだ。社会主義国家は、計画経済で全ての人々が豊かさを手に入れることが出来るはずだったが、幻想に終わった。新自由主義は制約を排除し競争を激化させることで活性化を目指したが、格差社会を大きくしてしまった。

 国家間のGDPばかりに目が行き、中国が世界第2位となり、日本は第3と落胆している。本当は一人当たりの裕福度を調べた方がいい。生産高だけでなく、一人当たりの労働時間も問題にしてほしい。日本は生産人口(15-64歳)が確実に減少している。安倍首相は「有効求人倍率が高水準を維持しているのは、経済が好調な証拠」と力説するが、生産人口が減少しているのだから当然の現象で、景気が良いとは言えないだろう。

 人生も歴史も「7転び8起き」だ。いい時もあれば悪い時もある。冬が終われば春が来る。けれど、たとえそうだとしても、生きている私たちは生き抜かなくてはならないし、「幸せな社会(国家ではない)」を目指していかなくてはならない。「ときめき」も求めて。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

姜尚中氏の講演会

2016年03月26日 17時48分08秒 | Weblog

 名古屋国際センター主催の姜尚中氏の講演会に行ってきた。3人で行くはずだったが、ひとりは抽選に外れ、もうひとりは応募はがきを出し忘れた。午後1時30分の開会だが、12時30分から開場するというので早めに出かけた。会場に着くとすでに何人か並んでいる。それでも早かったため前から3列目に座ることが出来た。午後1時15分には満席になった。

 見渡すと私くらいの年齢が一番多い。勉強したいという気持ちが高齢者に共通にあるのか、それとも若い人は興味がないのだろうか。以前、「今度、大和塾で姜尚中さんを呼ぶことになった」と話したところ、同年の女性が「あの方は話がとっても分かりやすいわよ。テレビで見るより講演の方が説得力があるし、声に力がある」と教えてくれた。間近で聞くことが出来て、彼女の言う通りだと思った。

 小さなノートのようなものを持っていたから、話す内容は決めていたのだろうが、目を下に落とすことは一度もなかった。途切れることも、言い直すようなこともない。ヨーロッパは冷戦を終了した後、グローバル化を迎え、EUが生まれ、今はテロと難民問題に直面している。これに対して東北アジアは今も冷戦下にあり、グローバル化でもある。国同士はギクシャクしているが、経済は依存し合っているし、格差と貧困という同じ問題を抱えている。

 その通りだと私も思う。そこでどうしたらよいのか。姜尚中氏は「市民社会の成長」と「地域分散型社会」、この2点に解決の道があると言う。また、在日外国人の参政権について、「それは日本人が決めること」と指摘する。韓国と日本は年間6百万人が往き来している。こんな関係の国はない。まず、互いのことを知ることが大事なので、それぞれの教科書を副読本として使ったらどうか。大学の交流を進め単位の認定も認めたらいいと具体的な提案もした。

 大和塾は今年9月24日(土)に姜尚中氏を市民講座の講師に招く。グローバリズムとナショナリズムの問題も面白いと思ったが、願わくばもう少し、個々の生き方にかかわる話が聞きたい。姜さんの著書『心の力』で触れているような‥。いよいよと思う。楽しみだが緊張もする。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コメントください

2016年03月25日 17時47分40秒 | Weblog

 友だちが「中学校の井戸、修復が完成したのならフェイスブックに載せなよ」と言う。フェイスブックに慣れない私は、ブログを更新することにした。「はてなダイアリー」で、特定非営利活動法人おたすけの記事を書いて来たのに、すっかり忘れてしまった。昨年の10月に記事を更新した時も、どうやったのか思い出せなくてアタフタしてしたが、それで同じ記事を2度も載せてしまったが、何とか出来た。

 ところが今回は全く出来ない。「記事を書く」欄が出てこないのだ。このブログは友だちがやっていたものを引き継いだ。そこで友だちに「出来ない。もう一度手順を教えて」と哀願する。教えてくれたようにやろうとするが出来ないので、「IDとかパスワードは?」と聞くと、「もう必要ないと思って削除した」と言う。ならば、はじめからIDとパスワードを新しくすればいいだろうと試みるが、やっぱり出来ない。

 パソコン能力の低さに嫌気が差す。このブログも何年も続けてきたが、以前は写真の大きさも配置も変えられたのに、なぜか出来ない。そう言えば、このところ長い間、コメントが1通も来ない。読んでくれている件数は百人を超すのに、コメントが全くないというのも寂しい。パソコンに嫌われているのだと、勝手に擬人化して慰めてみるが、ただ大きなため息が出るばかりだ。

 長女のダンナは、「ため息をついたり、喜びの声をあげたり、そういうのを感情と言うのだけれど、人間にはこうした感情があるから動物とは違う世界を作り出してきたのだよ」と娘の卒園式で、PTAを代表してあいさつしたと聞く。とってもわかりやすく感動的な話だったそうだ。彼のフェイスブックを見たけれど、そのあいさつ文は載っていなかった。こんなに落ち込んだ時は、そういういい話に出会いたいものだ。

 高校の友だちが、「長い念願だった新聞部の集まりがやっと出来る」とメールしてくれた。昔を振り返ってばかりいてはダメだけど、そういう時がないと活力がどんどん無くなっていく。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分が言ったことなのに‥

2016年03月24日 18時28分21秒 | Weblog

 「手押しポンプが修復できたことを生徒に伝え、直してくださった皆さんを生徒に紹介したい」と校長が言われる。今日は修了式、体育館の壇上に上がることになった。校長は「殻を破る」と「井の中の蛙 大海を知らず」と大きく書かれた2枚を見せて、殻にこもっていてはダメだ、井の中のカエルになってしまうという趣旨の話をされた。そして、「中庭にある手押しポンプがこの方たちによって使えるようになりました。この方たちは殻を破り、夢を追ってみえます」と持ち上げてくださった。

 そして「代表して一言」とマイクを向けられた。私は「井戸の水が出なかった原因は長い間使われてこなかったからです。使われないと錆び付いてしまいます。好きなことに夢中になり、続けていってください」とあいさつした。この後、手押しポンプのある井戸へ行き、生徒たちと水汲みをするのだが、手押しポンプを覗くと水がない。まず、じょうろで水を注ぎ、柄を上下に動かして見せる。たちまち水が溢れ出す。こんなに水が途絶えることなく出ることの不思議を生徒たちは分かってくれただろうか。

 殻の中にいれば、安心で安全だろう。一生誰かの庇護の下に生活する人がいてもそれを非難することは出来ない。大海に出なくて済むなら、それで良いのかも知れない。挫折することもなく、自分を優位に思って暮らすことも人生だろう。中学生の時、私は何を考えていたのか。「夢に向かって進みなさい」と言われるが、どんな夢を描いていたのだろう。考えてみれば、好きな女の子がいて、その子と話がしたいと思っていたが、将来は何になろうとか、どんなことがしたいと考えたことはなかったような気がする。

 勉強して1番になりたいということもなかった。私の関心は、人はどうしていがみ合うのだろう、なぜ戦争は無くならないのか、人が生きている意味は何だろう、そんなことばかりだった。そのくせ友だちがエロ本を持って来れば、熱心に見た。自分で「好きなことを続けてください」と言っておきながら、続けてきたことは何だったろうと考えてしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家族ってなんだろう

2016年03月23日 18時15分20秒 | Weblog

 名演の3月例会は俳優座の『もし、終電車に乗り遅れたら‥』。原作は1937年生まれのロシア人で、終電車に乗り遅れた2人の青年が寒さをしのぐために上がり込んだ家でウソをついたことから展開された24時間の物語だ。その家には男の子がいた。その子に向かって、「実はこの男が君の本当の兄だ」と言ってしまう。男の子は家を出ていきたかったので、突然現れた兄に驚くが、幸いと思う気持ちもあった。

 帰宅した父親もビックリするが、青年の歳を聞いて、まだ結婚する前に愛し合った女性のことを思い出す。会ってみるとなかなかしっかりした青年だ。自分の息子がわざわざ訪ねて来てくれたと信じてしまう。上の娘は初め怪しむが、結婚してサハリンに行くつもりなので、兄の出現を歓迎する。家族のそれぞれの思いが交差し、とうとう本音がさく裂する。

 父親は子どもたちを愛し育ててきたのに、家を出ていく親不孝者と怒る。子どもたちは父親の愛情は家に縛り付けることでしかないと非難する。ニセの兄は、疑いを知らない人の好い父親を見捨てていいのかと真剣に思う。相模原市で中学1年の男子が自殺した。親からの虐待から逃れたいと児童相談所に救いを求めたが、親子関係は修復できると判断され、希望を失ったようだ。

 テレビは児童相談所の対応を問題にしていた。確かに親から切り離せば死なせずに済んだかも知れない。昨年の5月に少年がコンビニに逃げ込み、警察の保護となって、児童相談所が対応することになった。少年の両親も呼び出し、面接を行っていたのに、両親が面接を拒否するとそれ以上はかかわらなかった。そして父親とのトラブルが続き、少年は親戚の家で首をつって死んだ。

 両親は「虐待とは思っていない」「約束を守らなかったのでしつけをした」「理由もなく手を上げることはない」と言う。両親は再婚というから、父親は少年に受け入れてもらいたかっただろうが、少年の立場は考えていない。親は子どもに、ベストを要求することを『立派な子育てをしている』と思っている。それで子どもが思い通りにならないと、罵倒し殴ったり蹴ったりする。親から罵倒や暴力を受けて、「自分が全て悪い」と信じて疑わない子どもは少ない。自分が少年だったらと考えれば分かることなのに、無念だ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上は大水、下は大火事、なーんだ?

2016年03月22日 16時41分43秒 | Weblog

 今朝、中学校の教頭から電話が入った。まずはお礼があり、続いて、「実は水が出ないのです」と言われる。えっ、昨日はあんなに出ていたのにもう出ないとはどういうことなのか、しばらく考えて思いついた。中学校へ行き、手押しポンプを見る。確かにポンプには水がない。私は急いで手洗いのホースを引っ張って来て、手押しポンプに水を注ぎながら柄を上下してみる。水は勢いよく流れ出た。

 そこへ教頭・校長・校務主任がやって来た。「先生、やってみてください」と教頭に声をかける。「出ますね。朝、やった時は全くダメだったんですが‥」と教頭。「すみません。私がもう少していねいにお話すればよかったのですが」と謝り、「この手押しポンプは昔の型なので、ピストンをプラスチックに換えてもポンプの中の水が落ちてしまいます。その時は上から水を流しながら柄を上下してください。それで水は出ると思います」と説明する。

 私がそうではないかと思いついたのは、昨夜、今度小学校へ入学する孫娘が遊びに来て、「なぞなぞしよう。問題出して」と言ったことがきっかけだ。カミさんが「子どもの頃よくやったのはね、上は大水、下は大火事、さてなーんだ」と言う。大学生の孫娘も「えっ、それ何?」と考え込む。そこで校長にこの話をして、「なんだと思いますか?」と聞いてみた。校長も考えていたが分からない。答えは「お風呂」なのだが、6歳の孫娘は「シャワーの?」と聞き直すくらいだ。

 見たことも体験したこともないものは思いつかない。私たちは子どもの頃、風呂は木の桶でマキを焚いて入ったからこのなぞなぞに答えられるが、そんな風呂はもう無い。手押しポンプも写真では見たことがあっても使ったことがないから、呼び水をすることなど思いつかなかったのだ。生活のスタイルが変わってしまい、忘れられたことも多い。

 和式トイレは小便と大便に分けられているが、洋式は区別がない。男子は便座を上げて立って用をするが、最近では「周りが汚れるから座って用をして」と女性に注意されるので座ってする男性が多いそうだ。さて、この中学校の手押しポンプ、夏の高温に耐えられるかと心配である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする