友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

素数の不思議?

2010年06月30日 21時53分44秒 | Weblog
 サッカーW杯の昨日の試合は残念だった。残念だったけれど、日本チームもパラグアイチームも力の差がないことを証明してくれた。1点も取れなかったけれど、1点も取られなかったのだから、まさに互角だろう。「PK戦で負けたのはもっと悔しいよ」と、高1の孫娘は言うけれど、点を取られなかったのだから、どちらが次に行ってもおかしくない。今回はパラグアイに譲ったと思えばいいのではないだろうか。

 それに、パソコンでW杯を見ていたら、美人サポーターを紹介するコーナーがあったけれど、「パラグアイの美しすぎるサポーター」が残らないのは寂しい気がする。よくまあ、そんなイヤラシイと非難されそうだけれど、男たちが見ているのはサッカーの試合だけではないということだろう。甲子園大会でも応援席の「美しい女子高生」が特集されたこともある。非常識ということからか、近頃ではそうした特集はなくなったけれど。

 そんなことはどうでもいい。青少年健全育成運動とかで、「悪書追放」が叫ばれていたが、こういう運動が行なわれないとなかなか表から消えないことは事実だろう。人の心の中には昔から、善と悪とが存在し、その葛藤が人をよりよいものへと導くと言われてきた。でも、本当にそうなのだろうか。人の心には相反するものが存在するのだろうか。もし、そうであるなら、どうして神様は善を創ったのに悪も創ったのだろう。

 テレビで「素数の謎」をやっていた。2とか3とかいうあの割れない数のことだ。4は2で割れるけれど、5は割れないが次の6は2でも3でも割れる。7は割れないが次の8、9、10は割れる数だ。次は11、13、17、19と割れない数は続く。私は知識がなかったので、3桁の数ならほとんどが割れるだろうと思っていた。ところが、割れない数はもっと先まで続くようだ。

 それはそれで面白いとは思うけれど、いったいそれを追求することで何が明らかになるのだろうかと思ってしまう。ところが数学者は、2、3、5、7、11と続く数に、法則が隠されているのではないかと躍起になっているそうだ。それはそうだろうと私も思う。何か、法則が存在しても不思議ではない。私たちが住むこの世界はいろんなことがある。神様が私たち人間を試してみえるような不思議が存在する。

 私たち人間が、神に近づくことは不可能だと思うけれど、神様は人間が神に近づくことを喜んでおられる。だから、人間がこの地球の謎に迫ったことを許されているのだろう。どんなに人間が、神様が創った法則に迫ったところで、1センチの半分を極めていくようなもので、決して対岸と一緒になることはないのだ。人間には、ものごとを数で表すことで、そこに何らかの法則とか数式を見出そうとするタイプと、これとは全く対照的な数が飲み込めないタイプが存在するようだ。

 今日は朝早くから、瀬戸の丘陵地に開かれた墓地の井戸を見に出かけた。立派な墓地であったけれど、檀家は少ないようで、井戸の管理もままなら無い現実にあった。ここには数の不思議さなどは問題にされないようなドンとした落ち着きがある。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信念を曲げないところがいい

2010年06月29日 20時18分38秒 | Weblog
 巷ではこれから行なわれるサッカーW杯の試合で盛り上がっている。予想では2対1で、日本チームがパラグアイに勝つそうだ。大会の前までは、練習試合の4連敗が響いてか、「1勝もできないのではないか」とさえ言われていた。それが今では「ベスト4に残るのではないか」と言われている。期待が勝手に歩き出している感じだ。だから当然、岡田監督の評価も大きく変わってきた。

 「自分の信念を貫くことができる人はトップに立てる。岡田監督も、小泉元首相も、自分の考えを曲げなかった」とまで、高く評価する人がいた。「本田が凄いのも、言うだけでなく実際にやってしまうところ」と、岡田・小泉・本田を一緒にして持ち上げてもいた。岡田監督がどういう人で、何を考えているのか、私は知らないので外見だけの判断だが、胃が痛むような毎日を送っているのではないだろうか。それくらい神経は細かい人だろう。

 しかし、先ほどの話ではないけれど、いろいろあって、いちいち対応していてもしょうがない、負けても勝っても同じことなのだから、自分の思うとおりにやってみようと腹が決まったのだろう。菅直人首相は、自分の信念は消費税の値上げなのかも知れないが、先走りすぎているように思う。小沢一郎前幹事長が「約束が守れないようではダメだ」と吠えているそうだが、そのとおりだろう。民主党は政権を取る前に、国民に言ってきたことをまず何よりもキチンとやるべきだ。やってから、物を言えと私も思う。岡田監督を見習って欲しい。

 孫娘は、自分が行きたかった高校に入れなかったので、不本意ながらも水泳ができる高校を選び通っている。スイミングスクールではそこそこの成績だったから、この高校ならトップの選手になれると思っていたはずだ。ところが今年、水泳部に入ってきた子たちは全く違っていた。みんな結構速い。水泳に長けているばかりでなく、成績がクラスでトップの子もいれば、生徒会の役員を引き受けている子もいる。どこへ行っても、何をするにしても、どうも孫娘はトップにはなれない運命にある。

 そんなのだから、腐るかと思ったが逆だった。「水泳もやる気になった」ばかりか、「2学期からは腰据えて勉強する(なぜ、2学期からなのかは分からないが?)、「いい高校に入ったと思う」などなど、とても充実した日々にあることを伺われるような明言をしている。中学ではどちらか言えば、勉強のできない子の面倒をみる立場で、同じ位の成績の子とは親しくする機会が無かったように思う。それが高校生になって、自分よりも成績がよくて、しかも水泳に全力で取り組んでいる仲間に出会えたようだ。

 高校時代は中学生の時とは違う、大人へ向かう大事な時期だ。そこでどんな人に出会うかはこれからの人生に大きく作用する。素敵な仲間に出会えたと孫娘が思っていることが一番いい。孫娘は信念を曲げず、ちょっと頑固すぎるくらいだが、これからが楽しみな気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音の世界は面白い

2010年06月28日 21時42分26秒 | Weblog
 暑い。これだけ暑いと本当に何もしたくない。ジッとしていても汗ばんでくる。とうとう我慢できずに倉庫から扇風機を持ってきた。これからまだ暑さは続くのだろうけれど、「暑い、暑い」と言いながらも夕方になれば涼しくなるし、夜になればすっかり暑さも忘れてしまう。これは地表から30メートル上にある我が家の利点である。しかし、我が家は西側にも窓が開かれているので、天候のよい夏は強い西日が部屋中に差し込んでくる。

 今朝、友人がゴウヤとアオシソとオクラの苗を持ってきてくれた。ゴウヤは西日よけに窓際に置くとよいと言うのである。アオシソ以外は皆元気がなかったけれど、果たして明日の朝には元気を取り戻しているのだろうか。私は基本的には花木は育てるけれど、野菜は植えないと決めている。食べるよりもまず目で楽しみたいと思うからである。オクラは芙蓉のような花がいいし、もちろんその実も好きだ。しかし、この暑さの中での移植なので、うまくいくだろうかと心配している。

 オクラはアフリカが原産地と聞いた。だから暑さには強いというが、我が家は地表30メートルのところにあり、しかも遮るものが何もないので、風には全くお手上げである。いつも突風のためにへし折られてダメにしてしまう。今年こそは、花だけでなく実も十分に味わいたいと願っている。アオシソは元気でどんどん大きくなり、その葉はいくら取ってもまたすぐに出てくる。これはサラダに使われることが多い。

 植物には原産地があるが、歌にも原産地があることは興味深い。昔、NHKラジオの番組で日本の民謡について放送していた。江戸時代までは船が民謡の伝播に重大な役割をしていたようで、港から港へと歌い継がれていったと言う。確かに民謡を聴くと似ているなあと思った。先日もテレビで、熊本のわらべ歌とピンキーが歌った『恋の季節』が同じメロディーであることを解説していた。26抜きの短音で成り立っているそうだ。47抜きの音階についても説明していた。音というものは原始的なだけに興味深い。

 自分のことを振り返ってみると、音とか絵とか文字に、特に文字で綴られた文章に興味を持っていたように思う。確かに宇宙とか昆虫とか、そういうものにも興味がないわけではないけれど、どちらかと言えば、人が作り上げた世界に関心があったようだ。神社を見れば、その厳かな雰囲気はなぜ生まれるのか、なぜ厳かと思うのか、神社の形や形式がどうして生まれてきたのか、そこで何が言われ、何が受け継がれたのか、そういう人の営みがどうして生まれたのだろうと思って来た。

 音はとても面白い。人間がまだ言葉を確立していない時から、音は共通認識と存在していたらしい。音に共鳴あるいは共有することで、安心とか安堵を持っていたようだ。ここから音による連帯感とか安心感とかを広めていったのだろう。音が今なお、人間にとって極めて深いつながりとなることは最もだと思う。言葉ではつながらなかったが、音なら振り向かせることができる。しかし、理解が生まれるためには言葉がもっとも重要な働きをすることになるようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ヘンでけっこう。これは個性です」

2010年06月27日 22時34分50秒 | Weblog
 サッカーのW杯で、金髪の本田選手が大活躍だ。プロ野球『ジャイアンツ』の選手であったなら、即刻「出直して来い」と言われてしまうだろう。私の高校はサッカーの名門校であったが、サッカー部は余り勉強しない野人が多く、これに対して野球部は勉強もできるオシャレが多かった。高校生の全国大会を見ると、野球は未だに坊主頭だが、サッカーの方は長髪の子もいるから、何時から逆転現象となったのかと思う。

 今日、高1の孫娘の水泳大会を見に行ってきたけれど、女子高生でロングスカートの子は全くいない。下着が見えそうなくらいに超ミニだが、水泳部だからというわけではないけれど、気にする様子も無いようだ。男の子と女の子が蒸し暑い中でべったりと身体を寄せ合っていても、周囲は全く知らん顔である。時代が違いすぎると思うのは、どうやら私のような年寄りだけのようだ。

 近くのファミリーレストランで昼食をとった。さすがにファミレスは家族連れが多い。中に、小学校の高学年か中学生なのかよくわからなかったけれど、女の子がふたりで来ていた。しかも勉強なのか宿題なのかをやっている。店は混雑しているけれど、4人掛けテーブルをふたりで独占し、私たちよりも前に来ていたのにズーと居座り続けていた。「私さ、自慢じゃないけど30点以上取ったことないんだ」と話している。いったいこの子たちの親はどこで何をしているのだろう。

 1歳になる孫娘がグズリだした。他のところでも子どもたちの叫び声や泣き声が聞こえる。長女のダンナは「今、ADHD(注意欠陥/他動性障害)が増えていると言われているじゃないですか、この子がそうならないかと心配です」と言い、「水泳大会を見ていても、結局優秀な学校の子はいい成績ですよね。頭がよくてスポーツもできる子が生き残るようにできているんですかね」と言う。私は「心配ありません。ADHDの子もアスペルガーの子も成績がよくてスポーツもできる子も、みんな異常で、みんな障害児なんですよ」と答える。

 私たちは、実はみんな障害を抱えて生きている。どこで、どんな風に表れるか、人はそれを分類したがるから、いかにも障害が増えているように思うけれど、人間は生まれた時から本当は障害児なのだ。それをある時は個性と呼び、ある時は障害と読んでいるに過ぎない。今日のテーマはもっと違うものだったはずなのに、子どもの障害の問題になっている。これも痴呆症という障害である。

 痴呆症にもいろいろな原因があるのに、その原因を診断できる医師が少ないために、間違った薬が投与されるケースがあるとテレビが報じていた。確かに薬のせいで、おとなしい利用者さんが噛み付いたり手を上げたりする場面を私も見てきた。薬を変えてもらったところ、以前のように優しい人に戻ったケースもある。子どもたちもいろんなケースがあるのに、何か診断して分類しておかないといけないかのようだ。「ヘンで結構。これは個性」とみんなが言える社会の方がいいのではないかと私は思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「振動・波動・衝撃のお話」

2010年06月26日 21時26分17秒 | Weblog
 今日は大和塾の『第17回市民講座』。もう30年近い付き合いの、大学で教えている友人に講演をお願いした。届いたテーマが「振動・波動・衝撃のお話」であったから、はたして聞きに来てくれる市民がいるのだろうかと不安であった。けれども、「興味がある」とか「面白そうですね」という声を聞くと、まんざらでもないのかも知れないと思えるようになった。実際、今日は満員で補助イスを何度も用意しなければならないほど盛況だった。それも、これまではどちらか言えば女の人が多かったのに、今回は男の人が多かった。

 男性は分からないことや不思議に思うことに対して、知りたいという気持ちが女性よりも強いのかもしれない。しかも、講演の後の質問時間ではこれまでに見られないほどの多くの質問が上がった。私自身は、やはり高校生の時と同じで物理がわからない。振動とか波動が存在することは理解できるし、その振動や波動をどのように定義付けるかについて異論はない。なるほど、そうように区別されるのかと思うけれど、結論から言えば、それでどうした?としか思えない。

 振動や波動あるいは衝撃の世界を説明してもらい、なるほどと思ったのに、その次が分からないのだ。私たちの住んでいるこの世界を振動や波動で説明してもらい、たとえば心の動きも数値で表すことができるようになるとすれば、それは興味ある世界だけれど、じゃあもうウソはつけないし、心を読み取れるから駆け引きも必要なく、味気のない世界になってしまうのではないかと寂しくなる。

 真実しかなければ、凄くシンプルでいいように思うけれど、「好きだよ」がただの「やりたい」では、それを真実と片付けるのもおかしいような気がする。「好きだよ」の中には「やりたい」という気持ちが全くないわけではないけれど、別に手をつなぐだけでもいいし、場合によっては手をつながなくても、一緒にいるだけで満足ということだってある。物理の世界では何でも数値に置き換え、これを数式で表すことができるようだ。それは大きな発見であり、物事を客観化して見るクセをつける意味ではすばらしいことかもしれない。

 小学校のクラス会の時に撮った写真を友人が送ってきてくれた。「オマケも付けてあります。お楽しみに?」とメールにあったけれど、いったいなんだろう?と思っていた。ところが届いた封書を空けて、なるほどと納得した。面白いことが好きな子(?)だったけれど、『パロディ版写真集』を読んで思わず笑ってしまった。私の挨拶は「ブラウスの胸のふくらみに胸を躍らせました。中身を見てないのが心残りですが、今見ることには躊躇します」とあり、その憧れの先生は「マーそのような、本当のことをおっしゃって、実は見せブラだったのヨー」とある。

 こんな楽しいことが随所にちりばめられていて衝撃的だ。振動や波動の働きで、私の思いも伝わるだろう。しかしそれは真実の思いなのか、不安に思った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分だけよければいいとは思わない

2010年06月25日 23時02分34秒 | Weblog
 「“国がどうのこうのという時代ではない、地球そのものに人類が生き残れるかの時”このフレーズはこのブログに頻繁に出てきますが、その根拠となるものはいったい何でしょうか?」というコメントをいただいた。そのように真正面から問われると、やはりちょっと考えてしまう。私がそう考えていることは事実で、そのことについて言い訳するつもりはない。となれば、「その根拠について、明確に答弁しなければならない」ことになる。

 学者や評論家ならば、具体的な数値を示して説得するのだろうけれど、私はどちらかといえば感性というか感覚から出発している。そんなあやふやなことでよいのかと言われる方もあるだろうけれど、感性とか感覚というものは結構当たっているし、むしろ大事な出発点だと思っている。そんなわけで、具体的な数値を示すことができないが、1)人口が急速に増えている。2)工業が進んでいる。3)人口と工業を支える、食料や水や資源には限りがある。

 この3点に集約されると思う。人類の歴史を考えてみても、19世紀以前と以後では、その変化は格段の差異がある。核爆弾という地球そのものをも破壊できる兵器を開発した人類は、だからこそ新しい時代に突入したというのが、私の「根拠」である。「民族紛争や宗教戦争はいまだに世界中で起こっています」とのご指摘もいただいた。だから、武装して国を守れと言われるのかもしれないが、武器輸出や軍需産業で儲けている国や人々がいる限り、「戦争や紛争」は巧みにでっち上げられていくのではないだろうか。

 そこで、「ではどうしたいか?」だと思う。「どうする?」と言えば、「家族を、国民を、国を守るべきだ」という発想になるけれど、「あなたは、どうしたいか?」と問えば、「戦争は嫌だ」と答えることができる。嫌な戦争をどうやってなくしていくのか、その次の発想へと向かうことができる。

 私はすごく自分本位な男だけれど、自分だけよければいいとは思わない。むしろ、みんなが好きだ。どんなに嫌な奴であっても好きになりたい。キリストではないけれど、全ての人は神の子つまりみんな兄弟だ。憎しみ合うよりも愛し合うほうがいい。殺し合いは絶対にしない。みんなで分け合って生きていこう。それをもし、妨げるものがあるとするなら、みんなで取り除く方へ進めばいいじゃないか。

 地球の異常気象は太陽の活動によるもので、産業革命以後の工業化に原因があるわけではないと言う科学者もいる。そうなのかも知れないが、CO2の削減を目指すことは人類にとってマイナスにはならないだろう。地球環境を考えたなら、国単位では解決できないだろう。いや、環境問題だけでなく、食料や水や資源の問題もこれからは国単位では解決できないだろう。そういう時代に向かっていると私は思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

きれいな夕日はたちまち変わってしまう

2010年06月24日 22時45分15秒 | Weblog
 今日は参議院議員選挙が公示された日なのだが、実はこの選挙にはそれほど強い関心が無かった。それというのも、今日は朝から井戸掘りで、どこまで掘ったら水が出るのだろうということにばかり関心がいっていた。お年寄り仲間で井戸掘りをしているから、当然のように政治の話が出る。そう、お年寄りは政治の話が好きなのだ。肉体労働だから、そういう馬鹿話でもやりながら、ツルハシやスコップを動かさないと滅入ってしまうのだ。

 その中身については選挙期間中でもあるので、触れることは出来ない。肉体労働で疲れ果てたこんな日は思わずプッと噴出すような馬鹿話や女性の話が一番いいのだが、あいにくなことにそんな話題の持ち合わせがない。私の中学時代からの友だちも17歳年下の女性のことを最近は何も書いていない。真面目な彼は、小説家の重松清の作品に感動している。彼がチラッと書いていた女流作家たちによる『最後の恋』の作品に触れることもない。

 『最後の恋』とは、つまり自分史上の最高の恋とサブタイトルとあった。そういう意味で最高の恋を探してみるけれども、女流作家の皆さんは言葉巧みに(作家だから当然なのだろうけれど)、最高の恋を描いていく。しかしなあと私は不満だ。物語としては納得できるけれど、中学時代からの友だちが書いていた17歳年下の女性との「付き合い」の方が、現実味があり「人を愛するとはどういうことか」にも触れていた。作られたものの面白さはあっても、だからどうなのだという突込みが足りないように感じた。

 江國香織の作品『真昼なのに昏い部屋』を読んだ時は、イプセンの『人形の家』を思い出した。普通の日常に重きを置いて暮らしてきた主婦がたまたま出会った外国人(私はこの設定がイヤだけれど、逆に物語性を強調している)と街を見て歩くうちに新しいことを発見していく。その先に、ドキドキするような感覚とこれを否定する(それは日常なのだろうけれど)ものとの衝突が生まれ、「私は別の世界へ出たのだ」と意識する。この作品には「生きていることはどういうことなのか」と考えさせられるものがある。

 男性の小説家よりも女性の小説家の方がいいものを書いているのではないかと、私は勝手に想像したがどうなのだろう。今日の夕方、それも午後7時15分は過ぎていたと思うけれど、西の空がとてもきれいだった。「見てみて」と言うカミさんに、「ケイタイで写真を撮ってブログに載せようかな」と言ったら、嫌な顔をされたので諦めた。しばらくして「同じ金額内だからやってみたら」と言うので、撮ったけれど、もうその時はかなり景色が変わってしまった。

 ほんの10分も経たないのに、見える景色は変わってしまう。永遠に続くものはないだろう。「恋」もまた永遠には続かない。どんなに熱烈な恋愛で結ばれた夫婦であっても、永遠な愛の形は存続しない。そこに小説家の腕の振るいどころがあると思う。政治もまた絶対的な制度はないだろう。人々は失敗の上に新しい未来を築こうとするが、現実に流されていくなら、理想は永遠に先のものとなるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

責任を取る勇気

2010年06月23日 21時29分12秒 | Weblog
 広島の自動車工場で11人が車にはねられ、内一人が死亡した。現場にはブレーキ痕が無かったと新聞は報じている。殺人未遂などの現行犯逮捕された男は車内に包丁を持ち込んでおり、秋葉原の無差別殺人事件を連想させる。男はテレビカメラに向かって顔を隠す様子も無かった。誰かに似ている。男の両親が記者のインタビューを受けていた。「おとなしい子」「気遣いのできる優しい子」と両親は語っていた。

 犯人の親ならば仕方ないのかも知れないが、どうしてこんな風にさらし者にされなければいけないのだろう。記者は親のしつけとか教育に原因があると思っているのだろうか。42歳にもなっている大人の犯行の原因を親に求められたのではたまらない。たまらないといえば、浜名湖で水死した中学生の両親も別の意味で、やりきれない思いと腸の煮えくり返る思いでいっぱいであっただろう。

 亡くなった女の子の父親は葬儀で、「いつも笑顔を絶やさない子でしたので、笑顔で送ってやってください」と述べていた。学校が行なった保護者への説明会では、「なぜ、訓練を強行したのか」「どうして誰も止めようと言わなかったか」といった質問が相次いでいた。実行することよりも中止することは難しいことはよくわかるが、やはり一番上の立場にある人はその責任を負わなくてはならないだろう。

 私もいくつかの疑問を持った。ボートにはインストラクターが乗り込んでいるが、転覆したボートには乗り込んでいない。そのわかりに先生が2人乗っているが、女性教師と若い男性教師である。ベテランなの?そうは思えなかったのは、転覆したボートの内側に女性教師と生徒が何人か取り残されたとあるから、若い男性教師はボートの外側に他の生徒といたのだろう。どういう順番で救助していったのか定かではないけれど、まだ生徒が救助されないうちにこの男性教師は迎えのボートに乗り込んでいる。

 普通の教師なら、まず救命ボートに乗り込まない。最後まで現場に残って生徒の安否を確かめる。ボート内に閉じ込められた女教師も大変な状況だったことは分かるけれど、「何人いる?」と確かめるのが普通だろう。空気が薄くなって脱出した時も、「みんなで一緒に出るよ」と声をかけたのだろうか。そういうことができなかったほど、混乱していたのだろうけれど、自分の命よりも預かっている生徒の命を大事にして欲しかった。それが教師の務めだと思う。

 菅直人首相も、なぜ消費税を上げなくてはならないか、全く説明していない。亡くなった女の子の中学校の校長も「申し訳ない」と言うばかりで、全ての責任が自分にあると言い切っていない。ああだったら、こうだったら、そんなことは聞きたくも無い。「こうします。ああします」と言われても、なぜそうするのか、全く明らかではない。どうしてこうも人は他人のせいにしてしまうのだろう。責任を取る勇気がなぜこんなに欠けてきたのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

老人たちの意気は高いが

2010年06月22日 21時34分59秒 | Weblog
 喫茶店で70代の男性がふたり、時局について盛んに言い合っている。男性の一人が、知り合いの50代後半の女性が月給17万円で男性と同じ仕事をすることになったと言う。するともう片方が、「それはよかったじゃあないの」と言い、「今時、17万円も出すところはないよ」と続ける。「そうそう、私もそう思う。時給も最低賃金に近づいてきているし、恵まれている方だと言っておいた」と言う。

 そんな話から「民主党はダメだ。社民なんか切り捨てればいいんだ。あの連中は共産党と変わらない」と言い出した。すると片方も相槌を打って、「日本も武器輸出をすればいいのだ。だいたい、日本の戦車も戦闘機もアメリカのものよりもはるかに優れているのに、韓国や中国にやられっぱなしじゃあダメだ。韓国も中国も武器輸出で儲けているのだから、あんな連中に負けていいちゃーいかんのだ」。相方はまた「そうそう、武器を輸出するのが一番だわ。だからアメリカはイスラエルには何も言えん」。

 「アメリカの経済を支えているのはユダヤ人と軍事産業だ。平和になったら一番困るのはアメリカ経済だ。だから世界各地で紛争を起こしている」「そうそう、民族と宗教は絶対に解決できん。紛争が続く限り経済は上昇するよ」「日本もそろそろ武器輸出で経済の再興を図らなくちゃならん。まず、民主党は社民を切って捨てるべきだ」「そうそう、そのためには、民主党内の社民分子を一掃しなくちゃーな」。

 70代といえば安保世代かと思っていたけれど、この人たちのように企業の営業マンとして甘い汁を吸ってきた人たちはこんな風に考えているのか。それにしても、この人たちが私のような人間になぜ選挙で応援してくれたのだろう。これまでのように地域エゴに拠らない市民参加の新しい自治の形をつくるべきだと主張した私をなぜ支援してくれたのだろう。

 「もうそんな、国がどうのこうのという時代ではないでしょう。地球そのものに人類が生き残れるかの時ですよ。それに資本主義社会では人口は減少している、つまり、買い手が少なくなっているのですから当然右肩上がりの経済成長は望めないと考えるべきでしょう。国も地方も、そのための新しい時代に対処できる政府であり行政であるべきですよ」。こういう私の説に全面的に賛同してくれたのは何故だったのだろう。

 私はこの人たちに、「軍需産業は資本主義の最後の砦かも知れないけれど、もうそういう時代ではありません」とか、「自分が戦争に行くことの無い人は何時の時代も無責任に戦争を煽るんですよね」などという皮肉も言わず、ただ笑っている。笑っている自分を卑怯な男だと思うけれど、今更友だちであるこも人たちと論争する気はない。彼らもまた、私が超のんきな平和主義者であることは知っていて、話しているのだから。

 愛国主義者の中にも保守的な人々の中にも、現実社会への不満や不条理への反発はある。現実主義者以外の人々は、つまりは現実の社会から疎外された人々は何らかの形で現実社会を変えたいと思っているのだ。明治維新を支えた下級武士や町人たちもきっと同じような人々だったのだろう。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日の新聞に

2010年06月21日 21時47分40秒 | Weblog
 今日の新聞で、菅直人内閣への支持が下落と報じていた。当然のことだと思う。民主党は野党時代には選挙を経ない内閣を「国民の信を得ていない」と批判してきた。衆参同日選挙を行なうのかと思ったけれど、参議院議員選挙で逃げ切ろうとしている。野党時代にはあれほど国会は審議の場であると逃げる自民を批判していたのに、ほとんど審議もしないまま国会を閉会してしまった。そして今、消費税を10%に上げようとしている。

 民主党は言ってきたこととやることがかけ離れている。選挙で勝てばそれでいいのだというのが民主党の本質なら、当然のことだけれど国民からは見放されるだろう。国民が期待したのは、事業仕分けに象徴されるような、税金の無駄遣いを徹底的に洗い出し、それでもどうしてもお金が足りませんという、誰が見てもよくわかる政治であった。ところがまだ、何も明らかになっていないうちに、もう消費税を上げるためのアドバルーンを揚げている。

 菅首相は「ギリシアのようになっていいんですか?」などと街頭演説を行っているが、そんな風に危機を煽るのは自民党と同じだ。政治家はいつも問題を外に持っていこうとする。それはもっとも容易く手っ取り早いからだが、そうやって何時までも騙され続けるような国民ではないことを示して、覚醒さえなければならない。行政は「入りを持って出を制す」というのが基本のはずだ。収入が少ないのであれば、少ないようにやるのが当然だ。

 行政のために働いている人々を減らすことは出来ないから、少なくとも生活ギリギリまでに賃金を下げる。職員ではない、たとえば議員のような立場の人を減らすかやはり報酬を下げる。事業も必要最小限に止める。そんなことをしたら経済が行き詰まると経済評論家は言うけれど、行政は経済活動にかかわらない方がよいと私は思っている。経済成長が止まってしまうとか、マイナスになるとか、評論家は言うけれど、それが定めなら何をしても無駄であろう。

 国の予算を本気で見直すなら、軍事費を削ればいい。そんなことをしたなら外国から攻められてしまうと今度は軍事評論家が言う。外国の植民地になっていいのかと愛国主義者は叫ぶ。外国人の奴隷になるのだとか、女は外国人の妾にされるとか、憂国の士たちが声高に言う。根性無しの私は「生きていられるなら奴隷でも妾でもいい」と思ってしまう。そんな危機が来る前に、日本は世界に先駆けて、経済成長はしないけれど安定した国の見本となればいい。遅かれ早かれ経済成長を続けていくことは困難な時代になるはずだ。

 地球上に人口が増え続けることは地球の破綻につながり、人口の減少は経済のマイナスにつながる。どちらに転んでも経済成長を願うことには無理がある。消費税を上げることよりもまず、税金がどのように使われているのか、全てを見せてしまった方がいい。どうだろう、菅さん。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする