友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人を殺すことのない社会を

2011年02月28日 20時00分16秒 | Weblog
 昨日、孫娘のひな祭りの折に、長女のダンナのお父さんからいただいた梅の木に夕陽が当たりとてもきれいだ。梅の花は8割から9割は咲き揃い、甘い香りを家中に漂わせている。もう、明日からは3月なのか、歳月の流れを早く感じるのは年寄りの証拠と言うけれど、これといって何もしない日は余計にそう感じるものなのかも知れない。若い人は常に時間との戦いのような日々を送っているから、時間はどれだけでも欲しいだろう。時間に追われるような毎日はストレスになるが、充実感ともなるものだ。

 中近東で連日繰り広げられている反政府運動の中心も若い人たちだ。わが国でも市会議員や県会議員の選挙に立候補しようとする人の中に若い人たちが増えている。政治は年寄りの専売特許から若い人たちへ変わりつつあるのかも知れない。社会を動かしているのは当然なことだけれど、生産年齢と言われる人たちだ。だからこそ、私の友だちは「生産しなくなった人間は早く引退すべきだ。年寄りがいつまでも口出しすべきではない」と言う。それでもまあ、年寄りはこれまでの社会に貢献してきたし、歳を重ねた分だけの慎重さは持っているから多少は大目に見てもらいたい。

 老害という言葉がある。貢献してきたことを鼻にかけて、自分たちがやってきたが正しいと思い込んでいるのも老人に多い。あるいは慎重に判断できるというものの、時代錯誤に陥っていたり、優柔不断で結局長いものに巻かれたことしか言えない老人も多いだろう。社会を大きく変えていく力は圧倒的に若い人たちが持っているのに、社会の実権を老人たちが握っていることもある。現在の社会を創り出して来たのは老人たちなのに、その責任には目を向けずに、「いまどきの若い連中はなっていない」と非難ばかりしている。

 しかし、会社であるいは社会でそして戦場で、戦っているのは若い人たちなのに、現場を見ない年寄りが「もっと頑張れ。根性を入れろ」と指示している。映画『太平洋の奇跡』は、愛知県出身の大尉のサイパン島での戦争物語だ。原作はアメリカ人で自らの戦場での体験を書いたものだそうだ。アメリカ軍を悩ませた恐れさせたフォックスと呼ばれた大尉は、高校で地理を教えていた先生だった。その彼も軍人の役目は「ひとりでも多くのアメリカ人を殺すこと」と言うが、サイパン島に残された民間人を守ることに全力を尽くすようになる。

 軍司令部は島の死守を命令するが、アメリカ軍の圧倒的な兵器に押されて山岳地帯へと逃れていく。捕虜になることを厳しく禁じていたので、戦えなくなった兵士は自決していく。民間人も捕虜になれば辱めを受けると教えられていたから、軍人と行動を共にする。ポツダム宣言受託後も彼らは山に篭って出ようとはしない。映画では描かれていないが、アメリカ軍兵士に嬲り殺された老人や子ども、辱めを受けた女性もいたとサイパンでの戦いを語る人もいるから、それは悲惨極まりない状態であったのだろう。

 若い人たちが人を殺すことがない社会になるようにと願うばかりだ。
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孫娘のひな祭り

2011年02月27日 12時09分50秒 | Weblog
 もうすぐ1歳8ヶ月になる孫娘のひな祭りをダンナの実家が計画してくださり、午後から出かけていくことになった。早いもので結構おしゃべりもする。「パパちゃん」と私を呼んでくれる。赤ちゃんは「ママ」と最初に発するのだと思い込んでいたが、「パパの方が言い易いのよ」と長女は言う。それではせっかくダンナが「ママよりも先にパパって言うんですよ」と喜んでいたのが台無しではないか。もうちょっと気遣いが欲しいが、本当に赤ちゃんは皆「パパ」の方が先なのだろうか。この孫娘だけの特徴ではないのか。

 先ほども孫娘から電話がかかってきた。無言電話なのでカミさんは切ってしまったが、再びかかってきて今度は「ママちゃん」と言う。カミさんが名前を呼ぶと「ハイ」と答える。「今日会えるよね」と続けると「ハイ」と言う。電話でもおしゃべりが出来るのでカミさんは大喜びだ。そこで、高1の孫娘の時におもちゃの電話を買ったのだから、この孫娘にも電話機がいいのではないかと思い立って、昨日おもちゃ屋さんへ行って来た。

 アメリカンスタイルのおもちゃ屋さんはまるでショッピングセンターのようで、どこに何があるのかよくわからない。店員さんに「おもちゃの電話はどこにありますか?」と尋ねたところ、「電話ですか?」と聞いて、「ケイタイしか置いてないんですが」と言う。「いや、プッシュボタンがついている卓上電話がいいんです」と念を押すと、「今はこういうものしかありませんよ」と売り場へ連れて行ってくれた。「こういう一般のものと、向こうにキャラクターものとあります」と言う。なるほどそうか、家に卓上電話がない時代だ。ほとんどの父親も母親もケイタイを持っているのだから、おもちゃの電話機もケイタイなのが当然だろう。

 赤子の発育は本当に早い。上の孫娘はおっとりしていたけれど、この子は覚えも早いし動きも早い。この子の母親である長女をカミさんのお父さんは「天才だぞ!」と言っていたけれど、子どもはみんな不思議なくらいの能力を持っている。特に自分の子や孫になると、目茶目茶ひいき目で見てしまうようだ。孫の発する言葉の一つひとつに「凄い!」と感動してしまう。思いがけない仕草や行動に「本当に凄い!」と驚嘆してしまう。だから子はかすがいであり、家族の和と輪の中心になる。

 2歳から3歳にかけては急激的に成長をする。そして自分と社会(この時はまだ自分を取り巻く周りに過ぎないが)を認識するようになると、だんだん発する言葉も違ってくる。大人が喜ぶような言葉ばかりでなく、嫌な言葉も使うようになる。成長している証拠なのだが、時には腹が立つような言葉も平気で発するようになる。でも、対立があるから自分を意識できるのだと思う。叱られれば、なぜいやな目に遭うのかを認識する。褒められれば、自然とそれが長所になっていく。

 孫娘の成長を楽しみに、今日は話が盛り上がるだろう。お酒もすすむことだろう。行事は大人たちのよきおつまみなのだと思う。
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デジカメ愛好者は貯めるのが好き?

2011年02月26日 20時25分21秒 | Weblog
 写真機が好きでいろんな機種を揃えている人がいる。そうかと思うと、写真を撮るのが好きという人もいる。撮影が好きな人は機種にもこだわる人が多い。男にその傾向があるのかも知れないが、好きなことの道具には大変こだわる人がいる。釣りに夢中な人は竿を揃えるし、ゴルフの好きな人はクラブを買い換える。料理が好きな人は包丁から入るとも聞いた。道具を揃えるともうそれで、成果が生まれたような気になるのも不思議だ。「弘法は筆を選ばず」という言葉はあるが、書の好きな人は筆や墨のよいものに目がない。

 私の父も写真好きだった。子どもの頃、私の運動会にやって来て写真を撮ってくれたことがある。そういえば、私の子どもの頃のアルバムに小学校の教室での写真や遠足へ出かける時に正門前で撮った写真もあるが、日曜日ではなかったはずなのだが、父は休んで来てくれたのだろうか。父は小学校の校長をしていたけれど、それは随分遠いところにあったから、休みを取って写真を撮りに来たとしか考えられない。今から思えば不思議な気がする。父も写真機は2台か3台持っていたが、絞りもシャッター速度も全部手動のもので、使い勝手は悪いが映像はシャープだった。

 高校生の時、小型のカメラを父からもらって新聞部の仲間と出かけた時には写真を撮ったりした。修学旅行でも活躍するはずであったが、好きな女の子の写真は1枚も撮ることができなかった。声をかける勇気がなかったのだ。その写真機を友だちが貸して欲しいと言うので手渡したけれど、それっきり返って来ない。彼はあのカメラをどうしているのだろう。今では古くなりすぎて何の価値もないものだけれど、私には父の思い出の品なのだが、「返して欲しい」と言えないでいる。

 教員になった時、遠足に行くからとカミさんの父親からカメラを借りた。子どもがカメラを貸して欲しいと言うので手渡したが、そのカメラは行方不明になってしまった。「貸して!」と言った子どもは「給料もらうようになったら、先生にカメラ買ってあげる」と言ってくれたけれど、あの子は今頃どこにいるのだろう。授業料を立て替えてやった子どもも「出世したら必ず返す」と言っていたが、彼はキャバレーの支配人になったけれど未だに返しに来ない。教員の時のクラス写真を子どもたちは持っているけれど、私が買わなかったからだけど手元には1枚もない。担任には無償でくれるものと思っていたことが間違いだった。

 私は自分が地域新聞を始める時に、ちょっといい一眼レフを買った。8年目くらいしたらシャッターが動かなくなり、その時はお金があったので憧れのニコンの一眼レフを購入した。先日、昔の記者仲間と話していたら、彼は50万円もするカメラを使っていると言うので、あの時、自分としてはかなり奮発したつもりだったが、ごく普通の値段のカメラだったと思い知った。まあ、それでも未だにこのカメラは活躍している。我が家にもデジカメは1台あるけれど、それはもっぱらカミさんが使っているが、彼女は撮るだけとってもなかなかプリントしない。デジカメ愛好者は貯めるのが好きなようだ。
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東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 

2011年02月25日 19時31分22秒 | Weblog
 私が住んでいる街でも梅の花が目につくようになった。昨日までの陽気は春そのものだったけれど、今晩からはまた寒くなるそうだ。梅は櫻のような華やかさはないけれど、梅の花を見れば春の到来を感じる。平安時代までは花といえば梅であった。
    
   東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

 大宰府天満宮の本殿に向かって右側に「飛梅」があった。この梅の木があの「飛梅」なのかと眺めたことを思い出す。菅原道真の愛した梅は、主を慕って一夜に京都から大宰府へ飛んできたというものだ。それにしても、道真はどういうつもりでこの歌を詠んだのだろう。梅の木に匂い起こせと命令し、自分がいなくても春を忘れるなとは何を意味しているのだろう。

 昨日の衆議院本会議で、菅直人首相は民主党がマニフェストに子ども手当の支給額を月2万6千円と決めたのは小沢一郎氏が代表の時で、金額の大きさにビックリしたと発言している。誠に正直と言えばそうなのだろうけれど、これが首相の言葉かと思うと情けない。小沢さんが決めたことだからというニュアンスがにじみ出ている。マニフェストは民主党のみんなが責任を持ってやろうとした公約だということを忘れている。正直に言えばそれでいいわけではないし、ましてや菅さんは首相としてその公約実現の最大の責任者だ。

 遠い田舎に母親を残してきた男がいる。父親は何年か前に亡くなり、母親はひとりで暮らしている。もう80歳を超えたのだから、「こちらで一緒に暮らさないか」と男は母親に言うのだが、「まだまだ元気だから」と言い続けてきた。その母親から男がいない時に電話が入った。男の妻は電話で母親の用件を聞く。「歯医者に行ったら薬をくれたけれど、胃薬と一緒に飲んでもいいのかね。先生は飲んでいいと言うけど」と母親は言う。「先生がいいと言ってるなら飲めばいいじゃーないですか」と妻は言う。男が帰って来た時、「お母さんから電話があった」と妻は話した。「どういう電話だった?」と男が聞くので、妻は一部始終を話した。

 聞いていた男は急に「どうしてそんな言い方をしたのだ」と怒り出した。妻はなぜ怒るのか理解できない。「お袋はひとりで暮らしているんだ。もっと大事にできんのか」「大事にしてるじゃない」「大事にしてるんなら、そんな言い方はないだろう」「どこがいけないの。お袋、お袋って私とお母さんとどっちが大事なのよ」‥‥。ついに泥沼のような夫婦喧嘩になってしまった。そんな話を聞いて、男が母親思いだということはよくわかるけれど、妻にも甘えていいのではないかと私は思った。妻に怒ってしまって、「それなら、あなたがお母さんの面倒をみればいい」とでも切り返されたらどうするつもりだったのだろう。

 男は妻に「先生がいいと言うなら飲めばいい」という紋切り型ではなくて、母親とじっくり話して欲しかったのだろう。それを「そういう言い方はない」と自分も決め付けてしまっている。言葉は使い方で剣になってしまう。剣よりは甘い御菓子の方がいい。自分がしてもらいたいように甘えたなら、喧嘩にはならないだろう。年を重ねると甘えることが恥ずかしくなるから、これではダメだなと思ってはいるが‥。
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働く人も企業も国境を超えている

2011年02月24日 19時15分25秒 | Weblog
 友だちの家にアメリカからふたりの女子大生がやってきた。ふたりは日本への観光旅行が目的だけれど、同時に日本企業のリサーチも行いたいと思っている。日本の大学生も就職難だけれど、「アメリカの大学生も就職難です」と言う。「どういうところで働きたいの?」と聞くと、「出版関係を希望してます」と返ってきた。「じゃあ、名古屋ではなく東京で探す方がいいよ」と話す。彼女はカリフォルニアの大学で、日本文学を研究していると言うので、「日本語は話せるの?」と聞くと、「ちょこっと」と答える。日本文学も英文に翻訳されているのに、私の頭からすっかり飛んでしまっていた。

 もうひとりの女子大生の母親は中国人で医者だと言う。20歳を超えたばかりのこの子たちは実にグローバルな時代を生きている。友だちの次女のダンナは大手日本企業に勤めていて、来週からは再び中国に行かなくてはならないと話していた。「中国も今、大変じゃないの?」と聞くと、やはり中近東の反政府運動の影響を受けていて、「何かが起きるのではないか」とピリピリしているそうだ。「そりゃーそうですよ。部品ひとつに初めはダメだと言っていた役人に、『そこを何とか』と袖の下を見せればすぐに許可されるんですから。共産党幹部に知り合いがいれば、だいたい何でも通りますよ」と言う。

 ワイロが横行したり、一部の権力者が勝手なことをしている、まるでチュニジアやエジプトと同じだ。当然、いつか民衆の怒りが爆発するだろう。「賃金も初めは低く抑えられていたけれど、だんだん高くなってきて、会社も低賃金で働く人を求めて沿岸部から内陸へ移っています。これ以上、高くなったんではやっていけないから、ベトナムへ変わっていくんじゃーないですか」と教えてくれた。日本の高い技術力は、進出した国で生かされるけれど、同時に盗まれて、その国の専売特許のようになってしまうそうだ。そんな話を聞いていて、戦後の日本もアメリカが日本人の真面目さを高く評価してものを造らせ、いつの間にか世界に日本製品が溢れるようになったことを思い出した。

 企業は利益を求めて低賃金で働くところへと移っていく。それが出来なければ、正規社員を減らしてパート社員を雇う。いずれにしても労働に対する賃金は低くなる。働く人も外国からやってくる時代だ。ドイツもフランスも移民労働者が増え、賃金は当然下がった。働く場所を求める人は、受け入れてくれるならば国は問わない。今度のニュージーランドの地震でも英語を学ぶために留学している人たちは外国で働く希望を持っているようだ。私たちの時代のように、自国に留まってはいない。いや、私たちの時代に働く場所を求めた数少ないエリートはいたが、もはや一般的になってきた。

 働き手も国境がなくなってきたが、企業もまた国境に縛られてはいない。多国籍企業が誕生し、企業への出資者はあらゆる国にまたがっている。しかし、どんどん利益を求めて世界へ広がっていくと、いつしか平均化してしまうのではないだろうか。もちろん、かたくなに外国の進出を拒む国はあるだろうけれど、それでも各国の首脳が集まると皆一様に同じ服装をしているように、次第にひとつになってしまうのだろう。
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みんなが一緒でいいじゃーないか

2011年02月23日 19時09分21秒 | Weblog
 NHKテレビ朝の連続小説『てっぱん』が終盤を迎えている。主人公は19歳の女の子で、何の問題もなくすくすくと育ってきた。それが18歳の時に自分が養子だと知る。母親は死亡していたが祖母は健在で、その祖母のいる大阪へと向かい、結果として祖母の家に住み込むようになる。そこでいろんな人との出会いがあって、ドラマが展開されるというお決まりのシナリオだ。いわゆる「家族」をテーマにしているけれど、育ての親と産みの親を持つこの子がこのことをどう受け止めていくかである。いったいこの子の父親は誰なのだろうと思っていると、そう視聴者が興味を抱くように仕組まれているけれど、その実父が現れる。けれど、祖母は「名乗るのはやめてくれ」と言い、育ての親はいかに大事に育ててきたかを実父に話す。

 主人公の女の子も実の父親も互いに分かっているのに、名乗れないまま別れてしまう。女の子はなかなか割り切れずにいるが、名乗れば育ての親を裏切るようで、自分の中に留めておくしかない。今はそんなところだけれど、さて、どうなるのでしょう。最後は名乗り合い、育ての親ともうまくやっていくということになるだろう。それにしても、NHKは変わったなと思う。いや世間がそうさせているのかも知れない。NHKは国が運営する放送機関、だから常に国が求める国民像を描いてきた。しかし、今は家族の形にもいろいろあると認めなければならないということなのだろう。

 そういえば、同じNHKの火曜ドラマは過激なテーマが多いようだ。先回までは40代のキャリアウーマンが結婚している年下の男に恋してしまう物語だったし、昨日放送されていた『49日のレシピ』も妻をなくした父親と離婚した娘の物語のようだ。それだけ、家族の形がこれまでのように、両親がいて子どもがいてという典型から変わってきているということだ。今日の中日新聞の「生活蘭」には、「出産後に夫婦生活がなくなり寂しい」という相談に対して、「私もそうなり、寂しい思いをしています」「ここ数年ありません」「私も15年くらいセックスレスでした」と回答が寄せてありビックリした。

 セックスは最高の悦びであり快楽であると思ってきた私には理解できないし、そういう夫婦生活を新聞で相談するということも理解できない。「私もそう」という慰めが欲しいということなのだろうか。他人に相談するよりも相手と話した方がいいと思うけれど、出来ないことなのか。不満や不快ではなく、「寂しい」というのはもっと深刻な気がする。何もかも内側へと押さえ込んで、人とぶつかり合わないようにしていて、本当によいのだろうか。それともこの方が普遍的なのだろうか。

 『てっぱん』ではもうひとり、父親のいない子が生まれようとしている。下宿の小学生が「みんなで育てればいいじゃん」と言う。そう、父親がふたりいても、母親がふたりいても、いいでないか。家族が多い方が楽しいのかも知れない。育ての親だとか、産みの親だとか、そんなことに囚われずにみんなが一緒でいいじゃーないか。そういう家族観になっていくと思う。
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あるがままでいいと思っている

2011年02月22日 19時47分33秒 | Weblog
 暖かさに誘われるようにして、教え子の見舞いに行ってきた。国立病院を訪ねた時はもうすでに退院した後で、名前を言っても「そのような方はおみえになりません」と答えるだけで、入院されていたけれども「いついつどこどこの病院へ移られました」ということは教えてはくれないものらしい。これも個人情報の守秘義務ということなのだろう。困ったなと思っていたら、別の子がメールで教えてくれた。聞けば「元気そうでしたよ」と言うので、それでは花よりも本の方がいいだろうと勝手に決め込んで行って来た。

 病院はリハビリ専門で、私が行った時は丁度リハビリから病室に戻ってきたばかりのようだった。リハビリを受けた経験者は分かるけれど、動かない身体を必死で動かそうとするのだから、終わればぐったりとしてしまう。彼もそんな状態にあったところへ、「おお、元気そうじゃないか」と入り込んだので、身体を休めるヒマもなかったのかも知れない。始めてお会いする彼のカミさんは「お友だちがお見舞いに来たわよ」という顔で彼に私を会わそうとしてくれた。「バカ、先生だわ。高校の時の」と彼は私を紹介する。「あんまり歳が違わんもんだからお友だちかと思った」とカミさんは笑う。

 彼のカミさんがよく笑う明るい人で本当によかった。メソメソ泣いたり、クヨクヨと考え込むような人だと病人もたまらないが、明るく振舞うことの出来るカミさんなら、これから先もうまくやっていけるだろう。左半身がマヒしていると言うけれど、かなり口は達者だ。「右手は使えるの?」と聞くと、「文字は書けます」と言う。「そうか、そんなら大丈夫だ。絵も描けるだろう」。「ええ、多分」。「よし分かった。見舞いにと思って、今や有名人になった柴田トヨさんという99歳のおばあちゃんの詩集を持ってきた。この人の詩はとても分かり易い。情景が目に浮ぶから、詩を読んで、思い浮かぶものを描く。いいね、宿題だぞ」。もう卒業して40年も経ているのに、いつの間にか先生と生徒になってしまっていた。

 彼はまだ還暦前だけれど、早期退職して地元の町内会長や消防団の仕事を引き受けていたようだ。1月末の寒い日に、消防団の出動があって彼も出かけていった。あまりに寒い日で、「身体を中から温めてください」とお茶を差し出された時、湯飲み茶碗を受け取ろうとしたのに体がふらふらして受け取る事が出来ない。おかしいと思っているうちにぶっ倒れた。幸い消防団の活動中であったのですぐに国立病院へ運び込まれたという話であった。「こういうことは前もってわからないんでしょうかね」とカミさんも自分の不注意を気にしていたが、私が知る限りではある日突然とケースばかりだ。

 「先生より先にこんなになってしまって」と彼が言う。「それなら100歳まで生きることだ。きっと僕より長生きするから」と私は言う。自分では充分生きてきたつもりだから、悔いはない。でもせめて、後残り1ヶ月ですとくらいは言って欲しい。手術するような治療は受けたくないし、あるがままでいいと思っているのだが、どうだろう。
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これからまだまだ勉強である

2011年02月21日 19時41分53秒 | Weblog
 まるでいっきに春になったような暖かな一日だった。今日も井戸掘りに挑戦したが、ここに来てやっと、このままではイカンという気持ちにみんながなった。水圧を利用した井戸掘りも、鉄管を打ち込んでいく井戸掘りも、鉄管の先に大きくした錐をつけて掘り進める井戸掘りも、私たちが試した方法はどれも限界があった。上総掘りを手本に造った道具は確かにうまくいったのに、ここに来てなかなか進まなくなった。井戸掘りの経験のある人や機械に精通している人やひらめきの鋭い人や工夫が好きな人など、いろんな人たちが集まっているので、言い出した人が納得できなければ次に移ることは難しい。「こうすればいい」と言うから、その人が納得するまで付き合うしかない。

 そうして今日、泥まみれになりながら奮闘したけれど、「どうにもイカン」とみんなが納得するところに行き着いた。そこで、これまでどんな方法でやってきたか、その経過をキチンと書き出し、使っている道具の写真を撮り形状や大きさ重さも記して、上総掘りの研究チームに送って相談してみようということになった。昨年の3月、上総掘りの実演に立会いその道具も見てきたけれど、正確な数値や形状を把握しないまま、道具を作ってきたようなのだ。原理としては正しいのだろうけれど、実際に作業してみるとどこかが違う。作業の方法も違うのかも知れない。メールで相談して、場合によってはもう一度出かけて行っても良いということになった。明日の会議でその当たりを整理して進めようと。

 濃尾平野であればどこでも少し掘れば水はある。それは確かだけれど、良い水に当たるか否かはわからない。もともと私たちの目的は災害時に備えるためなので、水が出ればその目的は果せたわけである。しかし、井戸を依頼した方は汲み上げた水が初めは透明だったのに、2から3日すると茶色くなってきたりすればガッカリするし、こんな水にお金を払ったのかと思うのも当然である。昔のように、蛇口に木綿の袋をつけたり、あるいは砂や炭などの入った自家製のろ過器を備えた家もあったがそんな装置を置く必要もあるのかも知れない。テレビなどの情報では汚い水をきれいにする薬品や器材もあるようだけれど、飲み水を求めているわけではないので、経費のこともあってそこまでやる人はいない。

 下水管を地中に埋め込む作業がこの街でも進められているが、地下から湧き出してくる水を遮断するのに苦労をしている。それくらい地下水が豊富な地域なのだ。言ってみれば地震があれば液状化するだろう土地の上に都市が出来上がっている。今日の午後に地震があったようで、我が家はマンションの上の方にあるので、大きく揺れた。あれが余震でその後があればかなり強い地震となるところだが、幸いなことに続く揺れはなく収まっていった。阪神淡路大震災の直後に現地にボランティアで入った人が、「水が来ないので困った」と漏らしたことが、井戸掘りをするきっかけだった。自然の恵みを大事にして、昔のように井戸を備えようと思ったのだ。これからまだまだ勉強である。
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民主党議員の会派離脱はスジが違うと思う

2011年02月20日 18時04分05秒 | Weblog
 民主党の衆議院議員の16人が揃って、「民主党会派から離脱する」と表明していた。理由は「菅政権は国民との約束であるマニフェストを守らず、本来の民主党政権ではない」というものだった。どういう議員たちなのかと思っていたが、小沢一郎さんに近い人たちというので、なるほどと納得できた。菅執行部が小沢さんを党員資格停止にしたことへの反発なのか嫌がらせなのだろう。反発ならもう少し筋の通った行動があったはずだ。嫌がらせならまるで子どもと同じだ。そもそも離党はしないのに会派離脱などあり得ないことが理解できないくらいだから、やはり子どもなのだろう。

 先の衆議院選挙であまりにも民主党が大躍進してしまい、比例区名簿に載っていたために当選した人たちである。次の選挙では必ず落選する定めにある。もし、落選したくなければ国会議員として自らの力量をアピールすればいいのだが、その機会がないかあるいは機会を作れないのだろう。自民党時代と民主党はそれほど変化のある国会運営をしていない。だから要するにこれらの人々は採決の時の頭数である。それが嫌ならば、やはりなくてはならない議員にならなければダメだ。今回の会派離脱はその表現だったのかもしれないが、岡田幹事長が「パフォーマンス」と切り捨てるのもそのためだろう。

 けれども、たとえ弾みで国会議員となった人たちであっても国会議員であることには変わりないのだから、民主党としては彼らを力量のある国会議員に育てていく責任があるし、彼らも自ら切磋琢磨していくべきで、パフォーマンスなんか見せている場合はない。彼らが言うように「菅政権は本来の民主党政権ではない」のであれば、党員であり国会議員であるのだから、これを正していくことが自分たちの役目であり仕事であるはずだ。本来の民主党政権はどうあるべきか、キチンと党内で論議する場を作り出すことも出来ないようではまるっきり子どもと同じだ。

 いや、今の小学生ならもっと賢いかもしれない。自分たちが「目先のことばかりに囚われてしまって、やるべきことをやっていない」と発言する場をキチンと作ることだって出来るだろう。どうしても民主党内ではそれが出来ないのであれば、その時こそ覚悟を決めるべきだ。少なくともこの人たちは、民主党に期待した国民が選んだ人たちなのだから、民主党の本来の姿(それは何か?)が見えるように頑張らなくてはならない。自分たちを名簿に載せてくれたのは小沢一郎さんかもしれないが、選んだのは国民であって小沢さんではないのに、小沢さんのために会派離脱を言ってしまったならば、それは本末転倒というものだ。

 しかし、こんな情けない国会議員しかいないのであれば、やはり衆議院を解散して選挙で新しい議員を選ぶべきだろう。民主党は確実に議席を減らすけれど、それは国民の期待に応えられなかったのだから仕方ない。自民党はそれほど躍進できるとは思えない。公明党も社民党も共産党も伸びないだろう。国民新党や立ち上がれもダメだろう。小泉イズムの流れを汲む「みんなの党」がどれほど伸びるかであるが、いずれにしても小沢さんが思い描いていた2大政党にはならないだろう。そう思ったが、まてよという気がした。連立内閣ができる課程で、2分割していくのだろうかと。政党は数が多いほうがいいと思っている私としては嫌な予感である。
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骨身を惜しんだら罰が当たるだろう

2011年02月19日 22時30分17秒 | Weblog
 昭和19年4月から昭和20年3月までが同学年である。その第6回目の「60歳の集い」が今日、行なわれた。私はこの街で生まれたわけではなく、育ってもいないし、同級生と言える人はひとりもいない。この街の社会福祉協議会の企画で、「60歳の集い」を開こうという話が出ていた時、「それはいいじゃあないですか。この街で生まれ育った人も、ヨソからやってきた人も、同じ歳であることを縁に、仲良くすることはこれから必要なことだと思う」と話したことがあった。そして実際に「第1回60歳の集い」が開かれた。この学年がその先駆となって、それから以後、それぞれに「60歳の集い」が開かれている。

 何しろこの街は名古屋市のベッドタウンとして急速に大きくなった。正確な数字はわからないけれど約80%の人がヨソからこの街に住処を構えた。私もそのひとりだけれど、娘たちはここが故郷で、ここに帰ってくればたくさんの同級生に会える。孫娘に至っては正にここで生まれ育った人である。80%の人々にとっては、故郷は北海道であったり九州であったりするけれど、この街が故郷となった人たちもたくさん生まれている。昔、私が住むマンションでは盆休みや正月休みになると、駐車場はガラガラになった。それだけみんな出かけていたのが、この頃では駐車場が足りないくらいになっている。遠くに行った子どもたちが家族を連れて戻ってくるためだ。

 私の故郷は、やはり自分が生まれ育ったところということになる。小学校のクラス会や中学校のクラス会に行けば、たちまちに昔のあの頃に引き戻ることが出来る。みんな相当に歳を重ねてきたから、傍目から見れば絶対にじいさんとばあさんなのに、当の本人である私たちはまだ洟垂れ小僧のままなのだ。小学校の時のあるいは中学校の時の、そのままの姿しか見えないのは大げさだけれど、実際にそれに近いような雰囲気になってしまう。同じ時を過ごしたということはこんなにも何時までも変わらないものなのかと思う。

 この街の「60歳の集い」もこの街の中学の卒業生が中心となって開いてきた。聞けば3クラスしかなかったと言うから、小学校から中学校を卒業するまで、9年間あってもお互いによく知った仲であることは間違いない。それにこの学年はとてもまとまりがよく仲がいいとも聞いた。今でも同窓会で旅行へ行ったり毎週のように集まって飲んだりしているそうだ。それでは中学の同窓会と「60歳の集い」との区別がつかず、だから入りにくいと言う声もあるから、広く幹事を募りたいということになったのだと説明があった。それも大事なことなのかも知れないと思ったけれど、投票で幹事を決めたいと言い、その結果、私が幹事のひとりに選ばれてしまった。

 嫌な予感はあった。ヨソから来た人に参加してもらいたいという発言があったから、ひょっとすると自分が選ばれてしまうのかなとは感じたが、結果はそのとおりとなった。選ばれてしまった以上じたばたしても始まらないし、そんなみっともないことはしたくない。他人から必要とされることは名誉なことだ。骨身を惜しんでは罰が当たるだろう。自分が出来る精一杯なことをする他ないと覚悟を決めた。
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