友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

豚インフルエンザの次に来るもの

2009年04月30日 22時06分27秒 | Weblog
 井戸掘りとか畑仕事のように身体を使い、ひたすら黙々と作業していると何もかも忘れる。正確に言えば、忘れるというよりもひとつのことだけを考える。頭の中は妄想の世界である。肉体労働が一段落してしまうと、特別に追われるような仕事がないから、家に閉じこもって本を読むか、テレビを見るか、ぼんやりしている。のんびりしているのに、血圧が高い。医者が「ストレスですね」などと診断する。

 孫娘のストレスに比べれば、私は「肩がこるね」といったレベルだろう。孫娘は実父に「ママは元気か?」と聞かれ、「ウン」と答えた。「変わったことはないか?」と聞かれ、やはり「ウン」と答えた。とても「ママは結婚したよ」とは言えなかった。「嘘を言ってはいけない」と言われて育てられたから、嘘はつけない。だからといって本当のことも言えない。ママを守り、父を傷つけないために孫娘は必死で考え、「ウン」と答えたのだ。

 そんな個人的な悩みとは別に、世界は豚インフルエンザにてんてこ舞いになっている。人から人へ感染するインフルエンザだという。発生がどこでなぜなのか、全くわからないけれど、メキシコで取り上げられたと思ったら北米全体に広がっているようであるし、すでにヨーロッパでも感染者がいるという。東アジアの日本と中国は共同してこの豚インフルエンザと戦うと麻生首相は得意げに話していた。

 鳥インフルエンザに続いて今度は豚インフルエンザか。これからどんどん新しいインフルエンザが出てくるのだろうな。1970年から2005年の35年間に、脊椎動物である魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類の4分の1が絶滅したそうだ。2倍ずつ進行するのであれば、2040年には2分の1となり、2075年には全てが絶滅することになる。創り出される時は何億年もかかるのに、絶滅するのはあっという間である。

 人類の大きな転機と病原菌の感染はつながっていないだろうか。ヨーロッパでペストが流行ったのは中世から変わろうとした時であった。近世の入り口で地球が丸いことを発見し、大航海時代へと向かった。この時、タバコと梅毒が新大陸からヨーロッパに持ち込まれ、すさまじい勢いで広がった。エイズが広がったのは冷戦時代が終わり、アメリカを中心とするグローバリズムに突入した時代であった。梅毒もエイズも人間の快楽への罰であったが、インフルエンザは何に対する罰なのだろう。

 人間は小さな個人的な悩みも解決できない存在である。いやむしろそうであるからこそ人間らしく生きていられるのかもしれない。ところが一方で、科学は目覚しい発展を遂げた。優秀な人間を作り出す遺伝子の存在さえ見つけ出した。同じ生物を作り出すことも可能になった。300グラムの赤ん坊を育て上げることも出来る。そのうちに人のお腹を借りなくても生み育てるようになるだろう。

 こんなに科学は進歩し技術は発展したのに、貧困は救えないし、戦争は阻止できない。そればかりか殺人や傷害やイジメもなくならない。インフルエンザ騒ぎの次には何が来るのだろう。
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大人になってきた孫娘

2009年04月29日 21時39分00秒 | Weblog
 孫娘を見ていると、中学2年までと3年になった今とでは大きな違いがあるように思う。これまではただ聞いていただけだったのに、はっきりと自分の意見を言うようになった。学校そのものが2年と3年では大違いの雰囲気があるようだ。進学はしないとあきらめた子どもたちは、学校へは給食を食べに来るだけだと言う。先生も問題を起こされるよりはその方がよいと思っているのか、彼らの行動には目をつぶっている。

 全く勉強なんかやる気はない。いやむしろ、この何年間か勉強からそっぽを向いてきたのだから今更勉強しようとしてもさっぱりわからないし、ついて行く事も出来ない。授業後に残して個別に教えればまだ理解できるのかもしれないが、始めっからやる気がない人間を大勢の中で教えるには無理がある。だから、仕方がないのでお客さんでよいから静かにしていてくれということになる。そうなれば、彼らだってのけ者にされていることはわかるから、時々は存在を示したくなって暴れるのだ。

 教師をしていて一番悩むところだ。昔、クラスの子どもで数学が出来ない子に数学の担当者にお願いして授業後に面倒を見てもらったことがあった。「わかった時はとてもうれしそうな顔をするよ」とその先生が言ってくれてうれしかった。誰だって、自分が馬鹿のままでいいなんて本当は思っていない。誰だって、分からないことが分かればうれしい。「出来たね!」とほめられれば、もう少しやってみようと意欲が湧く。

 けれども現実の学校ではそんな余裕はないようだ。孫娘は落ちこぼれてしまいそうな子どもたちから頼りにされているみたいだ。親ならそれは心配の種なのだろうけれど、ジジババは意外に余裕を持ってみることが出来る。とにかく、孫娘の話を一通り聞こうという姿勢がある。これが我が子の時であったなら、「そんな子とは付き合ってはいけません」とか「そんな暇があるなら勉強しなさい」と頭ごなしに押さえつけていたであろう。

 この歳になり、ああそうなのだと思うことがある。たとえば、子どもが果物とか菓子とかを母親や父親にあげようとして残しても、「せっかくあなたのために買ってきてあげたのにどうして食べないの」と理由も聞かずに怒ったりしなかっただろうか。子どもと一緒に食事をしようとか、買い物に行こうとか、映画でも何でもいいが、子どものためと思って楽しい計画を立てているのに、いつまでも帰ってこないと、だんだん腹が立ってきて「いつまで遊んでいるのよ。いい加減にしなさいよ」と怒鳴ってしまうことはないだろうか。

 どうしてこんな時、相手の気持ちを汲む余裕がないのだろう。子どもだっていろいろ事情がある。それを聞いてから話すべきなのに、自分の感情の方が先に爆発してしまうなら、子どもは何が何だかわからないだろう。大人というものは理不尽なものなのだと思ってしまうだろう。孫娘も、母親と父親が勝手に離婚してしまい、それで自分をどう位置づけてよいのか、戸惑いと不安の日々を送っている。そのことが彼女を大人にしているのかなとも思うが、大人になってきたことは確かだ。
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「お友だちの話がありませんね」

2009年04月28日 22時17分29秒 | Weblog
 「この頃、先生のお友だちの話がありませんね」と卒業生が言う。12年以上も、友だち以上恋人未満の女友だちがいる私の中学・高校からの友だちのことだ。卒業生と言っても、私と年齢の差は余りない50代だ。私が中学・高校からの友だちの話を書くのは男と女のことを興味本位に煽るためではない。私は彼をよく知っているし、友だち以上恋人未満を続けていることに疑いの余地はない。

 それで彼が満足なのか?と言えば、きっとそこには葛藤が存在するだろうことも確かだ。けれども、自分が置かれた状況が見えずあるいは見ようともせずに、のめりこむ人もいれば、彼のように決して一線は踏み越えない強い意志の人もいる。踏み外して地獄を見るのか、留まって友だち以上恋人未満を続けるのか、それぞれの人の生き方の違いなのだろう。

 「ひょっとすると、お友だちと書いているけれど、先生自身のことではないですか?」と彼は言う。ズバリといいところを突いてくる。残念ながら私のことではない。私は彼のように冷静沈着でいられず、猪突猛進してしまう。それよりも私が感激したのは、そんな風に読み込んでくれる人がいるということだ。

 私はいつも自分の心に嘘をついて書かないと決めている。だから自分の中では真実を綴っているつもりだが、自分のことはそれでよいけれど、家族のことや友だちのこととなると書いていいこととまずいことがある。いくら具体的な名前が出ていないからといってもその辺の配慮はしているつもりだ。

 私の友だちの中にも彼とは全く違う遊び人もいる。何人もの女の人を泣かせてきた人もいる。真剣に恋をして泥沼に入り込んでいる人もいる。私が、中学・高校からの友だちの生き方に関心があるのは、大げさに言えば人間とは何か、男と女はなぜ愛し合うのか、求め合うのか、人が生きるということはどういうことなのか、人はひとりでは生きられないことは確かなのに、愛し合う形はどうして様々なのだろうという疑問からだ。

 私は見極めたいと思っている。自分自身が何者なのか。人類の普遍と個人の価値を。人間が作り出してきた社会には必ず法則があるように思うけれど、それはどうなっているのか、人間自身が作り上げたものとその対象である自然が生み出してきたものの、相乗的な何かがあるように思う。

 こんなことは私のような者が考えなくても、世の中には優れた学者や専門家がいるし、実はもう答えを出している人もいるのかも知れないが、肝心なのは私自身が自分で納得したいということなのだ。欲深いというか身の程知らずというか、それでもそれが私なのだと開き直って生きていくつもりだ。
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名古屋市長に河村さんが当選

2009年04月27日 22時32分13秒 | Weblog
 名古屋市長に河村たかしさんが当選した。過去最高の得票だという。それだけ多くの市民が河村さんに期待したというわけである。「これから名古屋が面白くなる」と言う人たちも多い。ぜひ、庶民革命を実現してもらいたい。そう思うものの、その前に、河村さんの庶民革命の中身を語って欲しいと思う。

 当選の際の記者会見で、「お金を払っているお客さんに10%戻す。こんなことは日本で始めてのことだでよ」と発言していたが、市民はお客さんではない。市政の当事者である市民をそんな風に言うこの人の認識はどうなっているのかと思ってしまった。

 任期満了で退職した松原前市長が「世論を背景にする手法もあるが、取り返しのつかない傷がつかないようによく勉強して欲しい」と注文をつけていた。34歳の若者に敗れた松阪市の前市長が「市長は若くて経験が足りない」といったことを辞任の挨拶で述べたそうだ。松原さんも同じだが、こういう時は潔く後進を称える度量が欲しいものだ。「若い市長を守り立て、松阪市をより発展させていって欲しい」とか「多くの市民の期待にこたえられるように、職員は新市長を支え、名古屋市の発展に尽くして欲しい」と。

 松阪市の山中市長が議会とどのように対決しているのかよくわからないけれど、この7月に行なわれる市議会議員選挙では市長を支持する若い候補者が何人か出馬するようだから、議会の構成もかなり変わるだろう。山中市長はまずそこから議会とのやり取りが始まると考えているのかもしれない。名古屋市議会は特別意識が強い議会だから、河村市長の手腕が発揮できるか難しいところだ。

 圧倒的な人気で大阪府知事となった橋下さんのようにだけはなって欲しくないが、なんとなく似たところがあるような気がしてならない。誠実さにも街づくりビジョンにも欠けているように思う。発言もころころ変わるし、目立ちたがるところもよく似ていないだろうか。

 全国的にみれば、確かに変わり者の知事や市長が誕生してきている。やっと「地方の時代」が本物になってきたのかもしれない。身近な自治体に市民がより関心を持ち、そして直接参加していけば、政治の仕組みも少しずつ変わるのかもしれない。鍵はなんといっても「市民参加」あるいは「市民自治」であろう。

 河村さんが市議会を説き伏せ、各校区毎に「市民委員会」を作り上げていけるのか、興味深い。アメリカの西部劇を見ていた時、圧倒的な権力を持つ市長がいる町もあれば、フランスのコミューンのような委員会が権力を持つ町もあったが、河村さんはどのようなイメージを持っているのだろう。
 
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家から一歩も出ずにいた

2009年04月26日 18時52分22秒 | Weblog
 昨日と今日、家から一歩も出なかった。人に会うことがないと無精になり、ヒゲも剃らずにいた。無精ヒゲは貧相に見えるというけれど、鏡に映った自分を見ると全く生気がない。そうか、こうして自ら年寄りになっていくのかと思った。男がヒゲを剃り髪を整え、女が化粧をして紅を差す。ヨレヨレの服ではなく、綺麗な身だしなみに心配る。それをしなくなった時は人としてダメになる時だと聞いたことがある。

 還暦を過ぎてから身近な人の消息をよく聞くようになった。胃ガンで入院したとか、肺ガンだったが手術は出来なかったとか、ガンの話は実に多い。朝、手の痺れが気になって病院に行ったら脳梗塞だったとか、趣味のコーラスの最中に脳血栓で倒れたとか、そういえばあの人も入院しているとか、あの人は亡くなったとか、そんな話ばかり聞く。

 「いずれ死ぬのだから、先に逝くかどうかの違いなどたいしたことではない」と言えば、「誰が先に死ぬかではなくて、誰が最後まで生き抜くかでしょう」とカミさんにやられた。人には確実に死がやってくるけれど、人は死ぬために生きているわけではない。人は誰もが自分の人生を生き抜くために生きている。そう考えれば、生きていることは恥や苦痛もあるけれどそれ以上に楽しみである。そう、生きていなければ確かめることも味合うことも出来ないのだから。

 NHKテレビの『ためしてガッテン』を見ていたら、介護者の負担にならない介護の仕方を取り上げていた。その中で90代の夫が同じく90代の妻を介護していた。何とか妻を車椅子に乗せて、「花の咲く時には花を、実のなる時には実を見せてやりたい」と夫は言う。けれども腰を痛めたら介護が出来なくなるから、車椅子に乗せてやることが出来ない。テレビはそんなケースでもこうすれば出来ると報じていた。

 介護の仕方を見て、夫婦で実際にやってみたという話も友人から聞いた。そうした介護の方法をマスターすることは大事なことだ。私は「花を見せてやりたい」と言うおじいさんに感心した。一緒に暮らしてきたということはこういうことなのだろうと思った。何かを共有することに意義がある。それはどんなにささやかであろうとかまわない。誕生日に1個のりんごをむいて食べる、赤飯のおにぎりを分け合って食べる。他人からみれば馬鹿げたことでも、二人にとってみれば大事なことなのだ。

 カミさんは娘たちのことを気遣って、「無理して来なくてもいいからね」と言う。仕事を休んだり、あるいは周囲に迷惑をかけてまでして「来なくてもいい」と言うのだけれど、言われた方には「来なくてもいい」という言葉が強く響くから、拒否されているのかと思ってしまう。「そんなに気を遣うことないよ。来るかどうかの判断は向こうに任せればいい。この日は家で食事会をするからおいで、くらいにしておいたら」と思うが、そんなことはどうでもいいかと思い直す。
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いろんな形があっていい

2009年04月25日 19時53分55秒 | Weblog
 夫婦にはいろんな形がある。特に還暦をすぎた夫婦は面白い。それまでは働いていたから一緒に生活していると言っても、相手ときちんと向き合っている時間はわずかである。土・日曜にどこかへ出かけたりしても、そこでは一面を垣間見るに過ぎない。もちろん恋愛結婚であろうと見合い結婚であろうと、相手を観察する期間はあったはずだが、結婚して、意外な面を見たあるいは見せられたとしても、こんなもんかと受け入れてきた。

 ところが退職し、家の中に二人でいる時間が長くなると、意外な一面が嫌な一面に変わってくる。今の若い夫婦ならば当然である家事の分担も、私たちの年代ではすんなりといかない。妻の方は、これまでは夫の方の収入に頼って生活してきたけれど、今は年金生活だから家事も平等とは言わなくても、ある程度は分担してくれてもよいはずだと思っているのに、夫の方は未だに「おい、お茶!」「風呂沸いてるか」と変わらない。

 家を建て直したけれど、夫は自分がいろいろやれる部屋があるのに、妻には篭ることの出来る部屋がない。「男女平等なんて言ってもまだまだ男尊女卑よ」と妻は憤る。台所も居間も寝室も「全てがカミさんが支配しているのに」と夫は言うけれど、妻からすれば「そんな共同生活の場ではなく、あなたのようにひとりで何でもできる部屋が欲しい」と言うのである。

 定年後は同じ趣味を持っていれば楽しいだろうと、ゴルフも水彩画も同じ教室に通った夫婦がいる。けれども、今では別々のグループに分かれたし、水彩画ではなくパステル画に変えた。相手のことを評論したりしないためだ。一緒に行動しない夫婦もいる。夫はアウトドア派で、休みの日はゴルフだ釣りだと出かけていく。若い時は釣りにも「一緒に行くか」と誘ってくれたけれど、今ではどこへ行くとも言わない。

 妻の方は映画や芝居や音楽や美術に関心が高いのに、夫の方は全く無関心という夫婦もいるし、その逆もある。妻たちが集まって夫の愚痴を話す時も、「ウチは愚痴を言うほど幸せではないのよ」と言う人もいれば、「尊敬できることが夫婦なのよ」とか「何でも知ろうとしないことが円満の秘訣ね」と言う。夫婦であっても時には他の異性に心を奪われるから、知らない振りをすることも大事だというわけだ。

 夫たちからもいろいろ言い分はあるだろうが、男たちは「家庭的な面」を抜いていた時もあって、こういう話は分が悪い。「妻のことも相手のことも大事に思うなら、何も言わないことだ」と先輩たちは言う。妻たちが定年後の生活を重荷に感じるように、夫たちもまた快適とばかりに思っているわけでは決してない。求めすぎれば角が立つ。

 経験からすると夫婦には妥協が肝心だろうけれど、妥協が先に立ってはいけないのではないか。いずれにしても本当のところはわからない。人生はそんなものなのだろうが、もう少し生きていけば答えはあるのかもしれない。
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泥酔はよくないが‥

2009年04月24日 21時46分55秒 | Weblog
 帰宅してしばらくパソコンに向かっていたら急激な睡魔に襲われた。このところ毎日、朝早く起こされしかも肉体労働が続いていたけれど、多少の疲れはあるとしてもまだまだ自分では若いつもりでいた。やはり、疲れが溜まっていたのかな、それとも年齢には勝てないということなのかな。こういう時はちょっと横になるに限る。

 眠い時には横になる、こんな当たり前のことが出来るのは幸せだ。そこで草薙剛くんのことを思い出した。彼がどうして夜中の公園で、素裸になって大声を上げていたのか、その事情はわからないけれど、その気持ちはよくわかる気がする。

 私自身はお酒を飲んでも大声を上げる習性はなかったけれど、お酒を飲んで前後不覚になったことは何度かある。大きな失態は学生時代に3度起こしている。1年の時の学園祭で、先輩に勧められて飲んだ時、この時は家まで帰る道で塀や電柱が私にぶつかってきて困った。3年の教育実習の時、先生たちと飲んで帰った時は全く覚えていない。電車に乗らずに歩いて帰ったのか、それともどこかで途中下車したのか、断片的に覚えていたのは稲田の中をなぜか歩いていたことだった。翌朝、洋服も靴も泥まみれだったから、稲田を歩いていたことは確かであった。

 4年の時はあわや命を落とすところであった。大学の先生に勧められて東京で働いていた。日曜日に先輩に誘われ、お昼から銀座に出てお酒を飲み、シャンソン喫茶や飲み屋やスナックやの梯子酒だった。最後にスナックに行ったこともでは覚えているが、次に正気になったのは水の中だった。思い出すとタクシーに乗ったけれど途中で嘔吐して運転手さんに怒られ降ろされた。その後は全く記憶がない。後からわかったのは川に落ちたということだった。

 飲み過ぎるとやたらと人に絡む友だちがいたが、今の私の周りにはそんな酒癖の悪い人はいない。草薙剛くんも「全く覚えていない」と言うから、相当な量のお酒を飲んだのだろう。それと、その時の雰囲気にも左右される。私が前後不覚となったのは3回とも先輩と一緒に飲んでいた時だ。そして、先輩たちの生き方をうらやましく思い、自分はまだまだ未熟とか時代に遅れてきたとか、そんな悔しさを抱いた時だった。

 それにしても、酔っ払いが公園で素裸になって大声を上げたくらいで逮捕とはおかしいのではないだろうか。どうしようもない酔っ払いは警察に保護されることはあっても逮捕はないだろう。芸能人が裸で大声を上げている。そこですぐに「薬をやっているのではないか」と考えた。だから尿検査もしたし、家宅捜査もした。けれど、それって警察権力の勝手な思い込み捜査だろう。

 何だか世の中少しずつ、息苦しくなってきていないか。巨人対中日の試合は延長戦で、巨人ひいきの孫娘は恥ずかしいくらいの大声を上げている。孫娘の母親と全く同じことをしている。たまには大声もヨシとするか。
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手押しポンプを設置

2009年04月23日 22時17分42秒 | Weblog
 桜が終わったばかりなのに、すっかり初夏の装いだ。街路樹のツツジはもう花を咲かせているし、ケヤキは若葉が萌え出て大きく広がってきた。藤も咲きつつあるようで、藤の名所では早くも藤祭りが始まっているそうだ。

 瀬戸から多治見の方へ広がる尾張丘陵に自生するヒトツバタコ、通称ナンジャモンジャも花が咲いて、樹に雪が積もったようになっていた。ショウブは見なかったけれどアイリスはすでに花をつけていたし、ボタンもあちらこちらで開花が告げられている。

 そんな花たちに比べると昆虫はなぜか淋しい。新聞やテレビで、ミツバチが少なくなっていると報じられていたけれど、そういえば最近、モンシロチョウを見なくなった。春になれば、モンシロチョウが飛び交い、カエルがゲロゲロと鳴く、そう思ってきたけれど、このマンションの近くではすっかり田んぼがなくなって、カエルの鳴き声も聞かなくなった。

 花たちは一斉に咲き始めたけれど、昆虫はめっきり見なくなった。物知りにその原因を尋ねると、「やはり農薬でしょう。無農薬栽培と言うけれど、虫は徹底的に除去されてしまっていますから」と言う。「それに地球規模の異常気象も関係しているかもしれなせんね」と言い、「人間のオスの遺伝子が危機的なのと同じように、地球上のオスの遺伝子が危機的なのではないですか」とも言う。

 彼には30代の息子が二人いるが、二人とも結婚していない。「結婚なんて馬鹿らしくてする気がないと言っている。近頃の若者は、車も女も海外旅行も、何も興味がないと言う。一体何が面白くて生きているのか、よくわからん」。するともうひとりが、「昔は赤線だ、トルコだ、キャバクラだといった風俗で性欲を処理した。近頃の若い奴はそういうところへ行こうともしない」と言えば、物知りが応じて、「今はそんなところへ行かなくても、普通のお嬢さんがすぐに寝てくれる。女の方が積極的で、男はSEXもめんどくさいと言う。風俗へ行くのは今じゃー年寄りばっかりだ」。

 時にはそんな真面目なのか不真面目なのか、わからないような会話をはさみながら、時にはものすごく、どう仕上げるかで激論したりして、作業が進む。井戸掘りを始めて5日目、手押しポンプ1台と電動ポンプ1台の設置が完了した。緑の芝生の一角に手押しポンプを据え置きたいという依頼主の希望もあり、日本の各地で見られた手押しポンプとはちょっと違うタイプのものとなった。確かに芝生にはこのタイプが似合うようだ。
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熊谷守一記念館を訪ねる

2009年04月22日 22時06分33秒 | Weblog
 岐阜県中津川市から下呂へ向かう途中に付知がある。付知川の上流に付知峡があり、その奥には不動の滝がある。一度しか行ったことはないが、なかなか見事な滝だったと記憶している。その付知には熊谷守一記念館がある。以前は付知峡へ折れる反対側に個人的な記念館としてあったものを、アートピア付知プラザに移されたと聞いた。

 私が知る熊谷守一さんは、デザイン画のような絵を描く人で、とても長生きした画家という程度だった。先日、松坂屋美術館で展覧会が開かれていた片岡球子さんも同じように長生きした画家だ。片岡さんは型破りな構成と大胆な色使いの作品が多いけれど、熊谷守一さんの作品は平面的で色使いもおとなしいが、二人ともちょっと変わった絵だ。

 熊谷守一さんは1880年4月に岐阜市の初代市長、熊谷孫六郎の三男として生まれている。1900年に東京美術学校西洋学科選科に入学、同期生に青木繁さんや山下新太郎さんがいる。理由はわからないが1910年から付知などの裏木曾の山中で日傭生活を6年間もしている。才能を惜しむ友人らの勧めでやっと上京し、再び制作に向かったようだ。

 結婚は遅く、42歳の時に24歳の秀子さんと結ばれている。それでも不思議なのは、記念館に掲げられている二人の写真を見るとほとんど歳の差を感じない。記念館には熊谷さんの晩年の作品が多い。作品とともに熊谷さんの言葉が掲げられていて、読むとなぜかほっとする。秀子さんと二人で自由にのびのびと生きている、そんな様子をうかがい知ることができる。

 「へたも絵のうち 絵はそう難しく考へないで それ一番よくわかるんじゃないかと思います 九十六才 一九七五年」

 「先生が一生懸命しゃべっていても、私は、窓の外ばかり眺めている。雲が流れて微妙に変化する様子だとか、木の葉がチラチラ落ちるのだとかを、あきもせずにじっと眺めているのです。実際、先生の話よりも、そちらのほうがよほど面白かった。先生は、しょっちゅう偉くなれ偉くなれと言っていました。しかし、私はその頃から、人を押しのけて前に出るのが嫌いでした。人と比べて、それよりも前のほうに出ようというのが嫌いなのです。偉くなれ偉くなれといっても、皆が偉くなってしまったらどうするんだ、と子供心に思ったものです」。

 「私は、ズルいことが出来ないから辛い。ズルが出来れば少しは楽なんでしょうが、それが出来ない」。

 「このごろは、私の昔の絵を持ってくる人が時々居ます。本当に私が描いたのかどうか確かめに来るのですが、貧乏していた頃の絵で、すっかり忘れてしまっていたのを見せられたこともあります。その絵を見ながら『貧乏しなければかけない絵だな』と自慢したら、妻のほうは『いい絵でも描かなければ、あんな貧乏した甲斐はないでしょう』と言っていました」。

 熊谷さんは97歳で、片岡さんは103歳で永眠されたけれど、長生きした画家は言うことが違う、とても正直だと思った。
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「疑わしきは罰せず」

2009年04月21日 22時03分32秒 | Weblog
 和歌山毒物カレー事件の被告に対し、最高裁判所は「死刑」の判決を下した。被告の自白もなく、状況証拠だけで、「被告以外に犯人は考えられない」という決定である。被告は1審では黙秘を貫いたけれども、2審からは「自分はやっていない。無罪だ。犯人は他にいる」と主張してきた。毒物カレー事件が発生し、犯人はあの人ではないかと噂されるような時期に、マスコミからの攻勢に対し被告は余りにも態度が悪かった。状況証拠となるようなものが余りにも多かった。

 先日、最高裁の判決で痴漢行為の犯人にされていた大学教授が無罪となった。毒物カレー事件の被告もきっと希望を抱いたことであろう。けれども判決は希望とは違った。痴漢事件の犯人とされた人も、被害者の証言だけだった。けれども考えてみると、痴漢事件は被害者の証言がある。それに対して毒物カレー事件は「カレーのそばにひとりでいたのを見た」という証言があるだけだ。毒物を入れていたということではなく、「なんとなく不審な行動」というものだ。

 事件を結果から見るとどんな行為も不審に思えてくるし、どんどん先入観が働くようになってしまう。マスコミ報道でしか私は知らないが、このアヤシイと言われている女性が真犯人だろうと私も勝手に思っていた。被害者の関係者は、絶対に犯人を探し出し、極刑になってもなお納得できないくらいの気持ちなのだろう。警察も犯人を見つけられなくては権威失墜であるから、とにかく誰かを捕まえなくてはならない。

 痴漢事件の犯人にされた大学教授は、無罪判決にホッとしたと思う。生死ではなく、名誉のレベルであっても、それで一生が決まってしまう。これからの人生だけでなく、これまでの人生も判決によっては白黒どちらかに決められてしまう。もし、有罪の判決であったなら、死んでも死に切れない思いであっただろう。ましてや毒物カレー事件は有罪なら死刑である。

 毒物カレー事件の被告も今頃は発狂しそうな思いで夜を迎えているのかも知れない。誰だって、自分がやっていないのに状況証拠だけで「お前しか考えられない」と決め付けられてはかなわない。「犯人ではないのに犯人にされ、死刑を言い渡されたのでは誰に何を言えばよいのか」。毒物カレー事件の被告は裁判を甘く考えていたのかもしれない。また逆に正義は必ず無罪と言ってくれるだろうと思っていたのかもしれない。マスコミを相手にお調子に乗りすぎた。

 でも、だからと言って「やっていない」と言う人を死刑にしてよいのかと私は思う。いや、犯人に間違いないと言うのであれば、やはり「動かぬ証拠」が必要だろう。自白もなく、決め手となる証拠もないのに死刑としていいのだろうか。学校で法について最初に学んだ言葉は「疑わしきは罰せず」であった。痴漢事件では二人の裁判官が「有罪」であったが、結果は疑わしきは罰せずと原則どおりの判決となった。
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