友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

宮柊二と齋藤茂吉

2009年07月31日 22時55分16秒 | Weblog
 短歌教室の先生から「これを読んでおきなさい」と言って、1冊の雑誌を手渡された。短歌雑誌『コスモス』である。確か、歌人の宮柊二が創刊したものだ。宮は中国大陸で5年間、兵士として過ごした。その体験をもとに作られた歌集『山西省』は、戦争を直視した戦争文学とまで言われている。

 『アララギ』派の重鎮として名を残した齋藤茂吉とはどこかで交流があったのだろうか。齋藤茂吉は明治15年の生まれに対し、宮柊二は大正元年の生まれだから年齢差は30年もある。二人に共通しているのは、田舎に生まれ育っていることだが、茂吉は東北の農民の3男で、柊二は書店の長男という違いがある。

 茂吉の方は小さな時から神童といわれたが、中学への進学の望みはかなわなかった。家が貧しかったからだ。ところが同郷出身で、東京で医院を開いていた齋藤紀一がその才能を聞き、学費を出し、養子にしてもよいと申し出てくれた。おかげで茂吉は東大医科へ入学するのだから、やはり相当な頭脳の持ち主である。やがて、齋藤紀一の次女輝子と結婚する。また、紀一が創設した青山脳病院の院長に就任。その一方で、伊藤左千夫に師事し、作歌の道に励み、日本歌壇の主流となっていく。

 茂吉は戦争中に戦意高揚の歌を作っていたことの批判はあったようだが、どちらかいえば恵まれた老後を送っている。文化勲章をはじめ数多くの賞を受け、歌聖とまで賞賛された。ところが茂吉の10周忌に、茂吉が女性に出した恋文122通が公表され、歌壇は騒然となった。『アララギ』は精神至上主義で、同人同士の恋愛はご法度であった。茂吉を神聖化する余り、恋文を公表した女性へ非難の声が集中したとある。

 茂吉が女性を知り合ったのは昭和9年の『アララギ』句会だった。茂吉は52歳、女性は24歳の時である。師弟の関係にあった二人が男女の仲になっていったのにさほど時間はかからなかったと後の研究者は述べている。茂吉は一途に女性を求めていたようだ。「こいしさのはげしき夜半は天雲をい飛びわたりて口吸わましを」などと情熱的な歌を作っている。手紙には必ずこうした恋歌が添えられていた。茂吉は女性に読み終わったら必ず焼却するようにと指示していたのだ。

 絶対秘密のままに恋の逢瀬は続いたが、女性が結婚を期待したのに対し、茂吉は病院長の肩書きや『アララギ』の地位を捨てることは無かった。苦しい師の胸中を察し、女性は両親の進める縁談を受け入れ郷里へ帰っていく。ところが結婚の祝いにと茂吉は女性の郷里を訪れ、女性と3日間を過ごしていく。この神経に驚かされるとともに、そこまで好きであったならもう一歩踏み出しても良いものをと思う。

 踏み出したのは女性の方で、彼女は結納を破棄し、一生を独身で過ごした。恋文の公表は茂吉への憎悪というよりも一途で率直な女性が愛の達成を果たしたように思う。茂吉もまた、二人の愛が道徳的には間違いであっても、確かなものであったと安堵しているのではないだろうか。

 さて、明日と明後日は夏祭りのため、ブログを休ませていただきます。
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